プロローグ
あまりに無惨な姿に変貌した街を、足音を殺して静かに歩く一人の男。
間違いなく凄惨と表現できる光景の中、彼以外に“動く”人影は無い。
セメントコンクリートで舗装された地面には無数の血痕と多数の死体が転がっており、周囲には死臭と硝煙の臭いが立ち込めている。
加えて、地面より伸びた高層ビルの窓ガラスは大半が乱暴に割れており、足元には無数の破片が散乱している。
そこは、紛れも無い地獄だった。
世の終焉を思わせるかのような惨い場所を、男は目的も無く逍遥する。
別段、今回が特別なケースではない。
男は一つの戦争が終わる度に、自分の赴いた戦場を再び訪れていた。
……それは、何故か――
突如、沈黙していた空気を切り裂くように、短い爆発音が響いた。
さらに一瞬の後、響いた音は爆発音ではなく拳銃の発砲音である事を理解した。
同時に、右肩に発生した微弱な痛みを感覚神経が脳に伝達する。
反射するように痛む箇所を左手で摩ると、赤黒い液体が掌全体に付着した。
「なるほど、撃たれたのか」
銃声の聞こえた方角へ体を向けると、上は灰色、下は紺色の服を着用した若い男の姿があった。右手には黒色の拳銃が握られている。
その銃身は絶え間なく震えていた。
銃口から二発目の弾丸が射出される。当然だが、銃身がぶれているため、風切り音を立てながら意図しない方向へ飛んでいく。
若い男は、声を震わせながら一声を上げる。
「あ、あんた、まさかイモータル・フォックス……」
「そう呼ばれる事もあるが、そんな事はどうでもいい。おい、お前。戦争はもう終わったんだ、敵同士だったのはもう過去の事だ。銃を向けるんじゃあない……っておい!」
男が肯定すると、若い男は話の途中で背中を向けて、悲鳴を上げながら何処かへ駆けていってしまった。
若い男の気配は随分前から感じていた。それでも気にしなかったのは、彼が自分の脅威足り得ないからに他ならない。
もっとも、発砲してくる事は予測していたが、あれほど長い間逡巡されるとは思っていなかった。
ふと気づくと、右肩の貫通射創は既に塞がっていた。
痛みが引いた頃、若い男とは別に感じていた“もう一つの気配”に動きがあった。
此方の気配は、自分の脅威足り得るのか、そうでないのかすら分からない不思議な雰囲気を放っていたので、多少は警戒していた。
それが功を奏し、気配の変化に即座に反応できた。
――すぐ側にいる。
「動かないで」
背後から声をかけられた。声色だけ聞けば、背後に立っている人物の性別は女性だと予想できる。
しかし世の中には知らない事が多すぎる。無知より怖い物は存在せず、仮定という不確かな物を用いて憶測しても何の意味もない事は明らかだ。
男は命令に反し、後ろに立っている人物の性別について思考する事を止め、俊敏な動作で振り向いた。
「ちょっと! 動かないでよ! 撃つわよ!」
結論を言えば、荒げた声を上げた人物は女性のように“見えた”。
しかし、物事とは決め付けてしまう事によって視野を狭めてしまうのが常だ。
膨らんだ胸部と華奢な肉体を見れば、女性である確率は高いように思えるが、確信に至るためにはまだ情報が足りない。
情報不足とは、即ち弱みである。
弱みは、少ない方が何事も有利だ。
「お前は、女か?」
「…………はぁ?」
緊張で固まっていた頬を少し緩め、眉尻を少し上げた目の前の人物が呟いた。
『はぁ』。これが質問に対する答えである。
『はぁ』。これが英語だとすれば、“彼女”という意味を示す。
「なるほど。遠回しに肯定をしたわけか。やはり女性というのは往々にして面倒な生き物だな」
「何言ってるのか全然わかんないんだけど。……って、動かないで!」
再び緊張した面持ちの女性が銃口を向ける。
その時点で、男は眼前に立つ女性を“脅威足り得ない”と判断した。
しかし別の意味で興味が沸いた。
女性の制止に構う事無く、十メートル程あった間合いを散歩する時と変わらない静かな足取りで詰めていく。
「ちょ、ちょっと! あたしの話聞いているの!」
やがて、戸惑う女性の目の前に辿り着くと、優しい動作で両手で構える銃を掴む。そのまま親が子供の玩具を取り上げるのと同じように、女性の手から銃の没収を試みると、意外な程あっさりと奪えてしまった。
拳銃を奪うと、女性は全身から力が抜けてしまったらしく、その場に膝から崩れた。
「……な、なんで近寄ってきたのよ」
「本当に殺意があれば脅しなんてしない。先程の男がそうだったようにな」
「あっ、そういえばあんた撃たれたんでしょ? あれ、でも傷が無い……」
「そんな事どうでもいいだろ。お前、一体何が目的だ」
後をつけてきた以上、何かしらの目的があるはずだろう。ましてや、発砲する気がなかったとはいえ銃口を向けたのだ。「気まぐれでした」なんて事があるはずもない。
理由を問うと、女性は逡巡する事なく、即答した。
「あんた、優秀な兵隊なんでしょ。だったら、あたしを養いなさい」
「……自分が何を言っているのか、理解できているか?」
「イモータル・フォックス。あんたの事なんでしょ。優秀な兵隊ならお金だってたくさん持っているんでしょ? なら、あたし一人分の食い扶持を確保するくらい、容易でしょ?」
――その名を知っていながら、肩の傷が何故治っているのか知らないのか。
『イモータル・フォックス』。生きる伝説と称する者も居れば、悪魔、或いは人外と罵る者もいる。そして、それらは全て一人の男に向けられる言葉だ。
赴いた戦地で暗躍し、狡猾な手段で敵軍を翻弄する。
それだけならば、唯の“フォックス”だろう。
しかし、男は無敗だった。
どれだけ不利な状況でも、例え一人で敵軍の本拠地へ乗り込んでも、必ず生還するような常識外れだった。
故に、“不死身の狐”という呼び名が生まれた。
「……ねぇ、聞いてるの? 聞いてるなら答えてよ! 養ってくれるの? くれないの?」
なんという質問だ。傍から聞いていれば、思わず『頭のネジでも落としたのかい?』と問いたくなるような言葉だ。
「いいだろう。そこまで言うなら養ってやる。とりあえずついて来い」
――だが、やっと見つけた。
少々尋ね方に難はあったが、この女性を見つける事こそ、男が戦場の跡地を訪れていた理由だった。
男は、女性の横を素通りし、来た道を戻っていく。
「え、ちょ! 待ちなさいよ!」
その後ろを、血痕の付着した白地のシャツと丈の長い紺のスカートを着用した女性が靴を鳴らして追いかけていく。
不死身と呼ばれた男には、一つの願いがあった。
死にたくても死ぬ事を許されない男の願った一つの夢。
それが自分で叶える事ができればどれだけ良かったか。
文字通り、死ぬ事ができない男には、その単純な願いを叶える事はできない。
ならば、他人を頼るより他にない。
だから、自分を殺せる人間を探し続けた。
長い間身近にいれば、きっと弱点の一つくらい見つかるだろう。そういった安易な考えから辿り着いた結論だった。
男は、いつの間にか隣に並んで歩いていた女性に声をかけた。
「なぁ」
「ん……何?」
「お前、俺を殺してくれないか?」