「死」
死ぬ事とは、何を意味するのだろうか。
生きる事とは、何を意味するのだろうか。
死ぬ事の叶わない存在として生きてきた俺は、自分が不死身だと知ってから死ぬ事の意味について考えるのをやめた。
自分が不死身だと知るまでは、死とは覚めない眠りであると考えていたような気がするが、一世紀も前に考えていた事など正確に思い出すのは不可能だ。
しかし、その時々の行動などは意外と覚えているものである。
昔、死ぬ事が怖かった俺は睡眠という行為に恐怖を覚え、薬に頼っていた時期があった。
その行動から当時の心境を察するに、やはり俺の考えていた死とはそういう物だったのだろう。
生きる事の意味は他人から与えられた。
世を乱す者――大多数の人間にとっての“害”を駆逐する事こそが俺の役割だと、当時俺を拾った軍の偉い奴が言っていた。
その役割は永遠に続いていく。
指令を出す人間が寿命や殉職などの理由で何度代わろうと、俺の役割は変わらない。
ひたすらに“害”と呼ばれる存在を殺し続ける事こそ生きる意味。
他人が望む、俺の生きる意味である。
「ねぇ、どこまで走るのよ。景色が変化してから随分経ったわよ? 本当にこんな所にあるの?」
「正確には、“あった”という表現が正しいな。見ての通り、今は廃墟だ」
窓に沙希と出会った場所と同じ廃れた景色を映しながら、ありふれたデザインの軽自動車で荒れた道路を進んでゆく。
決して乱暴な運転をしているわけではないが、頑丈でない車体は小さな段差を越える度に車体を上下に揺らし、ガタガタと悲鳴を上げる。
有り余るほどの貯金は持っているにも関わらず、使う機会が少ないと考えて安い車を買ってしまった事を、この時ばかりは後悔した。
「“あった”? それって今はないって事よね? そんな所に行って何か意味あるの?」
「さあな。俺にもわからん」
記憶を頼りに車を走らせていたが、目の前に広がる光景は記憶とは随分違っていた。
それでも、随所に記憶と一致する建物が存在しているあたり、道は間違っていないはずだ。
記憶では綺麗な緑と少量の建物がある魅力的な田舎町だった場所は、現在では無惨に破壊された建物の残骸と、雑草一つ生えていない荒野が広がっていた。
そんな荒廃した景色の中に、建物の二階部分から上が崩壊している他よりも一際大きな残骸が姿を現した。
「『さあな』って……。そんなので本当に大丈夫なの?」
「問題ない。ここが目的地だ」
その残骸の近くに車を停めると、エンジンを切って外に出る。
遅れて助手席から沙希が降りると、俺は車の鍵を閉めて大きな建物の入口“だった”場所へと向けて歩き始めた。
「ねぇ、本当にここで合ってるの?」
普段は強気な口調の沙希だが、今日は声に元気がない。
「いつもは戦場まで黙ってついてくる癖に、今日はやけに疑り深いな。何か心配な事でもあるのか?」
「心配なんか……いや、別に……」
俯いたまま、消え入りそうな声で呟いた沙希を一瞥する。
「別に嫌なら車で引き返していいぞ。もう俺には必要ない物だ」
沙希は俺の放り投げた車の鍵を受け取りはしたが、相変わらず黙ったまま俯いて直立している。
このままでは埒が明かないので、さっさとに目的を果たそうと考えて再び建物の入口へ振り向くと、背中に声がかかった。
「……待って! 一つだけ確認させて」
先程までとは異なり、怒気を含んでいるような声色を耳にし、悠々として動作で背後を振り向いた。
顔を上げて俺を見つめる沙希は、いつになく真面目な表情を浮かべている。
「なんだ?」
「フォックスは結局どうやって死ぬの?」
――何故そんな事をまた聞くんだ?
それを聞かれるのは、これで二度目だった。
数日前、不死身の体を死に至らしめる方法を思い出した俺に、沙希が『どうやって死ぬのよ?』と訊ねてきた。
死ぬ方法はたった一つ。俺を不死身の体に造り替えた張本人である、言わば親とも呼べる存在が残した薬の投与による自殺である。
記憶の中の親が言うには、不死身の体の根幹を成しているのは特殊な細胞であるらしく、死ぬためには細胞を壊死させるより他にないとのことだ。
親の残した薬とは、その不死身の細胞を自壊させるウイルスであるらしい。
薬の形状は、日本中のコンビニエンスストアでも売られているような錠菓――つまりはタブレット菓子や処方される錠剤などと酷似していたと記憶している。
質問を投げかけた沙希には、それらの事を包み隠さず全て教えたはずだが、何故今更同じ内容を訊くのだろうか。
そう疑問に思いはしたが、既に自殺する事以外に興味を失っていたため、沙希の考えている事を推測する気は起きなかった。
「予定通り薬の投与によって細胞を自壊させ、肉体の崩壊によって死を迎えるはずだ。といっても、薬を飲んだ後にどうなるかは具体的には分からん」
なので、数日前の話を簡潔にまとめて喋っておいた。
説明を受けた沙希は、『そう』と不安げな表情を浮かべたまま答えると、今度こそ入口へと向かって歩き出した俺の後ろを黙ってついてきた。
外側から見ていた時には何もかもが破壊されているだろうと思っていたが、意外にも建物の中は天井こそ剥がれ落ちてはいるが、ある程度当時の状態のまま形を残している部屋が幾つかあった。
逆に言えば、殆どの部屋は瓦礫の掃き溜めとなっており、進入するのは困難な状態である。
――本当に、薬は残っているのだろうか。
親は確かに言ったはずだ。俺の死に場所を用意しておいてくれると。
しかし、時間が経ちすぎてしまった。
百年もの歳月の過程でこの地は戦火に包まれ、建物も戦争という暴力によって破壊されてしまった。
――遅すぎたのかもしれない。もう、永遠に生きるしか道はないのかもしれない。
そんな考えが頭によぎった時、足裏に伝わる感触に違和感を覚え、意識を集中させた。
視線を落とすと、足下の床だけ周囲の白色に比べて若干淡い色をしている事に気がつく。
身を屈めて異質な床を調べると、濃い色と薄い色の境目に小さな窪みを発見し、そこに指を引っ掛けて床を持ち上げようと試みると、拍子抜けするほど軽く床が地面から剥がれた。
――これは――
床のあった部分には、大人ひとりが入れる大きさの鉄製の扉があった。
即座に扉の取っ手を握り引っ張ってみたが、微動だにしなかったため注意深く扉の表面を観察してみると、取っ手の横に小さな穴を発見した。
前方後円墳を模した形の穴は、恐らく誰もが鍵穴だと推測するだろう。
例に洩れずそう判断した俺も、鍵を探すために立ち上がろうとした。
その時、頭頂部が何かと接触し、直後に背後から声が響く。
「いたっ! ちょっと、なんで急に立ち上がるのよ!」
「いや、それよりも重要なのはどうして沙希が俺の背後に立っているか、だと思うが」
「はいはい、あたしが悪かったわよ。そんな事よりほら、その扉を開けるために必要なのってこれなんじゃないの?」
沙希は顎を右手で摩りながら、鉄製の小さな箱を差し出した。
受け取った箱の蓋を開けると、小さな空間の中にぽつんと寂しげに、入れ物と同じ鉄製の鍵が転がっていた。
「どこでこの箱を見つけたんだ?」
「すぐそこの部屋よ。この辺りを調べてたらたまたま目について拾ったのよ」
沙希からその言葉を聞いた時、不意に彼女と出会った日の事を思い出した。
『俺を殺してくれないか』
あの時、確かに俺は彼女にそう言った。
もし、この鍵で開けた扉の向こうに自殺するための薬があるならば、俺は沙希の手によって殺された事になるのだろうか。
――いや、遅かれ早かれ俺も鍵を見つけたはずだ。
それに、俺は自分の手で死ぬのであって、人の手によって殺されるわけではない。
鍵を穴に差しこみ、半回転させる。
何かが外れる音を耳にすると、再び取っ手を握って徐々に力を入れて引っ張る。
すると、全く動かなかった扉が軋む音を立てながら開いてゆき、やがて扉が開ききると地面に大きな穴と長い階段が姿を現した。
俺は一切声を発せず、ただ無言で暗闇へと続く穴の中へ足を踏み入れようとした。
「待ってフォックス。扉の後ろに懐中電灯が付いていたわよ。これ、使った方がいいんじゃない?」
沙希が手に持っていた小さな懐中電灯を受け取り電源を入れると、階段が予想外に地下深くまで続いている事がわかった。
「ありがとう沙希。ここからは俺一人で行く。これでお別れだ、今まで――」
「駄目よ! あたしは最後までついていくわ! それに、ほら。懐中電灯だって丁度二つあるわ」
強引に話を遮った沙希が俺の持つ物と全く同じ懐中電灯の電源を入れると、暗闇を照らす眩しい明かりが二つに増えた。
「……好きにしろ」
こうなると沙希は何が何でも意地を通そうとする。
……ならば、最後を彼女に看取ってもらうのも悪くないかもしれない。
俺と沙希は、遥か下まで続く階段を下り始めた。
外気の温度が下がっていくのを感じつつ、手にした光源で次に自分が足を乗せる段を照らしながら、一段ずつ慎重に下りていく。
ひたすらに次の段を探しては地下へ向かって下りる作業を繰り返していると、突如として次の段が無くなった。
それに気づくと、光源の照らす先を徐々に上昇させてゆき、周囲の壁を隈なく照らし出していく。
すると、行き止まりの一角に入口と同じような扉を発見した。
静かに扉へ近寄り扉の取っ手を引くと、先程と同じような軋む音を暗い地下の空間に反響させながら扉が開いた。
扉の先にあったのは、三畳ほどの広さの狭い部屋。
部屋の真ん中には古びた木製の机が設置されており、机を挟んで対面する形で同じように古びた木製の椅子が一脚ずつ置かれていた。
扉の前に立って部屋の中を隅から隅まで照らしてみると、机の上に地下室へと続く鍵が納められていた箱と同じ物がある事に気づく。
備え付けられていた片方の椅子に腰を下ろして机の上にある箱へ片手を伸ばすと、反対側の椅子に沙希が腰を預けた。
向き合う形で座った事により、前方を光で照らすとお互いに目が眩んでしまうため、自分の持っていた懐中電灯を机の上に立てると沙希に彼女の持つ懐中電灯の電源を切るよう指示した。
沙希が黙って指示に従うと、周囲は更に薄暗くなったが、幸い対面に座る彼女の表情程度ならば確認できるだけの明るさが保てた。
沙希は眉をひそめ、俺が片手に持った箱を凝視している。
「開けるぞ」
「……待って」
意を決して箱の蓋を外そうとした時、地下に入ってから一言も発していなかった沙希が声を上げた。
「フォックスはあたしに初めて会った時に言ったわよね? あの約束、今こそ果たしてあげるわ。その箱をあたしに開けさせて」
言い終わった後も、彼女は俺が手に持った箱を見つめ続けている。
――まあ、いいか。
長すぎた人生がもう少しで幕を閉じるのだから、他人に箱を開けさせるくらいの手間を惜しむ必要はない。
箱を机の上に戻すと、沙希は両手でそれを掴んで自分の胸元へと寄せた。
「……じゃあ、開けるわよ」
沙希が手に持った箱は、彼女の手によってゆっくりと丁寧に蓋が開かれた。
蓋が開ききった時、突如として机の上の懐中電灯が倒れ、狭い密室の大半が暗闇に覆われる。
「ちょ、何よ!」
暗闇の中で沙希が甲高い声上げる。
幸い懐中電灯は電源が入ったまま机の上に倒れていただけだったため、すぐにそれを元通り立てると、明らかに不安げな表情を浮かべた沙希の顔が照らし出された。
「何なのよ、もう。ここ本当に大丈夫なの? 何か怪しい力でも働いているんじゃない?」
「あまり揺れた感じはしなかったが、地震かもしれんな」
この国は本当に地震が多い。そんな国で百年以上生活していれば当然揺れる事に対しての耐性が身についてしまい、弱い地震が発生した際に敏感な反応ができなくなってしまうのも仕方がない。
……しかし、そんな事はもうどうでもいい話だ。
「そんな事より、箱の中身を出してくれないか」
「――これよ」
素直に要望を聞き入れた沙希は箱の中から手を引き抜き、握った拳の掌を下へ向けた状態で机の真ん中に移動させてから拳を開いた。
その後、沙希が掌を机の上から退けると、影になって隠れていた部分には日常生活でもよく目にするジッパー付きのビニール袋と、袋に入った二粒の白い錠剤が現れた。
俺は机の上に置かれた薬を袋ごと手に取ると、慎重にジッパーを開けて中身をもう片方の掌へと載せた。
「沙希、先日話した通り、俺の所有している全財産は全てやる。家も、土地も、車も金も全て自由に使ってくれ。この地下を出る頃には、俺の物は全て沙希の物だ」
沙希は、澄んだ瞳に俺を映しながら、小さく頷いた。
「それと、約束を為し遂げてくれてありがとう。……さぁ、もう行け。ここに居ても仕方がないだろう」
正確には願いを叶える事に協力してくれただけかもしれないが、そう言っておいた。
沙希は自分の座っていた椅子を引くと、真剣な表情のまま立ち上がり、手に持った懐中電灯の電源を入れずに微かに照らされていた扉をゆっくりと押すと、暗闇の中へ姿を溶かしていった。
「さようなら、イモータル・フォックス」
彼女の声が聞こえてから数秒後、戸が閉まる音が周囲に響くと、部屋の中には完全な沈黙が訪れる。
机の上に置いた懐中電灯の電源を切ると、今度は完全な暗闇が訪れた。
完全な沈黙に完全な暗闇。それは、睡眠している時の状態に限りなく近い。
俺が昔考えていたように、覚める事のない睡眠こそが死であるならば、この状態がまさに限りなく死んでいる状態に近いのかもしれない。
しかし、そう思考できるという事は、俺はまだ生きているのだろう。
――だがそれも終わる。
掌に載せていた二つの塊を口に含むと、咀嚼せずに一気に飲み込んだ。
細胞が自壊していく過程で経験した事のない痛みに襲われるのではないかと思っていたが、予想に反して妙に心地よい眠気だけが俺の感情を支配していく。
瞼が重くなっていく事を感じながら、俺は自然とこれまでの人生を振り返っていた。
――戦争で多くの人間を殺してしまったが、俺は正しかったのだろうか。
――結局、俺が生きていた意味とは何だったのだろうか。
――沙希は本当に成長した。会った時はまだ内面も含めて幼かったな。
――沙希は立派な人間だ。親などいなくとも、子供は成長できるんだな。
――思えば、沙希と一緒に暮らし始めてから楽しい事ばかりだった気がするな。
――沙希は、無事に帰れるだろうか。それだけが、最後の――
不安を抱えたまま、俺の意識は唐突に消滅した。