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短編B-① 3『読後観測』 ―読者地図―「ノートを戻さなかった日」  作者: Taku


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3「ノートを戻さなかった日」

彼は、数年ぶりに本屋に立ち寄った。


特に目的があったわけではない。

仕事帰り、いつも通り駅に向かう途中で、ふと足が止まった。窓に並んだ新刊のディスプレイが、何かを見せているようだった。


彼は、そのまま通り過ぎようとして、やめた。そして、ドアを押して店内に入った。


店内は静かだった。照明は温かみのある色で、BGMがかすかに流れている。新刊の匂いが、懐かしく彼の鼻腔をくすぐった。


彼は、文学コーナーに足を止めた。昔はよく来ていた場所だ。でも、今はもう、何を買えばいいのか分からない。棚の背表紙を眺めながら、彼は自分の手が少し震えていることに気づいた。震えている理由は、自分でもよくわからなかった。


彼は、新刊の棚の前を通り過ぎようとして、一冊の本が目に留まった。表紙はシンプルだった。白い地に、黒い文字でタイトルが書かれている。


『彼女の計画』。


彼は、その本を手に取った。表紙の手触りが、少しだけ温かい気がした。特別な興味があったわけではない。ただ、手が伸びただけだった。


彼は、最初のページを開いた。数行読んで、少しだけ眉をひそめた。文体が、どこか懐かしかった。最初の数ページを読んだだけで、指が少し熱くなった。

自分がかつて書いていた言葉の感触に、似ていた。


それ以上は読まなかった。

買うには、少し重すぎた。

言葉の選び方、リズム、間の取り方。

もう十年以上前に自分が手放したものが、そこにあった。


彼はもう少し読んだ。

最初の章の、最初の数ページだけ。

ページをめくる指が、少しだけ震えている。彼は、その本に何かを感じた。

でも、その何かを言葉にするのは、難しかった。面白いと思った。

でも、その「面白い」の感じ方が、昔と違っていた。昔は、何かを吸収しようとしていた。でも今は、何かが戻ってくるのを待っているように感じた。


彼は、その本を閉じた。

買わなかった。

買うには、少しだけ重すぎる気がした。

表紙の感触が、まだ指先に残っている。

彼は、その本を棚に戻した。

本を置くとき、少しだけ名残惜しさを感じた。でも、それでも、買わなかった。


彼は、本屋を出た。

外の空気が、少し冷たかった。

彼はコートの襟を立てて、家へ向かって歩き始めた。その歩幅は、いつもより少しだけ遅かった。


家に帰り、彼は靴を脱いだ。

いつも通りだ。

でも、今日はなぜか、部屋の明かりをつける前に、押し入れの前に立った。

彼は、そのドアを開けた。

押し入れの奥には、段ボール箱が積まれている。何が入っているのか、もう忘れかけていた。一番上の段ボール箱を開けると、中には、古いノートが詰まっている。

十年前の、いや、もっと前のものだ。

埃をかぶっている。

彼は、そのノートを手に取った。

表紙はもう色あせている。

角は擦り切れている。

でも、そのノートの中には、彼の若い頃の言葉が残っている。


彼は、そのノートを机の上に置いた。

ペンは、まだ手に取っていない。

まだ書くつもりもない。

でも、そのノートを押し入れに戻すことも、もうしなかった。

彼は、そのノートをじっと見つめた。

十年前の自分の字が、そこにある。

若い。

熱い。

粗い。

今よりずっと愚かで、それでも生きていた。彼は、その字を指でなぞった。

ペンは握らない。

でも、そのノートが、そこにあるということは、確かに何かを変えたのかもしれない。


彼は、窓の外を見た。

特に何も考えていなかった。

ただ、そこに立っている。

窓の外には、街の灯りが広がっている。

彼はその光を見つめながら、自分の手のひらを見た。

何も持っていない。

でも、何かが残っているような気がした。

彼は、そのノートを明日も見るだろうか。あるいは、また押し入れにしまうかもしれない。

でも今夜は、そのノートを机の上に置いておくことにした。ペンは、まだ手に取っていない。書くつもりもない。


ただ、そのノートがそこにあるだけで、何かが変わった気がした。


【観測記録】


対象:匿名(読者C)

作品:『彼女の計画』

読了後経過:当日(数ページのみ)

観測項目:「読まない」という選択


特記事項:

彼は、本を最後まで読まなかった。

数ページで十分だと思った。

帰宅後、押し入れから十年前のノートを出した。

ペンは握っていない。

でも、ノートを閉じることも、もうしなかった。


その観測は、続いている。




―『読後観測』―読者地図―は各話を独立短編で投稿―


第1話「今日は、書かなかった」

https://ncode.syosetu.com/n9601mn/1/

第2話「赤ペンを置いた日」

https://ncode.syosetu.com/n9607mn/1/

第3話「ノートを戻さなかった日」

第4話「送信しなかった夜」

https://ncode.syosetu.com/n9615mn/1/

第5話「何も感じなかった本」

https://ncode.syosetu.com/n9621mn/1/

第6話「感想を書いた日」

https://ncode.syosetu.com/n9625mn/1/

また、「読者地図」にも「読後観測シリーズ」として同時投稿されます。


―――関連作品―――

『彼女の計画』

カフェ「あおい」で上司の裏アカを覗いた瞬間から、私の日常は狂いはじめた。


『読者地図』本編はこちら。

物語が届く/届かないのは、作品の問題ではないかもしれない。


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