2つの渇き、交わるとき
地下室を出た3人は、再び元の居室に戻っていた。
仄かに温められた室内の空気が、先ほどまでの張り詰めた緊張を、ゆるやかに溶かしていく。
リリィはベッドの傍に腰を下ろすと、ふうっと大きく息を吐いた。そして、まるでその空気を吹き飛ばすかのように、勢いよくユイトを指さした。
「……で、あんたの能力よ! 何よあれ!!」
突然の問いかけに、ユイトはまばたきをひとつし、肩を少しだけすくめる。
「現代魔術でもね、臓器に直接作用するような魔術なんて、高度魔法の領域よ!」
詰め寄るような熱量に、思わず一歩引きそうになった。リリィの関心が本物であることは、表情の端々から伝わってくる。
「で、発動条件は何?」
「……魔獣で試した。何体かに。目が合ってないと発動しなかった。だから、たぶん“目を合わせること”が条件なんだと思う」
1か月の鍛錬の中で、幾度も試行錯誤を繰り返して得た仮説だ。
発動しない状況には必ず明確な共通点があり、逆に目が合えば、人間でなくても能力は起動した。
「ふーん……でも“目を見る”なんて、あまりに曖昧すぎるわね」
リリィは腕を組み、しばらく考え込んだあと、ふと目を輝かせて口を開いた。
「ねぇ、“導線”って言葉、聞いたことある?」
「導線?」
耳慣れぬ言葉に、ユイトは小さく首を傾げる。
「そう。対象に作用する魔術ってのは、魔力を流し込む“経路”が必要なの。魔力の出入り口、ってわけね。もしかすると、“目を見る”って行為の中に、その経路が生まれてるんじゃないかって思うのよ」
子供のような姿でそんな理屈を饒舌に語るそのギャップに、どこか和ましさがあった。
「たとえば、網膜に術者の姿が映る必要がある。とかね」
「網膜……」
リリィの口からふと漏れた単語に、ユイトは小さく驚いた。
この世界でも、それほどに精密な解剖学的知識が共有されているのか――と。
リリィは立ち上がり、小さな歩幅でぱたぱたと部屋の隅へ向かい、姿見の鏡を引きずって戻ってくる。
「セリス、こっちに立って」
半ば強引にセリスを鏡の前に立たせると、ユイトの肩を掴んで部屋の中央まで連れてきた。
「アンタはこっち」
「……ユイトだ」
不意に口をついて出た自己紹介に、ユイト自身が少し驚いた。
喉の奥が妙に乾いている。
「はい、ユイト。正面向いて」
言われたとおりに立ち、視線を正面に据える。
視界の先には古びた本棚と、開きかけの魔術書。セリスの姿は、そこにはなかった。
「ね、ユイトの目からはセリス、見えてないでしょ?」
「……ああ」
「でも、セリスからは鏡に、ちゃんとユイトの姿が映ってる。もし“網膜に術者の姿を映す”ことが条件なら、これでもスキルは発動するはず。さ、やってみて」
軽々しく言ってのける声音には、どこか楽しげな響きがあった。
「えっ……!? い、嫌よ私は!」
セリスが一瞬、目を見開く。
「あれー? まさか誇り高き騎士ともあろう人が、びびっちゃってるわけー?」
「……っ」
ユイトは、聖泉での一件を思い出していた。
父を侮辱されても、ぐっと堪えていた彼女の姿を。
正しき時だけに剣を振るうと決めていた彼女の騎士としての誇りを、あの瞬間確かに見たのだ。
セリスはこんな安い挑発に乗る人間ではない。
そして今、セリスは頬をかすかに赤らめながら、震える声で言った。
「……いいわよ。やってやるわよ。私は騎士。簡単に屈したりしないから!」
……安い挑発に、乗っていた。
リリィはにやりと口元を歪め、満足げにうなずいた。
「よろしい」
ユイトはしぶしぶながらも、ゆっくりと右手を掲げた。
本来、能力の発動に詠唱は不要だが、わかりやすく言葉を添えてみせる。
「……《蒼穹の奔流》」
しん――と、空気が張り詰めた。
だが。
……何も、起きない。
「ふーん。じゃあ、この条件じゃないか」
あっけらかんとした声で、リリィが言った。
セリスはほっと胸をなでおろし、息を吐く。
「うーん……」
リリィは軽く唇を尖らせると、部屋の中をぐるぐると歩き回り始めた。
小さな靴音が床板を叩くたび、彼女の思考の糸が音になって空気を揺らしていく。
その様子を二人はじっと眺めていた。
「……やっぱり、目そのものじゃないのよ。もっと、別の“導線”があるはず」
そう呟いたかと思うと、ぴたりと足を止め、顔を上げた。
ひとつ、何かが閃いたようだった。
「ちょっと、また位置変えるわよ!」
そう言うなり、ユイトとセリスの肩をそれぞれ掴んで、再び部屋の中央へと連れ出す。
「セリスは……そうね、こっちを向かないで。後ろ向いて」
「え? 後ろ向き?」
言われるまま、セリスはゆっくりと身体を反転させた。
ユイトの視線の先には、彼女の背中が静かに立っている。
聖泉で初めてセリスと共闘したとき、確か背を向けた敵に能力を試した。けれど――
「一度、戦闘中に背中越しに試したことがある。けど、発動しなかった」
「……そうじゃないの」
リリィはそれには答えず、部屋の隅に向かい、銀の水差しを取り出すと、慎重な手つきでセリスの背後に回った。
「ちょっ、なに……?」
戸惑うセリスの声をよそに、リリィはその首筋――うなじのあたりへと、水をそっと垂らした。
つう、と。
白磁のような肌に水滴が伝い、かすかにきらめいた。
「はい、これで――ユイト、スキルを発動してみて」
「水……?」
思わず口にしたユイトの問いに、リリィは答えなかった。
正直、腑に落ちない。
何を根拠にしているのか、さっぱりわからない。
けれど、その眼差しには確かな“確信”が宿っていた。
ユイトは小さく息を吸い、静かに右手を上げる。
視線の先には、背中を向けたセリス。そのうなじに、淡く光る水の筋。
今回も2人に発動したことを示すようにあえて提唱した。
「……《蒼穹の奔流》」
瞬間――
雷撃のような感覚が、脳を貫いた。
脊髄が軋むような衝撃とともに、全身の毛穴が一斉に逆立つ。
発動した。
してしまった。明確に条件を満たしてしまったと、悟った。
「――っ!?」
セリスが、ぶるりと小さく震えた。
その肩先が、まるで冷水を浴びたかのように跳ねる。
しばしの静寂。
やがて彼女は、ゆっくりと振り返った。
目元は涙に滲んでいた。
そしてその顔には、以前にも見た、あの感情が確かに浮かんでいた――羞恥と、覚悟と、恐怖がないまぜになったような表情。
「……うそ。嘘よね……?」
その声は、かすれていた。
彼女はわかっていた。
この後、自分の身に何が起こるかを――すでに一度、その結末を知っているからこそ、なおのこと。
彼女の脚が、微かに震えている。
ユイトは、その姿から目を背けることができなかった。
目の前で、何かが崩れようとしていた。
誇りとも、矜持とも呼べるものが――静かに、だが確実に。
セリスは、そろりと一歩、足を引いた。
そのとき――
ぴちゃり、と音がした。
わずかに濡れた床が、彼女の踵を許した。
「……っ、う……や、だ……」
震える手が、スカートの裾を掴む。
けれど、それはもはや意味をなさなかった。
次の瞬間だった。
――ぷつん。
何かが、彼女の中で切れた。
精神の糸か、肉体の制御か。それを名付ける間もなく。
「やっ、だめ、だめぇっ……!!」
叫ぶような掠れ声と同時に、
ぶしゃ、と――音がした。
布越しに広がった温もりが、抵抗も虚しく彼女の太腿を濡らし、滴り落ちてゆく。
じょぼ……じょぼ……じょぼぼぼ
床板に散る水音が、ひときわ鮮烈に響いた。
規則性を持たぬそれは、まるで彼女の羞恥心そのものが形を得て弾けたようだった。
「……く、う、ううぅ……っ……!」
セリスは目を伏せ、唇を噛み、震える脚で立ち尽くしていた。
スカートは腰から脚の付け根まで濡れ、そこから生温い液体が小さな流れを作って、靴の甲を濡らしている。
そのまま力が抜けたようにへたり込んでしまった。
セリスは、崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んでいた。
震える指先を膝に置いたまま、ただ目を伏せて。
その足元には、あまりにも生々しい“痕跡”が、静かに、そして濃密に広がっていた。
隣で腕を組むリリィは、何事かを考え込んでいるように見えた。
だが、その瞳は冴えていた。明らかに、何かを確信している。
「……なるほど。やっぱり、発動条件は“水”で間違いなさそうね」
濡れた床を一瞥しながら、リリィは呟く。
「眼球を覆う涙の成分って、ほとんど水分なの。つまり――“対象に付着した水分”が、導線になってるってことよ」
ユイトは眉を寄せた。
「水分が……導線?」
「そう。人の皮膚にも汗や体液はあるけど、きっと“目に見えるほどの水”じゃないとダメなのよ。ある程度の質量があって、視認できる“水”。」
そう語るリリィは、ふと視線をセリスへ向けた。
「そういう意味じゃ、眼球って最適ね。常時露出していて、表面には常に水分が張っている。発動の引き金にはぴったりよ」
そう言って、リリィはくい、と口角を吊り上げた。
「――ねぇ、ユイト。もう一回、やってみて?」
年相応の無邪気な顔。
だがそこには、どこか悪意すら感じさせる、いたずら好きな子どものような笑みがあった。
あるいは、自らが失禁させられたことへの、ささやかな“仕返し”だったのかもしれない。
ユイトの顔が引き攣る。
「えっ、ちょ、待ってくれ。これ以上は、さすがに……」
リリィは返事を待たず、しゃがみ込んだまま顔を真っ赤に染めているセリスを指さした。
「ほら、そこにちょうどいいのがいるじゃない?」
セリスは、かすかに顔を上げる。
「……や、やだ……もう……やめて……」
潤んだ目で、涙をこらえる彼女の表情はあまりに痛々しかった。
懇願と羞恥、そして恐怖が、混ざり合って滲んでいた。
ユイトは後ずさりながら言った。
「リリィ、やめよう。これ以上は……人として……」
――これ以上やれば、自分が人間としての一線を越える。
そんな危機感が、胸の奥をざわつかせていた。
「い・い・か・ら!!」
リリィはユイトの襟を掴み、がくがくと激しく揺さぶる。
小柄なその身体とは不釣り合いな力強さだった。
「いい? あんた、さっき私にあんなことしてくれたんだから覚悟しなさい。やらなかったら憲兵に突き出すから。公然わいせつ魔術使いってことでね?」
ぞっとするような真顔で、じっとりと脅すリリィに、ユイトはぐうの音も出なかった。
「……っ、いや……でも……」
そのとき、ふとセリスに視線を向けたユイトの目に、あるものが飛び込んできた。
――彼女の太もも。
そこを、つぅっと伝う光の線。
先ほど彼女自身から放出され、熱が冷えきらぬまま肌をなぞっていたそれは、間違いなく――ある種の"水"だった。
リリィの言葉が、頭の中で反芻される。
意識が勝手に引き寄せられるように、ユイトは自然と手を前へと差し出していた。
心の中で、言葉が形を取る。
「……《蒼穹の奔流》」
ほとんど無意識的に、ある種の好奇心とともに気づけば思わず能力を放っていた。
またしても、雷鳴のような衝撃がユイトの脳を駆け抜けた。
視線の先――セリスの脚を伝う“それ”が、確かな導線として結ばれていく感覚。
「――あ……や……っ、ま、た……っ……!」
セリスの身体がびくりと跳ねた。
「も……う……あっ、……んっ……!」
先ほどの一撃に耐えようとした彼女には、もう余力は残っていなかった。
連続する衝撃に、抗う力すら失われていた。
「いやぁっ、もう……だめぇぇぇ……っ……!」
1度目も、2度目も、この能力を受けたとき、セリスは騎士としての誇りを見せていた――
彼女は常に抗おうとする。例え最後は屈辱に塗れようとも、騎士として最後まで耐えようとする意志を見せていた。
――だが今、そこに耐え忍ぶ騎士の面影はなかった。
顔を真っ赤に染め、全身を震わせる姿は、ただのか弱い少女だった。
「ひゃっ……あぁっ……!」
びくんと腰が跳ね、ぐらりと身体を揺らし、身体を支える気力もなくセリスはそのままあおむけに倒れ込んだ。
ぶ……ぶしゃぁぁぁぁぁっ!
腰がびくんと跳ね、のけ反った。
最後まで留めようと抗っていた先ほどの放出とは違い、
抵抗もなく溢れ出た"それ"は勢いを増していた。
完全に決壊した熱が、押し留められていた全てを破って、スカートの奥から放射状に噴き出していく。
それはまるで美しい噴水かのように見まごう。だが、その生温い液体が放つ獣じみた匂いは、
否応なく現実を突きつけていた――これは彼女の意思ではない、“身体の敗北”なのだと。
びちゃ、びちゃっ、ぴちゃり――
力なく漏れ伝う液体が、太ももを伝い、床に跳ね、あまりに生々しい音を響かせる。
ぽたぽたと落ちる音が、まだ止まらない。
床に広がるぬかるみが、自分の恥のすべてを映していた。
「……いや……こんなの……」
顔を真っ赤に染め、羞恥に潰されたかのように肩を震わせるその姿に、もはや誇り高き騎士の面影は一片もなかった。
そこにいたのは、尊厳を打ち砕かれ、自らの排泄すら制御できなくなった――ただの、哀れな少女だった。
そして、リリィは――
にやり、と、満足げに笑っていた。
*
自主的に家の外へ出て、片付けが終わるのを待つことにした。
再び夜空の下、ユイトはひとり立っていた。
見上げれば、先ほどとは打って変わって夜の帳がすっかり降りていた。
冷たい風が頬を撫で、肌がわずかに引き締まる感覚があった。
しばらくして、軋むような音を立てて扉が開いた。
その気配に気づき、ユイトはすぐに顔を向ける。
「いいわよ。」
先ほどとは違い、今度はリリィが顔を覗かせていた。
部屋に入ると、木椅子にちょこんと座るセリスの姿が目に入った。
肩を強張らせ、まだ落ち着かない様子がうかがえる。あの恥辱の余韻が、未だに彼女を縛っているのだろう。
身にまとっていたのは、リリィに借りたと思しき足首まで届くワンピース。だが、その丈や形はどう見てもリリィの背丈には合っていない――おそらく、リリィの母親のものだろうか。
「さて、実験ご苦労だったわね」
あっけらかんとした口調で、リリィが言った。
その声に、セリスの目がじっとりと細められる。恨めしげな視線が注がれるが、リリィは意に介さず続けた。
「……もう、わかったでしょ? さっきので決定的になったのよ」
まるで授業でも始めるかのような口ぶりだった。
「最初はね、ユイトの能力って“排出”を促してるだけだと思ってた。でも……思い出してみて、さっきのこと」
セリスの顔、声、音、匂い――濡れた下着が張り付き、そこに浮かび上がる形さえも、鮮やかに脳裏に蘇る。
その視線に気づいたのか、セリスが睨むようにユイトを見る。
「……変なこと、思い出してないでしょうね?」
その一言に、思わずユイトは肩をすくめた。
しかし、リリィは構わず話を続ける。
「セリスは一度……あんなに漏らしたのよ? 普通、あれだけ出したら、もう何も残ってないはず。
でも、2度目。あの直後に、あの量よ? 明らかにおかしい。人体の構造上、排泄を促しただけじゃ到底ありえない量だった」
「うぅ……言わないで……」
セリスはうつむき、恥じらいに身を縮める。
その様子に、ユイトは喉を鳴らして息を呑んだ。
たしかに――思い返せば、あのときのセリスの放出は、尋常ではなかった。
それが、まるで何事もなかったかのように再び。しかも、より激しく――。
「……つまり」
リリィの目が鋭く光を帯びた。
「ユイト。あんたのスキルは、体内の“水分”を動かしてるんじゃない。あんたは……“水”そのものを“作り出してる”のよ」
「つくり……だしてる……?」
その意味がすぐには飲み込めず、ユイトはぼんやりと復唱した。
だが、リリィの言葉は容赦がなかった。
「そう。生成よ。あんたの魔力は、“存在しない水”を、この世界に生み出してるの。セリスの体に、直接ね」
彼女の指が、ぴたりとセリスの腹部を指し示す。
「こんな現象、普通じゃありえない。魔術で姿形を変えることはできても、“無”から“有”を生み出すなんて――それは、禁忌とされる領域なのよ」
ユイトの脳裏に、能力を発動して剣を振るっていたセリスの姿がよみがえる。
あのとき、彼女の手にあったのも、たしかに――実体のある“剣”だった。
「でも……セリスのあの剣も、物質化してるように見えたけど……?」
「“赫剣”は、魔力の形を“剣”のように固定しているだけ。実体はないわ」
セリスが静かに答える。
「じゃあ、リリィのあの杖は? 空間から取り出してたやつ」
「ふふん、それはスキルじゃなくて発明よ。“亜空間”を使った収納システム。さっき見たでしょ?
物理的に存在してるものを、一時的に別空間にしまってるだけ。つまり、“取り出してる”だけってこと」
「生成してるわけじゃない、ってことか……」
「そう。あくまで“あるもの”を“移動”させてるだけ。
でも、ユイトの能力は違う。“水”という実体を、ゼロから生み出してる。
それはつまり――この世界の理を、根底からねじ曲げるほどの力なのよ」
その言葉に、ユイトの胸に静かな戦慄が走った。
「人体に関与して、無から有を生む力……もしかしたら、それが“お母さん”を救うカギになるかもしれない……」
先ほどまでの軽口とは打って変わって、リリィの声には真剣さが宿っていた。
ユイトの脳裏に、あの異形となった母の姿がよみがえる。
「ユイトの能力、存分に研究させてもらうわ。それが――パーティに加わる条件よ」
「……わかったよ」
リリィの母を救うための可能性があるなら、迷う理由などなかった。
もう一つ、脳裏をよぎる光景があった。
リリィとの戦いの中、明らかに自分の限界を超えた瞬間――
あの一撃を交わし、能力を放ったときの自分は、確かに「これまでの自分」ではなかった。
あれは偶然だったのか。それとも――
その疑問を口にすると、セリスは静かに言った。
「ユイトは、一か月前まで剣すら握ったことがなかったのよ。あの動きは……普通じゃない」
言葉の余韻を引き継ぐように、リリィが続ける。
「“深化”って概念があるの。能力のね」
ユイトは首をかしげた。進化ではなく――深化?
「そう。スキルが強化されるんじゃない。“能力そのもの”が、深く変わっていくの」
リリィの瞳が、少しだけ遠くを見るように細められた。
「最初に見えていた力は、あくまで表層にすぎない。本質はもっと深い場所にあるの。 それが、経験や感情、極限状況を通して、少しずつ本来の姿を現していくのよ」
そして、ゆっくりとユイトに視線を戻す。
「あなたの能力も、そうなのかもしれないわね――“蒼穹の奔流”の、本当の姿が」
――自分の中にある力が、常識を逸脱している。
それが今、決定的に証明されてしまった。
「それで?」
空気を変えるように、リリィが口を開いた。
「これから、どうするの?」
問いに応じて、セリスが静かに口を開く。
「“ヴェルティア”はどうかしら?」
その名が出た瞬間、リリィは言葉を失った。長い沈黙が落ちる。
「……ヴェルティア?」
ユイトが首を傾げて聞き返す。
「そう。アルトリアの統治が及ばない、神聖教会が支配する独立都市よ。」
セリスの唇がかすかに震えた。そのまま、低く続ける。
「……そして、そこには昔から“黒い噂”があるの。」
リリィが、沈んだ声で告げた。
「人身売買よ。」
ユイトは思わず息を呑む。
「アルトリアの派遣団が何度も調査に入ったけど、何もなかったと公には言われてる。……私の父も、その任に就いたことがあるわ」
セリスの声には、わずかに憤りが混じっていた。
「でも、行ってみればいいじゃない?」
リリィが肩をすくめて言う。
「杞憂だったなら、それはそれでいい。平和な街ってだけの話。……でももし、噂が本当で、その片鱗でも暴けたなら――」
リリィの瞳が、静かに輝きを帯びる。
「セリス、あなたの名は、この国で確かなものになる。」
「……なるほど」
ユイトが低く、つぶやいた。
リリィは続ける。
「それに、ヴェルティアにはもう一つ特別な面があるの。この国の統治外だからこそ、独自の“魔術文化”が残っている。常識では考えられないような魔力の発現や、奇怪な伝承も多いらしいわ」
リリィの口元に、研究者らしい情熱が宿る。
「魔術研究にはうってつけ。私は大賛成よ」
ユイトは思い出していた。この旅には、もう一つ重大な目的がある。
――リリィの母を救う手がかりを見つけること。
“ヴェルティア”――
それは、セリスの名声に繋がるかもしれない道であり、リリィの探究の先でもある。
そして、自身の力の謎と向き合うための、一歩となるかもしれない。
目的地を決めた3人は、準備と旅立ちの日取りを決め、その夜は静かに解散した。