祈りの奔流
リリィとの出会いからほどなくして3人は旅立った。
神殿の塔が霞に溶けるほど遥か遠く、鈍く光る湖面にその影を落としていた。
水面に浮かぶように佇むその塔は、まるで天と地の狭間に咲く幻影のようだった。
「……ここが、ヴェルティアか」
幻駆車が最後の坂を登りきったとき、霧に包まれていた視界の先に、白き尖塔がゆっくりとその輪郭を現した。
霧の帳を裂くように、神の領域が静かに姿を現す。それはまるで、俗世から切り離された“楽園”のごとく。
「アルセリアの管轄からは外れてる。あそこは教会の直轄地……言うなれば、“神の国”よ」
セリスの声は静かでありながら、どこか冷えた響きを帯びていた。信仰への畏れか、それとも別の感情か。
ユイトの脳裏には、道中にセリスから聞かされた情報がよみがえる。
この街は、王国の法すら届かぬ“聖地”。教会が築き、今もなお支配を続ける独立の地──
政ではなく祈りが支配する街。それが、ヴェルティアだった。
「なんでそんなに影響力が?」
眉を寄せて問うユイトに、リリィが肩をすくめる。
「古代からの巡礼地って話ね。森と湖に囲まれた天然の聖域。奇跡が起きたっていう伝承もあるし、今でも巡礼者が全国から集まる。
特に、大聖堂と修道院──その二つが、この街の中心よ」
彼女の言葉に応えるように、霧の向こうから微かに鐘の音が響いた。
清らかで、どこか夢幻めいた旋律が霧の中を漂い、心を洗うように広がっていく。
幻駆車が坂を下り、街道へと進むにつれ、ヴェルティアの全貌がゆっくりとその姿を現す。
天を突くようにそびえる白い尖塔。薄い霧を切り裂いて立つその姿は、神の存在そのものを象徴しているかのようだった。
石畳が整然と敷かれた通りには、白亜の石造りの建物が連なり、どれも古めかしくも荘厳な気配を湛えている。
柔らかな日差しを受けて、建物の窓が光を反射し、街全体が淡い輝きを放っていた。
広場には巡礼者たちが集い、静かに祈りを捧げている。
旅装のまま膝をつく老女、杖を握ったまま目を閉じる青年──誰もが、神聖な空気に包まれながら、ひたすらに内なる信仰と向き合っていた。
「……なんか、綺麗なところね」
リリィの呟きに、ユイトも小さく息をついた。
「黒い噂が流れてる街とは思えないな」
セリスは何かを考えるように黙したまま、街の空気に意識を研ぎ澄ませていた。
やがて街の門をくぐると、白装束を纏った神官が一人、静かに立っていた。
「ようこそ旅のお方。ヴェルティアへ──神の聖域に立ち入る者は皆、名を記し、血を差し出していただきます。
それが、聖なる誓いであり、記録でございます」
「血……?」
ユイトが警戒するように身構えると、リリィがそっと袖を引き、囁いた。
「大丈夫よ。形式的なものみたい。巡礼者は皆やるって聞いたわ」
神官に導かれ、一行は門脇の小さな礼拝堂へと案内される。
礼拝堂の中には柔らかな光が差し込み、白い石の床には古の祈祷文が刻まれていた。
卓上に置かれた銀の小刀は、繊細な彫刻と神具のような気品を湛え、まるで信仰そのものを象徴しているかのようだった。
神官がその小刀を取り、ユイトの指先にそっと触れる。チクリと微かな痛み。
赤い一滴が小瓶に落ちると、ふわりと青白い光が瓶の中で花のように広がった。
「これで、あなたの血はこの地に刻まれました」
荘厳な声で神官はそう告げると、ユイトに筆を手渡し、名を記すよう促す。
──書けない。
転生して以降、言語の理解には困らなかった。読めるし、意味もわかる。だが、「書く」という行為だけが別だった。
筆を持つ手が、まるで異物を扱うように震えていた。
「書けないの?」
リリィが意外そうに尋ねた。
「田舎育ちなもので」
ユイトは誤魔化すように笑うと、セリスが無言で筆を取り、自然に代筆してくれた。
「田舎ねぇ。そういえばユイトって、どこから来たの? なんでセリスと旅を?」
無邪気な追及にユイトが曖昧な笑みで答えようとした、そのとき──
「ようこそ、巡礼の皆さま。お部屋をご案内いたしますね」
その声は、空気を優しく切り裂くように、美しく響いた。
開いた扉の向こう──そこに立っていたのは、一人の少女だった。
銀糸のように繊細な髪が肩に流れ、湖面のように澄んだ碧の瞳が、静けさと深みを湛えていた。
純白の修道服に身を包み、胸元には蒼のスカーフ。淡く光を受けて揺れるその姿は、この聖地に咲いた一輪の聖花のよう。
「私はマリア。マリア・セラフィーナ・ノアルトと申します。この修道院で奉仕しております。どうぞ、ゆっくりなさってくださいね」
その声音は、絹のように柔らかく、どこか慈愛を含んでいた。
言葉のひとつひとつが霧に溶け、空気そのものを浄化するような気配すら漂わせている。
セリスが軽く頷き、「よろしく」と名乗ると、ユイトとリリィもそれぞれ自己紹介を済ませた。
「お部屋にご案内しますね」
「部屋?」とユイトが尋ねると、マリアは微笑みながら答えた。
「はい。巡礼者の方は修道院に泊まっていただく決まりなのです」
礼拝堂を出ると、街を横切りながら、マリアの案内のもとで短い散策が始まった。
白い石造りの家々の間を抜ける風は涼やかで、道端の花々がその風に揺れている。
小さな噴水のそばでは、幼い修道女が祈りを捧げていた。すべてが、静かで、整然としていて、美しかった。
「どちらからいらっしゃったのですか?」
「王都からよ」リリィが応える。
「まぁ……遠いところから。さぞお疲れでしょう」
マリアはそう言って、ふと微笑んだ。
その所作の一つひとつに、曇りのない品格と清らかさが宿っていた。
リリィでさえ、その凛とした佇まいに、自然と表情を和らげていた──
道の両脇には、低い石垣に囲まれた花壇があり、淡い紫や白い花が、ひっそりと露を宿して咲いている。
古い井戸のそばでは、小さな鳥たちが水たまりをつつき、時折羽ばたいて霧の空へと飛び立っていった。
遠くから、薪を割る乾いた音が風に乗って聞こえる。
市へと向かう老婦人が、背中の籠に野菜を揺らしながら挨拶を交わしていく。
どこかの家の窓辺には、小さな十字架が吊るされ、祈りの歌がかすかに響いていた。
声は幼く、たどたどしいが、それだけに真っ直ぐで、聴く者の胸を静かに打つ。
すれ違った修道服の少女たちが、手をつなぎながら一礼してくると、マリアも微笑んで頭を下げた。
信仰と暮らしが、まるで水と空気のように、自然にこの街に息づいている。
黒い噂の話を忘れるほど穏やかな街だった。
霧を纏った街並みを抜けるうちに、やがて白亜の壁に囲まれた修道院がその輪郭を現した。
霞んだ陽光のなか、高く伸びた尖塔が雲間に溶け込み、まるで天へと祈りを捧げるかのようにそびえ立っている。石造りの門扉は音もなく開かれ、マリアはその先へと一行を静かに導いていった。
敷石の敷かれた小道には、朝露がまだ残っている。足元から立ちのぼる湿気のなか、風に乗って修道院の中庭から鐘の音がわずかに届いた。澄んだ音色は、どこか胸の奥を優しく撫でるようだった。
「ねぇ、マリアって……ずっとここで暮らしてるの?」
リリィの問いが静けさを破った。
マリアは歩みを緩め、小さく微笑んだ。
「はい。私は物心ついたころから、ずっとこの修道院にいます」
その声には、懐かしさと敬意が静かに滲んでいた。
「……小さい頃に、この場所に拾っていただいたんです。両親のことは、よく覚えておりません。けれど、院長様が手を差し伸べてくださって……それからずっと、ここが私の家になりました」
「修道院長って、どんな人なの?」
リリィの問いに、マリアの目がふわりと細められる。
「とても優しい方です。厳しいときもありますが、どこまでも、慈しみの心を忘れない方。私にとっては……母のような存在です」
「今日もいらっしゃるんですよ。普段はお忙しくて留守のことも多いのですが──」
そう言いかけたときだった。
白石の回廊の向こう、陽の差すアーチの下から、衣擦れの音がそっと響いた。一人の女性が、淡い光に包まれながら姿を現した。
ユイトたちは、思わず足を止めた。
流れるような黒髪に、うっすらと紅を差した頬。年齢を重ねているはずなのに、その顔立ちはどこか少女のような透明さと若さが残りつつ、成熟した威厳と深い知性が溶け合っていた。
白金の刺繍が施された法衣は歩くたびに柔らかく揺れ、その立ち姿には神聖な品格が、呼吸するように自然と宿っている。
「──まあ、マリア。巡礼の方々をお迎えしてくれていたのね」
その声は、秋の日差しのように柔らかく、聴く者の心を温かく包み込んだ。
「セラフィア様……!」
マリアが嬉しそうに駆け寄り、その両手を軽く取った。
セラフィアと呼ばれた女性は、ユイトたちにゆっくりと視線を向けた。
マリアはユイト達に向きなおって言った。
「皆さん、修道院長のマザー・セラフィア様です」
マリアの紹介を受けてセラフィアは答える。
「ようこそ、遠い地より。ヴェルティアへ。……お疲れでしょう。どうか、心を休めていってくださいね」
そのまなざしは、まるで相手の魂にまで寄り添うかのように深く、温かい。
「ありがとうございます」セリスが丁寧に頭を下げた。「ご挨拶が遅れました。セリスと申します。こちらはユイトとリリィ。三人で巡礼に参りました」
「まあ、ご丁寧にありがとう。どうぞ、ご自分の家のようにお過ごしくださいな」
セラフィアはやわらかな微笑みを浮かべると、ユイトたちに一礼し、静かに回廊の奥へと歩を進めた。衣のすそが霧のように揺れ、その足取りはまるで祈りを運ぶかのようだった。
「……すごいね、あの人」
リリィがぽつりと呟いた。
「神聖な人っていうか……見とれちゃった」
「でしょ?」マリアがふわりと笑う。
それは、凛とした雰囲気を纏っていた彼女とは違い、母を褒められた子供のように、どこか誇らしく、無邪気な笑みだった。
「あの方のおかげで、私たちはここで平穏に暮らせているんです。……私だけじゃなくて、他にもたくさんの孤児を引き取ってくださっているんですよ」
「へぇ……じゃあ、修道院って……」
「はい。巡礼の受け入れだけでなく、恵まれない子どもたちの保護と教育も行っています」
マリアの言葉には、この修道院の一員であることへの誇りが、確かな温もりと共に宿っていた。
ふと、マリアが中庭のほうへ顔を向ける。
石畳の向こう、柵に囲まれた庭では、数人の子供たちが手を繋ぎ、円を描いて歌っていた。細い声で響く童歌が、風に乗ってこちらまで届く。草花に彩られたその一角には、ささやかながら、確かな命の息吹が満ちていた。
そんななか、一人の少女がマリアを見つけて駆け寄ってきた。栗色の髪を揺らし、裸足で跳ねるように走ってくる。
「マリア! 一緒にあそんで!」
瞳を輝かせて、少女が両手を引っ張る。
マリアは少し困ったように笑い、そっとしゃがみこんだ。
「ごめんね、あとでね。いまはお客さまをご案内して、ごはんの準備もしないといけないから」
「ええーっ、やだやだっ!」
少女はふくれっ面をしながら、マリアの裾をぎゅっと掴む。
その様子に、ユイトたちも自然と微笑みを浮かべる。
マリアは少女の頭をそっと撫でた。指先が髪を梳き、まるで祈るような手つきで額に触れる。
「ちゃんとお利口にしてたら、あとでいっぱい遊んであげる。お花の冠も編んであげるから、ね?」
「……うん。ぜったいだよ?」
「うん、ぜったい」
約束を交わし、少女が名残惜しそうに庭へ戻っていくと、マリアは立ち上がり、再び案内を続けた。
やがて一行は、回廊の奥にある宿泊棟の扉の前へと辿り着いた。
「こちらが、お部屋になります」
マリアは廊下を挟んで向かい合った二つの部屋を指し示した。
「ユイト様はこちらを。お二人はこちらへ」
そう言って、リリィとセリスに微笑みかけながら、木扉を開く。
室内には清潔に整えられた二つの寝台と、小さな祈祷台が据えられていた。窓の向こうには、霧に包まれた庭がぼんやりと広がっており、そのなかで色とりどりの花々が、静かに朝の風に揺れている。
「お食事のご用意ができましたら、改めてお呼びに参りますね」
マリアは柔らかく一礼しながら言った。
「何かお困りのことがあれば、いつでもお呼びください。……どうぞ、よい巡礼となりますように」
深く頭を下げたマリアは、静かに扉を閉じた。
その瞬間、部屋には──まるで祈りに包まれたような、やわらかな静寂が満ちていた。
それぞれの部屋で旅装を解き、荷を整え終えた後、三人はセリスとリリィの部屋に集まった。
窓の外には、まだ白霧が街を覆っていた。陽の光はそのヴェールを透かして、祈祷台へと降り注ぎ、
木床に淡い光の揺らぎを描き出している。静けさが染み込むような空間の中で、ユイトが簡素な椅子に腰を下ろし、ぽつりとつぶやいた。
「……食事まで出してもらえるなんて、ありがたいけど……ほんとにいいのかな」
セリスが微笑みながら答える。
「巡礼者を泊めるのも修道院の務めよ。それに、宿代の代わりに寄付を受け取っているの。そうして得た資金で、孤児や貧しい人々を支えているとか」
ユイトはその説明に頷いた。
「なるほど……」
窓辺に置かれた花瓶には、小さな野の花がいくつか、不揃いに活けられていた。おそらく、子どもたちが摘んできたのだろう。丁寧とは言いがたいが、その分だけ心がこもっている。素朴なその彩りが、この修道院の静かな善意を象徴しているように見えた。
「それで……これから、どうしようか」
ユイトの問いに、リリィが腕を組んで唸る。
「うーん……こうも平和だと、黒い話なんてなさそうに見えるわ」
「確かに」とセリスも頷いた。
「でも……なにかあるとしたら、“大聖堂”じゃないかしら」
静かな口調で続ける。
「大聖堂と修道院はがこの街の中心。修道院はこうして巡礼者を受け入れ、孤児たちの世話もしている。もし不信な点があるとすれば……それは、おそらく聖堂のほう」
「大聖堂は、街の象徴であり、信仰の中心。その分、外からは見えにくいこともあるかもね」
リリィが同調した。
ユイトはふと、窓の外に目をやった。霧の向こう、ぼんやりとした輪郭でそびえる尖塔。その重厚な石造りの影が、空の色と混じりあって不気味な沈黙をまとっている。
「……手分けして調べてみようか。確かに、俺たちが見た限り、この修道院に怪しい点はなかったし」
二人がが納得したようにうなずく。
「私は堂内の祈祷や司祭たちの動きを追うわ。リリィは魔術的な観点で、何か兆しがないか見てちょうだい」
「任せて。そういうの、得意だから」
「ユイト、君は聞き込み担当だな」
「……またか。でも、それしかできないしな」
苦笑しながらも、ユイトは素直に頷いた。
「くれぐれも不信感を与えないようにね。リリィを探してた時みたいに」
リリィの言葉に、ユイトは小さく笑いながら、王都での騒がしい1日を思い出す。
誰もが自分を警戒し、まともに話すらできなかった。あの街の喧騒と、誰一人信じてくれなかった孤独が、今も心の片隅に残っていた。
ふと、リリィが真顔になった。
「……ねぇ、さっき言いかけてたんだけど。ユイトって、どうしてセリスと一緒に旅してるの?」
ふとした間に、リリィが問いかける。軽やかな口調に、どこか素直な好奇心が混じっていた。
セリスも隣で静かに口を開く。
「“聖泉”の儀式で出会ったのは確かだけど……そういえば、ユイトのこと、まだちゃんと話してなかったわね」
その言葉に、ユイトは不意を突かれたように動きを止めた。椅子の背にもたれていた背中が、わずかに緊張する。
言葉が、心の奥に刺さる。彼の視線が窓の外に逸れたのは、そのせいだった。
霧にけぶる外の景色。その向こうに、かつての記憶がゆらりと浮かぶ。舗装された道路。信号機の明滅。コンビニの明かり。冷たい缶コーヒーの手触り。もう戻れない場所。
そこでは誰もがスマートフォンを見て、誰もが名前のない時間を生きていた――そんな当たり前の世界が、今ではまるで夢のようだった。
だがこの世界に“異世界転生”の言葉はない。街の書庫で読み漁った文献にも、それらしい記述は一つも見つからなかった。
それが常識だから語られないのか。それとも、そんな現象など存在しないのか。
いずれにしても――自分が何者であるかを語る術は、ここにはない。
知られたら、どう思われるだろう。
あるいは、信じてもらえるのだろうか。
それすら分からず、ユイトはただ、自分の言葉がこの世界にとって異質であることだけを知っていた。
胸の奥に、しんとした孤独が広がる。声にならない叫びのような、居場所を問う空虚。
――でも、今はまだ言えない。
「……今は言えない。ごめん。ある事情があって」
それは逃げではなく、精一杯の誠実だった。静かに、しかし確かに伝えようとする意志が、その声に宿っていた。
「でも……いつか必ず話す。俺は本気で、セリスの騎士団になる目的を叶えたいと思ってる。リリィの母さんのことも――必ず助けたい」
霧越しの陽光が、彼の横顔に淡く触れる。真実を明かせぬ痛みと、それでも誰かの力になりたいという祈りのような想いが、影と光のあわいに滲んでいた。
「……その気持ちは嘘じゃない。俺が今ここにいるのは二人を助けたいからだ。それが、今の旅の目的なんだ」
言い終えて、ユイトはそっと息を吐いた。言葉にすることで、心の一部を手渡すような、そんな感覚があった。
静寂が落ちた。だがその沈黙には、拒絶も猜疑もなかった。
セリスが、ゆっくりと微笑んだ。
「……信じるわよ」
その言葉は、責めるでも問い詰めるでもなく、ただそっと手を差し伸べるような優しさに満ちていた。
「うん、私も」
リリィも笑みを浮かべ、少しだけいたずらっぽく言う。
「まぁ、あのスキルだし? なんか訳ありって感じ? 気にしないわよ、別に」
そのあっけらかんとした明るさに、ユイトの肩から力が抜けた。言えないことがある自分を、それでも受け止めてくれる人がいる――その事実に、胸がじんと温かくなった。
「……ありがとう。いつか、ちゃんと話すよ」
「うん、その話はまた今度。それより、明日から調査ね」
セリスの言葉に、三人が頷く。
ちょうどそのとき、扉が軽くノックされた。
「失礼いたします。お食事のご用意が整いました」
マリアの声だった。
窓から差す光は少し傾き始めていた。部屋の中に、温かなスープの香りがふわりと漂う。
ささやかな日常の音が、静かに戻ってきた。
窓から差す光はやや傾き、空気には温かなスープの香りが混じり始めていた。静かだった部屋に、やわらかな生活の音が戻ってくる。
広間には、穏やかな食器の音と、子どもたちの楽しげな笑い声が満ちていた。長く並べられた木のテーブルには、
修道女たちが用意した素朴な夕食が湯気を立てて並び、窓の外には夕暮れの茜が差し込んでいた。
現代でいえばパンのような食べ物にスープ、
それに皮付きのまま焼かれた根菜のような野菜らしきもののグリル。
質素ながらも手間のかかった料理の温もりが、旅の疲れを帯びた三人の胸を、ゆっくりとほどいていく。
「お口に合いますか?」
スープの鍋を抱えたまま、マリアがにこやかに近づいてきた。袖をまくった修道服の裾には薄く水の跡がにじみ、台所の忙しさを物語っている。それでも彼女の佇まいには、清らかな気配が崩れることなく漂っていた。
「うん、美味しい。すごくやさしい味」
リリィが頬を緩めながら答えると、マリアは少し照れたように微笑んだ。
「ありがとうございます。贅沢はできませんが、子どもたちには温かいものを、と心がけているので」
食卓に灯されたオイルランプの明かりが、マリアの横顔をやわらかく照らしていた。その目には曇りのない静けさが宿っていたが、
ふとした瞬間に揺らぐそのまなざしに、どこか言い知れぬ翳りを感じた。
セリスは匙を置き、静かに息を吸った。唇がわずかに強ばり、しばしの逡巡の後、言葉がこぼれる。
「……ねえ。この街の、“黒い噂”の話。聞いたこと、ない?」
それは気まぐれな問いではなかった。声に宿る張りつめた気配に、笑い声が満ちていた食堂の空気が、ほんのわずかに沈黙を帯びた。
マリアはスープをかき混ぜる手を止め、視線を落とす。言葉を探すように、一拍置いてから顔を上げた。
「……噂のことなら、聞いたことはあります。けれど、街の者は皆、静かに、穏やかに暮らしています」
その言葉はあまりにも穏やかで、かえってその裏側を探りたくなるような曖昧さを帯びていた。リリィの瞳が、僅かに鋭く細められる。
マリアはふと遠くを見るような目をして、話を続けた。
「……昔、王都から調査団が派遣されてきたことがあります。でも、何も見つからなかった。私には……ただの噂だと、思えました」
その瞬間、セリスの手がふと止まった。わずかに眉を寄せながら、低く落ち着いた声で言う。
「その調査団に……私の父もいた。話は聞いてるわ」
マリアはその言葉に、小さく息をのんだ。わずかに戸惑いを見せながらも、口元を整えて尋ねる。
「……お父様が?」
セリスは背筋を伸ばし、まっすぐにマリアを見つめて告げた。
「私はセリス・ヴァレンティア。父は――カイレル・ヴァレンティア」
広間の空気が静かに張り詰める。木の床に落ちる子どもたちの笑い声が、どこか遠くに感じられた。
マリアの目が見開かれ、そしてすぐに感情を押し込めるように伏せられる。口元には、どこか痛ましいほど穏やかな笑みが浮かんでいた。
アルセリア統制外のこの地でもヴァレンティアの名は広まっているのだろう。
「……そうでしたか」
その声音は、過去に触れることを恐れるようでもあり、懐かしむようでもあった。沈黙が二人の間を横切った。
やがて、湯気を立てるスープの鍋が、何事もなかったかのようにくつくつと音を立て始める。それだけが、取り残された時間をやわらかく満たしていた。
「……それにしてもおいしいわ、このスープ!」
リリィが空気を換えるように声を上げた。わざと明るく振る舞うその様子に、ユイトもそれに倣って笑みを見せる。
「うん。味だけじゃなくて、気持ちがこもってるって感じがする」
マリアはようやく緊張を解いたように微笑んだ。その笑みに、ほんのかすかだが安堵の色が混じっていた。
セリスはそっと目を伏せ、小さくつぶやくように言った。
「……変なこと聞いて、ごめんなさい」
マリアは首を振った。表情はやわらかく、声には確かな静けさが宿っていた。
「気にしておりません。噂があるのは事実ですし……でも、きっとこの街を見てくだされば、ただの風聞だったとわかっていただけると思います」
その言葉は、丁寧で、けれどもどこか遠回しだった。本心か否かを測りかねるまま、会話はそこで静かに途切れた。
それから先は、たわいもない話が続いた。旅の途中の出来事や、子どもたちの無邪気な言動に笑い合いながら、ゆるやかに、慎ましく夜の食卓は進んでいった。
*
朝の鐘が、澄んだ空を切り裂くように高く鳴り響いた。
石造りの修道院の回廊には、朝露を含んだ冷たい空気が満ちていた。磨かれた石床は、窓から射す光を淡く反射し、その上を歩く修道女たちの祈りの声が、静かに、厳かに流れていく。
だがその聖なる儀式を背に、ユイトたち三人はすでに外の世界へと足を踏み出していた。
「昨日の通りにいこう。手分けして調べる。夜に結果は持ち寄ろう」
セリスがそう告げると、リリィが肩にかけた小袋を軽く持ち上げ、にやりと笑う。
「了解! じゃあ私は魔力探査係ね!」
袋は不自然なほど膨らんでいて、魔具や触媒がぎゅうぎゅうに詰まっているのが見てとれた。リリィはウィンク一つ飛ばすと、くるりと踵を返し、朝の光を浴びながら、川沿いの古井戸や聖堂の外壁が点在する北側の路地へと、軽快な足取りで駆け出していった。
セリスはその背中を見送ると、微かに息を整えた。
「私は大聖堂を調べる。何かあったのなら……痕跡は、きっとそこに残ってる」
言葉は淡々としていたが、そこに宿るのは揺るがぬ決意だった。昨夜、父の名を口にしたときから、彼女の中で何かが変わっていた。マリアの沈黙。その奥にある“言えないもの”を、セリスは記録の中に探そうとしていた。
そしてユイトは、静かに街の中央区へと歩き出す。
――聞き込み。もっとも地味で、もっとも手がかりの得られる方法。
王都ではその若さと風貌もあり、怪しまれて話すらできなかったが、今回は違った。巡礼者という立場と、修道院の推薦状が、住人たちの警戒心をゆっくりと溶かしてくれていた。
旅装は控えめな淡い色合いで、胸元には徽章がひとつ。人々の目にそれは、「信頼できるよそ者」として映っていた。
「……“黒い噂”? ああ、皆そう言うけどねえ……」
市場の片隅で籠を並べる中年の商人が、苦笑しながら野菜を並べ直す。
「この町はずっと平和だよ。事件らしい事件なんて、聞かないなぁ。……まあ、巡礼者が少し減ったとは思うけど」
老婆も若い女も、誰もが同じように曖昧に笑い、同じように言葉を濁す。まるで「知らない」と言うこと自体が、長年この町に染みついた礼儀作法であるかのようだった。
夕暮れが少しずつ輪郭を濃くしはじめるころ、ユイトは聞き込みの足を止め、修道院の近くへ戻っていた。
ふと、視線を感じて振り返ると、石垣の陰に小さな人影があった。あの、昨日マリアに駆け寄っていた少女だ。彼女はじっとユイトを見ていた。目には、かすかに涙の光。
「どうしたの?」
ユイトはそっとしゃがみこみ、視線を合わせた。少女は口をきゅっと結び、ためらいがちに言葉を紡ぐ。
「……あのね、わたしをひきとってくれるひとが……見つかったんだって」
里親のことであろうか。
「そうか……それは、よかったな」
そう言いながらも、少女の表情は晴れない。目をそらし、小さな拳をぎゅっと握りしめている。
「でも……マリアと、みんなとお別れするの……やだよ」
声は震えていた。ユイトは、そっとその肩に手を置く。
「一生のお別れじゃないよ。またきっと、会えるさ。」
少女は、こくりと頷いた。けれどその瞳の奥にはまだ、幼い心には抱えきれないほどの寂しさが潜んでいた。
「エルナ!」
ふいに、明るい声が飛んできた。マリアだった。修道服の裾を揺らしながら、息を弾ませて駆け寄ってくる。
「よかった……ここにいたのね」
「……うん。ごめんなさい」
マリアは微笑み、エルナの頭をそっと撫でた。指先には、母のような温もりがこもっていた。
そのまま三人で修道院に戻る。中庭では、子どもたちが花の咲く木陰で遊んでいた。笑い声が風に乗って響く。
「……ここでは、できるだけ引き取り手を探してるんです。旅立っていく子も、多いです」
マリアの言葉は、どこか自分に言い聞かせるようだった。
「……寂しいな」
ユイトは、マリアが子どもたちと接していた姿を思い返していた。彼女がどれほど深く、彼らに心を注いでいるのか――その想いが、今になって伝わってくる。
「でも……それが子どもたちにとって幸せなことなら。きっと、いいことなんだよな」
「……そうですね」
マリアの声は、かすかに揺れていた。目を伏せたその横顔に、言葉にできない迷いの影が差していた。
「……あの……」
マリアが言いかけたその瞬間だった。張りつめた静けさを裂くように、穏やかな声が割り込む。
「マリア、エルナの手続きがあるの。手伝ってくれるかしら?」
修道院長 マザー・セラフィアが、いつの間にかそこに立っていた。その笑みは穏やかで、どこか余裕すら漂っていた。
「申し訳ありません、旅のお方。どうかご容赦くださいませ」
深く礼をするセラフィアに、ユイトはただ静かに頷いた。
マリアは何かを言いかけたまま、唇を閉じ、視線だけでユイトを見つめた。そして、振り返らずに、セラフィアの後について歩き出した。
日が沈み、修道院の石壁にも夜の帳が落ち始めた頃、ユイトが戻った食堂にはすでにセリスが待っていた。彼女は旅装のまま椅子に腰かけ、手元の記録帳を黙々とめくっていた。
「おかえり。……どうだった?」
「……駄目だった。話は聞けたが、噂については何も」
ユイトは椅子に腰を下ろし、ため息を吐いた。軽い疲労が全身にまとわりつく。手がかりになりそうなものは、一つとして掴めなかった。
「やっぱりねぇー。私も今日は準備メインだったから、収穫なし!」
リリィがいつもの調子で部屋に飛び込んできた。手にした小袋をぽんと放り投げ、背伸びをひとつする。
「魔具は北から南までばっちり設置済み。明日には反応が拾えるかもだけど……今日は何もなかったよ」
いつもの調子を装っているが、その声音にはほんの少しの空虚さが滲んでいた。何も見つけられなかったという“虚”が、三人の間に静かに沈んでいく。
「私も……今日は大聖堂の内部を見て回ったけれど、表向きはごく普通。礼儀正しく、特に不自然な様子は見られなかった」
セリスはそう言いながら、視線を閉じた記録帳に落とす。
その瞳にかすかな迷いが浮かんでいたのを、ユイトは見逃さなかった。
「……まぁ、初日はこんなもんでしょ」
リリィが頬杖をつきながら肩をすくめる。沈んだ空気を払うように、いつもの軽さで言い添えた。
「焦らず、でも確実に。引き続き調査を進めていこう」
三人はその言葉に小さく頷き合い、静かに夕餉を終えた。
その夜、ユイトは一人、修道院の客間に戻った。古びた寝台の横に腰を下ろし、疲れた背を預ける。聞き込みで得られたのは、奇妙なほど整った“無関係”の証言ばかり。逆に、その整い過ぎた静けさが、不気味だった。
ふと、夜風に誘われるように窓を開ける。高く澄んだ空に、星が瞬いていた。空気は肌に冷たく、けれど心地よい。
そのとき――石畳を踏む、わずかな足音が聞こえた。ユイトは窓辺に身を寄せ、そっと視線を落とす。
見えたのは、灯りのない中庭を横切る三つの影だった。ひとりは、マザー・セラフィア。もうひとりは、小さな身体――エルナ。そして、寄り添うように並ぶマリアの姿。
三人は言葉を交わしているようだったが、声までは届かない。ただ、その雰囲気だけが胸に染み入った。
マリアがエルナに何かを語りかけ、膝を折る。そして、エルナの小さな体を、そっと抱きしめた。
その光景は、まるで母が娘を送り出すようで――
ユイトは息を呑んだ。マリアの腕の中で、エルナの肩が震えているのがわかった。そして、ゆっくりと離れ、エルナはセラフィアのもとへ歩いていく。
その背を見送るマリアの表情は、窓の高さからでは読み取れなかった。ただ、彼女の両手が胸の前でぎゅっと握りしめられているのが見えた。
セラフィアは振り返らずに門の方へと歩き出す。エルナがその後ろを、小さな足取りでついていく。
旅立ちだった。
見送るマリアの足元に、風がひとひら、花の落ち葉を運んでいた。夜の冷気がふと強まり、ユイトは窓を静かに閉じた。
胸の奥に、かすかな棘のようなざわめきが残っていた。
*
翌朝も、空はひときわ澄んでいた。鐘の音が修道院の高みから町へと響き渡る中、ユイトたちは再び三手に分かれて調査に出ていた。
だが、焦りとは裏腹に、時間だけが淡々と過ぎていく。
「……また、駄目か」
昼過ぎの広場。ユイトは手にした紙片をくしゃりと丸め、風に乗せた。商人たちの明るい声、子供たちの笑い声。どこを歩いても、それらはあまりにも“普通”すぎた。隠された闇など、まるで存在しないかのように。
調査は空回り。昨日と変わらぬ街の空気に、焦燥感ばかりが募っていた。
――そのときだった。
「……ん?」
通りを挟んだ先。二人の男が、ゆっくりと歩いていた。黒い法衣に、銀の縁取りがなされた肩掛け
――司祭か、あるいはその補佐だろう。
ユイトは目を細めた。だが、それだけではなかった。
二人のうち背の高い男が、低く呟いた言葉が、ふと風に乗って聞こえたのだ。
「……処理は今夜中に。例の“箱”の件だが……」
もう一人がうなずき、顔を伏せた。
「大聖堂の裏手から。あそこなら、誰にも……」
耳を疑った。だが、男たちはそれ以上何も言わず、そのままゆっくりと大聖堂の方へと向かっていく。
ユイトは自然と足を動かしていた。男たちは正面の礼拝堂へは入らず、大聖堂の外壁に沿って裏手へとまわる。その背中には、どこか異様な緊張感がまとわりついていた。
ユイトは息を殺して男たちの後を追った。足音が石畳に吸い込まれていく。歩みを軽く、足音を微かに──しかし、どこかでその足音が響く気がして、無意識に肩がこわばった。
少しずつ、街の賑やかな通りから外れ、裏通りへと入っていく男たち。ユイトはひっそりとその後をつけた。通り過ぎる灯りも次第に減り、薄暗く冷たい夜気が肌を刺す。時折、空からひんやりとした風が吹き抜け、長い髪が揺れる。
そして、男たちが大聖堂の裏手に近づいたその瞬間──
ユイトはふと、視界の隅に動く影を感じた。意識を急いで引き戻す。背後から迫る気配。息を飲み、反射的に振り返ると、そこにはセリスが立っていた。
「っ……誰だ!」
心臓が一瞬跳ね上がる。そのまま振り返ったユイトの視界に、セリスの目がわずかに細められているのが見えた。言葉をこぼすのが遅れて、セリスは軽く肩をすくめながら言った。
「落ち着いて。私だよ」
その声は、なんとも軽やかで、普段のセリスらしさが漂っていた。
ユイトは思わず口を閉ざし、息を整えた。軽く息をついて、改めて前を見た。
「セリスか。……ちょっと気になる会話を聞いた。あの二人、大聖堂の裏手に入っていったんだ」
「二人の司祭、私も見た。……明らかに怪しい」
セリスが告げた言葉に、ユイトは再び緊張を感じながら頷いた。二人は再び、足音を忍ばせながら歩き出す。セリスの足音は、まるで彼女が忍び寄るために存在しているかのように静かだった。
裏路地の暗がりが二人を包み込む。その道は灯りも乏しく、冷気だけが漂っている。まるで人々の存在を忘れさせるかのような静けさが支配していた。
そして、ついに二人が裏手に到着した。
その場には、先ほどとは違う男がひとり、薄暗い中で佇んでいるのが見えた。セリスが口元をわずかにほころばせ、ユイトに低い声で囁いた。
「こういう時、あなたの能力はうってつけね。」
その声には一瞬、楽しげな響きがあった。ユイトはこっそりと視線を向け、彼女の不敵な笑みを見て、気づかれぬように息を呑んだ。
「……さて、失礼するよ」
セリスの言葉を合図に、ユイトは手を静かにかざした。冷たい風が肌に触れる。遠くからその男をじっと見据え、目を見てユイトは自分の能力を発動させた。
その瞬間、男は驚きの声を漏らし、股を押さえてうずくまった。短くうめき声が漏れ、そのまま慌てて走り去っていった。
ユイトとセリスは、その隙を見逃さず素早く塀を越えて、大聖堂の裏手へと忍び込んだ。
石の階段は湿っていて苔が生えており、足を踏みしめるたびにひんやりとした感触が広がる。二人は静かに、階段を一歩ずつ降りる。空気は冷たく、無言の緊張感が漂っている。
そして、石扉の隙間から漏れる声が耳に入った。
「……発酵がまだ浅いようでな。去年の“神授の蜜壺”は、熟れが甘い」
「いや、問題ない。今年のは花の時期がよかった。聖果蜜酒の香りは申し分ない」
その言葉を聞いて、ユイトは一瞬、意味を理解できなかった。しかし、次の言葉で全てが一気に崩れ落ちた。
「そうだな、聖職者限定の酒会、失敗は許されんぞ!」
その瞬間、ユイトの胸中で静かに笑いが漏れた。セリスも顔を見合わせて、互いに脱力した。
──酒会。
まさに、全てはその一言に集約されていた。警戒していた自分たちが、いったい何を恐れていたのか。裏口からの侵入も、無駄に慎重になったことも──すべてがただ、「高級酒を隠しておこう」という、それだけのことだった。
セリスが肩をすくめて言った。
「“例の箱”って、ただの神授の蜜壺だったのね。あれ、修道院の名物なんだよ。稀少な果実酒らしい」
ユイトはしばし虚空を見つめ、その後、少し笑った。
「くだらなすぎて、笑えてきた」
その笑みは、安堵の中であふれるものだった。無駄に身構えていた自分に対して、少し呆れながらも、また何も得られなかった焦燥感だけが残った。
*
ユイトとセリスが修道院へ戻ると、入口にリリィがたたずんでいた。
淡く揺れる燭光の中、彼女の姿はまるで影のように静かで、普段の陽気な仮面を完全に脱ぎ捨てたような表情をしていた。
その顔には、深い緊張と決意が見て取れた。
「――部屋に、来て」
その声は、普段の軽やかさを一切感じさせず、重く響いた。
視線を伏せた彼女の瞳には、何かを隠すような、あるいは決して後戻りできないものを決意したような冷徹さが宿っていた。
ユイトとセリスは互いに目を合わせることなく、無言でうなずき、三人で部屋へ向かった。
その足音が、いつもよりも遥かに重く感じられた。
部屋に入ると、リリィは黙って小さな金属片のような魔具をテーブルに置いた。
それは一見、煌きもなく、ただのガラクタのようにも見えた。しかし、その不思議な引力が、どこか不安を呼び覚ますようだった。
「昨日、仕込んだ魔具に反応があったの」
リリィの声は冷静に響いたが、その中には抑えきれないほどの熱が隠れていた。
その熱は、彼女が隠しきれない不安を抱えている証拠だった。
彼女が魔具に力を込めると、微かな光が一瞬だけ走り、青白い光の線がぼんやりと浮かび上がる。
その光景に、ユイトとセリスは思わず息を呑んだ。まるで、目の前に見えない何かが確かに存在しているかのような、不安定で不気味な感じが漂っていた。
「これはね、魔力の揺らぎや流れを計測する装置なの」
リリィの声が続く。彼女は落ち着いた口調で説明を始めたが、その言葉が次第に重く、緊張感を増していった。
「複数を設置して、魔力の流れや大きさを記録できる」
その説明を聞きながら、ユイトは昨日、リリィが大きな袋を持ち歩いていた理由をようやく理解した。
その袋の中に、今彼女が取り出した装置が含まれていたのだ。
「人身売買……それが真実なら、魔術師が組織的に関与している可能性が高い」
リリィが続けるその言葉に、ユイトの胸の奥がひどく締めつけられるような感覚を覚えた。
「だから、魔力の流れを追えるようにしておいたの」
リリィは懐から似たような装置をいくつも取り出し、テーブルに並べる。
その小さな魔具が並べられるたびに、ユイトは次第に心の中に浮かぶ不安を払拭できずにいた。
「反応は?大聖堂?」
セリスが問いかける。その声にも少しの不安が混じっている。
リリィは首を横に振り、顔にわずかな疲れを浮かべてから、床を指さした。
その指先に強調されるように、空気が一瞬で凍りついた。
「下……?」
ユイトは意図が掴めず、首をかしげた。
「違うわ」
リリィは一度深く息を吸い込み、まるで呪文のように、絞り出すように言った。
「――ここよ。修道院から、異常な魔力の反応があったの」
その瞬間、ユイトの心臓が一瞬跳ね上がる。
その言葉が意味するところを理解するには時間がかかった。
だが、すぐに冷たい感覚が背筋を駆け抜けた。
「もちろん、魔力を持つ人がいれば、それなりに反応はある。私たちも、反応してるわ」
リリィは続けて言ったが、その言葉には、これから起きることへの恐れが滲んでいた。
「でも……この反応は、明らかに異常。大きな魔力が断続的に現れては消える。不規則で、異様なの」
その言葉を聞いたユイトの胸中で、何かが音を立てて崩れ落ちるのを感じた。
「一体、何があるんだ……?」
ユイトの声がかすかに震えていることに、本人も気づいていなかった。
リリィは目を細め、そして視線を下に落とす。
「確認してみないとわからない。人身売買の噂と関係があるかも断定はできない。でも、今のところ、まともな手がかりはこれだけよ」
その言葉がユイトの心に重くのしかかる。何も掴めない不安と、確信に近い恐怖が入り混じり、何も言えずにいた。
セリスとユイトは今日の調査が無為に終わったことを伝え、ため息をついた。
「なら……ここを調べるしかないわね」
リリィは目を鋭くして言ったが、その表情にもまた、抑えきれない不安があった。
「杞憂だといいけど」
その瞬間――
ピリ、と空気が凍りつく。
ドアの向こうに、何か不穏な気配が走った。三人が一斉に身を引き締め、心臓が一拍早く鼓動を打つ。
次いで、軽やかなノックの音が木扉を打った。
その音が、普段のそれと違って、どこか不安定に響く。
「少し、よろしいでしょうか」
マリアの、柔らかな声だった。しかし、その声がどこか異常に響き、空気を重く感じさせた。
ユイト、セリス、そしてリリィが息を呑んでいると、ドアが静かに開き、マリアの姿が現れた。
その瞬間、まるで時間が止まったかのように、部屋の空気が重く、冷たく変わった。
マリアの顔には明らかに緊張が浮かび、その目線は下を向いたまま、何かを言う決心をしているようだった。
「すみません、話を聞いてしまいました。」
その一言が放たれると、三人の間に鋭い静寂が広がった。
リリィの目が瞬時に鋭く細められ、ユイトとセリスも無意識に体が硬くなった。
それは、彼女が知ってはいけないことを知ってしまった瞬間。
空気は一層重くなり、圧迫感が三人を包み込んだ。
ユイトはほんのわずかな動きで目配せし、マリアを部屋に招き入れるように促した。
その目線を受けて、マリアは一歩踏み出す。足音すら重く響くかのように感じられ、部屋の中の緊張感が一層増した。
マリアは顔を伏せ、心の中で何かを決意したように、深い息をついてから静かに話し始めた。
「昨日、あなたに言えなかった話があります…」
その言葉を聞いた瞬間、ユイトの胸の中に冷たいものが走った。
昨日、マリアが何か言いかけていたその言葉。修道院長に遮られて、結局最後まで聞くことができなかった言葉。今、ようやくそれが明かされる瞬間が来たのだ。
マリアはユイトに視線を向け、その目には一瞬の迷いが浮かんだが、それを振り切るように続けた。
「人身売買の噂は私も聞いたことがあります。でも、直接見たわけでも、聞いたわけでもありません。」
その声には微かな震えがあり、まるで言葉を紡ぐたびに重みが増していくような感じがした。
「ただ…」
言葉が詰まり、マリアは言いたいことを押し込めるように、一瞬目を閉じた。
その瞬間、部屋の中が一層静まり返り、誰もが息を呑んだ。
「ここは孤児院を務めて、多くの子を送り出してきました。」
マリアの声が再び響き、その言葉にはただの事実ではなく、深い悲しみと痛みが込められていた。
「私も多くの子を見送ってきました。昨日も…」
その言葉を続けるのがどれほど辛いのか、ユイトは感じ取った。彼女の目が曇り、過去の出来事に引き寄せられるように、声が震えた。
ユイトの胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
昨日、窓から見かけたあの光景。
マリアが見送った少女エルナと、修道院長が一緒に去って行った姿。
その疑念が胸の奥に重くのしかかり、ユイトは言葉を飲み込んだ。
マリアの目がうつろになり、声が震えながら続いた。
「でも、でも、その後…送り出した子は一度もここを訪ねてこないんです。」
その言葉に、ユイトとセリスは一瞬、言葉を失った。
これまでずっと、疑念を抱きつつも、無理に自分を納得させていたのか。
「元気に、ここでのことを忘れて過ごしているだけだと言い聞かせてきました。」
マリアの顔が歪み、涙がその目に浮かんだ。
それは、どれほど長い間心の中で苦しんできたかを示すものだった。
「何より、私はお世話になった人のことを疑おうとしている…」
その言葉が、マリアの心の中でどれほど重かったのか、ユイトには痛いほどわかった。
彼女は深く息をつき、涙をこらえるように目を閉じた。
その瞳から、一粒の涙が静かにこぼれ落ち、床に落ちる音が響いた。
ユイトはその涙を見て、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
セリスがゆっくりと近づき、優しくマリアを座らせた。
その手がマリアの肩に触れると、冷えきった空気が少しだけ温かくなったように感じた。
「大丈夫だ。」
セリスの穏やかな声が部屋の中に響き、重苦しい空気を和らげるように響いた。
「話してくれてありがとう。」
セリスは優しく語りかけ、マリアが抱える苦しみを少しでも軽くしようとしている。
「マリアの言うように、まだ決まったわけじゃない。」
セリスの目が真剣にマリアを見つめ、その肩に手を置く。
「でも、調べる必要がある。それはわかるな?」
その言葉には、優しさの中に強い意志が込められていた。
マリアは少し戸惑うように顔を上げ、セリスの目をじっと見つめた。
「…はい、わかりました。」
その答えに、セリスは優しく微笑んだ。
「ありがとう。」
その微笑みには、少しの安堵と共に、これから始まる調査への覚悟が込められていた。
ユイトは深いため息をつき、心の中で覚悟を決めた。
どんな危険が待ち受けていても、今この瞬間に踏み込まなければならない。
この先に何が待っているのかを知るために、今、行動を起こさなければならないのだと。
*
夜の静寂が修道院を包み込み、まるで時間が止まったかのような静けさが広がっていた。
その中に漂うのは、ほんのわずかな空気の震え。深い闇の中に静かに息づく、不安や疑念のようなものが感じられた。
リリィは手に取った魔具をじっと見つめ、その表面に指先を滑らせながら、
何かを考えているようだった。まるで言葉にできない思いが胸の内に渦巻いているかのような表情を浮かべたが、結局その思いを口に出すことなく、それを静かに元の位置に戻した。
その仕草が、ユイトにはどこか不安を掻き立てるように感じられたが、彼はそれを無理に飲み込み、心の中でその感覚を押し込めた。
「何か手がかりはないか?」
ユイトが静かに問いかけると、マリアは一瞬考え込んだ。その瞳の奥に深い思索の色が浮かぶ。息を呑んでから、彼女は答えた。
「修道院長は忙しくて、よくここを離れているけど……外に出た様子がないことがあって、それが気になっていました。」
彼女の声には、疑念とともに隠しきれない不安が混じっていた。その表情が、ユイトの胸に重く響く。
セリスは、何事もなかったかのように冷静な表情で続ける。
「魔力の反応はここから。だとすれば修道院の中に隠された場所があるかも。」
その言葉は、まるで運命の扉を開けるような響きを持っていた。
「隠された場所……」ユイトは心の中で繰り返し、声に出すことなく呟いた。
胸の奥で何かがざわつき、薄暗い修道院の中でその感覚が膨らんでいく。
修道院のどこかに、隠された場所があれば、そこには重要な手がかりが隠されているに違いない。だが、それが何を意味するのか、すぐには掴みきれない。
「探しましょう。」セリスの声は冷徹でありながらも、どこか覚悟を決めたものが感じられた。
彼女は真剣な表情を浮かべ、マリアに視線を向ける。
「でも、マリアはここで待ってて。もし見られたら、疑われるかもしれないから。」
マリアは静かに頷き、軽く唇を引き結んで言った。
「わかりました…気をつけて。」その言葉を最後に、三人は夜中を待って修道院を静かに動き出した。
廊下を進みながら、リリィは手に持った魔具を頼りに、
足音を忍ばせて一歩一歩進んでいく。彼女の歩みは慎重であり、
音一つ立てぬようにしている。その背中を追い、ユイトとセリスも無言で歩を進める。どこかひんやりとした空気が、二人の背中を押すように感じられた。
「反応はここを指しているけど、少しずれている?」
リリィが低く呟き、三人は静かに玄関を抜けて外に出た。外の空気は冷たく、肌を刺すように感じた。
修道院の中の重苦しさから解放され、少しだけ安堵を感じる一方で、今度は外の闇が不安を募らせる。
玄関を抜けて裏手に回ると、ユイトはちらりと振り返り、
窓から心配そうに見守るマリアの姿を目にする。
彼女の目がこちらを見ているのがわかり、胸が締めつけられるような感覚を覚えた。
「行くわよ。」リリィの声がささやくように響き、
その言葉がユイトの胸に響いた。彼は一度深く息をつき、再び歩を進めた。
手入れが行き届いた裏庭を抜け、整った植物たちを越えた先に、
荒れた草木が生い茂る場所が広がっていた。
リリィはその中に何の躊躇もなく足を踏み入れ、周囲を慎重に探る様子を見せた。
その動きには、何か確信があるような鋭さが感じられた。
リリィがふとしゃがみ込み、草の中を覗き込んだ。
その後ろから覗き込むと、足元の草がわずかに倒れているのが目に入った。
それは、誰かが通った跡のようだった。
「この先かも。」リリィの声が低く、息をひそめるように響く。
その声音には確信があった。音を立てぬように、彼女は慎重に歩みを進めていく。
草木をかき分けて先に進むと、古びた井戸が目に入った。ユイトはその姿を見て、一瞬だけ立ち止まった。
井戸は深く、底が見えない。その不気味な深さに、胸の奥で不安が広がっていく。しかし、ふと覗き込むと、井戸の底に異物が見える。梯子のようだった。
「これは…井戸じゃない?」ユイトが小声で呟くと、リリィはその場に立ち止まり、振り返った。「入るわよ。」
「おい、ちょっと待て…!」ユイトが声を上げる前に、リリィはすでに梯子に手をかけていた。その動作には一切の迷いがない。
「三人で行こう。」セリスが冷静に言い、ユイトに視線を送る。
ユイトは深く息をつき、覚悟を決めた。その言葉に、心の中で何かがざわつくが、もう後戻りはできないことを自覚する。
先頭はユイト、次いでリリィ、そして最後にセリス。コツコツと三人が梯子を降りる音だけが、
地下の闇に響いていた。その音が、どこまでも続いているような気がして、ユイトはその音を頼りに踏み出す。緊張感が肌を刺し、足元がふらつきそうになる。
「上を見たら、殴るわよ。」途中、上から降ってきた声に、ユイトは一瞬顔をしかめる。
その言葉に思わず視線を上に向けた。リリィの露出の多い脚が視界に入る。思わず目を背けたが、先に降りるユイトをリリィが不意に足で蹴った。
「見るなってば!」リリィの声が冷たく響き、
その声がユイトの背中に刺さる。思わず足を踏み外しそうになるが、すぐに踏みとどまる。
「ちょ、落ちるだろ!」小声で怒るユイト。
その言葉に、リリィの冷徹な一言が胸に響く。
緊張感と軽い和みが入り混じりながら、慎重に梯子を降りる。
長い距離を下り、地下の暗闇に足を着けた。どれほど下ったのか、見当がつかない。ただ、深い闇の中に足を踏み入れたことで、ユイトの心はさらに高鳴っていた。
地面に足が着くと、ユイトは軽く肩をすくめ、リリィとセリスの顔を見て言う。
「ここが…何かがある場所か?」
リリィは周囲を見渡し、静かに頷く。その目は鋭く、警戒を怠らない。
「警戒して。」その言葉に、ユイトは背筋がピンと伸びるのを感じた。これから待ち受けるものに、心の中で備えを始める。
地下の闇に足を踏み入れた三人は、さらにその奥へと進んでいった。
冷気が皮膚を刺すように感じられる。薄暗い通路の先には、さらに続く石造りの階段が現れた。
「……まだ下があるのかよ」と、ユイトが思わず吐き捨てた。
階段は幅こそ広いが、妙に緩やかで、一段一段が重く感じられた。
足音が石の壁に反響して、どこか深淵に吸い込まれていくような錯覚を覚える。先ほどより空気が重くなったように感じたのは、気のせいではなかった。
足元を照らす魔具の淡い光が、壁に刻まれた古い紋様を浮かび上がらせる。
何かを祀るような意匠……だが、それが何を意味するのかまでは誰も言葉にできなかった。
数百段を下りたあたりで、ユイトは額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
「これだけ地上から距離があると……」前を行くリリィがぼそりと呟く。
「『何か』あっても地上には音も、魔力の残滓も届かないわね」
その言葉に、背筋がひやりとした。彼女の語気には、警告にも似た冷ややかさが混じっていた。
その時、不意にリリィの手にした魔具が淡く震えた。光が強まり、まるで何かを訴えるように脈動を始めた。
「……この先に、いるかも」リリィが警告するように言う。
彼女は足を止め、掌から魔方陣を浮かび上がらせた。
その中から引き抜かれたのは、彼女の背丈をも超える、禍々しくも美しい魔杖だった。
黒曜石のような艶を帯びたそれは、かつてユイトと対峙したときに振るわれたものと同じだ。
それを見て、セリスも静かに腰の剣を抜いた。鞘鳴りの音が、張り詰めた空気を切り裂く。
ユイトもまた、鞘に手をかける。柄に触れた瞬間、体が自然と研ぎ澄まされていく感覚を覚えた。緊張が、空気に伝播するようだった。
三人は、石壁に囲まれた長い通路を無言で進んでいった。
足元には微かな埃が舞い、天井は高く、石の梁が幾重にも重なっている。この地下にこれほど広大な空間が隠されていたこと自体が異常だった。建築の意図、用途、そのすべてが不明だ。
「やはり、何かあるな」ユイトは無意識のうちに口にしていた。
その時だった。
「……ねえ、聞こえない?」リリィが立ち止まり、小さく首を傾げる。
ユイトも耳を澄ます。かすかに、だが確かに――「ズズ……ズズ……」という、何かを引きずるような音が、遠くから微かに届いていた。
湿った空気の中に、その音がぼやけて響く。足を進めるにつれて、その音は次第に明確になっていった。引き摺られているものは、石か、あるいは何か有機的な……嫌な想像ばかりが浮かぶ。
やがて、廊下の果てに巨大な鉄扉が姿を現した。鋲で補強された厚い扉は、明らかに通常の施設のものとは異質だった。音は、その向こうから確かに聞こえてくる。
リリィが軽く顎で合図を送る。「開けるわよ?」
二人は無言で頷いた。緊張が喉を塞ぐようだった。
ギィ……ギギギィッ――
錆びついた鉄扉が軋みを上げて開かれると、目の前に広がったのは暗黒の空間だった。
想像以上に広く、そして高い天井。足元は石畳だが、先は闇に沈んで見えない。
だが――その中で、何かが動いた。
黒い塊が、蠢いていた。視界の端で、うねる影が揺れている。やがて、その影はゆっくりとこちらに近づいてきた。光を吸い込むようなその躯体は、蛇か、それとも巨大な蠕虫かを思わせる姿。
だが、その大きさは常識を超えていた。まるで神話から抜け出してきたかのような、異形の存在。
「魔獣……? でも、あんな奴見たことない」
リリィが言葉を失いそうになりながらも、魔杖を構え直す。
セリスが唇を引き結び、低く呟いた。
「こいつが門番ってことね。――構えて!」
その声を合図に、三人は武器を掲げ、闇の奥から迫る脅威に対峙する構えをとった。
闇を裂き、蠢く黒影が突進してきた。
――ズズズ……ズシャアアッ!!
地を這う摩擦音が、瞬時に爆音へと変わる。空気がひしゃげ、黒き巨体が音速のごとく迫る。艶めいた油膜に覆われた外皮は、蛇のような滑らかさと、蠢虫のような節を持ち、重厚な質量を以て空間を蹂躙していた。
「――来るわよ!!」
リリィの叫びと同時に、杖の先端が眩い雷光を放つ。
バチィィィンッ!!
青白い電撃が直線を描き、魔獣の前面を抉るように炸裂した。
しかし、その巨体は怯むどころか、逆に唸るような咆哮を上げて突進を加速させる。
「っ……!? かなり固いわよ、コイツ!」
歯噛みするリリィの声を背に、セリスが疾風のように横を駆け抜ける。
魔獣の脇へ滑り込み、跳躍。銀の大剣が漆黒の闇を断ち、煌く刃が外皮を斬り裂いた。だが――
「……っ、浅い!」
刃が捉えたのは表層だけ。血ではない、黒い粘液が鈍く光りながら滲み出す。ねっとりと絡みつく感触が剣の刃へと伝わり、セリスの顔がわずかに歪んだ。
「セリスッ!」
ユイトが叫び、剣を構えて走り出す。セリスに何万回と教えられた通りに振り下ろすが――
「通らない……ッ!」
粘着質の膜が剣を弾き、返す刃が空を切った。ぬるりとした液体が剣に絡みつき、感触だけが生々しく残る。
「くそっ…………!」
次の瞬間、魔獣が体をくねらせ、巨大な尾を鞭のように振るった。爆風のような風圧が吹き荒れ、全員の視界が揺れる。
「こっち!!」
リリィが叫び、杖にまたがって宙を滑る。空中でユイトの手を掴み、引き上げた。その背後、セリスも跳躍し、リリィの背に飛び乗る。
着地と同時にリリィは空中で旋回、上空へ跳ね上がる。魔獣の尾が、ユイトの足をかすめるように通過していった――紙一重の回避。
地上へと着地した三人。リリィが素早く周囲を見渡し、息を整えながらセリスに指示を送る。
「一点集中で最高火力を叩き込む。合わせて!」
「了解。」
セリスが剣を構え直し、魔力を纏わせる。ユイトは深く息を吐き、ゆっくりと両足を開いた。
「魔獣相手じゃ、スキを作っても一瞬だぞ……」
「問題ない」
セリスの声は冷静だった。
その間に、リリィの杖が機械音を立てて変形を始める。
分割された先端が折り畳まれ、鋼の銃身が姿を現す。
ユイトの目が、魔獣の腹部から流れ出す黒い粘液を捉える。
「……見つけた」
《蒼穹の奔流》――。
黒き体液を導線に、ユイトの力が流れ込む。突如、魔獣が咽び泣くような、悲鳴のような不気味な咆哮を上げてのたうち始めた。
「ふふ……そういえば、私のスキル。まだ教えてなかったわね」
リリィの銃口が魔獣の中腹へと向けられる。銃身に魔力が圧縮され、蒼い光が生まれる。
「――魔銃解放!!」
咆哮と同時、魔力の奔流が閃光となって放たれた。
撃ち出された光弾は空間を裂き、魔獣の中腹を的確に撃ち抜いた。先ほどの斬撃を弾いた外皮が、灼けるように抉り取られ、粘液が飛び散る。
そして――その一瞬の隙を逃さなかった。
「いける!」
セリスが、風のように駆けた。傷口へ一直線に肉薄し、魔力を帯びた大剣を振りかぶる。
赫剣――。
刹那、彼女の剣が赤熱し、光を放つ。炎のような斬撃が抉られた傷へと叩き込まれる。
裂けた傷口から断裂が走り、巨体が真っ二つに引き裂かれる。轟音が地下に響き渡り、地響きとともに黒き魔獣が崩れ落ちた。
その音は、建造物が倒れる音によく似ていた。
*
魔獣の残骸から立ち昇る蒸気が、なおも地下の空気を鈍く濁らせていた。焼け爛れた肉の焦臭が、ユイトたちの鼻を刺激する。その匂いが深く喉に絡みつき、ユイトは思わず顔をしかめた。目の前に広がる不気味な光景に、彼は息を呑む。
「……何なの、こいつ。こんな魔獣、記録にも資料にも載ってないわね」
リリィが冷静に周囲を警戒し、黒く粘性のある体液をじっくりと観察する。牙が異常に発達しており、
その体組織は獣とも昆虫とも言えない、異形のものであった。リリィの眉間に深い皺が寄る。
その時、背後から足音が近づいてきた。修道服を翻しながら、息を切らせたマリアが駆け込んでくる。
「みなさん……!」
3人の無事を見て、ほっと胸をなでおろすと、すぐにその視線が魔獣の残骸へと吸い寄せられた。表情が硬直し、全身に一瞬の冷や汗が走る。
「こんなものが……修道院の地下に……?」
その声は震えていた。信じたくない、という思いが言葉の端々に滲んでいた。
あの日々の祈り、孤児たちとの静かな暮らし。マリアにとって修道院はすべてだった。だがその足元に、得体の知れない異形が口を開けていた。
膝をつき、マリアはゆっくりと、声を震わせながら言った。
「……お願いです。私も……自分の目で確かめたいんです。お願いします、どうか……一緒に行かせてください」
その目には、迷いとともに確かな決意が宿っていた。彼女は信じたいのだ――己が信じてきたものが、まだ間違っていないと。
ユイトたちは視線を交わす。リリィが静かに口を開く。
「マリア、あなた……魔力があるわね?」
ユイトとセリスが顔を見合わせる。
先ほどの部屋で、リリィは魔具に3人ではない誰かの魔力を感じた――
「はい……最近、能力が発現しました……」
マリアは言い淀む。何を信じ、誰を疑うべきか、その境界はとうに曖昧だった。けれど、彼女の中には確かに芽吹いたものがあった。祈りでも、教えでもない――彼女自身の意志だった。
「邪魔にはなりません。どうしても……この目で、セラフィア様の真実を見届けたいんです」
その言葉に、ユイトは頷いた。そして4人は、修道院の奥へと足を踏み入れる。
血と粘液の臭いが少しずつ薄れ、やがて広がった空間には、まるで別世界のような静けさが漂っていた。白壁の魔法陣、水晶のランタン、術式図面、無造作に放置された人工魔核――すべてが沈黙の中に凍りついていた。
「ここ……研究施設?」セリスが呟く。
リリィが1枚の資料を手に取った。
ふいに資料をなめる視線が止まった。読み込むうちに、顔色が一変する。
「……まさか、こんな……!」
そのとき、奥の通路から人影が現れた。
修道院長――マザー・セラフィア。
彼女はふと立ち止まり、こちらに気づくと、踵を返して奥へと駆け出した。
「待ちなさい!」
リリィの声より先に、マリアの叫びが響く。
「セラフィア様! 本当に……あなたが、あんなものを……!?」
先ほどの巨体を持った魔獣のことが脳裏をよぎる。
セラフィアは振り返り、微笑んだ。苦しみと慈しみが入り混じるような、柔らかな笑みだった。
「誤解よ、マリア。私は……あなたたちを守りたかった。それだけなの」
母のような優しさが、マリアの心を締めつける。あの日、自分を抱きしめてくれた温もりが蘇る。
だがその声は、まるで祈りのように甘く、逃れ難い毒でもあった。
「お願い……信じて。ことが終わったら、すべて話すわ」
マリアは震える手で胸元を押さえた。
「あなたは……私にとって、母のようで……」
迷いと葛藤が瞳に溢れる。
「でも……でもっ……!」
明らかにマリアの意思は揺れていた。
「マリア……」
あまりにも優しい声だった。母としてのの愛情が満ちていることを想起させるような声だった。
その言葉がマリアの葛藤をうながす。
だがその迷いは、やがて行動へと変わった。
彼女は気づくとユイトたちの前に立ちはだかっていた。
「お願いです……やめて。セラフィア様を……傷つけないでください」
セリスが一歩前に出る。
「マリア。私たちは、あなたと戦うつもりはない。確かめなければいけないの。あなたも、それは分かっているはずよ」
マリアは拳を握りしめ、深く息を吸った。
背後から再びセラフィアの声が響く。
「マリア、お願い……私を助けて」
その優しい響きに、マリアはついに揺らいだ。
「私は……セラフィア様を信じたい。信じていたいんです」
両手を胸元で重ね、魔力を呼び起こす。淡い光が彼女の身体を包み、信念が祈りとともに立ち上がる。
「……二人とも先に行ってくれ」
ユイトが静かに呟いた。リリィとセリスが頷き、セラフィアの後を追おうとする。
「だめです! やめてください!」
マリアの叫びが空気を裂く。
ユイトの視線は彼女の頬を伝う涙に注がれた。
ユイトはそっと右手を掲げる。
《流転する衝動》
空間の気圧が、くぐもった音を立てて反転する――ぐぅぅ、と軋むような音とともに、見えざる波がマリアの身体にまとわりつく。
涙の粒が震え、水分が脈打ち、不可視の「衝動」が彼女の内部へとぐずぐずと染み渡っていった。
マリアは小さく呻き、肩を震わせて身を捩る。
「っ……!」
ひゅう、と震えた吐息が漏れ、組もうとした手は指先から力を失う。
揺れていた淡い加護の光が、しゅる、しゅる、と糸を引くように消えていく。
「……行ってくれ」
ユイトの言葉に、リリィとセリスは戸惑いを残しつつも、セラフィアの逃げた先へと姿を消した。
残されたのは、祈りを失い、衝動の渦に呑まれていくマリアの姿だけだった。
「あっ……! んっ……ぅ……!」
口元を両手で押さえ、きゅう、と目を閉じる。肩を跳ねさせながら、彼女はその衝動に必死に抗っていた。
太腿の内側に、じん、とした圧が迫ってくる。
なにかが、溜まり続ける。決壊を待つだけの液体が、出口を探して疼いていた。
「ダメ……こんな、はしたないこと……」
ぎゅう、と膝を擦り合わせる。決して漏らすものかと、両腿をぴたりと閉じる。
腰をくの字に折り、下腹部を押さえてこらえる仕草が、逆にその切迫した状態を如実に物語っていた。
だが、無情にも。
太腿の内側が、びくっ、と小さく痙攣した。
「ん……っ、く、ぅぅ……!」
膀胱に溜まった熱が、内側から皮膚を焼くように疼く。
マリアは顔を真っ赤にしながら、歯を食いしばって堪えた。だが、耐えるほどに、額には汗がにじみ、背筋には悪寒が走る。
「……お願い、とまって……とまって!……っ!」
みしっ、と靴が石床を擦り、彼女はその場にしゃがみ込む。
だがその姿勢も、圧迫された下腹部には逆効果だった。
細く震える声が喉の奥で絡み、聖女であったはずの彼女の表情が、羞恥に塗りつぶされていく。
「や、やだ……いや……こんなの、だめです……っ!」
祈りではない――それは、ひとりの女としての、本能の呻きだった。
そして、限界は音を立ててやってきた。
――ぽたん。
ひと雫。小さな水音が、静まり返った石床に響いた。
ぽた、ぽた、ぽた……と、等間隔に水が落ちる音。
ぴちゃ、ぴちゃ、と僅かに靴の踵が濡れてゆく。
「……っ、え……んっ……!?」
マリアの瞳が揺れた。自分の身体から、何かが滴っている――その現実に気づいたとき、彼女の顔から血の気が引いた。
ぬるっ、と太腿を伝っていく生ぬるい感触。
修道服の布地がじわじわと染まり、ぴとりと肌に貼りついて離れない。
「い、いやっ……!」
ぷっっっしゃああああああ……っ!
聖女のような彼女の姿からはおよそ想像もつかないほど下品な音が石畳を打つ。
まるで彼女の理性が決壊する音のように。
じょば、じょば……と、音を立てながら彼女の股間から流れ出す失禁の奔流が、地面を濡らしてゆく。
修道服の裾はすでに重く、たぷん、と水気を含み、脚にまとわりついて離れない。
黄ばみの染みがみるみる広がり、ぬるり、と滴る液体が指の隙間を通って足元へと溜まっていく。
「見ないで……ください……っ!」
彼女は震える手で必死に股間を隠そうとするが、それはあまりにも無力だった。
太腿の間から滴る水は止まらず、ちょろちょろ、と情けない音を立てて流れ続ける。
しゃぷ、しゃぷ、と靴の中にまで染みた尿が音を立てる。
その音が、彼女自身に現実を何度も突きつけてくる。
羞恥が、肌を、胸を、喉を焼いた。
心臓が壊れそうなほど早鐘を打ち、視界が涙と熱で歪む。
「うぅ……っ!」
すすり泣くような声が、祈りにも似ていた。
だが彼女の祈りは、もう何一つ届かない。
修道院に捧げた清き誓いも、信じていた恩義も、尊厳も――すべて、この濡れた地面に溶けていく。
黄ばみの染みの中に崩れ落ちたその姿は、もはや聖女ではなかった。
ただ、羞恥と屈辱に濡れた、ひとりの少女だった。
ユイトは静かに彼女の背後に立つ。
じわ、と。甘くも生々しい、濃密な匂いが鼻腔を突いた。
それが――今まさに彼女の中から零れたばかりの温もりと、同じものであることを彼は知っていた。匂い。湿気。そこにあるのは紛れもなく、少女の羞恥の痕跡だった。
「マリア」
ユイトの声は、あまりにも穏やかで――それ故に、容赦がなかった。
「君が本当に、信じたいものはなんだ」
「……っ」
マリアの肩がびくりと震えた。身体をかばうように膝を抱え、濡れた修道服を握りしめる指先が白くなる。
「わたし……」
か細く、震える声。羞恥と混濁する思考の中、マリアは必死に言葉を探す。
「わたしは……わたしは……っ」
そのとき、不意に脳裏に差し込んだ――あの笑顔。
夕陽の射す回廊で振り向いた少女。
小さな手に握られていた花。拙い祈りの言葉。修道院を去る日、涙を浮かべながらも笑っていた、あの子の姿。
――エルナ。
彼女の瞳が、マリアの記憶の中で鮮やかに蘇る。
清らかで、あどけなくて、けれど優しさに満ちていた。
自分は、あの子に何を与えられただろうか――。
もし、彼女がまだ笑っているのだとしたら。
もし、彼女がもう、笑えないのだとしたら――。
「……エルナ……」
ぽつりと漏れた名は、祈りにも似ていた。
マリアの手が震える。彼女はゆっくりと顔を上げ、まだ涙の痕が残る頬を濡れた手の甲でぬぐった。
ユイトは、それ以上何も言わなかった。
ただ一言――。
「先に行く」
それだけを残し、彼は踵を返し、闇の奥へと歩みを進めた。リリィとセリスの後を追って。冷えた空気が、その背に静かにまとわりついていた。
マリアは、まだ動けずにいた。
濡れた足元から立ちのぼる羞恥の余韻が、なおも身体を縛っている。
けれどその胸の奥に、確かに火が灯りつつあった。名前を呼んだとき、確かに思い出したのだ。
自分が何を、大切にしていたのかを。