17.揺れる大樹の枝葉
・クラウ3世……セフィロト教の現教皇。20歳。
大陸最大の宗教、“生命の樹”を神と崇めるセフィロト教の本部は、バーミリオン王国とウィスタリア帝国の国境線にある。俗界の権力は受け付けないという建前から、2つの国の共通中立組織として、国境が定められた1,000年前に、そこをまたいで大陸の中央に置かれた。それ以来、教会は二大大国の平衡を保つ第三の勢力という位置付けを平和のうちに果たしてきた。
その均衡を破ったのが、『ロス・トイフェル』戦役である。大陸中を戦渦に巻き込んだ大戦のきっかけは、セフィロト教を統べる教皇ゲハイム4世の突然の死だった。普段から互いをけん制し合ってきた二大大国の鬱憤がこれを機会についに爆発、互いに相手国の陰謀による暗殺だとし、教会を守ると称して真っ向から全面戦争を開始したのだった。
争いを抑えるための教会が戦争に利用されたことに、教会関係者だけでなく多くの一般信徒たちが憤慨した。しかし、にらみ合ってきたライバルを今こそ叩き潰そうという者、国と教会を守るためには武力もやむなしと考える者も少なくはなく、戦争は「解き放たれた悪魔」と呼ばれるほどに激化、泥沼化していく。
そして20年後、『ロス・トイフェル』戦役を終わらせたのは、始まりのきっかけと同様、新しく即位した教皇だった。若干21歳の新教皇リア1世は、涼しい目元と澄んだ声の女性で、不思議な癒しの力を持っていたという。
病の苦しみを取り除いたり、怪我の痛みを和らげたりと、歴代の教皇がそうであったように彼女にもいくつもの奇跡が語られているが、何よりもそこにいるだけでまわりを穏やかな気分にさせる温かい雰囲気と、それでいて凛とした抗いがたい神秘性が、戦争に明け暮れていた市民たちを冷静にさせた。そしてついには、憎悪に駆られた国王と皇帝も和平の呼びかけに応じ、彼女が見守る前で和解したのだった。
ようやく大陸には平和が戻ったが、それを見届けるようにして、リア1世はその後わずか3年で逝去した。まるで戦争を終わらせるために神が遣わしたかのような儚い命に、大陸中が涙を流し、彼女を聖女と讃えた。
……戦争が終結して17年。大陸では、再び不安定な暗雲が水面下で広がりつつあった。
1年前に即位したばかりの現教皇クラウ3世もまた、神の奇跡を起こす力があった。セフィロト教の教皇は年齢や出身に関係なく、“生命の樹”から与えられた力を持った者がその位に就く。しかし逆を言えば、その力を認められる者が現われなければ、何年でも空位が続くことになる。前教皇が亡くなって以来、じつに13年ぶりの即位なのだが、やはり聖女と呼ばれる特別な存在でもない限り、20歳の若者ではこの難局を乗り切るのはむずかしいとまわりは懸念していた。
――また、増えたようだな。
セフィロト教会大聖堂へ参拝に訪れる多くの信徒たちとともに馬車を降りたケセドは、心の中でつぶやいた。参拝者が多いのはいいことだが、同時に世間の不安がそれだけ大きいことを表している。ありがたそうにお辞儀をする信徒たちにいちいちあいさつを返しながらも、ケセドは少し急ぎ足で大聖堂の裏手へと向かった。
教会本部の2階にある神議の間は、年に4回の定例議会以外で使われることは滅多にない。しかし、その数少ない機会は常に緊迫した有事に際したときであり、今もまさにその時であった。
「みなさん、そろったようですね。」
教皇クラウ3世が、大きな円卓を見まわした。帝国、王国の国籍も、貴族、市民の身分も関係なく選ばれた彼らは、“枝”と呼ばれる10人と“葉”と呼ばれる22人から成る上位神官たちで、それぞれが神の使いの名を冠せられている。そして“生命の樹”の“幹”にたとえられる教皇を支え、実質的に教会を束ねていた。
「さっそくですが、先日、このような書状が届きました。」
クラウ3世は赤い筒から取り出した書状を右隣に渡し、それが全員にまわるのを黙って待った。年齢も制限がないとはいえ、現在の神議のメンバーの中では1番若く、頂点に立って教会と全信徒を導く立場でも年長者に対する敬意は忘れない青年だった。
――教皇としての威厳はこれからかな。
ケセドはすばやく目を通した書状をとなりにまわして、ちらっとクラウ3世の方を見た。
短くそろえた金髪に、幼さも残る柔らかな顔立ちの青年教皇は、神の奇跡の力を純真に人々のために役立てるべきものだと思っている。北方地方のごく普通の家庭に育ち、社会の裏や人間の闇も知らないまっすぐな心を、ケセドは陰ながら懸念していた。
――優しいばかりでは、この世界を渡っていくことはできない。
教皇という地位ばかりは奇跡の力がなければなれないが、それを利用しようとする者はいつの時代のどんな場所にでもいる。教会内部でさえ、陰謀や不満の声がささやかれているということを、彼はおそらく気付いていても表には出さないだろう。しかし今は、この困難な局面を乗り切るために、教皇としての重責を果たしてもらうしかない。それを代わってやれないもどかしさに、ケセドは人知れずため息を落とした。
「ローゼン教が、ついに動き出しましたか。」
床まで引きずりそうな長い白ひげの老人が、もぞもぞとうなった。左隣から戻ってきた手紙を受け取り、クラウ3世も眉をひそめてうなずいた。
「ご覧のとおり、ローゼン教の教祖クロイツ殿が、我々に信仰の自由を認めるようにと訴えてきています。他の宗教を非難したことも、そんなつもりもないと返答したのですが、聞き入れてもらえませんでした。セフィロト教は神の教えを歪め、民を惑わせている、と。」
「バカな。数千年も前から神の教えを守ってきた我らに、それは完全な冒涜だ。」
「人心を惑わせているのは、ローゼン教の方ではありませんか。」
教皇とほとんど歳の変わらない若者たちが声を荒げた。誰が見ても言いがかりであり、事実上の宣戦布告である。壮年の落ちついた女性が彼らを目で制して、用意していた報告書を取り出した。
「教祖クロイツは、最近では毎日のようにバーミリオン国王に謁見していると言われています。何を話しているのかは定かではありませんが、国王が人払いをして2人きりで話すほど親密だということは、複数人の目撃証言から確かなようです。」
「バーミリオンでは、近くローゼン教を国教として他の宗教を認めないとする動きもあると、一部でうわさされています。」
バーミリオン国内の教会から“枝”に推挙された男性も、後を受けて重々しくうなずいた。この教会、この会議、この身分においては、故国も敵国もない。誰もが内心ではさまざまな思いが渦巻いていようとも、セフィロト教を守ることが最重要であることだけは、すべての“枝葉”に共通していた。
「各地の動きはどうでしたか?」
クラウ3世がかねてより調査を依頼していた6人が、それぞれに大陸の主だった町に赴いて調べてきた様子を報告した。
「王国南部のソーテルネス地方では、先々代の教皇猊下の出身地ということもあり、ローゼン教徒はまったく見受けられませんでした。」
「同じく西部の漁港メーアでは、連日海が荒れて魚が死滅寸前という異常事態に不安を感じて、ローゼン教の説法集会に参加する住民が増えてきています。」
「私は最東端の港町リールの近辺で、大勢のローゼン教徒がひとつの建物に集まっていくところを見ました。」
「ウィスタリア帝国の北方地域では、クラウ3世猊下のご威光によって、聖堂が大きく建て替えられて、皆ますます熱心に祈りを捧げています。」
「メーアと同じく帝国中部のトラルティ山岳でも魔獣の被害が相次いでいて、やはりローゼン教が真実の神の裁きだと説いてまわっているようです。」
「帝国領内では改宗するセフィロト教信徒はまだ少数ですが、情勢が不安定な町ほどローゼン教徒の数や活動が多いと思われますな。」
円卓は一様に険しい表情になった。ケセドも黒いメガネの下で目を細め、予想通りながら憂慮すべき事態に眉をひそめていた。
薔薇十字を紋章とするローゼン教は、わずか8年前に創設されたばかりの新興宗教である。もともとはセフィロト教の教義に別の解釈を展開していた一部の集団だったのだが、そこに現れたクロイツ=ローゼンと名乗る男がセフィロト教そのものを否定し、分離独立を宣言した。
セフィロト教ではすべての生命の源である“生命の樹”が、眠りについた今もこの世界を支えているとしている。だからそれに感謝して、いずれそこに還るときまで世界を見守っていてくれるように祈るのである。
対してローゼン教が説くところでは、“生命の樹”は間違った教えを信じる人々の心で枯れかけていて、そのために自然災害や魔獣が増加しているのだという。“樹”は近い将来に枯れ果てるが、そこに咲いた“花”が世界を再生させ、それに祈りを捧げて力を受けた者だけが新しい世界を生きることができるというのが、教祖クロイツの教えだった。
――“樹”が枯れようと“花”が再生させようと、“生命の樹”が世界を支えているということに変わりはないはず。なぜそこまでセフィロト教を否定する必要がある?
ケセドももちろんセフィロト教の教えを信じて疑わないが、1歩引いたところから状況を見据える冷静な目を持っている。
――クロイツは、いったい何を企んでいるのだ……?
この神議のメンバーでも、ほとんどが教えそのものを守ることに躍起になって、ローゼン教をひたすら敵視しているが、ケセドにはその裏に何か別の思惑があるように思えてならなかった。
今後の課題を多く残したまま、緊急神議は終わった。セフィロト教会としては、これまでどおりローゼン教の教えを否定することはせず、しかし民を惑わせる誤った教義だとする主張に対しては断固として抗議するという教皇声明を発表することになった。
「猊下、少し休まれてはいかがですか。」
誰もいなくなった円卓で、座ったまま目を閉じてこめかみを押さえていた教皇に、最後に出ていこうとしたケセドが声をかけた。クラウ3世はやおら顔を上げ、どうにか微笑んだ。
「ご心配をおかけしてすみません。僕は大丈夫ですから。」
「誰もいない時にまで、気を使わないでください。わたしは何があっても猊下の味方です。」
「ケセド……ありがとう。」
クラウ3世は肩の力が急に抜けたように、イスの背もたれに倒れこんだ。自分を支える側近たちであっても気を許せない孤独が、ケセドには痛いほど理解できた。
「あなたには、いつも助けられていますね。僕ももっと強くならないと。」
「ご安心ください。猊下を守ることが、わたしの役目……彼女との約束です。」
「僕も、彼女のように平和を守れるでしょうか?」
「それは、猊下にしかできないことですよ。」
クラウ3世は、精一杯の笑みで力強くうなずいた。リア1世に最後に会ったときに託された願いを、ケセドは今までもこれからも守っていくつもりだった。
――わたしも、同じようになる可能性があったのだからな。
幸か不幸か、それは当分の間はなくなり、またケセド自身もそうならないことを願っている。それでも、もうひとつの役目を放っておくわけにもいかなかった。
「猊下、またしばらく俗界に戻ることをお許しください。」
「あなたは大事な人です。どちらの世界でも、くれぐれも気をつけてください。“生命の樹”のご加護があらんことを。」
教皇の祈りは言葉だけでなく、災いから護る不思議な力がある。すべての生命を癒す力を与えられていながら、しかし自分にだけはけっしてできない不幸を、ケセドは我がごとのように哀しんだ。それが、神にもっとも近い者に課せられた呪いのひとつであることを知る者は、少なかった。