現実主義者と享楽主義者
四月二十八日
「あの、荻月梨穂って知ってますか?」
今度は男子が、女子に話しかけていた。視線だけを男子に向けて女子は答える。
「知ってるけど……。宮くん、今日も何だか不機嫌そうだね」
「……そんなに不機嫌そうに見えますか、俺」
訊ねた男子―――朝倉宮史は、先日と同様の指摘を受けてしかめっ面で聞き返した。無表情を不機嫌そうと誤解されるのは宮史にとって甚だ心外である。とはいえ、こう何度も指摘されている以上、少なくとも勘違いされるという事実からは目を背けるわけにもいくまい。何らかの対策を講じる必要性を感じていたのだが
「まあ大丈夫だよ」
ニコニコと笑う女子が宮史の懊悩をそんな一言で笑い飛ばす。ただ、一体何がどう大丈夫なのかは宮史にはわかりそうになかった。きっと彼女にもわかってないのだろうなと思ったりもした。
「……ああそれで、千弥子さん。荻月梨穂のこと知ってるんですか?」
「うん」
対策についてはさて置くことにして、改めて訊ねると、女子―――茶木千弥子は事もなげに答えた。が、
「放課後の乙姫さんのことでしょ?」
その答には意味不明の単語が含まれていた。
宮史が荻月梨穂のことを訊ねるに至った原因は、言うまでもなく先日の質問に対する回答である。回答に載っていた連絡先にメールを送った宮史の元に返ってきたのはたった一言
明日、集合場所と時間をお知らせします
とのこと。それ以上はコンタクトを図ろうとしても梨のつぶて。一切取り合ってはくれなかった。
そして本日、もうじき正午を回るというのに肝心の集合場所と時間はまだ知らされていない。ポイントを払った以上、このままとんずらされた日には目も当てられない。不測の事態に備えて、宮史は荻月梨穂という人間について調べてみることにしたのだった。
「放課後の…………、なんですか?」
「放課後の乙姫だよ。知らない?」
それが初っ端から「放課後の乙姫」である。宮史は言葉の意味を考えることさえ横着して千弥子に訊ね、そんな宮史を彼女は意外そうな目で見ながら聞き返した。
「知りません。何です、それ」
宮史はそんな珍妙な呼び名を持つ奇人変人に心当たりなどない。むしろあったなら、そしてそれが荻月梨穂だというのなら、宮史としては積極的に関わりたくないのが本音である。
「渾名みたいなものかな。他にも色々あるよ。図書室の妖精とか、屋上の天使とか…………。あと何があったかな……」
「それを言うなら図書館の妖精じゃないんですか?あと屋上は立ち入り禁止だった気が……」
「細かいことは気にしない気にしない」
千弥子が連発する摩訶不思議な呼び名にとてもじゃないがついていけない宮史。ついていけないが現実的な指摘だけは忘れていない。あっけらかんと笑う千弥子に宮史は続けざまに質問をする。
「すると、有名人なんですか?」
「割とねー。学内のどこかにいて、悩みやら愚痴やら何でも話を聞いてくれるんだってさ」
「聞くだけですか?」
「いや、興味本位で手助けしてくれたりするらしいよ。面白い話をすると面白い話をお返ししてくれることもあるとか。…………あと一個渾名があったはずなんだけど」
「何ですかそれ……」
次から次へと出てくる奇妙奇天烈な噂に混乱極まる宮史はそんな感想しか紡げない。
「噂は他にもあるよ。一日三回見ると不幸になるとか……」
「それじゃ同じ授業の人は高確率でアウトじゃないですか」
それでも現実的見地からの駄目出しには抜かりない。
「細かいことは気にしなーい。………………あと一個」
「まだ考えてるんですか。細かいことは気にしないんじゃ……」
「気にしなーい」
その後も宮史は荻月梨穂についてあれこれと訊ねてみたが、千弥子も噂でよく耳にする程度でそれほど詳しく知っているわけではないということがわかった。特別親しい人間にも心当たりはないらしい。
「ところで千弥子さん。一つ頼みたいことがあるんですが」
不可解な荻月梨穂の噂に現実的指摘を入れる宮史を見て、渾名をもう一つ思い出そうとしながら千弥子がからからと笑う。そんなやり取りをもう何度か行った後で、宮史はそう切り出した。
「ほいほい。何だい?」
かしこまる宮史に倣い千弥子は表情を改めてから答える。といってもにこやかなのは相変わらずだが。それには構わず宮史は要件を告げる。
「今月に入ってから事故に遭った学生を調べてほしいんです」
宮史は生活相談事務所の人間として、教職員からの依頼を受けることもある。第二図書室の管理もその一つだ。その場合、宮史は大学側から必要な情報を聞き出すことができるのだが、今回の件は学生自治会からの依頼であり、大学側は一切関知していないのだという。そうなると、宮史は大学から事務所の人間ではなく一生徒としての扱いを受けることになる。仕方なしに宮史は独自に、あるいは人伝に情報を集めなくてはならなかった。
「事故?……ああ、そういえばここ何日かで事故があったね」
「ええ。で、その事故に例の落し物が絡んでいるそうなんです」
「そういうことなら、お安い御用だよ」
落し物と聞き、千弥子も事情を察したようである。少なからず真剣な面持ちになってから頷いてみせた。
快く了解してくれる千弥子に、失礼ながらも少々の不安を覚える宮史。
「頼んでおいてなんですが……。本当に大丈夫ですか?いくら学生自治会とはいえ、大学側が簡単に教えてくれるかどうかは……」
「大丈夫、大丈夫」
その言葉を遮ってかんらと笑う千弥子は、反らした胸を手で叩くという古典的な仕草を取りながら
「任しときなさいな!」
と言い切った。果たしてどこからその自信が湧き出てくるのか見当もつかなかったが、一応宮史は納得することにしたのだった。そうして二人の間に話題がなくなったかにみえたその時
「ああっ!」
千弥子が突然にそんな声を上げていた。それから嬉々とした様子で宮史を見る。
「何ですか?」
呆気にとられながらも宮史はとりあえず一言で千弥子に訊ねた。
「思い出したよ!最後のもう一個」
「もう一個?」
「荻月梨穂さんのもう一個の渾名!」
「…………まだ考えてたんですか」
こればかりは宮史も予想だにしなかった。そのうえ、どんな渾名を告げられるのかも想像できなかった。だが
「美術室の令嬢だよ!」
「キャンパス内に美術室はないですよ」
現実的な観点からの指摘だけは間髪いれずに実行することができた。これにはさすがの千弥子も言葉を失い、今度こそ会話は途切れてしまった。
楽「次はやっと出番だよ!」
悲「……うん。私、……頑張る」
享「いや、まだみたいですよ」
作者「あ、ほんとだ」
悲「…………」
現「むごい」