エピローグ
イモータル・フォックスと呼ばれた男が死亡して五十年の月日が流れた。
戦争のためだけに必要とされた男が突然姿を消して数年後、百年以上続いた戦いは終焉を迎え、人々は永遠に続く平和のために武器を捨て、国境を超えた協力を始めた。
しかし、現在まで続いている平和な世の中も、明日には崩壊する可能性を秘めている。
今この瞬間にも戦争を始めようと画策している人間がいるとすれば、近い未来に世界は再び戦火に包まれるだろう。
そして、その戦争で再び不死身の男が暗躍する事はない。
戦争に利用されていた男は、既にこの世にいないのだから。
「フォックス……」
大きなベッドの上で横になっている壮年の女性が静かに俺の名前を呼んだ。
その声は非常に弱々しく、今にも命の灯火が消えようとしている。
沙希が余命一ヶ月と宣告されてから、今日で丁度三十日であった。
今は俺の妻となった年老いた女性は、力の無い弱々しい――しかし優しさを含んだ口調で言葉を続ける。
「すまなかったね。私のわがままで、貴方の夢を壊してしまった」
「気にするな。それに、この五十年間の安穏な暮らしは悪くなかったと思っている」
あの日、真っ暗な地下室で意識を失った俺は沙希の運転する車の助手席で目覚めた。
最初は用意された薬を使っても死ねなかったのかと思ったが、意識を失う直前に感じた眠気と服用した薬の形状に見覚えがあった事から、自殺できなかった原因について理解した。
俺の目が覚めた事に気づいた沙希は、戦々恐々としながらも、声を張り上げて言った。
『あんた、あたしのためにもう少し生きなさい! あたしが死ぬまで、あんたの死はお預けよ!』
そう言われた時、自殺の邪魔をされた事に対する怒りは不思議と浮かんでこなかった。
むしろ、彼女のために生きてみるのも悪くないと思った。
沙希の命令を了承すると、元の家には戻らず、二人で辺境にある田舎町へと移り住む事とした。
そして五十年経った今も、田舎町に建てた小さな一戸建てで平和に暮らしている。
五十年の過程で俺と沙希は結婚したが、子供は作らなかった。
それには当然理由がある。
「貴方、これを受け取って頂戴」
沙希は掛け布団に隠していた右手を出すと、傍らに座っている俺へと差し出した。
血の気を失った沙希の手には、小さな鍵が握られている。
「今度こそ、約束を果たすわ」
鍵を彼女の手から受け取ると、沙希は安心したように朗らかな笑みを浮かべながら目を閉じた。
「こんな幸せな生活ができると思っていなかった……生きてきて、本当に良かった……全部貴方のおかげよ、フォックス……」
「いい人生だったか?」
「……ええ、もちろ……ん…………」
問いかけに対して微かに聞こえる声で答えた直後、沙希の全身から力が抜けた。
残ったのは、最後に彼女から受け取った小さな鍵。
この鍵が何なのか、既に予測はできていた。
「俺もすぐに行く、向こうで待っていろ」
立ち上がると、沙希の眠る部屋の一角にある棚の上に置かれた鍵穴付きの堅牢な金庫の前に立った。
この金庫は、二人でこの家に住むようになってから、沙希が一番最初に買った私物である。
金庫の中身を聞いてみても沙希は答えようとせず、数十年経った今日まで一度も中身を確認した事はなかった。
手にした鍵を鍵穴へと差し込み、慎重に一回転させると、いとも簡単に数十年封印されていた扉は開いた。
中には、五十年前に地下室で見た物と同じジッパー付きのビニール袋に入った、あの日とは異なる大きさの錠剤が一粒。
袋から薬を取り出し握ると、再び沙希の眠るベッドの傍らに置いた椅子へと腰掛けた。
そして、躊躇う事無く薬を口に含み、一気に飲み込む。
今回こそ激痛を伴うと思っていたが、前回同様痛みは全く感じなかった。
代わりに、沙希の手によって摩り替えられた睡眠薬を服用した時に感じた眠気と、全身から自然と力が抜けていくような感覚に支配されていく。
――そういえば、この五十年間は一度も死にたいと思った事がなかったな。
――なにより、生きる意味を見つけられて良かった。
――沙希と出会えて、本当に良かった。
――俺自身ですら気づいていなかった本当の願いを、彼女は叶えてくれた。
――ありがとう、沙希。
心が満たされたまま、俺はゆっくりと目を閉じた。