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私行方不明者


「なぜ両の眼を潰したのですか?」

「何か明澄なるものに感じ入るためです」

 夜の度に何故か空嘔吐が止まらなくなり、濡れた瞳で呟くことには、汚れなき人など古来より、ヒトリトシテイナカッタハズナノニ。


 明朝、イツカ村の吉村氏が殺されたとの通報が入った。そこで、この村の担当官である私は勤務地から二キロほど離れたこの豪勢な邸宅前に出張ってきたわけなのであるが、空気はしんと落ち着いており、辺りはやたらに凪いでいた。殊に鳥の声、木々の騒ぐ風の音の一つすら聞こえないのでそれはもう非常に不気味な塩梅である。村の外れにあるこの場所はまだ太陽が昇り切っていないとはいえ妙に薄暗く、邸宅を取り囲む木々からは薄ぼんやりとした暗い印象しか伝わってこない。ついさっきまで人が生活しており、ついさっきに殺人が起こった屋敷だとは到底思えず、幽霊の出る廃墟だと言われた方がまだ納得がいきそうだった。

 一応、万が一の事態に備え、腰に突き刺した短剣に意識を向けながら、私は邸宅のチャイムを押した。しばらくの沈黙の後、白い霧からぼんやりと出て来たのは殺された吉村氏の奥さんらしき人であった。天姿国色の誉れが霞みがかったような器量良しで、私は霧を生み出しているのがこの人だと説明されても、さほど当惑せずに受け止めることができたであろう。

「通報があって来たのですが、殺されたのはここの亭主さんですね。お話を伺わせていただけませんか」

「ええ、かまいませんわ」

 奥さんは泰然自若だった。目の泳ぐ様子もなければ、語調に不自然があるわけでもない。夫が殺されたというのに落ち着いているというのは、それはそれで不気味ではあったが、私はひとまず危険はないと判断し、とにかく話を聞いてみることにした。

 この若奥さんの言うことには、「私は誓って殺していません。確かに存在憎たらしく、結婚それ自体も妹の学費や母の介護やらを考えてのことであり、私はあの方に一分の魅力も感ぜず、ただ家に奉仕する心持ちで、日々の家事やらあの人の世話などしておりました。そしたらあの人、近頃子供が欲しいなんて言い言いし始め、私は身の毛がよだつ苦しい思いで必死に体調不良を訴えてはなんとか逃げきり、毎晩安堵の涙を流し、それで自分で殺しておいてどうして嬉し涙が流せましょうか」

 私は返答に窮した。誰に殺されたのかを聞いただけなのに、若奥さんはまるで芝居でも始まったかのように語りだしたのだ。しかも語り口調は外見年齢のそれとはかけ離れていて違和感あることこの上ない。一方で、その必死の剣幕はあまりにも真実を語っているようにも見える。いったいどうして自分に疑いがかかりかねない供述までしたのかは分からぬが、私はわざとらしい咳ばらいを一つして、「分かりました。とにかく現場を見なければ判断は出来かねますから、ご主人の遺体のところへ案内していただけませんか」

「ええ、けれど、ひどいじゃありませんか。あなた様、いや、見たところまだ随分若いですね。そうね、君だ。君はね、自分で聞いておきながら返答に何も期待していないじゃない。私が何と言おうと、主人のところへ案内しなさいって言うつもりだったでしょう。分かるわよ。だって話の途中からずっと口がその形になっていたからね。お姉さん、悲しいわ。いや、それも違うね。見たところ同じくらいの年齢じゃない? 二十三、四よね、きっと」

 ぎょっとした。急に口調が変わった。奥さんという感じでも、容疑者という感じでもなくなってきた。女は奇怪な嘲りの姿勢であり、いたずら好きの子供であった。ともすれば同年代の女と何か四方山話でもしているような雰囲気さえ醸し出されてきて、ここは本当に殺人現場なのだろうか。

「歳は二十三ですがそれは関係がありません。あんまり拒否が過ぎますと申しわけありませんが実力を行使することになりますよ。あなたもそれはイヤでしょう」

 何とか緊迫を保とうとした意図での固い口調だったが、女は意に介さず、あははと笑った。

「そりゃあイヤだわ。でも君にそんな度胸があるのかなぁ。どう見ても暴力には疎そうな感じだけど。良い人が顔に張り付くのは職業柄良くないんじゃない? なんなら私が教えてあげようか。君よりは警察の顔、出来る自信があるわ」

 女は婀娜っぽくからかうようで私には何がなんだか分からなくなった。て

「それから、あなたって堅苦しい言い方は止めにしましょ。せめて美佳さんと呼ぶことね。私の名前だから覚えなさい。君も君呼びがイヤだったらさっさと名前を教えなさいね」

 分からない。分からない。私は平静を装おうと努めた。いったい始めから影を掴むような奇妙さが漂っていたが、今ではそれが全部恐怖に変わりつつある。その中には銀紙に包まれたチョコレートのようなほんのわずかな好奇心までもが含まれているので非常に危ない。命の危険と明らかなる未知だ。畏懼なるものには甘味成分があるからタチが悪い。

「分かりました、美佳さん。僕の名前は梨田と言います。ですが、君呼びで結構です。とにかくこのままでは埒が明きませんから、ひとまず応接間にでも通していただけませんか。早朝とはいえ真夏ですし、急いできたのもあって喉がもうカラカラなんですよ」

 恐らく私は悪手を指した。私がぎこちなく顔を手で仰ぐようなジェスチャーをすると、女はわざとらしくハッとした顔を見せた。

「あら、意地悪な方ね。そんなら、そうと早く言ってくだされば良かったのに。いいわ、お茶を出しましょう。こないだ貰った羊羹もあるから、それも食べていってくださいな」

 今度はマダム口調であったが、それは一言の間だけで、美香さんという女の人は手招きをしながら霧がかった風景にはおよそ似つかわしくない子供のようなスキップ調で、ずんずんと庭を駆けて行った。

「ちょっと待ってください。とにかく殺人現場は外では無いんですね。中なんですね。答えてください、って、ちょっと待って頂けませんか。まだ、全容が掴めていないので危険です。私からあまり離れないようにしてください!」

 私は慌ただしく着いて行くしかなかった。

 通された応接間はやたらに薄暗く、太陽の光が十二分に燃えても、決して明るくなりそうにない照度だった。美佳さんは二組の紅茶と焼き菓子をトレイに乗せて運んできた。彼女はそれらを配膳すると、即座に焼き菓子をもさもさと頬張り、紅茶を軽く啜ってほっと息をついた。

「あっ! マナーなんてのは気にしなくていいからね。この家ではその精密で豪奢な造りに反して、自由奔放を金科玉条に掲げているから」

「はぁ」

 私は気の抜けた返事をした。血なまぐささが微塵もない間延びしたこの異様な雰囲気はいったいどういうことなのだろう。先程から所在無げに視線を動かしていた私は会話の主導権を握られてはマズいと思って、話題をすぐさま殺人事件に戻した。

「あのですね、こういったおもてなしは大変ありがたく思うのですが、まずは事件の解決を急ぐのが我々の務めではありませんか。亭主さんがあなたにとってどういったお人なのかは私の知る余地のないところですが、まさか死体を放置して腐らせるなんて所業を受けるまでは無い筈だ。第一、このまま死体でも何でも片付けずに帰って、困るのはあなたのほうなのですから。このままだとあなたの方に要らぬ疑いをかけなくてはなりませんよ」

 長ったらしい説明は興味がないらしい美佳さんは焼き菓子を頬張りながら、話の途中で立ち上がった。広い応接間を子供みたいにグルグルと歩き回って、まるでこちらを相手にしない。私は少し声を荒げた。

「そっちがその気ならいいでしょう。こちらはこちらで勝手に捜査を始めさせていただきましょう。多少広いが迷うほどではないですからね」

 意を決して机に手を着き、立ち上がると、彼女の姿が一瞬、霧に混じって溶けたように見えた。薄紫の微かな筋がふっと浮かんで消えた気がしたが、彼女はそこにいた。

「いけませんわ。ここはどうも瘴気がひどいようでございましてね。初めての方には魔物達も少々警戒をしております。まぁ、あたしに任せることですな。このランタンがええんじゃわ」

「ショウキ? 何ですかそれは。魔物というのも意味が分かりませんよ。冗談にしては笑えないし──って、ねぇ! 無視しないで何かしらの説明を加えてください。私はそんなオカルトじみた探検ごっこに興じる気はありませんからね。喋り方も普通に戻すことですよ!」

 私の震え声にはまるで頓着せず、彼女は戸棚から取り出したランタンにマッチで火をつけ、奥の廊下の方に向かって歩き出した。不承不承後ろを追従して行くと、彼女は突然振り返った。

「まぁ焦らさんな。いずれ案内致しますよ。何事も順序が大切なんですじゃ。あんた、わたしなしじゃきっと迷いますから、離れちゃいけんでございますよ」

 そうやって笑みを貼り付けた彼女の出で立ちは、おとぎ話に出てくるような腰の曲がった魔女のおばあさんにそっくりだった。私は息を飲んだ。ランタンの火は紫の色をしていた。


「さぁ、着きましたわ」

 気の遠くなるような薄暗い長い廊下を歩き、突き当たりのドアを抜けて案内されたのはちょっとした図書館のような書斎だった。天井が高くて、声がやけに響く。古さを演出する埃っぽさと曇り越しの太陽の光がいやに神聖味を醸し出していた。

「ここには小説から専門書まで何だってあります。特にミステリー小説や逮捕護身術なんかはあなたにも興味が有るんじゃないでしょうか」

 魔女は司書に変わった。司書は長々と図書館の機能を説明しだした。

「そんなのは良いから、旦那さんの遺体の場所を──」

 私が言いかけると、「あらあら、あれはちょっと高いところにありますね。踏み台はどこかしら」と、美佳さんが口を挟んだ。

「あなた、取って下さりません? その方が話は早いわ。あれさえ取ってくれたら必ず案内致しますから」

「はい、はい。分かりました。分かりましたから騒ぐのをやめてください。これは殺人事件なんですよ。気楽も良いが、もう少し緊迫したらどうですか」

 従わないと話が進まないのを私はとうに理解していた。私は本棚に近づいて行った。美香さんは自分の頭の上に手を置いて、本棚と背比べに興じていた。

「あら、あなた。亭主を殺された私に向かって、随分酷い言い草ね。貴方みたいな人でなしには分からないんだわ。自分の半身みたいに思える大切なお方の亡くなった舌を焼くような苦しみを。あなたみたいな人非人はちょっとした現実逃避の一幕すら許してくれないのね」

 踊るようにして悲劇のやもめを演じ始めた。戦争で愛する人を失った様がありありと浮かぶような鬼気迫る演技だった。

「相分かりましたから。すみません。確かにそれは理屈ですね」

 ヒステリックな美香さんの芝居口調に付き合っていると、こちらも本当に劇かなんかを演じている気分になってくる。気が滅入りそうだ。私はもはや気を緩めると、不思議の国に連れ去られそうになってきている。

 彼女の指定した本に向かって手を伸ばそうとした矢先、「あら、あなたみたいなチビ助さんには届きませんわね」彼女はとぼけたように言った。そんなわけあるかと心の中で返事をして、思い切り手を伸ばしたが、本には手が届かなかった。奇妙に思って後ろを振り向くと、あれ、私は確かに身長百七十センチ程の一般男性だったのであるが、いつしか彼女との身長差が逆転している。さっきまで、見下ろす位置にあった彼女をやや仰ぎ見る形になっていて、今まで熱心には見ていなかった彼女の首の下のペンダントがやけにくっきりと目にへばりついた。

「きゃー、変態!」

 場違いの黄色い声。私は何も返せなかった。いよいよ頭がパンクしそうだ。私の思考はぐるぐると回って、何でったってこんな事に巻き込まれるのだろう。埃っぽい本の匂いが鼻腔に入り込み、激烈な波が頭の中で渦巻き始めた。どうして、一体、何ていうことなんだ。こっちは真面目に生きてきたのに。こちとら万年、働き詰めなんだ。お願いだ、頼むから、これ以上私の感情を揺さぶらないでくれ!

 心中で喚いていると、美佳さんはぐんぐんと詰め寄ってきた。日の光を浴びていた観葉植物の明るさが部屋から立ち消え、こつこつとした足音だけが冷たく床に響きわたる。彼女は突き放すように言った。

「あなたは不満だらけなのね。満足する豚を演じているだけのバチが当たったのよ!」

 何だと、私は幼少期からずっと優秀通しだったんだ。村の同世代で唯一の官性の人間なんだ。尽忠報国でやってきたし、お金だって同世代の朋輩達よりよほど多く稼いでいるのだ。それが何だこの女は。こっちを分かったような顔で上から物を言いたい放題。そういう自分がどれだけ立派な人間なのか、その足りない頭で、一度でも深く考えて見ればいいんだ。自らの至らなさを知らないから平気で人にあんなことが言えるのだ。

でも確かにこの人の言う通り、根ざした煩悶がずっと心中に漂っていたような気もする。満足する豚。過剰に反応している私自身こそがあの人の正しさの証左ではないのか。いやいや、騙されるな。この女は悪魔か何かの類なんだ。私を揺さぶる悪鬼なんだ。そうに決まっている。じゃないと整合が取れないじゃないか。あんまりじゃないか。疲れきった眼で彼女を睨みつけると、美香さんは喉から言葉を絞り出して、息急き切るように叫んだ。

「あんたはなんで一人で生きているの!」

 そうだ、そうだ。私は今までなんのために生きてきたのだ。思い出せない。誰か他人のために生きてきたに違いないと思うのだが、だって、こんな面倒な警官仕事、何だって自分のために働く必要があろう。私は田舎仕事にはもう飽き飽きで、自給自足に近い、あの澄み切った生活の幸福を望んでいたのではなかったのか。違う、望んで私は諦めたのだ。お天気よりも、電燈による恒常の晴れが好きだから?じょうろ片手の現金主義者と、額縁に虚栄を張る人格者は幻覚でしょうか。

「私は、私は、望むとおりに生きてきた! 今までも、そしてこれからもだ。私の平穏な生活を阻害する輩は誰であろうと許さない。あなたは早く遺体の場所を教えるんだ。そうすれば万事上手く行くんだ。担当官の捜査への協力は国民の義務ですからね。殺されたのがあなたの夫であろうと、断れる道理は無いはずだ」

 煩悶の美学。苦しみの中に覗き見たものの輝きを信ずること。

「嘘つき! 欲望が叶えられなかっただけのくせに。弱虫、弱虫!」

 彼女は叫んだ。心臓が変だ! 狭まる視界、膨張していく頭蓋骨の内側に美香さんの声が一際響いて息が詰まった。私はほとんど発狂しかけていた。

「やめてくれ、本当に頭がおかしくなりそうだ。頼むから、やめてください。私が一体何をしたって言うんですか。神様に誓ってもいい。私は行動の上で不義を働いたことはかつて一度もありません。それだのに、天よ! 貴方は我が身に理不尽な苦痛をお与えなさる。今日に限った話じゃない。私は一体いつまで堅忍を守らねばならないのか!」

 床板に倒れ込むように私が泣き叫ぶと、美香さんは私の頭に手を置いて、星砂に触れるように撫でてくれた。一秒経つごとに五感の充溢は落ち着いてきて、身長も元の通りになっていった。私の頭に長いこと張り巡っていた混迷の蜘蛛の巣は全部燃えきってしまったようで、頭部には久方ぶりの爽快な感覚があった。例えるならば四則演算がいつもの倍のスピードで出来そうな感覚である。しばらくうずくまった後、ゆっくりと立ち上がると、彼女はあらまぁ上目遣い。心配気な目元を見せた。

「大丈夫?」

「何なんですか、あなたは」

「ごめんね、ちょっと油断しちゃった。でも、全部本当だよ。私はこの先にある遺体を君に発見して欲しいだけ。ちゃんと殺人事件を解決して欲しいんだ」

 あっけらかんとした謝罪から始まった言葉は途中から真剣な語気を帯び始め、今度は主人公のお膳立て役である。有無を言わさぬ完璧な台詞を前にした私は従うしかなかった。ちょっと間を置いて返事をした。

 「任せてください。必ずや無念を払いましょう」

 自分の方からも簡単に役に扮した言葉が出てくる。恥ずかしさも何処吹く風。決して楽しくはないが、少々の気取りはもはや露ほども気にならなくなった。

「しかし、先程の醜態は忘れてください。少々悪霊に取り憑かれたみたいで」

 さっきの取り乱し具合だけは別だった。あれは思い返すとあまりに悲惨だ。

「うん、そうしようね」

 承知をしたが、その後、彼女はくつくつと笑った。

 意識を部屋の方に戻すと、私たちの目の前には金の取手に飾られた朱色の豪勢な扉が用意されたように置かれ、さっきまで全く目につかなかった不思議を他所に、私はそこを開くしかなかった。甲高く軋む音が鳴って果たして見ゆるは長い廊下。


 先程の一幕も災いして、私はもう掻き繕う努力をあえてしようとは思わなくなった。彼女への警戒も大方解かれて、ある種の信頼が育まれつつあった。彼女の協力なしにはこの館を出られそうにないので、友好的に接するのも少なくとも悪い事ではないはずだ。私は職務を頭の片隅に打ち捨て、率直に思ったままを彼女に語ることにした。彼女も私の態度の緩和に快く応じた。踵で石畳を高く鳴らしながら次の部屋へと向かう私たちはすっかり打ち解けた親友同士の交歓をした。

「それにしてもこの村の夏には辟易とするね。海でもあったら良いんだけど、川の水の量に比例しない葉叢の圧迫には眩暈するばかりだ」

 村人全員の意見を美佳さんが代弁した。

「そればかりは同感ですね。人だって変わり映えのない割には海千山千で嫌になる。なんたって自分以上の地位と権力を把持することに全精力を注ぐのが美徳なんですからね」

「そりゃ結構なことじゃないの」

「どうしてなんです?」

「だって、弱肉強食は太古からのルールだ、なんてのはつまらないから止して、その口ぶりだと、君は自分を平凡に数えたくないんでしょう? それじゃあ分かりやすく自分を周りから逸脱せしめるモノが観測できるのは好都合じゃない」

 大体は同世代の筈なのに、人生の師匠みたいな感じである。

「はあ、理屈は分かるんですがね。痛みなく卓抜を甘受せんとするのはやっぱり勝手ですか?」

「うん、ワガママだね」

 きっぱりと言い切った。

「私はどうも自我に引っ張られて生きているようです」

「肉体が引っ張るよりはよほどマシだよ、多分」

 それで一旦話は終わり、そこからは徒然な話題が続いた。急斜面のないジェットコースターで、会話のキャッチボール自体は続いていたが、二人とも廊下に飾られている様々な骨董品の方に目を奪われていた。会話はそれぞれの都合で途切れ、再開し、それはつまり、私たちの間柄には気兼ねがいらなくなってきたということである。

 不意に美佳さんは廊下に飾られた一本の杖を指さし、

「あの錫杖に似合うのはどんな宗教の僧侶さんだろう。いや、あれだけ長いと槍としても使えそうだね。先っちょがあんなに鋭いから、刺されたらきっと痛いなんてもんじゃないよ。血が出るよ! 死ぬよ! 絶命だよ!」と心を弾ませて言った。

「何だっていいですよ、落ち着いてくれていたら。美佳さんはとにかく暴れすぎですから」

「あら、君はつれないこと言うのね。あれはこの館の邪気がそうさせるんだって言わなかったっけ。私があの程度の仮装で済んでいるのは随分凄いことなんだよ。私が君を庇わなかったら、君なんか直ぐに殺人鬼になるよ」

 そう言って身を翻した彼女の姿は、物語る内容はとにかくとして、所作や表情はいたって自然かつ真っ当で、私は思わず困惑してしまう。あの変容ぶりの余波がどこにも見受けられないのだ。誰かになりきっている美佳さんは本当に雰囲気から何まで突然変わるので、そのたびに愕然としてしまうのであるが、それが今の彼女の自然な様子を更に色濃く鮮やかなものにしていた。私はかぶりを振って、危険なだけだ、もうこの手の不可思議にはあまり首を突っ込まぬようにと、意識をシフトチェンジしよう試みた。最優先事項はあくまで遺体の発見。次いで殺人事件の解決の糸口を掴むこと。だが、立ててみて、我ながらかなり無理筋な話であった。私の身体には既に感興の熱が帯びている。理由が分からぬので冷まし方も分からない。

「おい、君。聞き忘れていたが、煙草は吸ったりしないよね?」

 そんな矢先、美佳さんが尋ねる。

「しませんが、それがどうかしましたか」

「いや、奴ら、匂いとかには敏感だから」

「なるほど、つまりは悪霊じみたもののことを言っているんですね。非科学的で信じたくなかったですが、いい加減、諦めることにします。美佳さんの方が詳しそうですからね、遺体以外の事柄は従いますよ」

「助かるよ、遺体に案内したいのも私の正直だし、協力するに越したことはないね」

 目的の一致を確認した我々は歩き続けた。それにしても、この館はやけに広い。何十秒も真っ直ぐに歩けるなんてことが一体、物理的に可能であったか、私は屋敷の外観を思い出そうと努めた。

「シャーロック・ホームズさん」唐突である。特に驚きはなくなった。

「はい」

 私が厳粛に返事をすると、彼女はゴホンと空咳をした。

「間違えた。いや、ワトソンくん」

「ああ……はい」

 足をぴたんと並べて彼女が指さしたのは真鍮の取っ手。

「この先は多分、ちょっと危険だからね。私に何が起こっても、努めて冷静に対処するんだよ」

「はい、それは美佳さんが何かに取り憑かれるようになった時のことですよね」

「うん、上出来に限りなく近い」

 さしずめ上司と部下の関係である。いや、探偵と助手であった。


 私は扉をホテルのコンシェルジュに倣って開けた。ホームズをおもてなしの心構えで迎え入れるためだった。つまり私はちょっとした悪ふざけをして、彼女に遅れて部屋に入った。そして直ぐに後悔をした。何の飾りもない無機質な部屋の真ん中には、猫背で、腰を痛めたような立ち方の美佳さんの姿があったのである。彼女は私を見つけるや否や、両手を勢いよく広げて喋りはじめた。。

「我々は高遠な理想とまでは言わなくとも、各々が精神的で清潔な志向を持たねばならんものであります。我々は言わば歴史の中で、常いかなる時であれ本能的生物でございましたが、それでも少しずつ、理性を携えた高邁な理想に近づこうと、人類共同体は言わずもがな、個人個人が歩みを進めてきたわけであります。それが今、多少の成果を上げつつあります。近頃の脱物質主義、あれもまぁ底が浅いけれど良い傾向です。つまるところ、我々は進化の諸条件を満たしつつあるのです。肉体の象徴たる心臓を廃し、幾多の輝きたる情操が吹き込まれた高邁なプラトニックの愛を代わりに植え付ける時が来ました。その時にこそ、我ら人間の新たな世紀が始まり、形あるものは全て無用の長物になるのです。武器も、宗教も、食料もいりません。何せ、肉体が副次的なものになるのですから。今までは受精卵から始まった肉体の側が人間の奔放な精神を規定し、その先行者利益でもって常に精神を支配し、精神の側は規定され、雑用を任され、形あるものに留められていました。精神は常に肉体の後ろに追いやられ、肉体が犯した数多の罪の尻拭いを行って来ました。新たな世界ではそれが全く無くなります。肉体の持つ悪徳を精神の側が全て抑え込むからです。蓋し精神は肉体ほど攻撃意欲に満ち満ちていませんので、肉体の側にも消して損はさせぬでしょう。ここに心身の和解があり、平和への一歩があるのです!」

 遂には宗教家じみた怪しい学者博士のご登壇であった。悪魔が取り憑いているかのような凄まじい覇気でモノを言うので私は一言も口を挟めなかった。博士が一応の地点まで言い切ってから、私はようやく口を開けた。

「しかし博士、我々はまず死体を見つけねばなりません」


「死体……ああ、つまりはこう言いたいのですね。我々は肉体の死を確認する必要がある!

いったい君は面白いことを言う方ですね。ですが何故確認の必要があるのです。それは精神

的倒錯とでも言うべき異常行動ですよ。いや、あなたはまだ肉体への未練が断ち切れていな

いのですね。それは珍しくないことだ。私の方で一つ解決策を提示させていただきましょう」

「ああ、もう! すみません、ふざけました。美佳さん、あなたの夫の死体を探すんですよ。我々の目的はそうだった筈です」

 癇癪を宥めるような気持ちで、何度も何度も繰り返し同じことを言って説得すると、博士はようやく根負けしたように椅子に倒れ込み項垂れた。私が瞬きしているうちに博士の容貌はすっかりと消え去り、美佳さんの姿が現れたが、彼女は中々頭を上げなかった。部屋からは嘆きの霧が取り払われたが、私の不安は今までになく募った。そしてその不安は即座に的中して、彼女はいきなり無機質な床に音もなく倒れこんだ。私は慌てて駆け寄った。息はあったが、呼びかけや揺さぶりに反応はなかった。

 私は隣室から見つけてきた簡易ベットに彼女を寝かせた。肢体を慎重に持ち上げようとして言葉を失った。形容ではなく本当に身体が綿のように軽いのである。私は横たえさせた彼女の顔を凝然として見つめた。彼女の顔は生気がないような無機物の白さをしており、童話の中の眠り姫みたいにもう生涯目を覚まさぬような深い眠りの色があった。

 期せずして一人の時間が出来た私は、彼女を気にかけながら部屋を眺めた。何の音もなくて静かだった。ここへ来てもうどれくらいの時間が経ったのだろうか。体感では半日以上が経過している。館には私たち以外の人の気配はないが、捜査に出向いたきり何の音沙汰もない私に対して、署内で何らかの力が働き始めてもおかしくは無い頃ではある。同僚達に仄かな懐かしさが湧いたが、私はもう捜査のことなど気にも留めていなかった。ただ彼女の身を案じて、飾り気のない部屋の中を右往左往していた。やがて、彼女は目を覚ました。

「よく言いつけを守ってくれたね。こいつが多分、一番厄介で偏屈だった」

 疲弊した様子の美佳さんは吐き捨てるように言って口を尖らせた。

「大丈夫なんですか。いきなり倒れましたけど」

「ああ、面倒をかけたね。問題はないよ。稀によくあることだから」

 彼女はそう言って、受け取ったコップの水を飲んだ。水はすぐに無くなって彼女はじっと私を見つめた。その瞳は宝石の美しさを携えていたが、同様に宝石の冷たさをも孕んでいた。私の方もしばらく彼女を見つめたが、気後れに耐えられなくなって目を逸らした。すると彼女は苦笑した。一瞬間だけだが、眼には仄かな暖かみが浮かび、表情にも体温が灯った。私はようやく弛緩した。

「全く疲れましたね。そろそろ終わってくれるといいんですが」

「ああ、安心するといいよ。次の部屋で捜索はおしまい。正真正銘、死体はそこにあることを保証するよ」

 しばらくの憩いの時間の後、徐に立ち上がった彼女は有無を言わさず私の手を取り部屋を出た。私は目を瞑るように言われ、それに大人しく従った。方向転換を幾度も行い、絨毯やタイルや床板の感触が続いた。彼女の手の冷たさが私の体温と溶け合ってきたころ、彼女は立ち止まった。どうやら最後の扉の前にたどり着いたらしい。

「さぁ、あけてごらん」と彼女は平板な調子で言った。

 扉を開けると、うらぶれた地下室への階段があった。統一感なけれども小綺麗だった屋敷からは想像の及ばぬ荒み具合であった。埃、砂利、蜘蛛の巣と、およそ不吉なものが続けてあった。おしまいまで降り終えると、彼女はまた、「あけてごらん」と言った。そこは素朴な霊安室であった。私たちが足を踏み入れると、燭台に置かれた無数の蝋燭に火が灯り、その様は遠くから眺めた漁火に酷似していた。そしてその地下室には、ある一つのものが枯れた花々と荊に囲まれて寂然と横たわっていた。

 今朝殺された筈のその人間は、長い年月を経てきたかのように白骨化していた。ボロついた花柄のワンピースを身につけ、頭部にはかつては優雅だったであろう帽子があった。私はその遺体を怖いとも不気味だとも思わなかった。正体もすぐに分かった。

「そう、これが言っていた死体だよ。ただし、夫なんてのは嘘っぱち」

 彼女の目元には陰鬱な影が落ちきっていた。取り憑かれている気配は感じられないが、これもやはりある意味では取り憑かれているのだろう。

「あーあ。これで事件は解決だね。おめでとう。殺された亭主は嘘っぱちで、実は私は幽霊だったの」

 心底残念そうで投げやりな調子だった。唐突な真実の吐露であったが、私は別段驚きはなかった。

 彼女が言うには、自分は幽霊としてこの館に住み着くことになったが、何せやることは限られる。ガーデニングから読書までひとしきりやったが、それでも時間は有り余る。というわけで持て余した時間のために時々こうした悪戯じみたことをやるのだそうだ。喉に突っかかっている言葉がまだあるみたいだったが、彼女はそこで説明を終えた。

「悪かったね、付き合わせて。さぁ、君も生活に戻るといいよ」

「僕はいいんです。楽しかったらそれで。しかし、美佳さんはこんな寂しい生活の連続でいいんですか」

「うん」彼女は諦観を滲ませながら言った。

「私はさ、別にもういいんだよ。ここを上がったら、右手側に出口があるから帰るといい。それで事件は解決。君だって幽霊なんかとは無縁な生活の方がきっといいよ」

「どうしてそんなことを言うんですか。美佳さんだって分かっている筈でしょう。貴方は僕の醜態を、心の底を、確かに覗き見た筈だ。それなら無責任なことを言ってないで、他人に期待を押しつけたらいいじゃないですか」

 幽霊の生活の静けさを思った私が言うと、鳶色の瞳を揺らした彼女は、奥歯をすり潰すような仕草をした。

「私はね、今までずっと壁と話しているような人生だった。つまり意味なんてなかったの。今更どうこうしようったって──」

 彼女の口調は切なさを帯びて激しくなったが、これは他の幽霊の仕業ではなかった。

「そうですか。でも、壁にも色々あるでしょう。木とか石とか鉄とか、あるいは水の壁だとか」

 長い年月の悲哀が篭った痛嘆を前に自分でも何を言っているかは分からなくなった。だけれども私は何かを言わねばならなかった。

「何? レンガ造りだから硬いとか、木製だから脆いとか、君はそんな枝葉末節にもならないことを言っているのね? 挙句の果てには水の壁だなんて。気弱なロマンチシズムもいいとこ。せいぜい壁と楽しんでなさいよ。私はもう全部飽き飽きなの」

 彼女はすげなく言った。気だるげな拒絶の告白の中に私は彼女の倒錯した欲求を感じた。

「壁に文字が現れるのを見たことがありますか?」

「文字? 何かの比喩ね」

 面を食らったらしい。

「はい、文字です。それは現れては消えゆく儚い生命ですけれど、連綿と繋がりゆく永遠のものです。打ちのめされた夜、どうしようもない壁にいきなり神秘の道筋が刻まれます。それはもはや壁を超えて、星に向かって進むものです。私は長い間それをずっと忘れていました」

「う、ん?」きょとんとしている。私は構わず続けた。

「僕なんかは自意識が羽ばたこうとしますからね、壁の文字に綾のある世界へと飛び込むための魔法の呪文をさえ見つけます。幻想かも知れませんが、そうすれば、部屋の中でも朝と夜はきっとあります」

 私は自分でも吃驚するくらい少年的なロマンチストになった。蝋燭の火が揺れて、形作られた私たちの影も揺れた。彼女は半ば呆れ、半ば楽し気の姿勢で言葉を紡いだ。

「そりゃいいね。でも私はね、夜明けの迎え方が分からないんだよ。どうやったら朝がやってくるのか。どうやって朝を迎えていたのか。知らないか、多分忘れちゃった」

「誰かに軽い気持ちで聞いたらいいです」

「今は朝ですかって?」

「はい」

「馬鹿馬鹿しいね」彼女は苦笑した。

「すみません、でも僕にとっての白昼夢はもう本当になってしまったんですよ」

「本当に馬鹿馬鹿しいね」また彼女は苦笑した。

「朝になったら起こしに行ってあげますよ、言葉遊びで恐縮ですが」

 私が言うと、彼女はからからと笑った。すると、部屋の中の蝋燭の火が一斉に消えて煙の群が上ったかと思うと、今度は一挙に強い輝きを放った。それは一瞬のことだったが、私たちは互いに顔を見合わせ、それぞれが生きている世界を確認し合った。二人の間に生と死が厳粛に胸襟を開き、それぞれに欠けている方の世界の一端を指し示した。漠然とした未知のものが分からないままに頭と身体に流れ込んだ。

「でもあなたの存在は神秘主義の光ですよ。幽霊のままで生きて、それから死ねばいいんだ」

「私の報酬は?」

「幽霊好きとのキャッチボール」

 私が傍にあった蝋燭の残骸を軽く放ると、美佳さんはそれを右腕ではたいた。

「雪白な冬の日にこそ思いっきりやりたい!」


 私たち二人は最後の扉を開けて外へ出た。お昼の太陽が優しげに照りつけ、それは神の国に行く門を開ける男女の白さだった。穏やかな風が二人の髪の毛を揺らした。

「なんだかひどく疲れたね」

「はい」

 心身共に不快感のないぐったりとした感じがあった。その場に留まって陽の光を浴びていると、身体が溶けてしまいそうな危うい心地よさに包まれていく。振りほどくように、また、彷徨い始めるように私たちは一歩を踏み出した。

 足を踏み出したそこは裏庭らしき場所で、たくさんの向日葵やサルビアが咲いており、池の方には澱みのない水がきらきらとしていた。久しく見ていない美しい光景で、しばらくの間、放心したように散策していると、美佳さんは無意識に握っていた手を振りほどき、「君には全部を言うべきだな」一人勢いづいて、タネばらしをするマジシャンのような振る舞いをし始めた。私はそれを心配に思い、彼女を宥めるような仕草をしたが、彼女は苦笑し、ちょっと間を置いてから、滔々と落ち着いて話し始めた。

「実はこの館にはね、沢山の亡者が集まってくるんだ。私は彼らの生前の想いを感じ取ってそれに同化することで、彼らの魂を浄化させる力があるんだけど、安全な浄化には観測者が必要だったんだ」

「それが私だったというわけですか」

「そういうこと、まぁでも、結局は自己満足な暇つぶしさ」

 つまり私は彼女の浄化活動の協力者としてこの館に招かれたらしい。幽霊が幽霊の浄化をしている可笑しさ。

「ちなみに観測者がいないと、どうなるんですか?」

「そのまま取り込まれて、自我を乗っ取られちゃうだろうね。私も幽霊なんだからそれで良い気もするんだけど、やっぱり死ぬと思ったら怖いね」

 美佳さんはやれやれと首を振って言葉を継いだ。

「皆、早いこと安らぎが欲しいんだね。最初の浄化があっという間に噂を呼んじゃったみたいで。それは良いんだけど、あいつら話が通じないからなぁ」

 私には相変わらず無数の疑問があった。本当だとしたらなぜ彼女はそんな能力を有しているのか。なぜ彼女は自分の浄化をしないのか、或いは出来ないのか。最初の浄化とはいったい。この屋敷に何の執着があるのか。何があったのか。何をしたいのか。

 しかし、どうにも口には上らぬ。私達は少し歩いた。緩やかな勾配を少し上がって鮮やかな緑が包む小高い築山から、湖に浮動する水仙を眺めた。彼女の瞳にも私と同じものが映っているのだろうか。私たちは屋敷で同じ夢を見たのだろうか。風が吹き、水仙が少し揺れたように見えた。

「じゃあ、あの身長逆転は何だったのですか」

 素朴なものが口をついて出た。彼女はちょっと呆気に取られて、

「あれはちょっとしたイレギュラーだよ。偶にあるみたいだ。説明がなくて悪かったね」

 美佳さんは控えめに両手を合わせてごめんをした。

「それにしても楽しかったよ。ありがとう」

 申し訳無さそうな顔をくしゃっと歪ませ、綺麗で儚い笑顔を見せた。

「私、ここから出られないんだけどさ、気が向いたらまた会いにきてよ」

 にぱっと笑った彼女は握手を求めた。それには単なる人間に留まらない不思議な暖かみがあって、私は非常に穏やかで落ち着いた感慨を覚えた。

「勿論、それは行きましょう。その際は気が向いたらで良いですから、あなたの話を聞かせてください」

 両者すっきりとした面持ちだった。私は必ず行こうと思った。


 いざ署の方に戻って報告をすると、そんな通報はなかったと、ふくよかな上司から小言を貰った。一旦帰され、次の日の朝、懲罰としてデスクの前に立たされながら、「この数日、お前はいったい何をしていたんだ? 」と何十回も言われた。やっぱり時の流れはおかしかったらしい。

「とんちきなことを言い出しかと思えば、急に雲隠れして、家にも署にも居ないんだからな」

 言い訳の仕様もなく、私は狐につままれたような気分で立ち尽くしていた。

「頼むからきちんとした説明をしてくれよ。今までずっと出来ていたじゃないか。っておい! 話を聞いているのか。」

「ええ、すみません。それが──」

 何を言っても納得しない上司とのやり取りも終わり昼休みになった。溜まった書類仕事が午後の業務にはあった。仕事を始めて一時間が経ち、私は水筒に水を汲みに行った。どうも身体は現実を歩いているのだが、頭が妙に希薄な夢心地だ。熱に浮かれた頭を冷やすため、表へ出て少し風に当たった。ベタつく暑さだが、署内よりは幾らかマシだった。水汲みの言い訳も立たなくなるくらい休憩した後、室内に戻ろうとしたときだった。私の脳内に突如として強烈な命令信号が走った。私は勢いそのまま上司の署内待機命令を無視して、居ても立ってもいられぬ夢遊病患者のように例の場所に蹣跚と向かった。

 午後が過ぎ去ってゆき、西陽が此方を見つめ始める時刻、私はあの屋敷の方へやって来た。果たして屋敷はあった。あの摩訶不思議がある前から存していたのだから当たり前だが、それでも私は安堵した。霧も晴れ、鬱屈とした前日の雰囲気は見る影もない。中庭には丁寧に剪定されたイブキの木が並んでいる。悪戯っぽい幽霊のくすくす笑いが風に乗って聞こえてきた気がした。

 まもなく上司が私を追ってきた。コーヒーの缶を握りつぶして渋面を作っている。

「不審に思って着いてきたんだが、またこの屋敷か。何がお前をここに執着させるんだ。ここはヨーク夫人の別荘地で、特段何もありゃしないぞ。何が殺人だ、馬鹿馬鹿しい」

 私は館の窓を飾るカーテンのひらひらと揺れるのを微笑みながら見た。どうも幽霊が手を振っているな。

「おい、何が可笑しいんだ。全部説明しろ。昨日からお前の様子はどこか変だぞ」

 私は上司の手前、やや遠慮がちに手をひらひらと振って返した。

「さっきからどこを見ている。今、お前は何に向かって手を振ったんだ。俺は見たぞ。あんまり気色悪い真似を続けるなら、仕事を辞めて貰わねばなくなるぞ。君にも生活があるんだろう。問題行動は止めにしたまえ」

「すみません、すみません。私は今日限りで退職することに決めました」

 私の突然の退職宣言に上司はたじろいだ。夕焼けに燃えた林の中でしばらくの間は頼りない説得を繰り返していたが、私が頑として譲らないのを認めて、元来の性格を取り戻し始めた。

「こんな実入りの良い仕事を辞めるなんて、お前やっぱりどうかしてるぞ。今日はもう帰って休め。話は明日よくよく聞くから」

「はい、そうします」

 私は深々と頭を下げた。あまり爽やかに返事をするので、彼はまたたじろいだ。不審な軽蔑を眼に宿した彼を見送ってから、森の中で思い切り身体を伸ばして、深呼吸した。肺の中に膨らむ空気に全身が喜びを感じた。蝉の声や土を踏みしめる音は今となってはもう雑音ではなかった。

「さて、明日からは──」


 この村の担当官である私は仕事を辞め、村外れに慎ましい一軒家を建てた。幽霊屋敷が近くにあるため、隣人は少々限られているが、私にはそれがちょうど良い。最近のマイブームは、日曜日の畑仕事終わり、幽霊屋敷でお喋りな幽霊と歓談に興じることである。何せ出てくる紅茶が美味しいのだ。況や茶菓子もである。

 無粋な質問はするなよ君たち。話はまぁまぁ分かるだろう。私は幼い頃より、未知との邂逅が夢であった。押さえつけられてきたロマン主義が高じて、今や私より幽霊が好きという物好きは少なくともこの村には居ない自信がある。

「貴方が馬鹿だって、皆の口の端にのぼってるわよ」

 さぁさぁ、楽しげな誰かの声が聞こえてくる。


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