第百三話「無害で善良な彼の名案。」
〈異世界六十日目〉
「ねぇ、アンセム。レグルーザと連絡取りたいんだけど、何か方法ってある?」
「魔導具があればできるよ。でもそれ、向こうも持ってないと意味ないから、すぐにはできないかな」
朝食の席でスープをぐるぐるかき混ぜているアンセムに訊くと、そんな答えが返ってきた。
彼の隣でサラダを食べていた姉のカミラが、ううむ、とうなるあたしに言う。
「『傭兵ギルド』に伝言を頼むことができるはずですが、すぐに届けるのは難しいかと思います。何か、お急ぎの用件ですか?」
「急ぎといえば、急ぎかなー?」
なにしろ自分のことではないので、はっきりと断言できない。
歯切れの悪い答えを返したあたしに、そういえば、とアンセムが訊く。
「昨日の夜、どこかへ出かけてたみたいだけど。その話?」
うん、と頷いて、ちょっと考えてから彼らに話しておくことにした。
あたしがイグゼクス王国に召喚された勇者の義姉だということはもう話してあるから、今回の件について、知られて困ることはない。
「昨日は天音のところまで出かけてたんだけど、どうもまた厄介事に巻き込まれてるっぽくて。この先の展開によっては、たぶんあたしも動くことになりそうでねー。昨日出かけたレグルーザと、一人で勝手に動かないって約束したばっかりなのに」
優しいカミラが「それはお困りですね」と言う横で、何を思ったかアンセムがニコッと笑った。
「ぼくに名案があるよ」
「なんでだろう。嫌な予感しかしない」
「ちゃんと名案だから、心配いらないって。リオはレグルーザと、一人で動かないって約束したんでしょ? つまり二人で動くなら問題なし! だから今度リオが出かけるときは、ぼくが一緒に行くよ~」
「えっ? ……う、うーん?」
思いがけない提案にびっくりして、答えに困った。
アンセムを連れて行ったら厄介事が二倍か三倍になるのではないか、という不安はあるものの、レグルーザとの約束を破らずに天音を守るには、それが一番簡単な方法のような気もする。
なにしろ彼は目の前で死んでも何事もなかったかのように蘇ってくるという人外で、その上いろいろ迷惑をかけられたりもしているから、連れて行った先でうっかり怪我してもそれほど心は痛まないだろうし。
たぶんそう簡単に怪我なんかしないだろうし。
「どうするかはリオに任せるけど、ぼくは魔導書の解読、終わったから。いつでも動けるよ」
「もう?! あの三冊の解読、もう終わったのっ?」
つい先日、[琥珀の書]を読むのが楽しい、という話を聞いたばかりだったはずなのに。
目を丸くしたあたしにアンセムは「あれ?」と不思議そうな顔をして、次に「ああ」と納得する。
「リオには言ってなかったかな。ぼくは三冊全部を読む必要はないんだ。[血塗れの書]って呼ばれてた[無名の書]は、もともとぼくの物だったし。[黒の聖典]は写本を持ってるからね」
とはいえ内容はちゃんと全部確認したよ、という声を聞きながら、ふと思い出す。
そういえば、アンセムから手渡された[生命解体全書]を受け取ったとき、頭の中に響いてきた言葉に聞き覚えがあったような気がしたのだ。
―――――― 我は水瓶。汝の器へ、我に記されし知識をそそごう。
それは[血塗れの書]を開いたときに告げられた言葉と、同じものだった。
「なるほど。アンセムが前の所有者だったからか……。まさか、そんなつながりがあるとは思わなかった」
「驚くことはないよ。魔法使いの世界は狭いし、古くからある魔導書はいろんな所を転々としているからね」
「みたいだねぇ。でも、アンセムはまだ生きてるのに、なんで[血塗れの書]は所有者がいない状態になってたの?」
「ああ、それは簡単。あの本を開いた時のぼくの体が死んだせいで、本とのつながりが途切れたからだよ。それで、書の守護者はぼくが死んだんだと勘違いして、次の所有者が現れるのを待つ状態になった」
そりゃまあ、体が死んだらその人は生きていられないと思うだろう、普通は。
つまりアンセムは古くから伝わる魔導書でさえ混乱させられるデタラメな存在だということで、まったくもって本気で人外だなぁ、とやや呆れ気味に彼を眺め、話題を変えた。
「[黒の聖典]も写本を持ってるって言ってたけど、アンセムは神語も使えるの?」
「知識としては持ってるけど、めったに使わないね」
確かに、魔法だらけのこの家やアンセムたちを見ていても、ほとんどの呪文が古語によって構成されていて、神語が目に付くことはなかった。
それはどうしてだろう?
気になったので、訊いてみる。
「それって何か、理由とかある?」
「古語の方が使い勝手がいいからだよ。神聖魔法は影響力が大きいけど、とにかく対価がはかりにくいのが困る」
いつの間にかみんな食事を終えていたので、エリーが食器を片づけて食後のお茶を配ってくれる。
アンセムはお茶を飲みながら話を続けた。
「古語は現象を操る言語だ。そして古語による魔法を使うとき、必要なのは魔力。小さな魔法を使うなら少しの魔力、大きな魔法を使うなら多く魔力を消費して、ぼくたち魔法使いはそれぞれが望む現象を起こす。対して神語は世界を記述する言語。それで、神語による魔法を使うとき必要なのは、世界への愛なんだって」
「……あい?」
意味不明な言葉が出てくるのに思わずつぶやくと、アンセムはかるく肩をすくめてみせた。
「今のはぼくが知ってる中で一番、神聖魔法を極めてるものの言葉を引用しただけ。そういえば、彼が封印されてからどれくらい経ったのかな? たぶんまだ封印の下で元気にしてると思うけど、二つ名を『偽神』という、なかなか興味深い青年なんだよ。今度会ったらリオのこと紹介してあげるから、自分で詳しく聞いてみるといい」
「遠慮しときます」
「え? どうして?」
即答したあたしに、アンセムは本気で理解できない様子できょとんとしている。
いや、そんな封印なんてされてる怪しげなヒトにわざわざ「神聖魔法とはなんぞや」とか質問しにいく気、無いですから。
できれば近寄らず、一生会わずに過ぎ去りたいです、とか思っていたら。
「世界を移動するための魔法は、神聖魔法だよ? リオは興味あるんじゃないの?」
そういえばそうだったー!
「おぉぅ……。アンセム、神聖魔法について、もうちょっと詳しく」
「だからそれは『偽神』と話した方がいいって。ぼくはテンマの研究を手伝った時にかじっただけだから。なんなら今日、彼の封印解きに行くかい?」
「それ絶対、話すだけじゃ終わらないよね。頼むからあんまり変なことしようとしないでくれる?」
「封印解くのは変なことなの? リオの基準はよくわからないなぁ」
わからないのはあなたの方です、という言葉をため息で流して、話を戻す。
「そんな極めてる人の話聞いても、たぶん極端すぎてわかんないよ。さっきの、世界へのアイ、とかいうのもサッパリだし。アンセムが理解してるところまででいいから、もうちょっと教えて」
「リオがそれでいいならいいけど。どこまで話したっけ?」
「神聖魔法は対価がわかりにくいっていうところまで。具体的に、どのへんがわかりにくいの」
「難しい魔法になるにつれて、天秤が無茶苦茶になるところ、かな。イグゼクス王国の神殿とかで使われてるような、癒しの魔法はそれほどでもないんだけど、もっと難しい魔法になると対価がおかしなことになるんだ。たとえば世界の一部を書き換えるような大魔法の対価が一羽の鳥の命だったりするのに、小物の悪魔を呼び出す魔法に何人もの人の命が必要になるとか。それで対価を間違えると魔法使いが死ぬこともあるとか。何がどうしてそうなるのか、さっぱりわからないよね」
あ、そうそう、と何でもないことのようにアンセムは付け足した。
「[黒の聖典]に仕掛けられてる罠もそれだったよ」
「え?」
驚くことの多かった今朝の会話の中で、それは間違いなく爆弾ナンバーワンだった。
「くっ。まさか魔導書の中にまで罠が仕込まれてるなんて。予想してなかったあたしがバカだった……!」
いつもの資料読みをする書庫へと場所を移し、アンセムから罠についての詳しい説明を受けたあたしは、ぐっと拳を握って机に突っ伏しぷるぷる震えた。
「あの著者たちの性格の悪さは知ってたはずなのに、油断してた……!」
「とくに問題なかったみたいだし、気にしなくてもいいんじゃないの? あ、ちなみにぼくの[生命解体全書]には罠なんて無いからね」
当たり前のことを言うのに得意げに胸を張るアンセムを、ジト目で睨む。
「きみの魔導書は罠なんて無くても凶悪度第一位だよ。こっちの意思確認も無しに頭ん中で好き勝手してくれちゃうんだから」
「ええ~? 心外だなぁ。ぼくはあの著者たちの中では一番無害で善良なのに」
「まだ生きてるっていう点でぶっちぎりに有害だし。アンセムは一回、“善良”っていう言葉の意味をよく考えてみた方がいいと思う」
「そんなのわざわざ考えなくても、ちゃんと知ってるよ?」
ぜんぜんわかってなさそうな顔で言うアンセムは、もう放っておくことにする。
それよりあたしが所有者になってしまっている三冊の魔導書のことだ。
落ちつけ自分、と心の中で言い聞かせて、確認する。
「えーと。まず[血塗れの書]に仕掛けられてた罠は、亜空間倉庫の魔法で。普通の魔法使いがこれを使うと、魔力がたくさん要りすぎて、亜空間を作った時点で死ぬ」
「リオは死んでないし、維持もできてるみたいだから問題ないね。ああでも、あの魔法は使い手が死ぬと入れておいたものが全部その場に落ちてきちゃうから、そこだけ気を付けておいた方がいいよ。昔はそのせいで死んだ後に大恥かく魔法使いがけっこういて、魔力の必要量が多いこともあったんだけど、だんだん使われなくなって、廃れていったんだよねぇ」
「……ご忠告どうも」
とりあえず今は問題なさそうなので、次。
「[黒の聖典]の罠は、呼び出せばあらゆる質問に答えてくれる悪魔召喚の対価。魔導書に書いてある対価を信じて召喚すると、間違った対価に怒った悪魔が攻撃してくる」
「リオは召喚とかが嫌いだから、一回もやったことないんだっけ?」
「うん。だからこれも関係ない。……で、最後。[琥珀の書]の罠」
これが一番ヒドいというか、悪どいというか、危なかったというか。
「攻撃魔法の〈雷槍雨〉の一部が、ほんのちょっとだけ間違ってて、使うと至近距離で炸裂してとんでもないことになる」
すぐそばに書かれていた攻撃魔法〈氷槍雨〉を、対『茨姫』の実戦で使ったことがあるので、うっかりこっちを使っていたらと思うと今更ながら冷や汗が浮かぶ。
使った当人だけでなく、周りにいる味方にまで被害が出そうな罠なのだ。
しかし、他人事なアンセムは相変わらずのマイペース。
「それね、よくそんなところに仕込もうって考えたなぁって、見つけたとき感心しちゃったよ。この三冊の中では、後継者が一番簡単に引っかかりそう」
「そこ、感心するところじゃないから。自分も見習ってそういうところに罠を仕込もうとか考えてるんなら、[生命解体全書]燃やすからね?」
「ふふ。ぼくの書いた魔導書を、そう簡単に燃やせると思うのかい?」
自慢げに言う彼に、今度はこっちが胸を張って返す。
「“初源の火”でも燃えない自信があるの?」
アンセムは初めて嫌そうな顔をした。
「そうか。リオは竜人と仲良しなんだっけ。さすがに“初源の火”は困るなぁ」
よし! ようやくアンセムに勝った気がする!
自分の力じゃないけど!
……ううむ。なんか、自分の力じゃないとなると、むなしいな。
「はぁ……。それにしても、なんでみんなして後継者の命狙いにきてるの? こんなのどう考えても外道の所業だよ。自分の知識を後世に伝えたくて魔導書を遺したんじゃないの? ホント、こんな罠仕掛けていく人達の思考がさっぱりわかんない」
理解できてしまったらそれはそれで問題な気がするが、理解できないのも腹立たしい。
不機嫌に言ったあたしに、アンセムが答えた。
「知識を後世に残したい気持ちはあるけど、後継者として相応しくないものが自分の魔導書の所有者になるのは許せないっていう、複雑な魔法使い心だよ」
「それ複雑でもなんでもない、ただのムダに高いプライドじゃないの。そんなもののせいで命狙われる後世の魔法使いの身になってよ。しかも書の守護者に殺されそうになった後でこの仕打ち! 後継者に自分の知識を与えるふりして、後世の魔法使いの命を狙いにかかってるとしか思えないんだけど?」
そうだね、とアンセムはのんびり微笑んで言う。
「自分の知識の結晶みたいな魔導書を書くのはね、とても楽しいことなんだよ。でも書き終えて、これを誰が読むんだろう、と考えたときに、たいていの魔法使いが思うんだ。ああ、もう自分の時代は終わった。次の時代の魔法使いが生まれて、彼らがこれを読む。そこに自分がいないのは、悔しいことだなぁ、って」
さすがにその境地に至ったことはない。
思わず黙り込むと、アンセムは言葉を続けた。
「たいていの魔法使いはそう思っても、思うだけで終わるものだけど。一部の魔法使いはちょっとした悪戯を仕掛けたりしてて、後世の魔法使いの方もちゃんと承知して読むものなんだ。でもまあ、うまくいったら後継者が死んじゃうような罠をさりげなーく仕掛けてるこの三冊の著者は、間違いなく性格が悪かっただけだろうね」
結局その結論になるんじゃないか、ちょっとしんみりした時間を返せ、と叫びたい気がしたが、ふと。
アンセムがわざとこちらの神経を逆なでするような言動をするのには、何か訳があるのだろうか、と疑問に思った。
老年の魔法使いの心情をさらりと語れるほど長く、あまりにも長く生きてきたというこの魔法使いは、いったいどんなひとなのか。
自分が何もわかっていないのだということに、気づく。
ともに暮らしているのは不老不死の姉と、寿命のない魔法生物と、植物なのか動物なのかよくわからないマンドレイクたち。
家はどこかの城よりも堅牢に、幾重にも結界を張っておそろしく頑丈に守られ、普通の人には外から見ることさえかなわないよう隔離してあり。
出入り口の門番には、これも寿命のない魔法生物が置かれている。
そのそばに普通の生き物を置かず、気が遠くなるような年月の末に今を生きる彼は、いったいどんなひとなんだろう。
思って、まあ、それほど簡単に理解させてくれるひとじゃないことだけは確かだな、とひとつ息をついた。
意識を切り替えて、アンセムに答える。
「わかった。とりあえず魔導書の罠は確認したから、昔の性格悪い魔法使いたちのことはもういいよ。今はこの資料の山を片づけないといけないし……。アンセム、いいかげん手伝ってくれるでしょ?」
読もうとすると頭が痛くなるという危険物、二代目勇者の手による研究資料の山を指さして言う。
それを普通に読めるというアンセムは、「しょうがないか」と頷いた。
「君がこれを全部読んでくれないと、姉さんの魔法についての研究に入れないし」
よし、アンセムがやる気になっているうちに、できるだけこの危険物を消化しよう。
どれから読むの、と訊く彼に一番上の資料を渡し、さっそく読み上げてもらう。
その字は死にかけたミミズの群れにしか見えないが、中身はちゃんとした魔法の研究だ。
アンセムが読んでくれる資料の内容の要約を白紙にメモして、重要だと思うところを頭に入れていく。
あたし達はそのまま昼食を挟んで資料読みを続けたが、食事を運んできてくれたエリーに、レグルーザへの手紙を『傭兵ギルド』へ届けてもらえるよう頼んだ。
ちなみに共通言語での代筆をお願いしたその手紙の内容は、妹がトラブルに巻き込まれたからちょっと動くけど、家主に相談してるからだいじょうぶ、という誰に見られてもかまわない短いもの。
けれど家主というのはアンセムのことだから、レグルーザが「彼に相談して本当に大丈夫なのか?」と考えるのはまず間違いないはずで。
『傭兵ギルド』の仕事が順調に片付いたなら、それを心配して早く帰ってきてもらえるとありがたいなぁ、なんて思っていたりする。
しかし彼がどこまで仕事をしに行っているのかはよくわからず、この手紙も届けるまでにおそらく数日はかかるだろうというので、残念ながら次の呼び出しには間に合わなかった。
「どうしよう、お姉ちゃん!」
背に埋まった風の宝珠が熱くなり、静かな書庫に切羽詰まった声が響いたのは、夕暮れ前のこと。
いったい何があったというのか、天音のそれはもう泣きかけているような、苦しげな声で。
間違いなく、緊急事態。
「天音? どうしたの?」
従者たちもいるし、アデレイドもいるし、それほど危険なことはないだろう、と楽観していたところに氷水を浴びせられたような気がした。
「オルガ、オルガが起きてくれないの……!」
震える声で天音が言う。
がたん、と立ち上がったあたしのそばにアンセムが来て、珍しく何も言わずに片手を差し出した。
「お姉ちゃん。お願い、助けて……!」
すぐに行く、と答える間さえ惜しく、頭の中で魔法を構築してアンセムの手を掴むと、呪文を唱えた。
「〈空間転移〉」