14.囚われの天使
かすかに目を開けると、うす汚れた灰色の床が見えた。ひんやりと冷たい空気が肌を刺し、埃っぽい匂いが鼻をかすめる。
――あぁ、懐かしいな。
ソラトはぼんやりとそんなことを思った。この明るく暖かい世界になじみつつあったが、やはり生まれ育った環境は忘れられない。まさか元の世界に帰ってきたのではと思ったが、何度か瞬きをすると、意識と記憶がはっきりと戻ってきた。街道で魔獣を倒した直後、急に甘い匂いの煙があたりに立ちこめ……。
「な、なんだ……?」
ここで初めて、両腕が動かないことに気付いた。見ると、手首が頭の上でしっかりと鎖につながれて、足がぎりぎり床に届くところで壁に張り付けられている。
物置のような狭い部屋には明かりがないはずなのに、木箱のタグまでよく見えると思ったら、鉄格子のはまった小窓から月の光が差し込んでいた。そこから夜風に混じって、ばたばたと何かがはためく音が聞こえてくる。
――捕まった……らしいな。
背中に目をやるまでもなく、マントはなくなって翼が直接壁に押さえつけられている。フウリの忠告を無視して翼を閉じなかったせいで、これを見た何者かに拉致されたのだろう。この状況そのものにはまったく落ちついていたが、煙に包まれる直前に聞いたフウリの声、自分が言った言葉を思い出して、ぐっと胸が痛んだ。
『どうしたんだ、ソラト?どこか怪我したんじゃ……』
『オレのことは放っておいてくれ!』
どうしてあんな態度をとったのか、寝て起きた今になって冷静に考えると、自分が情けなくなった。フウリはただ心配をしてくれていただけなのに、よそ者だからだという勝手な思い込みでムシャクシャして当たってしまった。
――あいつ、怒っているだろうな。
今ごろどうしているのか気にかかったが、自分の翼が目的ならば、彼らは無事だろう。もしかすると、このタイミングで囚われたのはよかったのかもしれないとさえ思う。
――ここで……別れるか。
人知れず落としたため息は白い塊になり、冷えた胸からこぼれた思いはひょうひょうと夜を切る風の音にかき消された。
……と、その時、扉ののぞき窓が開いて、若い男の声がした。
「おっ、お目覚めか!」
ちらっと見えた男の顔は、ソラトより年下の少年のようだったが、なぜかすぐにいなくなった。そしてまた鼻のあたりまで顔を出したかと思ったら、やはり一瞬で消えてしまう。
「……お前、チビだろ。」
「チビ言うな!」
扉の向こうで懸命にジャンプしているらしい少年は、あきれる囚人に怒鳴った。しかしそれからガタガタと音がして、次に現れた少年の勝ち誇った顔は動かなかった。どうやら木箱を踏み台に持ってきたようだが、ソラトはあえて何も触れなかった。
「目覚めはどうだい、天使様?」
「腕が疲れる以外は、まぁまぁかな。」
「いちおう言葉は通じるんだな。悪いな、縛らせてもらって。」
「お前は誰だ?オレをどうするつもりなんだ?」
「おれっちは天下のナハツ空賊団、特攻隊長のヒスキだ!あんたをどうするつもりのかは知らねぇ。アニキにでも聞いてくれ。」
――クウゾク……?
聞いたことのない単語に、ソラトは首をかしげた。いきなり人をひっさらって鎖で縛るくらいの連中なのだから、「賊」というのはすぐに理解できたが。
「まぁ、そういうわけだから、もうしばらくそこでおとなしくしていてくれよ。夜明けにはアジトにつくと思うからさ。」
名前も所属も、ついでに今後の進路まで親切に教えてくれた少年ヒスキは、軽やかに木箱から飛び降りてのぞき窓から消えた。また風がうなる音だけが残され、ソラトはしばらく動かずにじっと扉を見つめていた。そして誰も近くに残っていないことを確かめると、ちらっと首を上げた。
――おとなしくしていろって言われても、なぁ。
手首は縛られているが、手のひらは自由に動く。おとなしくしている気などさらさらないソラトは、何度か両手を握ったり閉じたりした。そして意識を集中して軽く指を曲げると、鎖が内側から破裂して砕けた。がしゃんと大きな音をたてて床に落ちたが、扉の向こう側に気付かれた様子はない。
「いててて……。」
ぶら下げられていた腕をようやくおろすことができ、ソラトは赤くなった手首を押さえながら首を回した。背中や肩が変につっぱって痛い。どれだけの時間、あの体勢でいたのだろうかと小窓から外をのぞいて、ソラトは予期していなかった光景に目を見張った。
「空……!?」
目の前に雲が薄く広がり、遥か下には夜の山脈が連なっている。格子ごしに顔を窓に近づけて目だけで上をのぞくと、船の後方らしい曲線と何枚ものプロペラが見えた。
――空飛ぶ船……なのか。
大陸に渡るときに初めて乗ったあの船が空を飛ぶとは知らなかったが、今のこの状況だけ把握したら、これ以上あわてることもなかった。むしろ、このまま逃げ出すには都合がいい……
「……あれ?」
というわけにもいかなかった。いつも背中に付けている黒い刀がないことに今さら気づき、とっさに部屋の中を見まわしてみたが、近くに転がっているはずもなく。
――兄貴からもらった大事な思い出……。
ソラトはすぐに回れ右をした。そしてフウリの家でしたのと同じように、鍵のかかった扉にそっと手を当てて、力を入れることも爆弾を使うこともなく吹っ飛ばした。
通路に顔を出して様子を伺ったが、やはり近くには誰もいない。このままこっそり刀を探して逃げようと思った、その時。
「……ッ!」
突然、刃で突き刺されたような鋭い痛みが走り、ソラトは胸を押さえてうずくまった。
目の前が真っ暗になり、遠ざかりそうになる意識を懸命に押さえつける。冷たい汗が額を伝い、無意識にきつく握った手に爪が食い込む。
「はぁ、はぁ……。」
どれくらいそうしていたのか、壁にもたれかかって座りこんでいたソラトは、ようやく焦点が戻ってきた目を何度も瞬いた。忘れていた呼吸は落ちついたが、自分というものが体から引き剥がされるような感覚ははっきりと覚えている。
――今のはなんだったんだ……?
これまで大した病気もなかったので、不安よりも戸惑いの方が大きかった。この異世界の空気が合わなかったのかとも思ったが、もっと別の、逆らいがたい絶対的なものを感じてしまう。
しかし今は考えても仕方がないので、ソラトは気を取り直して立ち上がった。エンジンの音だけが遠く低く響いていて、人影は見当たらない。角を曲がったところの部屋から話し声が聞こえてきたので足を止めたが、酔っ払って騒いでいるらしい中の数人は出てくる様子もなかった。
――こっちにもないな。
誰もいない部屋は鍵がかかっていようと開いていようと、関係なく片っ端からのぞいていった。前に乗った船よりもかなり大きくて、すべてを調べるのは思ったより大変だった。
「あっ、あった!」
「何をしているの?」
静かな声に、ソラトはびくっと固まった。船首に近いところまにある、鍵のかかった部屋の棚に並べられていた刀剣の中にようやく黒い鞘を見つけたのだが、開けっぱなしにしていた戸口に、いつの間にか1人の女性が立っていた。
「あなた、例の天使ね。」
「……。」
「やっぱり、あんなもので天使を縛り付けておくことなんてできないのね。」
ソラトは棚に背中をつけて、ゆっくりとふり返った。眠そうにも見える顔で落ちついた女性は、先程の少年ヒスキより年上に見えるが、まだ少女とも思えるほど幼い顔立ちをしている。手を伸ばせばすぐに後ろの刀をつかめるが、彼女からは殺気を感じられなかった。
「お前もここの一味なのか?」
「えぇ。私はシャンディ。元セフィロト教会の修道士よ、天使様。」
シャンディは瞳の奥をのぞき込むようにじっと見据えたが、ソラトはどう答えたらいいのかわからない。挑むような張りつめた空気を逸らせようと、わざと軽く肩をすくめた。
「オレは天使なんかじゃない。人間だ。」
「でも翼があるわ。セフィロト教の神話に出てくるとおりの。」
「こことは別の世界から来たんだ。そこには翼を持った子供が何人も生まれている。」
「それこそが神界なんでしょう?“生命の樹”が眠る、空の果て。」
「“生命の樹”?……もしかして“宇宙樹”のことなのか?」
「教会内部で使われていた古い呼び方を、なぜ知っているの?」
それはこちらが聞きたいと、ソラトは思った。
違う世界に来たはずなのに、違う名前で同じものが存在している。そもそも『ロス・トイフェル』戦役のことを聞いた時から奇妙な違和感を覚えていた。悪夢のような地獄と化した大戦、そして世界を創った神と言われている空の大樹……2つの世界の間には、なんらかのつながりがあるとしか思えない。
「私たちは“生命の樹”を探しているの。永遠の力を与え、どんな願いも叶えるという存在……少なくとも、セファスやヒスキはそう信じているから。」
シャンディは最後の言葉に皮肉のにじんだ嘲笑を浮かべた。無表情で冷めた雰囲気だった彼女が急に感情を見せたので、ソラトは気にかかった。
「お前は、そうは思っていないのか?」
「……。もし神が本当にいるなら、なぜ私の両親が殺されるのを助けてくれなかったのか、私はそれを問い正すために“樹”を探しているのよ。」
ゆったりとした静かな口調に戻って必死に感情を隠そうとしているが、ソラトには辛い気持ちが痛いほどわかった。
――オレも親父や母さんが死んだ時……それに兄貴までいなくなってから、ずっとひとりでふさぎ込んでいたもんな。
ソラトが自分のことをふり返って自嘲している間に、シャンディはため息をついて自分を取り戻していた。
「天使なら、神のいる場所を知っているんでしょう?」
「“宇宙樹”の場所なんか、オレも知らない。いや、それよりもあの“樹”は……」
話の途中で、2人は同時に天井を見た。上階から左右に走る足音と、誰かが何かを叫ぶ声がかすかに聞こえる。
「非常事態みたいね。」
こういう時こそ感情を出してあわてた方がいいのではないかと思うソラトをよそに、シャンディはひと事のようにのんびりつぶやいた。しかしすぐに部屋を出ていこうとしたので、ソラトはつい呼び止めた。
「オレを逃がしてもいいのか?」
「私1人じゃかなわないし、捕えてもどうせまた脱出するでしょう?」 シャンディはこともなげに言った。「それより今は、船内の異常を調べる方が先だわ。それとも、もしかしてその翼は飛べないの?」
「いちおう本物だからな。」
「それじゃ、今は勝手にしてちょうだい。でも、またすぐに会いに行くと思うわ。それまでさようなら、天使様。」
「オレの名前はソラトだ。」
シャンディは数回瞬きをして、それから何も言わずにいってしまった。少しの間そのまま突っ立っていたソラトも、やがて我に返って棚の刀をつかむと、階段を探して通路を走った。