残響と残像
――ぎぃ、と重たく鈍い音が石造りの廊下に鈍く反響した。
錆びついた鉄扉が、長年閉ざされていた恨みを吐き出すかのように、軋みながらゆっくりと口を開ける。
その隙間から漏れ出したのは、死んだ空気。冷たく、淀み、まるで何かの腐臭すら孕んだかのような靄が、ぬらぬらと這うように足元に絡みついてきた。
「こっちよ、リリィ!」
セリスの声が、重苦しい沈黙を破った。
リリィは反射的に駆け出す。だが、彼女の胸には不穏な重みがあった。
靄の中に何かが潜んでいる。足音が響くたび、まるで誰かがこちらを見ているような視線の気配があった。
そして視界が開けたその瞬間、リリィは立ち止まる。
広間。
そこは、異様なほどに広く、異様なほどに静まり返っていた。
石造りの天井はまるで大聖堂のように高く、どこか現実離れした不自然な広がりを見せていた。
そして、中央に並ぶそれが――目に入る。
巨大な水晶。否、“魔石”。
淡い青白い光を放つ結晶が、整然と、まるで神への供物のように並んでいた。
その光はどこか不気味で、生ぬるく、鼓動のように脈打っていた。
「……何、これ……?」
セリスの声はかすれ、空間に吸い込まれて消えた。
そのとき、魔石のひとつが、不意に内部から揺らめいた。
「……?」
リリィは目を凝らす。魔石の内側で“誰か”が。
まるで結晶の奥に、影が、指が、肌のようなものが、密やかに閉じ込められている。
初めは錯覚かと思った。だが、次第にその輪郭ははっきりしてゆく。
頬。睫毛。小さな唇。胸元まで伸びた髪。
「人……?」
呟いた瞬間、ぞわりと背筋を這う寒気。
魔石の中に閉じ込められていたのは、間違いなく“人間”だった。
胎児のように身体を丸め、目を閉じ、浮かぶように眠る少女。
幼く、無垢で、肌は透けるほどに青白く、まるで生きたまま凍りついたかのよう。
「……うそ……」
リリィは、無意識に後ずさった。
そして気付く ――ほかの結晶にも、同じように。
一体、また一体と、魔石の奥に“人”の輪郭が浮かび上がる。
少年、少女。皆一様に幼く、無垢で、そして生々しい。
ある結晶では、唇が微かに開かれ、今にも声が漏れそうだった。
別の結晶では、片目だけがうっすらと開き、その瞳の奥に虚ろな光が灯っていた。
「っ……!」
胸の奥を冷たい指が締め付けた。脳が拒絶しようとするより早く、
視界の隅で、ひとつの魔石の中の“それ”が瞼に焼き付く。
「こんなのっ……!」
リリィの声が震え、喉が焼けるように熱くなる。
セリスが、音もなく剣の柄を握りしめていた。瞳を見開き、
口を開こうとして――何も言えなかった。言葉が、追いつかない。
「これ……“生体媒体”……?」
リリィの呟きは、もはや絶望だった。
「さっき資料で見た……人間を魔石と接続して力を引き出す……禁忌の研究…………!」
そのときだった。
広間の高所、暗闇の中から、軋むような足音が響いた。
ゆっくりと現れた影。その声が、闇を裂く。
「正解よ」
闇から滑り出たのは、セラフィアだった。
その表情は妖艶で、壊れていた。瞳は陶酔に濡れ、唇には快楽にも似た微笑みが浮かんでいる。
「この研究を見たとき、私は確信したの。“人間は神を超えられる”って」
リリィの顔が怒りに紅潮し、叫んだ。
「あなた……人じゃない……!」
セラフィアは舞台の女優のごとく両腕を広げ、恍惚とした声音で囁いた。
「もう隠す必要なんてないわ。あの修道院は“収容施設”。適合者を集め、選別し……“素材”として最もふさわしい魂だけを、精選していたのよ」
「マリア……も、か?」
「ええ。あの子は特別だったから、特別に“泳がせていただけ”。いずれは――私の最高傑作になるはずだったのに」
セリスの怒りが、抑えきれずに爆ぜた。
「貴様……ッ!」
「でもね、まだ足りないの。だから……あなたたちにも、“なって”もらうわ。素材に」
その言葉と同時に、彼女の背後で魔石の一つが、不気味に脈動を始めた
ぬらり、と管状の構造体が動く。うねる触手のように背後から伸び、セラフィアの背へ――
「――っあ……っ」
突き立つ。ぞわりと背筋を撫でるような悪寒。セラフィアの身体が微細に痙攣し、呻きとも喘ぎともつかぬ声が洩れる。快楽か、苦痛か――その狭間の音。
彼女の肌に、光の血管が這い始める。魔力が――いや、命が、魔石から逆流していた。
次の瞬間、セラフィアの肉体が軋みながら異形へと変貌してゆく。
空に逆巻く髪。紅蓮のごとく灼けた瞳。皮膚の奥底からにじみ出す魔石の輝き。人でありながら、神性を帯びた異形へと昇華していく。
「美しいでしょう?」
その姿に、戦慄を覚えたセリスとリリィが、同時に剣と銃を構えた。
「リリィ、援護を!」
「任せて!」
リリィが魔銃を構え、輝く魔弾を連射する。しかしすべて、魔力で形成された障壁に弾かれた。
「っ、効かない……!?」
炸裂する魔弾が壁を焦がし、周囲の魔石を砕いても、セラフィアは無傷のまま浮遊していた。
次の瞬間、セリスが地を蹴る。
「喰らえッ!!」
剣閃が迸る。鋭く放たれた斬撃が、セラフィアの腹部を断ち切らんと迫る――
「ふふっ」
だが刃は、透明な障壁に弾かれた。金属が弾けるような衝撃音が広間を満たす。
「……なにっ!?」
セラフィアが掌を突き出す。そこに紫電を帯びた魔障壁が浮かび上がった。
「散りなさい」
刹那、空間が閃光に焼かれた。
轟音とともに爆裂する光弾。床が割れ、石柱が崩壊し、セリスとリリィの身体が宙を舞う――そして吹き飛ばされた。
「ぐっ……!」
「リリィッ!!」
重く床に叩きつけられ、呻きながらも立ち上がる二人。
耳鳴りが残響し、視界は白く霞む。その中で、セリスが魔力を呼び起こす。
赫剣が咆哮のように形を成す。怒りが剣を紅に染め、背丈を超える魔剣が手に宿る。
「燃えろ……!」
炎を纏いながら、セリスが疾駆する。
「援護するわ!魔銃解放!!」
リリィの魔銃が咆哮し、極大の光弾がセリスの横を駆け抜ける。衝撃が障壁に激突し、爆炎を巻き起こす。
その爆炎を、セリスの剣が切り裂いた。
「やあああっ!!」
リリィの生んだ裂け目へ、渾身の斬撃が叩き込まれる。
――だが、刃の手応えは鋼の如く、硬い。
「効かない……!」
「んー、物足りないわぁ」
セラフィアが指をくいっと立て、妖艶に笑う。
再び放たれた魔光弾が、二人を――吹き飛ばした。
轟音。割れる石床。二人は瓦礫とともに沈み、静寂が広間を支配した。
「ダメ……っ、通らない。あの魔力は……桁が違う。人間を媒介にした魔力には、太刀打ちできない……!」
リリィが膝をつき、魔銃を支えながら苦しげに呻く。額には汗が滲み、指先は微かに震えていた。全身を覆う重圧。それは、ただの力の差ではない。魔力という名の、異質な神意に近い存在に晒された恐怖だった。
「わかってる……そんなこと、百も承知だ」
セリスはゆっくりと立ち上がり、己の剣を地に突き立てた。足元は血と瓦礫に濡れ、足取りは重い。それでも、眼差しだけは決して折れなかった。
「だけど……だからって、逃げることはできない……」
リリィが顔を上げた。その瞳に、わずかな驚きと、共鳴する決意が宿る。
「……バカね。私も逃げない」
「フフ……それでこそリリィね」
互いに頷き合う刹那。
「んー……ぞくぞくしちゃう」
場違いな声が空間を震わせた。
セラフィアが陶然と身を震わせ、両手で自らの身体をなぞる。肩、胸、腹、脚へと――まるで官能に酔ったかのように、指先を這わせながら笑う。
「この絶望。この恐怖。人間が絶対に抗えない力の差……ねぇ、感じる? この悦び……!」
両目を見開いたまま、狂気の色を孕んだ瞳でセリスたちを見下ろす。
「これが、人間を媒介にした魔力……“人の魂”っていう最高の素材から搾り取った、純粋な力。あなたたちの剣や銃じゃ、絶対に届かないのよ」
確かにその言葉に、嘘はなかった。
空間に満ちる魔力の密度は、ただの魔導器のそれではない。人の命を芯にして、感情を、苦しみを、すべてを搾って精製された――純粋な“邪悪”の力。
「……ふざけるな」
セリスが剣を握り直す。その手は血に濡れ、震えている。それでも、握りは離れなかった。
「そんなもので作られた魔力には……絶対に屈しない!」
「ふうん……?」
セラフィアの目がわずかに細められ、唇の端が興奮に震える。
「まだ吠えるの? いいわ、もっと見せて。もっと私を――昂らせて」
こちらににじり寄るセラフィアの姿を端にとらえながらリリィは呟く。
「……私の魔銃解放は、魔力を集約して放つ。だから……」
リリィは声をひそめ、微かに揺れる視線をセリスに送った。
「最大出力に達するまで――時間を稼いでくれる?」
その目は怯えてなどいなかった。鋼鉄の意志を湛え、ただ前だけを見据えていた。
セリスは、一瞬だけ瞼を伏せ、静かに呼吸を整えた。
「やれるだけ、やってみる」
それは決して強がりではない。無謀だと知りながらも、それでも抗うことをやめない――その覚悟が、彼女の身体に宿っていた。
セリスの能力はその怒りに呼応する。
怒りが、剣に流れ込む。燃え滾るような感情が赫剣を赤く染め上げ、その刃が今までにない輝きを放った。
「――いくぞッ!!」
吠えるような叫びとともに、セリスはセラフィアに向かって駆けた。
その身を包むのは、紅蓮の如き魔力の炎。刃の先には、確かな殺意が宿っている。
「来なさい……!」
セラフィアは余裕の笑みを浮かべ、手を掲げた。即座に展開される漆黒の魔障壁――
セリスの巨剣がそれに叩きつけられる。
「――ッ!」
轟音と共に火花が散り、激しい衝撃が周囲を揺らした。
だが、刃は通らない。魔障壁は容易く破られるようなものではなかった。
それでも、セリスは一度の攻撃で止まらなかった。身体を翻し、宙を舞い、再び切りかかる。
四方八方から――その攻撃のすべてが、リリィの存在からセラフィアの意識を逸らすための動きだった。
一方、リリィは静かに膝をつき、巨銃を構えて一点を見つめていた。
「まだ……まだ、足りない……!」
周囲の空気が震え、魔力が粒子として視認できるほどに凝縮されていく。リリィの金糸のような髪がふわりと舞い、魔力の奔流に晒される。
バチバチと弾ける音が周囲を支配し、小石が魔力の圧に弾かれて宙を舞う。
その光景は、まるで神が降臨する前兆のようだった。
「っぐ……!」
セラフィアの放った一撃にセリスが苦悶の声を上げる。セラフィアの放った光弾が、彼の胸元に直撃した。とっさに剣で防御するも、魔力の衝撃が全身を突き抜け、彼女の体は地面に叩きつけられる。
「終わりにしましょう」
セラフィアが高く手を掲げ、魔力を凝縮し始めた。全てを焼き尽くすつもりだ。セリスを殺す、そのための魔力だった。
だが――
「――魔銃解放!!!」
冷静な声が、風を裂いて響いた。
リリィの周囲が光に包まれ、その手に握られた魔銃が、天空を穿つ砲口へと変貌を遂げていた。
その瞬間、彼女が放った巨大な光弾が大気を焼き裂き、咆哮のごとき轟音と共に前方へ突き抜けた。
セラフィアの目が見開かれる。
「……なッ――!?」
魔障壁が、音もなく砕けた。
砕け散る魔力の結界を突き破り、光弾は一直線に彼女の胸元を穿ち――
セラフィアは、灼熱の閃光に包まれ、叫び声と共に吹き飛んだ。
爆光がすべてを飲み込み、砂塵と灼熱の風が辺りを駆けた。
セラフィアの姿は、光の彼方へと吹き飛ばされた――。
「やっ……た?」
リリィの声が震える。肩で息をしながら、彼女は焦点の合わない目で煙の向こうを見つめた。
セリスもまた、膝をつきながら剣を杖代わりに立ち上がった。己の放った渾身の一撃と、リリィの《魔銃解放マギ・リベリオンが決まったというのに、胸の奥に広がるのは、達成感ではなく、妙な胸騒ぎだった。
――そして、その不安はすぐに現実となる。
「……ふふ……ふ、あは、あははははっ!」
笑い声。血混じりの、狂気すら滲む女の声が、煙の奥から響いてきた。
「まだだ……まだ足りない……もっと、もっと、私を満たしてよォ……!」
煙が割れ、その中から再び姿を現したセラフィア。
肩からは血が流れ、服も裂け、髪も乱れていたが――彼女の体は、確かにまだ立っていた。全身から噴き出す魔力が、まるで地獄の業火のように渦巻いている。
「そんな……最大出力でも……」
リリィが呆然と呟く。あれほどの一撃を、喰らってなお立ち上がれるはずがない。それなのに。
禁術によって強化された体は最大出力をもっても致命傷を与えるには至らなかった。
セラフィアは唇を吊り上げ、眼前の二人に手をかざす。
「そんな半端な魔力じゃ、足りないのよおおおッ!!」
直後、轟音と共に撃ち出される禍々しい魔弾。
光も音も追いつけぬ速さで迫るその一撃は、セリスとリリィの身体を容赦なく弾き飛ばした。
「ぐっ――!」
「きゃあっ……!」
リリィは地面を転がり、巨銃が手から滑り落ちた。セリスは衝撃で武器を手放し、胸元から鮮血を散らす。
砂煙が舞い、砕けた岩が辺りに降り注ぐ。
二人とも、もう立ち上がるのがやっとだった。身体は満身創痍、魔力の枯渇も限界に近い。
リリィは苦しげに咳込みながら、潰れそうな声で呟く。
「……もう、体が……動かない……」
セリスもまた、肩で荒く息をし、額から血を流しながら、拳を握った。
そこに後から息を切らしてユイトが姿を現した。
「……セリス!? リリィ……!」
駆けつけたユイトが、荒れ果てた大地に響くように叫ぶ。
吹き飛ばされた瓦礫の山。その中に倒れ伏した、血に塗れた二人。かすかに胸が上下しているのを確認し、ユイトの喉が詰まった。
彼の目に映るのは、空中に優雅に浮かぶ異形の女――セラフィア。そして無数の魔石。。
管に繋がれ、まどろむ少女たち。その中に、ユイトは見た。
――エルナ。
彼女の細い体が、まるで冷たい標本のように閉じ込められている。
「……!」
喉が焼ける。言葉にならない。心臓が跳ね、指先がわななく。
「次は……あなたの番ね。最高の素材が来たわよ」
セラフィアの瞳が、甘美な殺意に輝く。
その視線に、ユイトの怒りは臨界に達した。
「……ッ、ふざけるな……ッ!」
怒声とともに、大気が震えた。
剣を抜き、刃が閃き、怒りのままにユイトが跳躍する。
――だが。
「遅いのよ」
セラフィアの冷笑。再び纏われる障壁に剣は弾かれた。
目に映ったのは、空間そのものが歪むような不可視の壁。魔力の膜を越えた、“神域”と呼ぶべき絶対障壁。
「ぐッ――!」
凄まじい反動。剣が震え、肘が裂ける。
反動で体勢を崩したユイトは倒れこむセリスとリリィの前に吹き飛ばされる。
セラフィアは悠然と手を掲げた。
――黒い魔力。
その塊は濁った光となって形を成し、空間を支配した。
ドオオッ!!
雷鳴のごとき轟音が天地を貫き、閃光が空気を焼いた。
灼熱の魔弾が放たれ、大地を裂きながら襲い来る。死の奔流だ
「……っ、くそ!」
ユイトはとっさに体を翻し、セリスとリリィの前に立つ。両腕を広げ、背筋を伸ばし――その身を盾とした。
自分はどうなってもいい。無謀だとわかっていてもとっさにそうするしかなかった。
(……守れない……!)
視界が光弾を捉えて思わず目を瞑る。
だがその刹那、空間が変わった。
音が消え、風が止む。
魔力の奔流が、まるで次元の裂け目に吸い込まれるように、掻き消えた。
「……っ!?」
ユイトが目を見開く。彼らを包むように、淡く輝く半球状の障壁が現れていた。
波紋のような魔力が外部の攻撃を吸収し、霧散させてゆく。
「これは……!?」
気配を感じ、振り返るとそこにマリアが立っていた。
濡れた修道服が肌に張りつき、雫がぽたぽたと滴る。だが、その瞳だけは、濁りなく鋭く、セラフィアを真っ直ぐに射抜いていた。
「これは……マリア……君が?」
マリアは無言で頷く。その視線が、魔石のひとつに引き寄せられる。
その魔石の中。
――そこに眠る、少女。エルナ。
否、眠ってなどいない。
魔石の中、エルナの目はうっすらと開いていた。虚ろで、焦点の合わぬ瞳。張り付いた時間の中で、かすかに震える睫毛。
まるで何かを訴えかけるような表情を浮かべている。
「……エルナ……?」
その名が、喉の奥からひび割れたように洩れた。
「いや……嘘……」
マリアはふらりと一歩、二歩と進む。脚が震え、障壁の内側で膝をついた。
「起きて……目を覚ましてよ……。そんな……嘘よ……」
その肩が、小さく震える。あふれた感情が言葉にならず、空気を震わせる。
セラフィアは冷ややかに嗤った。
「ふぅん……やっぱり、いい魔力。あなた、本当に最高の素材よ、マリア」
侮蔑を込めたその声に、マリアはようやく気づく。
自分がどれだけ欺かれ、どれほどの罪を黙認してきたのか――
見渡せば、魔石に封じられた子供たち。
「そんな……っ……嘘……!」
「あなたたちがこの街に来たときに受けた“儀式”――あれで、魔力量は丸わかりだったの」
ユイトの脳裏に、小刀で血を採った儀式の情景が蘇る。
「優秀な魔力を持つ者はね、選別してそのまま“素材”にするのよ」
甘美な悦びを含んだ声で語るセラフィアの視線が、いまだ倒れて動けないセリスを刺すように見据えた。
「そして……こそこそ嗅ぎまわっていたことも知っているわ。“あのとき”の、鼠のようにね」
その妙な抑揚に、ユイトが眉をひそめる。
「……“あの時”?」
セラフィアは唇を吊り上げ、舞台女優のように語り始めた。
「ええ。“数年前にも”あったのよ、こういうこと。あなた、ヴァレンティアの娘よね」
セリスの顔が、こわばる。
「あなたの父親が率いていた調査団が、ここに踏み込んできたの」
「……父のことを……?」
震える声でセリスが問い返す。
「で……でも、その時は“何もなかった”と……報告したはず……報告書には、“異常なし”って……!」
セラフィアは喉の奥で笑いを噛み殺すように、くすくすと笑った。
「まだ気付かないの? あなたの父親は、すべてを“見た”のよ」
時間が止まったようだった。
その意味を解釈することも出来ない。
ユイトは絶句し、リリィは唇を噛む。マリアは凍ったように目を見開いたままだ。
「……どういう……意味……」
「魔石も、研究施設も。ここで行われている“すべて”を見た。そしてそのうえで、“何もなかった”と報告したのよ」
「お前の」
あえて強調するような口ぶりで続ける。
「父親はね」
現実が遠ざかっていく感覚に、セリスの膝が震える。
――父が、見ていた?
――この惨劇を、知ったうえで、黙っていた?
「……うそ……」
セリスが、か細い声で呟いた。
「うそ、でしょ……」
何を守るための沈黙だったのか。
誰を守り、何を見捨てたのか。
信じていた“父親”の背後に広がっていたのは、
――冷たく、底知れぬ、巨大な陰謀の影だった。
セリスの呟きが、砕けるように空気に溶けた。
ユイトは、それを聞いていた。いや、感じていた。胸の奥のどこかで、確かに。
視界に焼きついたものがあった。
魔石に閉じ込められた小さな影。
エルナ――
マリアとエルナの美しい光景。
無邪気な子ども達の笑顔。笑い声。
つい数日前みた光景が遠い昔のように反響する。
子どもたちの表情が、瞼の裏に焼きついていた。恐怖に凍りつき、涙も乾ききらぬまま、石へと閉じ込められた、無垢な姿。
(……俺は、何を……)
それは自問ではなかった。裁きのような、ひどく澄んだ怒りだった。
静謐な冷たさの中に、灼けるような憤怒が潜んでいた。
今までの人生で一度も味わったことのない強い怒り。凪いだ湖の底で、噴き上がるマグマのように。
「…………っ」
ユイトの中で何かが蠢いた。熱く、重く、そして冷たい。それは相反する感情の奔流――いや、“奔流”ではない。渦巻く何か。沈黙の深海から浮上する、名状しがたい“何か”。
魔力が、膨れ上がる。
けれどそれは、今までのような力ではなかった。
馬鹿馬鹿しいと自身で一蹴したようなかつての力。それではない何かがうずいていた。
もっと深い、底の底――魂の奥底から、黒く光るものが蠢いている。
とぼとぼと、セラフィアに向かって足が動いた。
重く、痛みを孕んだ肉体が、一歩ずつ地を踏みしめて進む。
セラフィアはそれを見て、嘲るように笑った。
「まだ来るの? 命知らずね……。さっきのでも足りなかったなら、もっと――」
セラフィアは嗤った。勝者の余裕。敗北を嘲る者の顔。
ユイトの足取りは、止まらない。
砂塵の舞う戦場を、彼はただまっすぐに、静かに歩いていた。
風に煽られる髪。裂けた衣服の隙間から覗く血の跡が、歩を進めるたびに震えていた。
セラフィアの指先が、無造作に天を差す。
「遊んであげるわ」
――光弾が放たれた。
蒼白の閃光。雷鳴のような音が空間を切り裂く。まるで稲妻が地に墜ちるかのような、
暴力的な魔力の奔流。それは一瞬でユイトを貫くはずだった。
だが。
「……っ!?」
セラフィアの目が見開かれた。
ユイトの姿は、そこに――なかった。
彼は、あらぬ方向へ滑るように身体を傾け、光弾を回避していた。
人間離れした、否、「人」という存在の枠組みから逸脱した、滑らかで、無駄のない動き。
それは、殺意でも防御でもない。ただ、「そこに当たらない」という確信の元に編まれた、完璧な軌道。
「……おかしいわね」
セラフィアは笑いながら、第二撃、第三撃を繰り出す。
だが、どれも当たらない。
無意識のうちに、魔力の流れと空気の揺らぎ、全てを計算に入れ、ただ一歩、次の一歩を“確定した未来”のように踏みしめている。
それは、かつてリリィとの闘いで見せた人知を超えた動き。
「……ユイト……?」
セリスの掠れた声が風に流れる。リリィの目が見開かれ、声なきままに唇が震えた。
だが、ユイトは彼女たちを見なかった。
彼の眼は、ただひとつ――セラフィアだけを見据えていた。
その瞳は、いつもの温かな色ではなかった。
まるで、氷のようだった。
セラフィアが震えた。身体ではなく、心が。何か得体の知れぬ“底”を、彼女は初めて覗いた。
ユイトは応えない。言葉すら必要としない。ただ、一歩、また一歩と間合いを詰めてくる。
その目には、怒りも、悲しみも――赦しもなかった。
静かに、確実に、彼女の“最期”を見据える狩人の目。人間が持ち得るはずのない、冷たい殺意。
セラフィアは初めて、自らの背中に戦慄を感じた。
ユイトの足元から、地を裂くように魔力が漏れ出す。かつての「奔流」ではない。それは、深海の底で眠っていた“渦”だった。
ユイトの手が、すっと持ち上がった。
「それは効かないわよ」
ユイトの能力を知っているであろうかという口ぶり。
セラフィアは、鼻で笑った。余裕の笑み。見下しと侮蔑の混ざった、あの歪んだ顔。
――その瞬間。
ユイトの視線が、セラフィアの目を射抜いた。
それは怒りでも、憐れみでもなかった。冷たい水鏡のように澄んだ――“真実”そのものだった。
「……これは、蒼穹の奔流じゃない」
声は低く、静かに――だが、地の底から響くような圧倒的な重みで降りた。
セラフィアが笑みを凍らせた瞬間、ユイトの掌がわずかに揺れた。
見えざる“流れ”が、空気を切り裂く。
それは魔力でも、液体でもない。もっと根源的で、もっと忌まわしいもの――“記憶”だった。
セラフィアの瞳が見開かれる。
次の瞬間、ユイトの中に溢れ込む映像――否、感覚。嗅覚。聴覚。皮膚を裂く痛みと、骨を軋ませる恐怖。
捨てられた子。
見知らぬ小屋。
汚れた服。鉄格子。陰湿な大人たちの罵声。
泣き叫ぶ声はやがて乾き、痣だらけの体が震えるだけの存在へと変わる。
「やめて……やめて……ごめんなさい……!」
木霊する声。その声が、少女の頃のセラフィアのものであると、ユイトは本能で、直観で理解した。
あの高慢で傲岸な修道院長の仮面の奥に、こんなにも壊れやすい心があったのかと。
叩きつけられる木の棒。何度も、何度も、何度も。
赤く腫れ上がる肌、裂ける皮膚。罵声。孤独。飢え。闇。
暗い部屋。狭い檻。漏らした尿と糞の匂いが充満するその中で、泣きつかれ、力尽き、ただ丸くなる幼子の姿。
乾ききった涙の跡。震える裸足。ぬかるんだ床に、力なく漏らされた温もり。
それは、誰にも見せてはならないはずの記憶――いや、“恥”だった。
ユイトは目を閉じる。
だが、終わらない。
彼は、セラフィアの眼を見据えて、その瞳に蓄えられた水分を媒介に、
それらすべてを――彼女自身へと“返した”。
「……ひっ、あ、ああ……やめて、やめてぇっ!!」
その瞬間、セラフィアの体が痙攣した。
セラフィアの顔が崩れる。美貌と傲慢を支えていた仮面ような笑みが、ひび割れ、一瞬で瓦解した。
魔力で浮かんでいたその身は力を失い、地面へと叩きつけられた。
「いやぁあっ……やだ、やだ、やだぁああああああああ!!!!」
「ごめんなさいっ、ごめんなさい、もうやめてぇぇ……見ないでぇ……!」
高貴な修道院長など、もはやどこにもいない。
そこにいたのは、心の奥底に封じたはずの“惨めな少女”――
晒されることを何より恐れた“弱さそのもの”だった。
地面に手をつき、震える指で顔を覆いながら、セラフィアは壊れた玩具のように何度も繰り返した。
「ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ、ごめんなさい……ごめんなさいぃ……」
その喉は掠れ、涎と涙で濡れ、声にならぬ嗚咽が途切れ途切れに漏れる。
そして――
――しょわあああっ……
沈黙を切り裂いたのは、水音だった。
セラフィアの太ももの間から、熱を帯びた液体が音を立てて流れ落ちる。
尿だった。屈辱と恐怖に極限まで追い詰められた身体が、無意識に解放してしまった、生理の敗北。
濡れた布が貼り付き、彼女の下肢を伝い、地面へと広がっていく。
湯気が立つ。
その温もりは、冷たく張り詰めた空気に、異様な生々しさをもたらしていた。
鼻をつくなまぐさい臭気。
あまりに人間的で、あまりに情けなく、誰よりも“セラフィア自身が見たくなかった現実”。
ユイトの能力がそうさせたのではない。
ただ、記憶の中にあった“絶対に触れてほしくなかったもの”に触れられた、その恐怖が彼女を壊したのだ。
誰も言葉を発しなかった。
笑う者も、嘲る者もいない。ただ、凍りつくような沈黙があった。
ユイトの掌の輝きが、ようやく静かに消えた。
「お前がしたことの罪は――消えない」
その声には、怒りも慈悲も宿っていなかった。ただ、ひとつの裁きのように。
風が吹いた。
セラフィアの身体は、まるで重力に逆らえず崩れ落ちるように、地に伏した。
彼女の身体を覆う粗末な修道服の裾が、濡れた石床に貼り付き、彼女の震えとともにわずかに揺れている。湿気に満ちた地下の空気が、肌にまとわりつくように重たく、ひとつひとつの呼吸すら痛みを伴うほどだった。
ユイトは、何も言わずに立ち尽くしていた。
その目に映るセラフィアの姿に、もはや敵意の色はなかった。
その眼差しには、祈りにも似た光が宿っていた。赦されざる罪を赦そうとする愚かさを知りながら、それでもなお、誰かの魂が報われることを願わずにはいられない――そんな、深く静かな哀しみを湛えていた。
「……ユイト……一体何を……」
セリスが名を呼んだ。音にならないほど微かな声。けれど確かにその名は、空間に響いた。
ユイトは答えず、ゆっくりと掌を下ろし、瞼を閉じた。
それは決別の所作であり、同時に、祈りのようでもあった。
そして――彼は、セラフィアに背を向けた。
その瞬間、セラフィアの脚から力が抜け、音もなく床へと崩れ落ちた。
「――ぁ……あ、ああ……っ……!」
喉の奥から洩れた嗚咽は、ひび割れたガラスのように痛ましく、低く湿った空間に沁み渡る。
それは敗北の声ではなかった。
それは、檻に囚われた記憶に突き刺され、もがく魂の、断末魔だった。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
眼は虚ろでまるで生気を感じなかった。
擦れた声で繰り返されるその言葉は、もはや誰に向けられたものでもなかった。ただ、失われた過去に向けて、祈るように、呪うように、風のない空気に沈んでいった。