21.雨ににじんだ思い出
都の上に重くのしかかっていた鉛色の空の底がついに抜けて、大粒の雨が降り出した。
静かに濡れる広大な中庭を、ソラトは窓辺に立ってただ見つめていた。その目に映っているのは、よく手入れされた花壇でも、噴水が流れる池でもない。気の葉に光る滴の向こうには、冷たく懐かしい風景があった。
――雨は、嫌だな。
生まれ育った故郷を、滅亡した世界を思い出してしまう。同時に、なぜ自分は今そこにいないのか、何のためにここにいるのかということがわからなくなる。だから、すべての色がにじむ雨の日は嫌いだった。
――兄貴も、晴れた日に空を飛ぶのが好きだったな。
太陽はなく、かろうじて雨が降っていないというだけの暗い空だったが、それでも兄弟で翼を並べて飛ぶのは楽しかった。水に濡れると翼が重くなって使えなくなるので、どこかへ出かけた帰りに降られたときには、誰もいない廃屋で雨宿りをしながらいろいろ語り合ったものだった。
――兄貴、どうしていなくなってしまったんよ。今どこで、何をしようとしているんだ?
あるときから何かに憑かれたように地下室にこもって調べものをしていた数ヶ月後、兄はこの世界を変えるとだけ言い残して、まぶしい光の渦に消えた。最後に見た兄の背中に、すべてを憂える寂しい覚悟のようなものを見た気がして、ソラトは8年かかって行方を調べた。しかし、ようやくたどり着いたこの世界では……。
「こんなところで、何ぼーっとしているんだよ」
渡り廊下の真ん中で立っていたので、通りかかったフウリが声をかけてきた。客間のあるこの東棟には人影がなく、同じ窓がいくつも並ぶ長い廊下はうす暗い。ソラトは隣にやってきたフウリに向き直って、沈んでいた気持ちを隠すために肩をすくめた。
「最近いろいろあったから、頭の中を整理していたんだよ」
「それにしても、びっくりしたよなぁ。届け先が、まさかこんな大貴族だったなんてさ。家もでかいはずだよ」
何度も迷子になりながら1人で屋敷中を探検してまわっていたフウリは、あまりの広さに疲れた様子だった。
「でも1番びっくりしたのは、やっぱりあのおばあちゃんだよな」
「あれで38歳だったんだもんな」
ツォレルン侯は、ソラト達に屋敷でゆっくりしていくようにと言って部屋まで用意してくれた。見ず知らずの少年たちを止めたり、極秘であるはずの教皇の話をしたり、真意がわからないで困惑する4人に、ハーシェルは少し寂しげな表情で言った。
『姉はわずかだが、未来を視る力があった。君たちに何かの縁を感じたからこそ、この大切な最期の手紙を託したのだろう』
ただの通りがかりに偶然頼んだのではないと、ハーシェルは確信していた。しかし、ソラト達にはそんな実感はなく、ありがたいが正直なところ戸惑いもあった。
「教皇って、確かセフィロト教の1番偉い人なんだろ?」
「うん。いろいろ不思議な力を持っている人じゃないと、教皇にはなれないらしいよ」 さすがのフウリもその程度の常識は知っていた。「『ロス・トイフェル』戦役を終らせた前の教皇は、聖女って呼ばれていたんだ。14年前に亡くなったって言われていたんだけど……」
神の奇跡の力を与えられた代わりに、長くは生きられない呪われた運命――わずか38年で100歳にも見える老婆になり、世間から隠れるようにして大陸を旅していたナタリアは、癒しの力と呪いの元凶、すなわち神と呼ばれる“生命の樹”を探していたのだと、ハーシェルが短く答えた。どうやって探そうとしていたのか、手がかりは見つかったのか、それ以上のことには目を伏せて触れなかったが。
――“宇宙樹”の呪い?でも、あれは……“宇宙樹”は枯れたはずなのに……。
ソラトが知る伝説の大樹と同じものらしいが、呪いの話は初めて聞いた。しかし何よりも気になるのは、違う名前で違う世界にある同じ存在そのものである。こことは別の世界で“樹”が枯れたと言われたころから、翼のある子供たちが生まれるようになったと言われている。
それが何を意味しているのかはわからないが、ハーシェルから教皇の秘密について聞かされてから、ソラトはずっと心に引っかかるものがあった。
――もしかすると、教皇の不思議な力っていうのは、オレ達と同じ力なのか……?だとしたら……。
窓ガラスに映る自分をじっと見据えながら、ソラトは無意識のうちに左の胸に手を当てていた。白翼とともに与えられた、本来の人にはない力……神の遣いと呼ばれる教皇と天使……。
「そういえば、フウリは天使に会ったことがあるんだってな」
彼女のエアプルームの白翼はモデルとなった天使がいると、以前、街道を歩いているときにローシェが言っていたのを思い出した。しかしフウリにとっては思いがけない話題で、数秒間の間があった。
「あぁ、もう10年も前になるのかな……お兄ちゃんが死んだ日にね」
フウリは視線を動かすことなく、声からも感情が読み取れない。兄を尊敬しているということは、いつも誇らしげにまわりに言っていたが、事故のことはどことなく言葉をにごしていたので、これまで訊くに訊けないでいた。
「お兄ちゃんは島で1,2を争うスゴ腕の空送屋だったんだ。どんなヘンピな場所へでも、大嵐の中でも、誰よりも速く正確に届けるってな。でも、あの日……」 フウリは目を閉じて、いったん言葉を切った。「ぼくはまだ7歳だったから、あのとき何をしていたのか、よく覚えていない。ただ、とんでもなく嫌な風が吹いていたんだ」
ぼんやりと薄れ始めた記憶と、今もはっきりと残る悲しい思いを、フウリは少しずつ話し始めた。
どんよりと重い灰色の空に、大地を押し潰しそうな雲が、ものすごい速さで北から南へと流れていく。なにものをも遮るもののない広大な草原には、遠くにそびえる谷から吹き降ろす冷たい風が、びょうびょうと吹きすさんでいた。
狂ったように暴れるススキの群れに埋もれながら、フウリは空を見つめていた。……いや、正確には、空ではないどこかに視線をさまよわせている。
『風が……』
昼ごろまですっきり晴れていた空がみるみる暗くなり、1年を通して穏やか風に包まれた谷に、突然、身を切るような突風が吹き荒れた。その瞬間、フウリは何かにはじかれたように家を飛び出した。風の声にじっと耳を傾けていると、嫌な予感が胸の中で膨らんで、心臓の音がどんどん早くなる。
――と、空の黒よりも深い漆黒の影が、暴風をものともせずにふわりと降り立った。
『こんなところで、どうした?』
いつの間に後ろから現れたのか、フウリは自分の背丈より高いススキの間から見上げたが、顔がよく見えない。柔らかいのにどこか哀しそうな声は、小さな少女を守るように風上に立った。
『お兄ちゃんが……』
言いかけて、口をつぐんだ。見ず知らずの人になんと言ったらいいのかわからないし、まだそうと決まったわけではない。何よりも、言葉にしたら本当になってしまいそうで、怖かった。
そんなフウリの思いを知ってか知らずか、影は遠く山脈の上空をふり向いて、少し焦った声でつぶやいた。
『“樹”がざわめいているのか……もう、世界を壊させはしない』
『あっ……!』
黒い塊かと思った影から、ばっと真っ白な翼が広がった。そして驚いて立ち尽くしているフウリを残して、灰色の雲の流れとは逆に、不吉な風が押し寄せてくる北へと向かって飛び立っていった。
「――しばらくして荒れた風が止んで、空は明るく晴れたけど、届いたのは事故の知らせと壊れたエアプルームだけだった」
淡々と話し終え、フウリは小さくため息を落とした。ちらりと横目で見た冷たく硬い表情は、いつもの感情豊かな彼女とは別人のようで、ソラトは胸の奥が痛んだ。同じように兄を失ったときの辛さがよみがえり、彼女の悲しみと重なった。
「天使がやってきてお兄ちゃんを“生命の樹”へ連れていってしまったんだって、ずっと思っていた。だからソラトを初めて見たとき、また大事な人を奪いに来たんじゃないかって、じつはちょっと怖かったんだ」
「フウリ……」
「へへ、でも天使のせいじゃなかったんだよな。お兄ちゃんの事故は突然の風の乱れでエアプルームが故障したのが原因だったらしいし、ソラトは逆に大事なものをいっぱい教えてくれた。だから……ッ!?」
無理に笑おうとする哀しい笑顔にたまりかねて、ソラトはぐっとフウリを抱きしめた。彼の腕の中で固まってしまったフウリは、呼吸をするのも忘れてしまったかのように動かない。男勝りでいつも元気に動きまわっていても、その柔らかくて細い線はかすかに震えていて、強く力を入れると壊れてしまいそうだった。
「……ごめん」
首のあたりにあるフウリの耳元で、たったそれだけささやいた。なぜ、いきなりこんなことをしたのか、ソラトは自分でもよくわからなかったが、謝ったのはそのことではなかった。
――フウリの前に現れたっていう天使は……そして、お兄さんが事故に遭った原因は、たぶん……。
確証はないが、確信はある。しかし今はまだ、それを言うわけにはいかない。すべては憶測でしかなく、もしかすると思い違いかもしれないという、いちるの望みを捨てたくなかった。
「フウリ、オレを助けるためにここまで来てくれてありがとう。でも、お前のために、お前の目で、フウリにも魔王に会ってほしいんだ」
「……初めから、そのつもりだよ」
そっと体を離すと、フウリはわずかに赤くなった顔を逸らせて、ぶっきらぼうにうなずいた。どことなく気まずい雰囲気にようやく気付いたソラトは、今さらながら目を泳がせて頭をかいた。
「あ、その、ホントにごめんな」
「い、いいって、もう」
2人はお互いに相手の顔を見ることができず、何を言っているのかもよくわからない。ソラトはあらぬ方向を向いて、必死に言葉を探したが、そんなものは必要なかった。
「一緒に魔王をぶっ飛ばすまで、絶対にひとりになんかさせないからな!」
フウリは乱暴に言い捨て、輝く瞳でにやりと笑って走り去った。その間際、柔らかな唇がかすかに一瞬触れた頬を押さえて、ソラトは呆然と突っ立ったままだった。
――なんなのかな、この感じ。
以前、同じシェルターの女の子に抱いた、ドキドキする憧れとは違う。しかし、この温かくて懐かしくもある気持ちは、心が安らぎ心地よかった。