満月の階(きざはし)
人は、失ったものに名をつけて呼び続ける。
まるで、それがまだ自分のすぐそばにあるのだと信じるように。
俺もそうだった。
彼女の名前を口にすれば、笑い声も、絵具の匂いも、麦わら帽子の影も――全部が戻ってくる気がした。
けれど、どれだけ呼んでも、そこに伸ばした手は空を掴むだけだった。
だから今夜、俺はこの階段を登る。
一度だけでいい、本当に触れられる距離まで。
夜空に、白い輪郭を滲ませた満月が浮かんでいた。
湿った風が頬をかすめ、蝉も眠った静けさの中、俺は自転車を押して坂を上っていた。
舗装の継ぎ目から覗く草が、月明かりを受けて銀色に縁取られている。
坂の上には、白神神社――。
幼い頃、祖母が満月の夜に語ってくれた話が、耳の奥でよみがえる。
「満月の夜にね……あの神社の百段の石段を登りきれば、亡くした人に会えるんだよ。
ただしね、神さまが一段ごとに問いをくださるんだ。
罰じゃないよ……あれは、残された者への最後のチャンスさ。
答えを間違えたら、その人とは二度と会えない。
だから、一歩一歩を大事に登らなきゃいけないんだよ」
あのときの満月は、もっと低く大きく見えた気がする。
祖母の声は柔らかかったが、語尾に含まれた微かな震えを、子ども心にも感じていた。
それでも、俺にとってはただの昔話だった。
――彼女が死ぬまでは。
美大に通う彼女は、笑うとえくぼができて、指先はいつも絵具で汚れていた。
絵の話をするときは声が一段高くなり、瞳は子どものように輝いた。
二週間前、事故で突然いなくなった。
机の上には、未完成のスケッチブックが開いたままだ。
あの日の夕焼けの色も、冷たいニュースの言葉も、今も胸の奥に突き刺さったままだ。
坂を登りきると、視界に鳥居が浮かび上がった。
赤いはずの柱は夜露に濡れ、満月の光を反射して白く鈍く光っている。
境内を囲む木々が、風に揺れてはざわめき、その合間から夜空の月がのぞいた。
近づくほど、空気がひんやりと変わる。
そこはもう、村の延長ではなく、別の時間に属しているようだった。
鳥居の前で一度立ち止まる。
幼い頃、祭りの夜にここをくぐった記憶がよみがえる。
けれど今夜は提灯もなく、ただ満月だけが灯りを落としている。
息を整えて一歩踏み込むと、背後で何かが音もなく閉じた気がした。
境内の奥に、百段の石段が闇へと続いている。
苔むした段の一つ一つが、まるで試すように俺を見上げている。
最初の一歩を踏み出した瞬間――
水面の下から響くような低く澄んだ声が、耳の奥に直接届いた。
それは風でも人でもない、境内そのものが語りかけてくるような声だった。
声「一段目。――『想い人の誕生日は?』」
「六月二十五日。」
即答できた。何度も祝った日だ。
ケーキの苺を分け合い、ろうそくの火を彼女がふっと吹き消した光景まで浮かぶ。
答えると、足元の石が淡く光り、次の段が現れる。
声「ニ段目。――『初めて会った場所は?』」
梅雨の雨に追われ、駅前の画材屋の軒下へ駆け込んだとき、彼女も紙袋を抱えて飛び込んできた。
傘から落ちた水滴が彼女の靴に跳ね、驚いた笑顔が、チューブ絵具の色と重なった。
「駅前の画材屋の軒下。」
声「三段目。――『想い人がよく描いた“光”は、朝・昼・夕のどれ?』」
西日がアトリエのキャンバスをオレンジに染め、壁にも床にも夕焼けが広がっていた。
筆を置いた彼女が、「夕焼けは、昼と夜が混ざる時間」と呟いた声まで覚えている。
「夕。」
声「四段目。――『初めて贈ったものは?』」
夏の入り口、雑貨屋で彼女が見つめていた麦わら帽子。
「これ被って一緒に海とか行きたいね」と笑った顔が忘れられない。
後日、公園でこっそり渡したら、帽子を胸に抱いて小さく笑った。
「麦わら帽子。」
声「五段目。――『想い人が好きだった季節は?』」
青葉と絵具の匂いが混ざる初夏。
窓からの風を吸い込みながら「この時期が一番創作意欲湧くんだよね」と笑った。
「初夏。」
彼女との思い出を振り返りながら順調に階段を上がっていく。
「最後に描いた絵の題名は?」
「未完成の『風を待つ庭』」。タイトルの文字だけがキャンバス端に残っている。
「絵をやめたいと言った日の空の色は?」
「灰色に薄青を混ぜた雨雲。」あの日の空は、彼女の瞳と同じく揺れていた。
「想い人が一番嫌った言葉は?」
「無難。」その響きが、彼女の世界を一番濁らせた。
答えるたび、記憶と現実の境界が曖昧になり、足が重くなる。
頭上の満月だけが、変わらず白く照らし続けていた。
声「九十八段目。――『彼女が泣いた夜、その理由を“汝の言葉”で答えよ。』」
完成間近の絵を、自分の手で塗りつぶした夜。
俺は「また描けばいい」と励ましたが、彼女は小さく首を振った。
「うまく描けないからじゃない。“うまくしか描けない”のが怖い」と。
その震える声の意味を、その時はちゃんと理解できなかった。
今ならわかる。あれは技術じゃなく、“好き”を守れなくなる自分が怖かったんだ。
「……評価や締切から自由になれない自分が嫌いで泣いた。でも、本当は“好き”を守りたかったから泣いた。」
声「九十九段目。――『汝は、想い人を手放す覚悟を持てるか。』」
事故の日の朝。駅まで一緒に歩き、交差点で信号が変わる直前、彼女が振り返って言った。
「……気をつけてね。」
それはいつもの別れ際の一言だった。
数時間後、信号無視のトラックが彼女を奪った。
その笑顔と声が、胸の奥で凍りついている。
「……会えるなら、手放す覚悟を持つ。」
最後の段の前で、世界は音を失った。
鳥の声も、遠い国道の車の響きも、すべて霧の向こうに沈む。
ただ、心臓の鼓動だけが、数を数えている
声「百段目。――『彼女の好きな色は?』」
簡単に見えて、残酷な問いだった。
脳裏に色があふれる。
雨上がりの群青。教室の白い壁。パレットの赤、黄、青。
指先に残ったテレピンの匂いや、乾きかけた絵肌のざらつき。
“ひとつだけ”を選ぶことは、彼女から何かを奪うことに思えた。
沈黙は敗北だ。しかし、軽い答えはもっとひどい敗北になる。
時間が伸びて、過去が一枚ずつ剝がれてゆく。
――思い出せ。言葉じゃなく、彼女そのものを。
誰もいないアトリエ。
夕暮れ、頬に朱が差すころ、キャンバスの前で笑っていた彼女の声がよみがえる。
『色ってね、世界の呼吸なんだよ。一つだけ選ぶのは、片方の肺で息をするみたいで苦しい。私は、全部の色を“生かしたい”の。』
そして、麦わら帽子を押さえながら海辺で「こんな青も好きだな」と笑った夏の日。
あの笑顔も、全ての色の中の一つだった。
「……彼女は、一つの色ではなく、全ての色を愛している。」
百段目の石が輝き、月光が色を帯びた。
霧が晴れ、拝殿の前に彼女が立っていた。
白いワンピースの裾を、満月の光が縁取っている。
輪郭は淡く、光に溶けそうなのに、その笑顔はあの日と同じだった。
「……来てくれたんだ」
「うん。会いたかった」
喉の奥が熱くなり、次の言葉が出てこない。
彼女がゆっくりと一歩近づいてくる。
「ずっと、そばにいたよ」
「……だったら、どうして触れてくれなかったんだ」
「触れたら、きっとあなたは前を向けなくなるから」
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
何かを言い返そうとしても、声にならなかった。
その沈黙を破るように、彼女が微笑む。
「でもね、ちゃんと見てたの。あなたが泣くときも、笑おうとするときも」
「……そんなの、ずるい」
「ふふ……かもしれないね」
抱きしめたくて手を伸ばすと、温かさの代わりに、月明かりが掌をすり抜けた。
その瞬間、空の満月が静かに欠け始める。
「……時間、ないんだね」
「うん。あと少し」
「まだ言ってないこと、たくさんある」
「私も。だけど――大事なことだけ言うね」
彼女は、少し首を傾げて微笑む。
「あなたが私にくれた色たちは、今も私の中にある。だから、もう泣かないで」
「泣いてなんか……」と否定しかけて、言葉が途切れる。
視界の端で、月の影が彼女を少しずつ削っていく。
「これから、どうすればいい?」
「前を向いて。私がいた時間も、私がいなかった時間も、全部あなたの色にして」
「そんなの、簡単じゃない」
「簡単じゃなくていい。ゆっくりでいいの」
月はさらに欠け、彼女の髪が夜風に溶けていく。
「……また、会える?」
「わからない。でも、色は消えないよ」
「ありがとう」
「ううん、こちらこそ」
最後の笑顔と共に、彼女の姿は月光の粒となって夜空へ溶けた。
残ったのは、夏の夜風と、ほんのり絵具の匂いだけだった。
あの夜から、ひと月が過ぎた。
夏は少しずつ深まり、蝉の声が町を覆っている。
机の上のスケッチブックは、そのままにしてある。
ページの端には、彼女の指紋のような小さな絵具の跡が残っている。
何度も片付けようと思ったが、まだその時ではない気がした。
窓から外を見ると、遠くに白い雲が連なり、その上に半分の月が浮かんでいた。
満月ではないけれど、光は確かにそこにある。
――あの夜、百段の頂で見た色たちと同じように。
机の隅に置いてある麦わら帽子を手に取る。
指先が編み目をなぞるたび、夏の海風と彼女の笑い声がよみがえる。
「……気をつけてね。」
あの日の彼女の声が、ふいに耳に落ちる。
胸の奥が静かに熱くなる。
もう二度と会えないと知っているのに、不思議とその声は俺を前へ押す。
振り返れば、あの夜の満月がどこかで俺を見ている気がした。