22.神が与えたもの
ソラトとフウリが廊下で話をしていたころ、リッカは用意された客間の一室で固まっていた。
ホテル「鉄砂漠のオアシス」に初めて泊まった夜も緊張して眠れなかったが、ここはもはや別世界である。ご丁寧にも1人1部屋ずつ与えられたため、しんと静まり返った広大な部屋の片隅で、誰もいないのにきょろきょろしていた。なんでも自由に使っていいと言われていても、指紋を付けることさえためらわれて、無意識のうちに息までひそめてしまっていることにも気付かない。
――みんな、どうしているのかな。
我ながら悲しい小市民だと思いながらも、リッカは助けを求めるように部屋の外をのぞいてみた。壁の燭台がどこまでも並ぶうす暗い廊下には人影がなく、ただ雨の音だけが静かに広がっている。
――世界中から人が消えてしまっていたら、どうしよう……。
本気でそんなことまで心配になってきて、リッカはたまらず外に飛び出した。客間まで案内された道など覚えているはずもなく、あてもなく長い廊下を早足に突っ切り、階段を下りていった。とにかく誰でもいいから会いたい。目につくままに角を曲がって進んでいくと、ようやく見つけた人影は幸か不幸か、この広大な屋敷で贅沢な不安にさせてくれた張本人、ツォレルン侯その人だった。
「おや、どうしたのだ?」
「あ、いえ、その……」
あんなに人を探しまわったのに、いざ出くわすと言葉に詰まった。ローシェほど人見知りをするわけではないが、相手が相手だけに緊張してしまう。
「客として迎えておきながら、放っておいて済まない。どうも退屈させてしまったかな」
「いえ、とんでもないです!お屋敷に泊めていただいただけで光栄なのに……」
「そうだ、今ちょうど仕事が一段落したから、お茶でも飲んでいかないか」
帝位の資格こそないものの、それを支える政治の中枢を担う重要な立場であり、一般市民からは想像もできないほど多忙なはずなのに、ハーシェルは少年1人のために時間を割いてくれた。当主の部屋のわりには簡素な調度だが、それでも充分一流品の家具ばかりで、招き入れられたリッカは気が遠くなりそうだった。
「あの、すみません。ツォレルン様にお気を使わせてしまって……」
「はは、やはり気付いていないのだな」
「え?え……?」
緊張のあまり何かを聞きもらしたかと思ったリッカは焦ったが 、ハーシェルは自ら入れたお茶をテーブルに置いて、代わりにメガネを取り出した。
「これなら思い出すかな?」
灰色のメガネの奥でいたずらっぽく笑うその瞳は、選帝侯の厳格なそれではなかった。さらに鮮やかな金色の髪を後ろで短く束ねると、見覚えのある別人になった。
「も、もしかして、ケセドさん!?」
帝都への旅路を数日だけ一緒に過ごしたセフィロト教会の修道騎士が、目の前でおかしそうに笑っている。リッカは何がどうなっているのかわからず、混乱して目を白黒させた。
「まわりに気付かれないように変装していたのだから、君がわからなかったのも無理はないのだが。まさかここで会うことになるとは、わたしも驚いた」
「ほ、本当に、あのケセドさんなんですか?」
「わたしが修道騎士ケセドであることは、表の世界では内密にしていてほしい。国政と宗教が絡むと、いろいろと問題が出てくるのでな」
肩に届く髪をおろしてメガネを取ると、修道騎士は選帝侯に戻った。
――あぁ、それで市門の兵隊も協力してくれたんだ……。
リッカは驚きながらも納得した。ケセドが番兵に一筆書いてくれたおかげで、姉たちと無事に再会することができたのだが、いくら修道騎士が敬意の対象とはいえ、俗界で権力を行使することは、たとえ建前上でもできないことになっている。どんな内容で頼んでくれたのだろうと不思議に思っていたのだが、皇帝に次ぐ大貴族のサインがあれば、人探しを番兵に命ずるくらいわけもない。
「でも、どうして、その……」
「たまたま会っただけの少年に、人探しの協力をしたり正体を明かしたりするのか、かな?」
「す、すみません。せっかくご親切にしていただいたのに……」
「構わん。疑問に思って当然だろう」
ハーシェルは穏やかな表情のまま席につき、向かいのイスを片手で勧めた。リッカもここまで来たら断る方が無礼だと思い、遠慮がちにイスの縁に座った。
「君は控え目で物静かだが、思慮深く道理をわきまえている」 ハーシェルは身を乗り出してリッカの目を見据えた。「何より、人の気持ちを汲んで思いやるその目が、わたしが後見を託されている少年にそっくりで、どうにも放っておけなくてな……これはわたしの勝手な理由なのだ」
「いえ、そんな……」
短い間でも一緒に旅をした知り合いだとわかると、少しは肩の力が楽になったリッカも、なんと言ったらいいのかわからなかった。褒められるのはありがたいが、わずかに逸らせたハーシェルの目によぎった悲しい陰りが気にかかった。
「ツォレルン様がご心配されている人は……もしかして、教皇様ですか?」
「君のその、人の心を察するのは自然なのかな?わたしも宮廷に生きる者として、感情を閉ざすことには長けているのだが」
ハーシェルはワイングラスを口に運んで苦笑した。確かに、教皇の悲しい宿命や修道騎士であることから推察することはできるが、そんなものもはすべて後付けの理屈であり、このときのリッカはただ寂しげな雰囲気を感じただけだった。
「不思議な力を持って生まれた者を見つけるのは、大陸中の修道士が探してもなかなかむずかしい。だが、姉は皇帝の娘だったために、幼いころから宮廷や教会本部の期待を受け、若くして教皇の座についた。わたしも当時は、教皇の呪われた運命など知らずに、即位を誇りに思ったものだ」
ゆっくりと語るツォレルン侯の心の内を、リッカは渡されたグラスを持ったまま飲むのも忘れて、黙って聞いていた。侯が言葉を切ったら、都を包む湿った雨の音しか残らない。
「教皇リア1世となった彼女は、君も知るとおり『ロス・トイフェル』の悪夢を終らせた。だが、ちょうどそのころから呪いが表れ始め、わたしは本人から初めて聞かされて愕然となったよ。突然、もう何年も寿命が残っていないだろうと言われたのだからな」
「……」
「そして14年前、呪いのことを知られないように、病死ということにして世間の目から消えた。もちろん、国政の中枢にいるわたしと、教会の頂点であった姉が会うわけにもいかなくなり、供を1人だけ連れてひっそりと旅に出たときが、彼女の姿を見た最後だった」
「呪いを解く方法を探すために……?」
リッカは声をひそめて尋ねたが、答えは聞くまでもない。リア1世は未来を読む力があったのだから、呪いが解けるかどうかもわかっていたはずである。もしくは、それでもなお運命を変えようと挑んでいたのだろうか。同じようにそれを理解していながら残されたハーシェルの表情には、少し疲れたあきらめのようなものがあった。
「彼女は旅立ちのとき、北の田舎町に住む7歳の少年を頼むと言い残していった。当時まだ教会の目にも触れていなかった次の教皇を守るために、わたしは修道騎士になった」
修道士や修道騎士になるには、俗世での地位も身分も関係なく、知性や武術の技量、強い意志と精神力が認められなければならない。現実には教会とて、そんな建前の綺麗事ばかりではないのだが、ハーシェルが真にその資格を持っているということは、リッカも請け合える。選帝侯として皇帝を支え、修道騎士として教皇を支える二重の責務をこなすには、並大抵の能力と覚悟ではできないだろう。
「教皇様は、そのことを……ご自分の呪いをご存知なんですか?」
「呪いの事実はお伝えしているが、いつ、どんなことになるのかは、まだわからない」
異変が表れる日まで絶えず怯えて暮らし、しかしそれをまわりに知られることなく、笑顔で信徒たちを導き癒し続ける教皇の苦悩を思うと、リッカも胸が痛んだ。
その死が『ロス・トイフェル』の引き金となった教皇ゲハイム4世は、54歳になるまでまったく何事もなかったが、ある日突然、身体中から血がなくなっていき、わずか数日で干からびてしまった。この急逝の真相は、これまでもそうだったように教会の上位神官以外には伏せられ、何も知らない各国の指導者たちが政敵の暗殺だとして戦争に突入したときも、ついに教会は口を閉ざしたままだった。
「どうして発表しなかったんですか。本当のことを知ったら、戦争にはならなかったかもしれないのに」
「リッカ君、政治というものには複雑な思惑が絡まり合っているのだよ」 純粋で正当な質問に、選帝侯はかぶりを振った。「ひとつの事象が変わっても、もつれた糸は簡単にはほどけない。さらに新たな糸を投げかけるリスクよりも、すでに回避不能なまでに緊迫していた紛争の機運を、教会は苦渋の決断で選んだのだ」
リッカにも、理屈は理解できる。神の使いが呪われた存在であるなどと知ったら、大陸中の信徒たちが混乱して、信仰は大いに揺らぐだろう。現に今、ローゼン教が新たに台頭してきたことで、形のない不安が広がっている。
物理的に生活を形成している国家は、時代とともに支配者や制度が移ろいゆくが、精神的な支えである信仰は、長い時間をかけて培われてきただけに変化するのはむずかしく、それを望む声もその必要もない。
しかしそれでも、納得することはできなかった。
――他に方法はなかったのかな。戦争も、教皇様の呪いも、ただ起こるのを待っているしかないなんて……。
やりきれない憤りと悲しみに、リッカはじっとしていられなかった。世界という漠然として見えないものと、見たことのない人のために、自分にもできることはないのか。今までの平穏な生活の中では、こんなにも何かをしたいと強く思ったことはなかった。
「教会内部のことも姉のことも、人に話したのは初めてだ。なぜか君には、安心して話を聞いてもらえるような気がした」
「僕にできることがあったら、なんでも言ってください。僕も……このまま何もしないでいるなんて、嫌なんです」
「ありがとう。やはり、君と話せてよかった」
ハーシェルは柔らかく微笑んでワインを飲み干し、リッカもアルコールのないブドウジュースにようやく口をつけた。
2人が言い合わせたかように同時に窓の方に目をやると、いつの間にか雨があがった空から温かい光が射し込んでいた。