保健室
朝から降り出した雨は昼になる頃には土砂降りになっていた。空になったお弁当箱を片付けながらぼんやりと外を眺め、そういえば雨なんだから体育館で授業になるかもしれないのだということに、その時ようやく気付いた。
そして予想通り前の黒板には、体育委員が書いたものと思われる「六限目の体育は体育館へ」という文字があった。
いつもなら男女別々の体育の授業が、今日は久しぶりに同じ場所になる。なんとなくうきうきする気持ちを周囲に悟られないように、平静を保つふりをした。つもりだったんだけれど。
「くーこさん、嬉しそうですねえ」
「口元がにやけていますよねえ」
「いやらしいですよねえ」
「えっちですよねえ」
同じクラスで仲のいいきょーこちゃんと恵那ちゃんが、にやにやと笑いながら私の顔を覗き込んできた。
「にやけていないし、えっちでもいやらしくもありません」
つん、と顔を背ける。
「せっかく男子と一緒だというのに、素直じゃありませんねえ」
「素直じゃない女の子は嫌われますよねえ」
「いい加減、その喋り方やめてよ。気持ち悪い」
この二人、私の友達のはずなのに、私をからかうことを楽しむ傾向が強い。いちいち反応して慌てたり狼狽えたりする私が面白いらしいのだけれど、こちらはいい迷惑だ。
「せっかく面白いのにー」
二限目の開始を告げるチャイムが鳴り響き、ようやく解放されてほっとした。悪い子達じゃないんだけどなあ。
雨が降ったからといって、必ず男子と女子の体育が一緒になるとは限らない。強制的に体育館に移動させられる男子とは違って、女子はその時々で卓球場で卓球をすることになったり柔道場でストレッチや基本トレーニングだけになったりすることがあるからだ。詳しくは分からないけれど、元々二クラス合同の上、他の学年との兼ね合いなんかもあるらしいとのこと。 男女で体育館の右と左に分かれてはいるものの、準備運動の後のランニングは女子の外周を男子が走ることになる。走るペースが違うから、必然的に何度かは男子に追い抜かれる形になってしまい、その都度仲がいい男女は声を掛け合ったりすることが多い。もっとも、体育教官に見つかるとお小言をいただくことになってしまうのだけれど。
「ラッキー。先生たち、教官室に行っちゃったよ」
「滅多にないチャンス! 橋本君をじっくり堪能しなくっちゃ」
何人かの女子の口からそんな言葉とそれに呼応する言葉が零れた。
橋本君というのは私たちの隣のクラスの男子で、男子バスケットボール部の副キャプテン。一七三センチメートルとバスケットをするには少し身長が低いけれど、それをカバーして余りある努力でレギュラーを勝ち取っていた。男っぽいというよりも綺麗な顔立ちで、加えて長めのヘアスタイルが似合うアイドルタレントのような人。当然女子からの人気は高く、学内でもけっこうもてる方らしい。
らしいというのは、きょーこちゃんからの情報で知ったことだったから。彼女は驚異的に、そういった世情に詳しいのだ。
昨年橋本君と同じクラスだった私は、きょーこちゃんとは対照的といっていいほどにそういうことには疎かった。うっかり綺麗な顔に見惚れていたところを恵那ちゃんに見られて、以来二人から何かにつけてからかわれてしまうのだ。
「あ。男子が来たよ」
誰かの声で、体に緊張が走る。できるだけ自然に。平静を装って走らなくちゃ。そう言い聞かせているのに、体が言うことを聞いてくれない。
後ろの方がざわめく。一気に緊張が高まり、走っている最中にもかかわらず足を出す順番が分からなくなった。そして見事に転倒してしまいさらには私の後から来た女子に捻った足首を踏まれて、声を上げることもできずに床に転がった。
「くーこさんっ!」
周囲で女子の悲鳴が上がる。ああ、またドジやっちゃったかも。誰かを巻き添えにしていないかが気になるけれど、起き上がることもできない。
なんだか背筋に嫌な汗が流れている気がする。
「くーこさん、大丈夫っ?」
きょーこちゃんと恵那ちゃんの声が聞こえるけれど、唸ることしかできなかった。
さっきまで聞こえていたたくさんの足音が、まばらになっている。なんだか、私の周りを囲まれているらしい。体育教官が近づいてくる大きな足音も聞こえる。
「先生、俺、保健室に連れて行きます」
不意に体が浮いたような感じがしたと思ったら、体の片側が温かくなった。もしや抱き上げられているのだろうか? そう思うけれど、確認することができず、目を閉じている。耳に届く黄色い悲鳴が何を意味するのか、分かるけれど分かりたくなくて、気付かないふりをした。
右足首に激痛が走った。
「ああ、また見事に捻ったもんだなあ」
保健医ののんびりとした声をこれほど恨めしく感じたことは、今までなかったかもしれない。口調とは正反対に、容赦のない手つきで足首をぐりぐりと曲げ伸ばしされるもんだから、その痛みたるもの半端じゃないというのに。
「荒療治だが、我慢しろよー」
必死で歯を食いしばる。目に涙が浮かぶのは不可抗力というものだろう。
「ほい。これでよし。応急処置はしたけど、骨に異常がないかどうか医者に診てもらえよ。あと、すぐに動くのは無理だろうから、少し休んでいろ。担任にはせんせーが連絡しておくから」
その言葉に目を開けると、保健室から出て行く白衣の後姿が見えた。包帯を巻かれた足首は、先ほどよりは痛みがましになった気がする。いつの間にか処置が終わっていたらしい。いつもとぼけているけれど、腕だけはいい先生だなあと感心する。
「これ、夜にはゾウの足になるぞ」
不意に耳元で声が聞こえて、びっくりして飛び上がりそうになった。足が痛いから実際には無理だったけれど。
「なんだよ、その反応は? 傷つくなあ」
聞き覚えのある声に恐る恐る振り向く。
「うっ、きゃあっ?」
至近距離にあった顔に、慌ててキャスターつきの椅子ごと後退った。
「その反応はなんなんだよ」
「だ、だだだだってっ。ってか、そんなに顔を近づけないでって言ってるのにー!」
目の前には、隣のクラスの人気者、橋本君がいた。予想していたとはいえ、こんなに近くでこの綺麗な顔を見るのは、心臓に悪いとしか言いようがない。
「お前ね。それが体育館からここまで運んでやった人間に対する態度か?」
「は、はいいっ? 運んでって、橋本君が? 私を?」
さっきの黄色い悲鳴を思い出し、予想が当たっていたことを理解する。ああ、でもじゃあ皆があれを見ていたって事で。頭の中がパニックになりそうだ。
「そう。お姫様抱っこってーの? こう、抱き上げて」
こう、とか言いながら背中と膝の下に手を回されて、焦ってついうっかりと立ち上がってしまった。捻挫している足で。
「い、いったー、いいいいいっ」
「おま、バカ! そんな足で立ち上がるな!」
「だって橋本君があ」
恨みを込めて涙が滲んだ目で睨み上げると、橋本君はなぜか口元を手で覆って顔ごと視線を逸らしてしまった。なんだか失礼よね、なんて思いながらも、痛みでおかしくなりそうだとか考えている私はのんき者かもしれない。
「ったく、目の前ですっ転んでくれて、こっちの身にもなってみろよ」
「あー。ごめんなさい。余計な手間、かけさせちゃって」
すぐ後ろに橋本君がいるんだと思ったから、緊張で足がもつれちゃったんだよ。とは、さすがに恥ずかしすぎて言えない。でもわざわざ保健室に運んでくれたんだから、やっぱりお礼は言っておくべきだと思う。
「その。ここまで運んでくれて、ありがとう。重かったでしょ」
「いや、ぜんぜん軽かった、って、そうじゃないだろ」
半ば抱えるようにして椅子に戻してもらいながら至近距離で見た橋本君の顔は、やっぱり女の私よりもずっと綺麗だ。でも心なしか機嫌が悪いような気がするのは、どうしてだろう。
「手間とか面倒とかそういうんじゃなくて」
ぼんやりと見惚れていたら、私のほっぺたに橋本君の少し冷たい手のひらが触れた。
「びっくりして心臓が止まるかと思った」
いえいえ。今の私もびっくりしています。 足さえ痛くなければ飛び上がったと思います。
そのまま頭を胸元に抱き寄せられてしまい、動悸は激しくなるし顔が熱いしで、恥ずかしくて死にそうになる。
「お前、本気で鈍いのな」
確かに鈍さには自信があるけど、そんなに感情を込めて思い切り溜息つかれると、私が悪いことをしているみたいな気になってしまう。
「あんま、心配させるなよ」
ああ、なるほど。そういうことなのか。
それにしても。切なそうなのになぜか目元が赤くなっているように見えるのは、もしかして照れているんだろうか。まさか橋本君に限ってそんなことあるはずがないか。
「お前、なんか失礼なこと考えてないか?」
「いえいえ、滅相もない。それよりもこの手、はなしてもらえないかなーと」
「だーめ。心配した分のお礼、もらってないからな」
そう言ってにやりとつり上がった口元に、なぜか嫌な予感を感じる。
「え。あ、そうだよね! 心配してくれてありが」
全部を言い終わる前に、唇を塞がれてしまった。とっさのことに目をつぶるのも忘れて、目の前で揺れる橋本君のまつげと前髪を呆然と見つめた。
「間抜けな顔」
その声に我に返り、一気に頭に血が上る。
「わ。あ、な、何するのよーっ!」
「何って、キス?」
なんで疑問形なんだろう。いやいや今はそんなことよりも。
「だ、だから、学校でこんなことしないでって言てるのにー!」
「いいじゃん。誰もいないんだから」
そういう問題じゃないって叫ぼうとしたら、またしても不意打ちで重ねられる唇。
「くーこを黙らせるには、これが一番だよな」
「うー」
「なに? 誘ってるの?」
「誘ってないー!」
「そんな目で見られたら、俺、理性に自信がなくなるよ?」
恥ずかしさで涙が滲んできてしまう。
私のそんな気を知ってか知らずか、橋本君は涼しい顔をしている。いいように扱われてしまうのはいつものことだけれど、やっぱりくやしい。
「じゃ、俺、体育館に戻るから。雨上がったし、帰りは俺のチャリで送るぞ」
ちょっと待って。そんなことをされた日には、橋本君のファンの女の子たちからどんな目で見られることか。考えただけでも、背筋が冷たくなる。だからこそ、つきあって二ヶ月にもなるのにそのことを隠しているんだから。知っているのは、きょーこちゃんと恵那ちゃんくらいなものだ。
「ええっ? いいよ、お兄ちゃんに迎えに来てもらうから」
私には、大学生で隆弘という名の兄がいる。朝から雨だから、どうせ今日は自主休講にして、家でごろごろしているはずだ。
そう言ったら、橋本君は明らかに機嫌を損ねた怖い顔をした。
「ここで俺に襲われるのとチャリで送って行くの、どっちがいい?」
「ど、どっちも遠慮したい」
橋本くんは一瞬むっとしたような表情になり、けれどそれもすぐに消える。
「あ、そう。じゃ、隆弘さんに迎えに来てもえらば」
怖い。笑顔なのに怖い。お化け屋敷よりも怖いかもしれない。
その時、担任への連絡を済ませたらしい保健医が戻ってきてくれた。その姿が天使のように見えたのは、決して気のせいじゃないと思う。
「せんせー、俺、授業に戻りますねー」
「おー、ご苦労さん。んじゃこれ。この時間、川田はこのまま休ませておくから、体育教官に渡しておいてくれ」
差し出された紙切れを受け取るために手を伸ばしながら橋本君が耳元で囁いた言葉に、ようやく引いたばかりの頬の熱が復活してしまった。
「その代わり、週末は覚悟していろよ?」
楽しそうに笑顔でスキップまでしそうな勢いのその後姿を、ただ呆然と見送る。覚悟って、なんの覚悟?とは、恐ろしくてとても聞き返すことができなかった。