表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/46

23.科学と神話の交差

・ミンストル……ウィスタリア帝国大学の老教授

 あらゆる学問と研究が行われ、大陸随一の規模と最先端の技術を誇るウィスタリア帝国大学は、皇帝が鎮座する宮殿とほぼ同じ敷地面積を有している。

 知識の象徴である梅の花とフクロウが刻まれた巨大な門をくぐると、華やかな都の中にありながらも、厳格でおごそかな独特の雰囲気に包まれている。ローシェは緊張しながらも、この空気に落ちつくものを感じた。


――もし時間があったら、1週間でも1ヶ月でも図書館に住んでみたいわ。


 憧れても一生来ることはないだろうと思っていた地をついに訪れ、ローシェは興奮ぎみにきょろきょろしながら目を輝かせていた。


 東の海に浮かぶ小さな島から来た田舎者など、普通ならば文字通りの門前払いを受けるところなのだが、アザニカ学院はこの帝国大学とも肩を並べる屈指の名門学府であり、そこで稀代の天才とうたわれた彼女の名はここまで届いている。見た目はただの内気な少女を、知る者は感嘆と尊敬のまなざしを向けてくるのだが、当の本人は見るもの聞くものすべてに感動していて、まわりの反応などまったく眼中にない。


――ミンストル教授の研究室は……B棟3階の西側4つ目ね。


 案内板を数十秒間じっと眺めた後、すたすたと足取り確かに進んでいった。初めて来た者は迷わずにはいられない、広大な敷地と複雑な建物なのだが、1度見たものはほとんどすべてを記憶するローシェの頭の中には、すでに構内の地図がはっきりと組み立てられている。


――うわぁ、いろんな研究室があるのね。


 静かな活気あふれる通路には、白衣の女性やむずかしい顔の学生が足早に行き来していて、ガラス窓から見える両側の部屋では、顕微鏡をのぞきこむ老人や動物のデータを採る男性が黙々と研究を進めている。特に専門をとっていないローシェは、文系理系問わずどんな分野にでも興味があり、どの部屋ものぞいてみたくてうずうずするが、今回はぐっとこらえて通り過ぎた。

 このB棟では病理学と生態進化学を主に扱っていて、魔獣に関するデータも豊富にある。今から訪れるミンストル教授は、10年ほど前に魔獣が現れ始めたころから研究をしている生物学博士で、現在最も魔獣に詳しい人物の1人である。


「はじめまして、ミンストル教授。いつもお手紙でお世話になっている、ローシェンナ=クラレットです」

「おぉ、君があのクラレット君か」


 白い髪とヒゲに埋もれて顔がよくわからない老人が、軽やかに立ち上がって出迎えてくれた。これまで何度も論文を送って推敲を依頼したり、文書で意見交換などをしていたので、まったく知らない間柄でもない。しかし、こうして顔を合わせて声を聞くのは初めてなので、互いに想像していた人物像と現実に、内心で苦笑した。


――ふふ、お隣のムク犬みたい。


 ローシェはメドウ谷の実家の隣で飼っている白くて長いもじゃもじゃした毛の犬を思い出し、笑ってはいけないと必死にこらえた。


「君の論文には、いつも新鮮な刺激を与えられておる。特に、1ヶ月前に届いて読ませてもらったばかりの『同一時空間における平衡世界』、あれはレヴォン賞を狙えるぞ」 老教授は長い白ヒゲを揺らして笑った。「学院の生徒とはわかっておったが、あれほどの見解を持った者がここまで若いとは、いやいや、驚いた」

「教授にそう言っていただけて、恐縮です」


 人見知りの激しいローシェだが、学会や学校の内部、学術の話が合う同じ世界の人間とは、緊張せずに気兼ねなく話せる。こと日ごろから師事し尊敬している教授に会えたとなると、上気した顔でメガネの下の目を輝かせるのも無理はなかった。


――大陸進化論の新説について聞いてみたいなぁ。最近始まったっていう、教皇様の不思議な力の研究も気になるし……。


 とにかく、どんな分野にも知識欲が旺盛で、自分が知らないことを学べる機会となると、普段は大人しい引っ込み思案がじっとしていられない。訊きたいことが山ほどあったが、そんなことをしたら1年はここから動けなくなってしまうので、この研究室に来るまでそうだったのと同様、目の前の“ごちそう”を我慢しなければならなかった。


「教授、さっそくで申し訳ないんですが、私たちは今、魔獣や魔王について調べています」

「おぉ、手紙でもそう言っておったな」


 ローシェは大陸に渡ってすぐ、港町リールから、現状の説明と面会を頼む手紙を送っていた。お気に入りの弟子の依頼であり、自身の知的好奇心から、老教授は快く時間を作ってくれた。


「では、まずは魔獣についての研究結果から説明しようかの」


 さまざまな最新機器がそろった大きな研究室とは対照的に、通された個室は本棚と机があるだけの質素なものだった。ミンストル教授は積み上げられた資料の山の中から、迷うことなく数冊を引っ張り出してきて、本に埋もれた机を片付けた。やはり白い犬が穴を掘っているかのような光景だったが、ローシェはこのときも笑いそうになる唇を変な形に歪めて見ていた。


「実験過程のデータはここにあるとおりなので省くが、結論から言うと、魔獣とは普通の獣から進化したものであるということがわかった」

「進化……ですか」


 本題に入ると、ローシェの顔から笑みが消え、違った意味の緊張が走った。細かく書かれたグラフや数字を素早く見渡し、大まかな研究データを把握した。


「捕獲した犬やネズミなど数十種を調べたところ、遺伝子レベルで98%までが同一だった。決定的な違いは、闘争本能を刺激するrV細胞が異常に多いことと、筋肉や運動を抑える神経回路が麻痺していることだ」

「つまり、狂犬病のようなものですか?」

「症状はな。しかし、親子間の遺伝はもちろん、ウィルスなど他に伝染する可能性も否定された。そして発症原因も、場所や種類に一貫性がない」


 ローシェは頭の中で病理学の本を開いて、狂犬病やその類似症状の記憶をたぐり寄せた。さらに一般的な医学書も何冊か思い返してみたが、一致するような候補は見当たらない。医学の知識はあっても実際に患者や症状をみたことはないので、応用させることができない。


――人にうつる危険性は、とりあえず大丈夫みたいね。でも……。

「独立した突発的発症、しかも種類に関連性がないとなると、いつ人間にも出るかわからない、ということですか」

「それは否定できんな。だが何より、わしが推測するに……発症原因には、何か大きな源があるように思えてならん」

「それが魔王……ということなんですか?」


 ローシェが慎重に尋ねると、ミンストル教授は険しい顔でうなずいた。


 科学が進歩した今日においても、まだまだ説明のつかない不可思議な事象は多い。新種の病が発見されたときも、その原因や正体が完全に解明されるまでは神の裁きだとして、科学者でさえ恐れるのが普通なのだ。

 神と科学は、相反(あいはん)するようで切り離すことはできない。だからこそ、例えば教皇の奇跡の力は神から与えられたものとされる一方で、科学的研究による究明こそが神の意思を読み解くことだというのが、科学者の行動原理だった。


 ミンストル教授もいちセフィロト教信徒として、神や神話を疑っていない。ただし、一般的な信仰とは微妙に異なり、存在しないという科学データが証明されていないから肯定しているというだけである。自分で納得のいく研究結果が出るまでは、どんなに非科学的なことでも否定はなしない。だからこの魔獣という新たな存在についても、神や魔王の力が働いていると仮定することもいとわなかった。


「クラレット君、君は魔王なるものが実在すると思うかね」

「……思います」

「その根拠は?」

「魔獣の数や力からすれば、もっと多くの町が壊滅的被害を受けているはずですが、最初に魔獣が現れ始めた約20年前と比べて数は増加しているのに、全体の被害規模が横ばいです。これは本能のままに襲う魔獣の特性と矛盾しています。よって、統率とまではいかなくても、なんらかの抑制を与える存在があると思われます」


 いつも気弱で怯えた目をしているローシェが、教授の目を見てはっきりと答えた。論理的に思考を組み立てるのは得意であり、どんな難問でも答えが存在するものは好きだった。そのくせ空想の世界に浸るのも楽しくて、ソラトの話を聞いているうちに自分の中で物語が生まれて、魔王という存在も現実味を帯びてくる。天才と呼ばれる少女は、数学的な左脳とイメージ記憶の右脳の両方が生き生きとしていた。


「どうやら、わしと同じ意見のようだな」


 老教授は顔中の白いヒゲやら眉やらをもしゃもしゃ動かして、満足そうに何度もうなずいた。そして、奥の棚からもうひとつファイルを持ってきた。


「これは気象学の研究室から借りてきた、潮の流れと雲の動きをまとめたデータだ」


 突然、まったく違う話に変わったが、ローシェは戸惑うことなく資料を注意深くのぞきこんだ。絵や文章から意味を読み取ろうとするときの癖で、メガネの奥の目を細める。しばらくして、ローシェはゆっくりと顔を上げた。


「この島は……確か、へちま島と呼ばれているところですね」


 いくつもの複雑な図表から、10年前ほどから一定の間隔で、海流も雲も帝都の南から流れてきていることが解釈できた。その発端となっている大陸から遠く離れた南海には、ひとつの小さな孤島が浮かんでいた。


「潮や雲の動きというのは、すなわち風の流れを表しておる。いくら季節によって吹く方向が異なるといっても、これほどの規則性は不自然だ」

「ここに、何かあるのですか?」

「いや、そこまではまだわかっておらん。何せ、ここは遠洋船でもギリギリの絶海だから、そうやすやすとは行って調査もできんのだ」

「もしかして、この島に……?」

「もしくは、それに類似した、魔獣の原因となるものがあるか……」


 少女と老教授は、ここにはない誰かを警戒するかのように口をつぐんだ。あるいは、言葉にするのが(はばか)られる何かを恐れたのかもしれない。


「とにかく、今わかっておるのはここまでだ。君らが探しておる答えには遠いかもしれんが、もしこの先も調べようというのならば、充分に気をつけるのだぞ」

「本当にありがとうございました、ミンストル教授。いろいろ貴重な資料を見せていただいて、とても参考になりました」


 時間を忘れて話し込んでいるうちに、外の町並みはすっかり夕焼けの赤に染まっていた。ローシェは立ち上がって頭を下げ、退室する前にふと足を止めた。


「教授は、天使の存在も信じておられますか?」

「白い翼を持った“生命の樹”の使い……か」 ミンストル教授は少しの間考えた後、ふっふと笑った。「神の奇跡の力を持った教皇猊下(げいか)にさえ翼はないが、しかし案外、もっと近いところにおるのやもしれんの」


 意外な答えに、ローシェは自分が考えていたことを読まれたのかと内心でドキッとした。科学者は根拠もない憶測でものを言わないものだが、老教授の長年の経験と勘には、理屈を超えた説得力がある。


「また、いつでも来なさい。次の論文も期待しておるからの」

「ありがとうございます。がんばります」

「そうだ。あの「閉じられた大陸で青年と妖精が運命に挑む」という物語は、君らしいというか意外だったというか、なかなかおもしろかったぞ。新しい物語も楽しみにしておるよ」

「そ、そちらはご期待にそえるかどうかわかりませんが……」


 大陸へ旅立つ直前、フウリに頼んで港便で送ってもらった論文と一緒に初めて書いた空想物語も同封していた。ローシェは急に我に返ったように顔を赤くして、そそくさと退散した。


――次に書く物語は……。


 広い構内を我が家のようにまっすぐ戻り、ローシェは次回作の構想をもう考えていた。もしかすると、次は空想にはならないかもしれないと思いながら、頭の中は遠く南海の孤島に意識をめぐらせていた。



 その後、ホテル「鉄砂漠のオアシス」の受付でフウリからの伝言を受け取ったローシェは、新しく泊まることになったという場所に向かったものの、すぐにそこがどれほど大変な身分のお屋敷なのかを理解し、卒倒しそうになったのだった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ネット小説ランキング>異世界FTシリアス部門>「風と空のレコレクション」に投票 ←この作品が気に入ったらクリックして投票お願いします!
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ