第2章:カロルの森と前世の呼び声
王都から馬車で揺られること十数日。護送という名目ではあったが、実態はただの放置だった。与えられたのは、粗末な服とわずかばかりの食料、そして一枚の地図だけ。「これより先は辺境の地、カロル。二度と王国の土を踏むな」という言葉を最後に、私は人気のない街道に一人降ろされた。
目の前に広がるのは、どこまでも続くかのような鬱蒼とした森。「カロルの森」――王都では、魔物や獣が住み着く危険な場所として知られている。ここが、私の新たな生活の場。貴族令嬢のなれの果てとしては、実に相応しい場所かもしれない。
しかし、不思議と絶望は感じなかった。むしろ、森の空気が澄んでいて心地良いとさえ思う。これまでの人生がいかに窮屈だったかを、改めて実感させられた。
森の中へ足を踏み入れ、小川で水を飲む。硬い木の実を拾ってかじりながら、今後のことを考えた。まずは寝床の確保、それから食料の安定的な調達。幸い、公爵令嬢としての教育には、有事の際のサバイバル術も含まれていた。すぐには死なないだろう。
その日の夕暮れ、森の奥で獣の罠を見回っていた時だった。ガサリ、と背後の茂みが揺れ、鋭い殺気を帯びた何者かが飛び出してきた。
「グルルル……!」
それは、猪に似た牙を持つ、狼のような魔物だった。涎を垂らし、血走った目で私を睨んでいる。マズい。さすがに素手では勝てない。咄嗟に木の枝を拾って身構えた、その時。
ヒュンッ、と風を切る音と共に、一本の矢が魔物の眉間に突き刺さった。魔物は短い悲鳴を上げてその場に倒れ、動かなくなる。
驚いて矢が飛んできた方向を見ると、そこには一人の少年が立っていた。歳は私と同じくらいだろうか。日に焼けた肌に、狩人のものと思わしき革の服。手には弓を持ち、険しい表情でこちらを見ている。
「……あんた、何者だ? こんな森の奥で、そんな格好で」
ぶっきらぼうな口調。けれど、その目には警戒心の中に、わずかな戸惑いが含まれているように見えた。
「助けていただき、ありがとうございます。私は……レティシアと申します。事情があって、この森で暮らすことになりましたの」
私が貴族のようにカーテシーをすると、少年は怪訝な顔をした。
「……ふーん。俺はルオ。この森の狩人だ。まあ、死にたくなきゃさっさと森から出ることだな」
そう言って、彼は倒した魔物に近づき、手際よく血抜きを始めた。その無駄のない動きに見惚れていると、ルオは「腹、減ってんだろ」と呟き、魔物の肉の一部を切り分けてくれた。
「これを焼いて食え。今日のところは、俺の小屋に来い。夜はもっと危ない」
有無を言わさぬ口調だったが、彼の優しさが伝わってきた。私は素直に彼の申し出を受け入れ、小さな小屋で焼いた肉をご馳走になった。塩だけのシンプルな味付けだったが、空腹も手伝って、涙が出るほど美味しく感じた。
「……美味しい。こんなに美味しいお肉、初めていただきましたわ」
「そりゃどうも。だが、あんたみたいなのが、ここでずっと生きていけるとは思えん」
ルオの言う通りだ。私はサバイバルの知識はあっても、彼のような技術はない。このままでは、いずれ限界が来るだろう。どうすれば、この世界で一人で生きていける?
その時だった。
脳内に、閃光が走った。まるでダムが決壊するように、膨大な記憶と情報が流れ込んでくる。高層ビルが立ち並ぶ街。行き交う無数の人々。そして、白と赤を基調とした清潔な店舗。カウンター越しに、笑顔で「いらっしゃいませ!」と叫ぶ自分。ジュージューと鉄板で焼かれるパティの音、ポテトが揚がる香ばしい匂い、ケチャップとマスタードの鮮やかな色彩――。
(そうだ……私は……)
私は、レティシア・アルディナ・グレイスであると同時に、もう一人の人間だった。
現代日本で、一代でハンバーガーのファーストフードチェーンを築き上げた、敏腕経営者。その記憶が、今、この極限の状況で蘇ったのだ。
「……そうか。そうだったのね」
私は、目の前のルオと、彼が仕留めた新鮮な獣肉を見た。そして、小屋の外に広がる、豊かな森の恵みを思う。小麦なら、近くの村で手に入るかもしれない。塩もある。野菜も育てられるはずだ。
「この世界の食、遅れてるわね」
ぽつりと、口から言葉が漏れた。それは、経営者だった頃の私の口癖だった。非効率なもの、改善の余地があるものを見ると、つい口にしてしまう言葉。
ルオが「何言ってんだ?」と訝しげな顔で私を見る。
私は彼に向かって、にっこりと微笑んだ。それはもう、公爵令嬢の作り笑いではない。これから始まる途方もない事業を前に、武者震いする経営者の笑顔だった。
「ルオ。あなたに、お願いがあるの」
「……なんだよ」
「あなたの狩りの腕と、私の知識を組み合わせれば、きっとすごいことができるわ。私と、ビジネスを始めない?」
こうして、追放された悪役令嬢の、異世界での反撃が幕を開けた。
最初の武器は、この森で手に入る最高の食材と、私の頭の中にある「ハンバーガー」のレシピだった。




