第百二話「主と杖。」
天音達には帰ったように見せかけ、近くの森の中に〈空間転移〉すると、誰にも気づかれないよう木の影を通り抜けて“闇”へ沈んだ。
意識を“闇”と繋ぎ、周辺の空間を掌握する。
夜の森は静かなようでいて、意外と騒がしい。
木々の枝で小鳥が眠り、土の中に掘った巣穴で身を寄せ合って眠る獣達がいるかと思えば、草の葉陰で虫が鳴き、夜行性の生き物達が用心深い足取りで歩き回っている。
昼に生活するものの時間が終わり、夜に生活するものの時間が始まっているようだ。
近くに魔物がいないおかげか、“闇”の奥から眺める彼らは平和そうに見えた。
ふむ。とりあえず、ここは安全そうだ。
掌握する空間を広げすぎると疲れるので、安全を確保できる程度で止めると、目的のものを探した。
するとあたしの可愛い飼い犬、三頭犬のジャックがすぐに気がついて、(おかあさん、こっち)とテレパシーで誘導してくれる。
ウチの子はなんて賢いんだ、と内心で感動しながらのんきに(ありがとう)と答え、示された方へと視覚をとばしてはっとした。
「逃げて、ジャック!」
“闇”の中から叫んだ、その瞬間。
ジャックがいるところに向かって真っ直ぐに放たれた矢が空気を裂く、背筋が凍るような音を聞く。
「ジャック?!」
あたしが正体を探ろうとしていた二人組みのうちの一人が、ジャックに気づいて先手を打ったのだ。
自分の身の安全を確保するよりも先にジャックを戻しておくべきだった、と猛烈な後悔に襲われながら、ほとんど本能だけで“闇”を動かした。
まずはジャックと二人組みがいる空間を掌握。
目の前を高速で通り過ぎていった矢にびっくりしているジャックを“闇”の毛布でくるむようにして保護するのと同時に、影から“闇”の手を伸ばして二人組みを捕らえ、そのまま自分の領域へ引きずり込む。
「ぐぁっ!」
「なんだこれはっ……?!」
予想外の事態だったのだろう。
二人の男はまともな抵抗もできないまま、黒い手にがっちりと捕らえられて“闇”の中へ落とされた。
そしてそこで、三秒ともたず意識を失う。
「あっ」
弓矢で狙われて怖かったのか、ちょっと毛並みを逆立てた無傷のジャックが(びっくりしたー)と言いながら戻ってきて、あたしの隣にちょこんと座った。
無意識にその背をよしよしと撫でてやりながら、“闇”の中でぐったりしている男たちを眺めて顔をしかめる。
「しまった。力加減ミスって、締め上げすぎたっぽい……」
突然のことだったので、そこまで意識が回らなかったのだ。
しかし、考えてみれば彼らはうちの愛犬に向かって弓を引いたのだから、反撃されても文句は言えないはず。
なにしろジャックは彼らに対する殺意どころか、敵意すらなく、ただちょっと近づきすぎただけで攻撃されたのだから。
最初は驚いただけだったのが、考えれば考えるほど腹が立ってきた。
この二人がなぜそんな過剰な反応をしたのかなんて、どうでもいい。
「まあいいや。寝ててくれるなら好都合。ルナ姉さーん」
男二人を“闇”から地上へ放り出し、ジャックを置いて自分も外へ出ながら杖に宿る精霊の名を呼んだ。
するとよく晴れた日の夜、月の光を浴びてしゃりんと耳元で涼やかな音色が響き、森の中に清らかな美女が現われる。
普段は三日月型のイヤリングに姿を変えている、[幻月の杖]だ。
《 初めて呼んだな、主よ 》
すらりとした手首や足首をミスリル銀の環が飾り、白い肌も月光を浴びてあわく輝いている。
いつ見ても極上の美女な月の精霊は、上機嫌で微笑んだ。
《 みなまで言わずとも、任せておくがよい。そこな不届き者に、千億の罰を与えようというのだろう? 》
繊細なガラス細工のように美しい手がひらりと空中に差し出され、その上に見覚えのある白い光が二つ、ぽぅっと灯る。
たしかサーレルオード公国に着いてすぐ、あたしがドクロ仮面の男達に襲われるのに、怒って出てきたルナが作りだしたものだ。
見た目は綺麗だけど、それに触ると強制的に眠らされ、果てしない悪夢を見ることになる、というけっこう凶悪なシロモノ。
「待って、ちょっと待ってルナ姉さん!」
手首や足首を飾る銀環がシャラシャラと涼やかな音を立て、白い光がルナの手のひらの上で踊るようにくるくると回り。
今にもそれを発動させそうなルナを、あたしは慌てて止めた。
いまひとつ表情が読みにくいが、彼女はどうやら初めて主に呼ばれたことに喜んで、張り切っているらしい。
ありがたいことだけど、そのせいでやりすぎになってはマズいだろう。
《 どうした? 主よ。……ああ、どんな悪夢を見せるのが良いか、教えてくれるのか? 》
そういえばこの前の、ドクロ仮面たちに襲われた後、やりすぎたルナにそれを教えようとして、レグルーザに止められたり役人に逮捕されそうになったりして結局できなかったことを思い出す。
ちょうどいいので、あの時の続きを今からやることにした。
レグルーザはルナを凶悪化させる気か、と反対していたけれど、どう考えても今の状態のまま放置しておく方が凶悪だ。
どうにも、ルナはやりすぎる傾向がある。
「うん。この前は最後まで話せなかったから、今から続きを始めようか。といってもレグルーザとの約束で、本当はあたしどこにも出かけないことになってるから、ちゃんとした話は『教授』の家に帰ってからね」
言うと、月の精霊はあっさり頷いて急かした。
《 承知した。では戻ろうぞ、主よ 》
手のひらの上でくるくる踊っていた白い光を消し、すぐ近くで意識を失って転がっている男たちのことなどもう完全に忘れ去っているその様子に、思わず苦笑する。
切り替えが早いというより、自分の力の使い方についての話に強い興味があるのだろう。
その姿勢はありがたいが。
「ルナ姉さん、その前に一個だけ。ちょっとお仕事、頼めるかな?」
うむ? と小首を傾げた月の精霊に、やってもらいたいことを説明すると、後は簡単に片づいた。
まずは気絶している二人組みに悪夢を見る白い光をぶつけてもらい、仕事を終えたルナをまた三日月型のイヤリングに戻すと、みんなを連れて場所移動。
「〈空間転移〉」
イグゼクス王国の王城の中にある宰相の部屋へ、無人であることを確認してから、まぶたを閉じて苦しげにうなっている男たちを放置した。
彼らが本当に宰相の手先かどうか確認はしていないが、関係者であればプレッシャーを与えることになるし、無関係でも双方への嫌がらせにはなるだろうから問題ない。
ついでに小粋なメッセージでも残してみたかったが、共通言語を覚えていない上にとくに思いつく言葉がなかったので、それ以上は何もせず今度こそ居候先へ帰宅した。
「ただいま~」
「おかえりなさいませ、リオさま」
アンセムの屋敷に戻ると、いつもと変わらない笑顔でエリーが出迎えてくれる。
一仕事してのどが渇いていたので、ルナの分もお茶を淹れてもらい、ここ数日使わせてもらっている客間へ運んだ。
「お待たせ、ルナ。さっきの続き、始めようか」
《 うむ 》
イヤリングから再び人型に変化したルナは、あたしがお茶をそそぐとカップを受け取って窓辺のイスに腰掛けた。
自分の分のお茶もカップについで向かいに座ると、近くの影から大型犬サイズのジャックが出てきて足元にすり寄ってくる。
いつもは“闇”の中でのんびりしていることが多いジャックにしては、珍しい行動だ。
怪我は無かったようだけど、やっぱりさっきの矢で射られたのが怖かったんだろうか。
よしよし、もうだいじょうぶだからね、と首筋を撫でてやると、気持ち良さそうに目を細めた。
そうしてジャックを撫でてやったり、お茶を飲んだりしながら話をした。
「ルナはどれくらい夢の内容を変えられるの?」
《 いかようにも。しかし、当人が知らぬものを見せることはできぬな 》
「ああ、なるほど。夢を見る人の頭の中にあるものじゃないと、登場させられないってことね。でもそれでも、ちょっと考えればすごい種類の夢が作れそう」
その他、ルナは何を登場させるかを決めるだけでなく、相手が怖いと思うもの、といった指定もできるそうだ。
ふむふむ、と頷いて悪夢のバリエーションを考え、状況に合わせて使い分けることを提案する。
話しているだけではどこまで理解してくれたのか分からないが、ルナはおおむね素直に聞いていて、話がひと段落したところでぽつりと言った。
《 そなたが最初の主であれば…… 》
ひどく悲しげな眼差しと沈んだ声に、胸の奥をぎゅっと掴まれたような気がして息がつまる。
え。なに。急に、どうしたの?
「ルナ? あの、何か、あった、の……?」
月の精霊がそのまま泣いてしまいそうに見えて、わたわた慌てながら訊く。
悪夢の使い方について話していただけだから、そんな顔をさせるような原因がまったく思い当たらない。
それに、ルナは今までずっと自信に満ちあふれた態度を崩さなかったから、いきなり弱った様子を見せられるとこっちは混乱してしまう。
《 すまんな、主よ。つまらぬことを言った 》
おろおろしているあたしに気づくと、ルナは悲しみを押し込めて微笑んだ。
《 忘れておくれ 》
はい、じゃあ忘れます、なんて。
あたしが答えると思っているんだろうか。
混乱が静まり、まっすぐにルナを見つめた。
「ルナ。何もしてあげられないかもしれないけど、話くらいなら聞くよ?」
《 遠く過ぎ去った時のこと。いまさら話しても何も変わりはしないものを、主が知る必要は無い 》
「ある、と思う。すくなくともルナがそれを思い出してあんな顔をしているうちは。あたしはルナの主なんでしょ?」
《 それは、そうだが…… 》
ルナはどこか戸惑ったようにあたしを見る。
つまらないことになぜこだわるのか、まるで分からない、という顔で。
どう言えば伝わるのか分からなかったので、あたしは話し続ける。
「もう過ぎたことだから話しても変わらないって言ったけど、だから重いんだよね、過去って。今さら何を言っても変わらないっていう事実があるから、思い出すたびに無力感でいっぱいになったりするし」
言いながらあたしが思い出していたのは、イールが炎で弔った四人の女の子たちのこと。
イールと一緒に魔法使いの男に捕えられ、生け贄として殺された何の罪も無い少女たち。
三人はあたしが気づいた時にはもう事切れていたけれど、一人はその最期の瞬間を見た。
彼女がその身に宿る魂を吐くようにか細い息をついて、それきり動かなくなるのを。
「息がつまって、悲しさと悔しさでそのまま窒息しそうになったりする。……だから、たまには息を吐かないと。それだけでちょっと楽になったりも、するかもしれないし」
ルナは涼やかな美貌に何とも言えない悲しみを漂わせて、じっとあたしを見つめる。
そのくちびるが、やわらかな微笑みをかたどって、彼女は答えた。
《 主よ、そなたは優しすぎる。我は道具。そなたが幾つも持つであろう道具のうちの、ただの一つにすぎぬ。そのような道具の過去まで背負うていては、そなたの心は早々に壊れてしまおうぞ 》
あたしは無理やり意識を切り替え、にやりと笑って見せる。
「ほめてもらって恐縮だけど、そんなに繊細なヤツじゃないよ、あたしは。まあ、何でも全部話せなんて言わないからさ、気が向いたら、ね?」
今日みたいな、悪夢の使い方、なんていう話ばかりじゃなくて。
もっといろんな話もしてみたい。
「ルナは今よりずっと昔に杖に宿って、いろんなものを見てきたんでしょ? 話、聞きたいなぁ」
せがむと、彼女はようやくいつものルナに戻って、うむ、と頷いた。
《 主が望むのであれば、思いおこしてみるも一興。さて、どのような話が良い? 》
先ほどルナは、あたしが最初の主だったなら、と言った。
もしかしてルナがいつも敵に対して過剰に反応するのは、その最初の主が原因なのかもしれない、と思ったけれど。
せっかく明るい顔に戻ってくれたばかりだし、一晩に二度も泣きそうな顔を見たいわけじゃない。
別の話を聞くことにした。
「うーんと。じゃあまず、[幻月の杖]を作ったライザーっていう人のことが知りたいな。どんな人だったの?」
《 ライザー……。おお、あのライザーか。まこと、懐かしい名よ 》
空のカップにお茶をつぐと、それを一口飲んでから、ルナはぽつぽつ昔のことを語り始めた。
いつの間にかドアの下にある専用出入り口からニンジンやダイコンのマンドレイクたちが部屋に入ってきていて、あたしの足元でうとうとしているジャックやルナの周りに座り、一緒に話を聞いている。
なんとものどかで、不思議な光景。
けれど、たまにはこんな夜があってもいい。
時々ぴこぴこ耳を動かすジャックの背をゆったりと撫でてやりながら、あたしものんびりルナの昔語りを聞いた。