第九十九話「第一回卓上決戦。」
書庫の大きなテーブルに満載された資料を読んでいるだけで一日が終わった。
意外にもアンセムの字はとてもきれいで見やすかったのだが、案の定というか何というか、“二代目勇者テンマくん”こと神崎さんの字はヒドいものだった。
アンセムの字がパソコン的美文字なら、神崎さんの字はのたうちまわるミミズの群れ。
文字として認識するのも難しい、今にも死にそうなミミズたちが、紙の上でもがき苦しんでいる。
見ているだけでげんなりしてくるそれに、内容を読みとるよりも早くミミズたちの悲鳴が聞こえるようになるんじゃないか、という気がしてたまらない悪寒に襲われた。
「これ、あたしが知ってる[古語]と違う……」
資料を読みながら、神崎さんはこの魔法の研究をしているうちに独自の言語を作り出してしまったんじゃないか、と本気で考えはじめること数回。
そのたびに「いやいや、そんな面倒なことはしないはず。……たぶん」と思い直してムリやり次へ進んでいたが、一日中そんなことをやっているとさすがに疲れる。
日が暮れた後、エリーに夕食の時間ですよ、と呼ばれたところで今日の作業は終わりにした。
カミラは久しぶりに行った『ひだまりの家』でだいぶ動き回って疲れたので先に休んでいて、レグルーザは『傭兵ギルド』で知り合いにつかまって宴会に突入されて帰りは遅くなるとかで、夕食はアンセムとあたしの二人だけだ。
静かな食卓でエリーの作ってくれたおいしいご飯をのんびりいただいていると、向かいでゆでた野菜をかじりながらアンセムが訊いてきた。
「リオ。資料はどうだった?」
「んー。今はあっちこっち拾い読みして、どんなことやってたのかなんとなく把握しようとしてるところ。だから、内容についてはまだ何とも言えない。……んだけど、ね? とりあえず一言いわせてもらうと、二代目勇者の字がすんごいヒドい」
ぐっとこぶしを握って強く言うと、アンセムは不思議そうに小首をかしげた。
「テンマの字? そんなにひどかった?」
「これは本当に[古語]なのかって、わりと真剣に悩む程度にはヒドかった。もしかしてアレ、じつはぜんぜん違う言葉だったりする?」
「ぜんぶ[古語]だったはずだよ。ぼくはちょっと思いついたことを書く時に、自分用の省略記号とかよく使うけど、テンマはそういうこともしなかったし。生まれ故郷の言葉を忘れてしまわないよう、ときどき何か書いたりしてたみたいだけど。姉さんの魔法について研究している間は、ぼくにあわせて[古語]を使ってくれてたから」
神崎さんと一緒に研究していたのは楽しい記憶だったのか、アンセムは懐かしそうに目を細めて語りながら唇に微笑みを浮かべた。
そしてふと、付け加えるように言う。
「ああ、そういえば、テンマの助手たちがよく頭をかかえていたね。テンマの字を見ていると頭が痛くなったりめまいがするって。ぼくは普通に読めたから気にしたことなかったけど」
「それたぶん、普通に読めるアンセムの方がおかしいんだと思う。と、いうか、字を見てるだけで頭痛とめまいって。なにその危険物」
最初に言っておいてほしかった、とため息まじりにつぶやくと、アンセムは的外れなフォローをした。
「物としては貴重品なんだよ。テンマは公的な文書はほとんど助手に作らせてたから、署名以外の直筆が残ってなくてね」
「あんなのが大量に残されても、後世の人の迷惑になるだけのような気がするけど。自分でも自覚してたから助手に書いてもらってたんじゃないの」
「それはどうかな。たぶん彼は、ただ字を書くのが嫌いだっただけだと思うよ。道具もね、羽根ペンとインクなんて最悪だって言ってた。腹が立つほど書きにくいって」
その気持ちはよくわかる。
ボールペンとかシャープペンシルに慣れた世界の人間に、いきなり羽根ペンとインクなんて持たせても、うまく使えるわけがないのだ。
そういう話を聞くと、あの悲惨なミミズの群れにも事情があったんだな、と思う。
しかし、どんな事情があろうとアレの解読はもはや困難を通り越して苦行だ。
アンセムは普通に読めるというし、できることならモチはモチ屋、暗号は解読スキル持ちに任せたいのだが。
「ねぇ、アンセム。明日さ、ちょっと」
「ぼくは忙しいから手伝えないよ」
頼む前に断られた。
君のお姉さんにかけられた魔法についての研究資料の解読なのに、それって冷たくないですか、と思わずジト目で見つめるが、しかし彼は平然たる態度で言う。
「研究したいことはいつも山積みだし、突発的な飛び込み依頼とかもあってぼくの手が空くことはまず無いんだけど。今はとくに、レグルーザに頼まれた君の魔導書の鑑定で忙しいんだ」
き、み、の、とフォークでこっちを指してくるのにイラっとして、スプーンでベシッとたたき落としてやった。
アンセムは机の上に転がったフォークを見てかるく笑っただけで、さして気にしたふうもなく話を続ける。
「君はたぶん知らないだろうけど、番人付きで所有者のいる魔導書を解読する、っていうのはすごく難しいことでね。うーん……、そうだなぁ。例えるなら、千匹のドラゴンが放し飼いにされてる地下十階分くらいの迷路の中で、いちばん厳重に隠されて守られている宝箱を見つけて、ドラゴンに気づかれる前に鍵を開けないといけない、っていうくらい難しい」
ムダに長い例えを使った説明の大半は、右から左へ聞き流した。
今思いついた言葉をいかにも重要なことのようにまくしたて、相手を煙に巻く、というこのやり方には慣れている。
どうやらアンセムは、うちのおとーさんにちょっと似ているようだ。
アンセムが語り終えるのを待って、訊いた。
「で、本音は?」
白衣の少年はあっさり答えた。
「[琥珀の書]読むのすごく楽しいから、他のことするのイヤ」
いつかどこかで「正直は美徳である」と言った人にこのドヤ顔を見てもらいたい。
オブラートに、つつむって、だいじ。
「……ん? ちょっと待って。読むのが楽しい、ってことは、つまりもう解読できちゃってるの? さっきのドラゴン千匹がナントカって話は?」
「ぼく以外の魔法使いにはそれくらいの難易度で、突破はほぼ不可能ってことだよ」
ああただの自慢ですかそうですか。
つまりあのミミズの群れは自力でどうにかしろ、ということですか今から頭痛いんだけどそうですか。
「はぁぁぁー……」
「どうしたの? いきなり深いため息ついて」
「いやー。ちょっと考えてみたらさ、そもそもアンセムの字がきれいすぎるのがダメなんじゃないかと思うんだよね。その対比で、ただでさえ汚い字がさらにヒドいミミズに見えてくるんだよ。せめて要約をメモっておくとか清書しておくとかしてくれてたら、こんなムダな苦労しないですんだのに。つまりはやっぱり、アンセムのせいだよね」
き、み、の、とスプーンでアンセムを指してやったら、仕返しのつもりかフォークでベシッとたたき落とされた。
カラーン、と机の上に落ちるあたしのスプーン。
え、なに。
さっきの意外と根に持ってたりする?
たがいに口を閉ざし、しばしの沈黙の後。
「やる気?」
「売られた喧嘩はまとめ買い~!」
思いがけず威勢のいいアンセムの返答で、第一回卓上決戦の幕が切って落とされた。
あたしとアンセムはフォークとスプーンによるすさまじくも華麗なる激闘を繰り広げ、その騒ぎに気づいて屋敷をうろつくマンドレイクたちがわらわらと周りに集まり、「ホ~!」「ホホ~!」と応援だかヤジだか何だかわからない声をあげてたいへん賑やかなことになり。
「お食事はお済みでしょうか?」
顔は笑っているのに目が笑っていない気がするメイドさんの登場で、そのすべてが強制終了された。
あたし達の周りに群がってホーホー盛り上がっていたマンドレイクがびっくりして飛びあがり、予想外の俊敏さを発揮してピューっと部屋から逃げ出したり、あたふたと家具の影に隠れたりする。
数匹、頭隠して尻隠さず状態のがいるけど。
「ご、ごちそうさま、です」
机の下でおしくらまんじゅうをしている数匹のマンドレイクを視界の端に見ながら、逃げも隠れもできなかったあたしは右手に持ったスプーンでアンセムのフォークを受け止めた体勢のまま、引きつった愛想笑いを浮かべて答える。
……あ、奥のやつに押されて一匹転んだ。
「ちょうど食べ終わったところだよ」
一方、アンセムはいつもと変わらない態度で言って、ぽいっとフォークを放り投げた。
そして。
「それじゃぼく、仕事に戻るね~」
と、すたすた部屋から出て行ってしまった。
ちょ、まっ、えっ……?
エリーさんは廊下へ出て行くアンセムを見送ると、スプーンを手に持ったまま固まっているあたしの方へと向き直る。
いやいやいや、違うんです! いつもはこんなことしないんです!
アンセムにのせられて、つい、ついうっかり……!
なんて言う前にかろうじて、弁解すればするほど墓穴を掘りそうだ、と気がついたので。
静かにスプーンを置いて、申し出る。
「……片づけるの、手伝います」
なんだかとてもしょんぼりな一日だった。
〈異世界五十九日目〉
今日も歩く根菜トリオがハレホレ歌うモーニングコールで朝が始まった。
あたしが目を覚ますと片手を上げて「ホ~」と呼びかけてくるマンドレイクたちに、半分寝ぼけたまま「ほー」と片手を上げて返しながらあくびする。
さて、今日も続きの資料読み。
美文字アンセムとミミズな神崎さんとの、紙の上での精神的バトルだ。
「うう。二度寝したい……」
ぼやきながらも朝食をとると、カミラとエリー、レグルーザが出かけ、鼻歌交じりに魔導書の鑑定の続きに戻るアンセムの背を見送って、あたしはよろよろと書庫の資料に向かった。
神崎さんの残した研究資料をなんとか読もうとがんばっては、頭痛におそわれて机に突っ伏し。
アンセムの資料を読んでちょっと回復すると、また神崎さんの資料に戻って今度はめまいにおそわれて机に突っ伏し。
……と、いうのを繰り返している間にお昼時になったらしい。
「リオ、入るよ~」
飲み物とボリュームたっぷりのサンドイッチをトレーに乗せたアンセムが書庫に来て、資料の上にどんとそれを置いた。
大事な研究資料のはずなのに、あつかいが雑だ。
けれど今はそんなことより、休憩できるのがありがたい。
「おお、ごはんだー。ありがとう。エリーさん達、もう帰ってきたの?」
「まだだよ。これは作ってあったのを持ってきただけ。今日はお昼までに戻れないから、お客さんにエサやっといてって頼まれたんだ~」
「いや、エサって。エリーさんはそんなこと言わないでしょ。動物あつかいか」
「あれ? リオはマンドレイクたちと一緒に水浴びして、お日さまあびる方が良かった?」
「この家にはエサか水かのニ択しかないの? というか、光合成できないから」
「うちのはエリー特製の、栄養たっぷりでおいしい水だよ~」
「だから光合成できないって。そんな宣伝されても、あたしに一体どうしろと。……はぁ。もうエサでいいよ。だからエサちょうだい」
よくわからない理屈で話を進めるアンセムにため息をついて答えたところで、どこからともなくリンリンリン、と呼び鈴のような音が鳴った。
アンセムが細い手にはめたフクロウの指輪をコツコツと指先で叩くと、彼の前にダイアモンドダストみたいな光の粒子がふわふわと現れ、空中でうねってひとつの形になる。
「おや、食事中だったかい」
ふぃー、と煙をはきながら言ったのは、光の粒子によって立体映像のごとく空中に現れた三毛猫だった。
うず高く積まれたクッションの上にでーんと寝そべって二股しっぽをぶらりと揺らす、魔法生物のミケ。
「邪魔をしてすまないね」
光の粒でできたミケの声は雑音もなくクリアで、あたしはその未来電話みたいな魔法に目を見開いた。
なにコレおもしろいんですけど!
時々ヘンなところで元の世界を越えてくるよな~、こっちの魔法技術。
驚きつつも感心している向かいで、慣れた様子のアンセムが答える。
「邪魔な時はつながない。知ってるだろう、ミケ。それで、来客は誰だい?」
結界によって閉ざされたアンセムの家への扉をつなぐ店の番人、ミケは、キセル片手に紫煙をくゆらせながら言う。
「『魔法院』からの使者だよ。用件は『教授』に直接言うからさっさと通してくれ、とさ」
どこか気に入らない様子でしっぽを揺らすミケを見て、何を思ったかアンセムは白衣のポケットから銀色のコインを取り出した。
指先でピンッとコインをはじき、くるくる回りながら飛んで、落ちてきたところを両手でパン! と捕まえる。
そして、手を握りながら腕を左右に開いた。
「リオ」
いきなり呼ばれるのに「うん?」と応じると、アンセムは左右で握った手を示して訊く。
「どっちに入ってると思う?」
えー、と。
来客の話をしていたはずが、なんでいきなりコイン当てゲームに?