エピローグ 現実主義者と楽観主義者(1)
五月二十五日
「所長さんが風邪を引いた?」
朝。そう宮史に訊ねてくるのは、彼の隣を歩く千弥子である。
並んで歩く二人の様子は、まるで事故が起きた道路を見に行った時の焼き増しのようであった。ただし一つ、決定的な違いを挙げるとすれば、二人の表情にあの時のような険しさや憂いが少しも見られないことだろう。五月も終わる頃、事件の終結から既に二週間以上が経っているのだ。当然と言えば当然だった。
といっても、千弥子の目には相変わらず宮史の表情が何故だか不機嫌そうに見えるのだが。
そんな顔でも至って普通の口調で宮史が応える。
「ええ。このところ道路の見直しの件で働きずくめだったみたいで」
「なるほどね。……しっかし、宮くんのあの説教には驚いたなあ」
「説教のつもりはなかったんですけどね……」
事件解決後、宮史は千弥子に頼んであの事件に関わっていた美術サークルの人間を集めた。集められた彼らはもちろん、千弥子すら何が始まるのか分からない状況で、なんと宮史はいかに彼らの取った方略が短絡的かつ非現実的であったかについて散々講釈をしたのである。千弥子が言うところの『あの説教』とはこのことだった。
その末に、宮史は最も現実的な解決方法として『乙山市生活相談事務所に依頼すること』を彼らに提案したのである。
結果は、宮史の目論見通りだった。
依頼を受けた所長は、予てから住民から集まっていた道路見直しの要望に応えるのだから事務所の知名度が上がるだけでなく、それはもうたんまりと役所が報酬を寄越してくれるだろう、と意気込んだ。そのうえ、役所が長年目を瞑ってきた問題を解決して、その報酬を他でもない役所からもらう、という皮肉な構図は、常日頃から役所に対する文句の言い足りない彼女には大層魅力的に映ったらしく、金儲けと知名度上昇と鬱憤解消という一石三鳥の依頼に合理主義者は全力で取りかかったのである。
その働きぶりは宮史さえ舌を巻くほどで、既に道路の見直しはほぼ決定事項となっていたのだった。
「ねえ、そういえば宮くん。結局由美ちゃんはどうしていなくなったんだい?」
ふと、千弥子が宮史に向かって問いかけた。宮史は「ああ、確かに言ってませんでしたね」と申し訳なさそうに言った後で、
「一応口外しないってことでお願いしますよ」
と千弥子に釘を刺す。神妙な面持ちで念を押す宮史とは裏腹に、千弥子は笑顔のまま
「大丈夫。任せておいて」
と嘯いた。少しも逡巡の見られないその返答に不安を覚える宮史だったが、千弥子は依頼主であり、情報を提供してくれた人間でもある。何より平川由美とは知り合いだったのだ。知る権利はあるといえる。
宮史は千弥子の分も合わせたくらいに逡巡した後、口を開いた。
「……彼女はですね、駆け落ちしたんですよ」
それが、誰にも告げず、誰にも知られず、行方をくらませてしまった少女の真実だった。息を呑む千弥子に、宮史は説明を続ける。
「彼女は誰にも知られずに遠距離恋愛をしていたんです。それもかなり真剣に。ですがその関係を両親に許してもらえなかったんですよ。それで結局、二人だけで生きていくことを選んだんですね」
説明を聞き終えた千弥子は、どういった反応を示していいのかわからないようだった。ただ一つ、発することが出来た問いは
「その二人は、今どうしてるの?」
「なんでも、相手の男性の祖父が所有していた土地のある田舎で農業を始めたそうです。仲良くやっていたと荻月さんは言ってましたよ」
「そっか。なら大丈夫だね」
宮史の答に安心したのか、千弥子はうっすらとした微笑を浮かべた。その表情は妹である伽弥子の話をするときに時折見せるそれである。どうやら彼女にとっては、平川由美も、きっと峰祥子も、妹のように大切な存在なのかもしれなかった。しかしそんな貴重な表情も一瞬で、千弥子は苦笑気味に一言。
「……よく梨穂ちゃんはその二人を見つけられたね」
「……本人曰く『探偵みたいで愉しかった』そうです」
言葉を返す宮史は呆れ気味である。この事件を通して、噂に聞く放課後の乙姫の実態を目の当たりにした二人には、少なくともその享楽ぶりが常識の遥か外に存在しているという共通認識が芽生えていた。
「でもどうして恋人の存在に気がついたの?」
「由美さんの家を調べた時、彼女の部屋にはかなりの枚数が使われた便箋があったんです。友人に文通をしていたという人はいませんでしたから、相手が家族か恋人かと思いまして」
「梨穂ちゃんが二人のいる場所を突き止められたのはどうして?」
「彼女の家族に聞いたみたいですよ」
続く問いに宮史がさらりと答えると、千弥子が愕然とした声で言った。
「嘘。家族は知らないって言ってたのに……」
宮史も、調査を始めた段階で千弥子からそのように聞き及んでいた。
現「次回更新は三日後です」
享「次回更新が済んだらここ編集しなおすんですか?」
作者「しません」
現・享「しないんだ……」