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導かれし者、拒絶せし意志

町を発ったのは、夜が明ける少し前だった。

深い群青が空の端から徐々に薄まり、闇に沈んでいた家々が白く姿を現しはじめるころ、

僕らの影はまだ、地面に溶けるように長く伸びていた。


幻駆車――セリスがそう口にしたときは、意味がわからなかった。

だが実際に見てみれば、馬の代わりに艶やかな鱗と角を持つ幻獣が二体、静かに車輪を引いていた。

その目は翡翠のように澄み、たてがみは風もないのに、ゆらゆらと、生きているかのように揺れていた。


幻駆車の振動はどこか柔らかく、旅が始まるという実感だけが、胸の奥を静かに揺らした。


舗装された街道を離れ、草の揺れる丘陵地帯を抜けるころには、朝霧が幻のように立ちこめていた。

空は青白く澄み、遠くの雲がゆっくりと流れていく。

幻駆車が草を踏む音と、時おり飛び立つ鳥の羽ばたきだけが、静けさの中に溶け込んでいた。


途中、魔獣に襲われたこともあった。

濡れたような黒い毛並みをもつ四足の獣が、音もなく背後から襲いかかってきたのだ。

だがセリスは迷うことなく飛び降り、魔力を帯びた刃でその喉を正確に裂いた。


一ヶ月の修行を経て分かったが、セリスは相当の手練れだ。

かつて騎士だったという父の話を思い出し、幼い頃に稽古でも受けていたのだろうか、とふと想像した。


魔道列車に乗り換えたのは、丘陵地帯を越えた栄えた街だった。

列車の内部は静寂に包まれていた。椅子は柔らかく、窓の外に流れる景色だけが、確かに時を運んでいく。


その列車は、現代で見知った電車とはまるで違う。

あえて言うなら、映画や幻想小説で見たような、古びた蒸気機関車の姿に近いだろうか。

けれども、魔力をまとって疾走する車両には、言葉にしがたい幻想性があった。


四時間の列車旅。

見知らぬ風景はけして飽きることなく、夢のように移ろっていった。

乾いた草原。遠くで煙を上げる火山。沈みかけた古代都市の尖塔。

それらは次々に現れては、音もなく遠ざかっていった。


セリスは対面の席に座り、ずっと黙っていた。

その沈黙が崩れたのは、ユイトがふと思いついたように口を開いたときだった。


「……そういえば、セリスの父は王直属の騎士団にいたんだよね?セリスも王都に?」


彼女は窓から目を離さず、しばし車輪の音に耳を澄ませるようにしてから、静かに答えた。


「そう。……王都に住んでいた。父が“無実の罪”で追われるまでは、ね」


“無実”という言葉を発したとき、セリスの声には微かに震えがあった。

まるで、喉の奥にこびりついた悔しさを絞り出すように。


罪の詳細を尋ねてよいものか、一瞬ためらった。

けれど彼女は、続きを語るように自然に口を開いた。


「反逆罪だった。でも、何をしたのか、何が起きたのか、私にも分からない」


ゆっくりとこちらに顔を向けたセリスの目は、どこか遠くを見ていた。

けれど言葉は確かに、ユイトに向けられていた。


「王に刃を向けたのなら即死刑。それなのに父はただ除団させられただけ。

 詳しい罪状も公表されず、ただ“除団”なんて――おかしいと思わない?」


僕は軽くうなずいた。

確かに“無実”と彼女が言う根拠は、理にかなっている。


「何をしたか分からない。噂はたくさんあって、父も母も私も、家族はずっと陰口を言われてきた」


汚名を着せられた騎士の妻と娘――その重さは想像するしかない。


「王都を追われた後は、遠く離れた地でひっそり暮らしていた。名前を変えて。だから、王都に行くのは久しぶり」


その語り口には、どこか淡々とした響きがあった。

まるで、自分の感情が深くなりすぎないように、意識して距離を取っているようだった。


「父さんは今は?」


少しだけ、間が空いた。


「王都を離れた後も、父は何も語らなかった。……そして、しばらくして酒に溺れるようになった。

 そこからある日ふらりと家を出て、それっきり戻らなかった」


その話は、思っていた以上に深く暗いもので――僕の中に浮かんだ言葉は、どれも空虚で、口にできなかった。


そんな沈黙を感じ取ったのか、セリスは姿勢を正し、凛とした声で続けた。


「そこからは君に話した通り。スキルの発現とともに、“ヴァレンティア”の名を継いで旅に出ることを決めたの」


その道程は、やがてあの聖泉の出会いへと繋がっていく。


以前セリスは“正攻法では騎士団に入れない”と言っていた。

街の書庫で読んだ本によれば、“ヴァルハリオン騎士団”は、七人の選ばれし者のみが名乗ることを許される、

王直属の誉れ高き騎士たち――その名は、かの英雄ヴァルハリオンに由来するという。


“ヴァレンティアの娘”であるセリスにはそもそも騎士団に入団すらできないということだろう。


「……騎士になるために?」


「そう。騎士団はときに、外部から優れた者を招くことがある。

 国家に貢献できる者、民に名を知られる者……そういう者は例外として迎えられるの」


「だから私は旅をして、民を助け、名を上げる。たとえどれほど遠回りでも、それが唯一、父の名誉を取り戻す道だから」


言葉に込められた決意が、列車の静寂を震わせたように思えた。


そう言って、彼女は再び窓の外――果ての見えない雲の切れ間を、じっと見つめた。


幻駆車。魔道列車。風景。言葉。過去。

すべてが、少しずつ、僕らを王都へと運んでいた。


窓の外――浮かぶ巨大な建造物が、徐々にその輪郭を明らかにし始めていた。

雲よりも高く、塔が幾重にも連なり、空を縫うように架けられた橋が、陽光に銀の線を描く。

街の中心――王都(マギナ・アークレア)。そこは、まさしく魔術文明の結晶だった。


列車がゆるやかに速度を落とし、車輪が金属音を響かせて駅へと滑り込む。

人波に紛れて改札を抜けると、眼前に広がるのは――幻想と技術が融合した壮麗な光景だった。


空を仰げば、まるで宙に浮かぶような建築群。

橋や建物は魔力によって空中に保持され、青白い光の筋が空を織り上げるように交錯している。

足元の路面は隙ひとつない白い大理石のような質感で、建物の壁面は金属とも石ともつかない、滑らかな光沢を放っていた。

まるで未来都市と見紛うような街並み――だが、そこに宿るのは確かに魔術の気配だった。


「まさに……“異世界”じゃないか」


思わず口をついた言葉に、セリスが静かに笑う。


「魔術文明の極地よ。最新鋭の魔術の叡智。……ここは、特別なの」


懐かしさの滲む声だった。

彼女にとって、この煌びやかな街並みもまた、帰りたくても帰れなかった過去の延長なのだろう。


到着が夜遅かったこともあり、その日は郊外の古びた宿に部屋を取った。

華やかな中央街から遠く離れた場所にある、石造りの宿屋。

魔術照明はくすみ、床板もわずかに軋んでいたが、

一ヶ月分のギルド依頼で稼いだ金――その大半は生活費と移動費に消え、残ったのはわずかな硬貨だけ。やむを得なかった。


*


荷を解き終えると、セリスは机の端に腰かけ、真剣な面持ちで口を開いた。


「明日の朝、リリィの家を訪ねてみようと思うの」


あまりにストレートな提案に、思わず肩をすくめる。


「いきなり勧誘? けっこう正面突破だな」


「ふふ、やっぱりそう思う? でも、案外それが一番いいと思ってる」


自信に満ちているというよりは、どこか吹っ切れたような明るさだった。


「リリィの母親も、王都の魔術研究機関にいたの。だから、だいたいのエリアは知ってるのよ。

細かい住所までは分からないけど……まあ、聞き込みすれば何とかなるわ」


「思いきりがいいっていうか、妙に一直線なんだよな、セリスって」


つい、そんな感想が漏れる。

彼女のやり方は、いつも率直で迷いがない。


「聞き込みはユイトの担当ね。私は……顔、出せないから」


そう言ったセリスは、わずかに目を伏せた。


「で、リリィに会えたとして――どうするつもり?」


「まずは、素直に誘ってみる。“私たちのパーティに入らない?”って」


「……それで断られたら?」


「その時はその時。でも、別の考えもあるの。ちょっとした仕掛けだけどね。

成功するかは分からない。でも、やってみる価値はあると思ってる」


“仕掛け”という言葉に、何か策があると察したが、彼女はそれ以上を語らなかった。


けれどその目は、揺るぎなく、真っすぐだった。


翌日、さっそくリリィの家を探し始めた。

セリスによると、王宮に仕える者が多く暮らす地区があり、リリィもそのエリアにいるはずだという。


幻駆車の揺れに身を任せ、二人は王都の中心を目指して進んでいった。

数刻が過ぎ、昨日一夜を過ごした外れのぼろ宿とは一転、豪華な建造物が次々に姿を現すエリアに差し掛かる。

煌めく魔術の光が街の隅々に宿り、空を見上げれば、高くそびえる塔や橋がまるで浮かんでいるかのように、青白く光を放っていた。


人々の歩く速さや、流れるような会話があたりに響き、活気に満ちた街の中、セリスとユイトは手がかりを求めて歩き続けた。

しかし、どこの地域出身かわからない男と、フードを目深にかぶり顔を隠す女。

二人の姿はどう見ても怪しく、多くの人々は警戒して視線をそらし、まともに答えてくれる者はいなかった。


数少ない返事をくれた人々の中にも、詳細な家の場所を知っている者はいなかった。

想像以上に家探しは難航し、時間だけが無駄に過ぎていく。


ユイトが疲れた様子で肩をすくめ、街角で立ち止まる。

周囲の煌びやかな景色が目に入るが、心の中は焦燥と不安でいっぱいだ。

どこか遠くで響く鐘の音が、時間の流れを気づかせ、胸の中でじわじわと重くなる焦りを増していく。


二人の姿は目立ち、街を行き交う人々の視線が一瞬、二人に集まるのを感じた。

その不安定な視線に気づくたび、ユイトは一層腰が重くなり、聞き込みをする気力も失われていく。


朝から聞き込みを続けていたが、日が傾きかけ、街灯が薄く灯り始める頃には、二人の足は重く、疲れが身に沁みていた。

ユイトは思わず喧騒の外れに腰を下ろし、少し休むことにした。

無意識に深いため息をつき、手を顔に当てる。


「どうしようか……」

思わず呟いたその言葉には、疲れと困惑がこもっていた。


セリスも少し顔をしかめながら、ユイトの隣に腰を下ろす。

「下手したら、何日か粘らないといけないかもね」

冗談交じりに言うが、彼女の声には本気で心配しているような響きもある。

それでも、ユイトが気づいたのは、その目の奥にある、どこか遠くを見つめるような寂しげな表情だった。

彼女もまた、無言のプレッシャーに耐えているのだと、ユイトは感じ取った。


ふと、前を通り過ぎる老婆が目に入る。

その年齢の割にどこか落ち着いた佇まいをしており、歩く姿には、長い年月を感じさせる重みがあった。

ユイトはその姿に一瞬、目を止めたが、すぐにその思考を追い払う。

今日一日の成果を振り返り、諦めの気持ちが浮かんで声をかける気力を失った。


だが、その時――


「マリシュアさん……? マリシュアさん!」

セリスが急に立ち上がり、感情を込めて声をかける。

その声に振り返った老婆の顔が、驚きに満ちた表情を浮かべた。


「セリス……セリスなのかい?」

老婆――マリシュアは、まるで昔の友人にでも再会したかのような温かな笑顔を見せた。

その目には、一瞬、涙がにじんだ。


はたと抱き合ったセリスの目にも、うっすらと涙が浮かんでいたようだった。


「よかった……心配していたんだよ」

しみじみとした声で言われ、セリスは涙を滲ませながら答える。


「うん……ごめんね。何も言わずに……」

セリスが優しく語りかけると、マリシュアは手をセリスの腰にかけ、涙を拭いながら微笑む。

その表情には、長い年月を経ても変わらない、深い絆が感じられた。


どうやら、セリスが王都で過ごしていた頃の知り合いらしい。

マリシュアの顔を見て、セリスの顔にほんの少しだけ緊張が解け、安心したような表情が浮かんだ。


マリシュアに促され彼女の家へと案内された。


マリシュアの家は、古い石造りの一軒家だった。

かつてセリスの家もこの近所にあったらしく、道中、彼女がよくお世話になっていたことをユイトは聞かされた。


その小さな中庭には、色褪せながらも丹念に手入れされた花々が静かに咲き誇り、ところどころに立つ錆びた風見鶏が、ゆるやかに風を受けて回っていた。

遠い記憶の底から引き上げられるような、胸の奥にぽつりと灯る懐かしさ。

その佇まいに、セリスの足取りは次第に柔らぎ、無意識に呼吸も深くなる。


家の中に通されると、香ばしいお茶の香りがふんわりと二人を包んだ。

木のぬくもりが染み込んだ室内には、古びた本棚と、使い込まれた編み物かごが置かれている。

窓際の揺り椅子に腰掛けたマリシュアは、ゆるやかな微笑みを浮かべながら、懐かしむように口を開いた。


「あなたが小さかった頃……よく熱を出したわねえ。夜通し、おでこを冷やしてたのを思い出すよ」


その声は、まるで過去をそっと撫でるように優しく、温かく、言葉の一つひとつが心の奥へと沁みていく。

セリスもまた、こみ上げる想いを抑えきれず、かすかに笑みを浮かべた。


「私……本当のおばあちゃんみたいに思ってた。母も父も忙しくて……でも、マリシュアさんは、いつもそばにいてくれたから」


語りながら、セリスの瞳には滲むような光が浮かんでいた。

それは涙の前触れというよりも、心の奥でずっと消えずにいたあたたかな記憶が、今ふたたび姿を見せた証だった。

マリシュアは、何も言わずにその手を取り、静かに指を絡めた。


「セリス、あの時……お父さんのこと、私、何もできなかった。信じていたのに……結局……ごめんなさいね」


その声は震え、途中で言葉がつまる。

マリシュアの視線が遠くを見つめ、唇が悔しげに震えたまま沈黙した。


セリスは、その手をしっかりと握り返す。


「マリシュアさんのせいじゃない。信じてくれてただけで、私は……救われたよ」


その言葉は、赦しではなく、感謝だった。

幼い頃、何度もすがった手のぬくもりが、今も変わらずそこにある。

そしてその眼差しには、ただの少女ではない――誰かの意思を背負い、未来を切り拓こうとする者の、強い光が宿っていた。


「マリシュアさん、私……騎士団を目指す。お父さんの汚名を、晴らすために」


その一言は、長く胸に秘めてきた炎のようだった。

静かに、けれど確かに、その言葉は部屋の空気を震わせた。


マリシュアの目に、堪えていた涙が一筋、こぼれ落ちる。

皺の刻まれた頬を伝い、夕日の光の中で静かにきらめいた。


「うん……そうかい……うん……」

何度も頷きながら、その小さな身体で彼女はすべての想いを受け止めていた。


「きっとなれるよ……セリスは、昔から芯の通った、まっすぐな子だったから」


その声はかすれていたが、そこには揺るがぬ信頼と、深い愛情が確かにあった。


やがて、話題はリリィのことへと移る。


「セラフィーヌ家……もちろん知ってるよ。あの辺りじゃ有名な家だから」


マリシュアは立ち上がり、ゆっくりと戸棚から古びた地図を取り出した。

それを開く手つきにも、名残惜しさと、旅立ちへの祈りが滲んでいる。


「場所もわかる。あの子を旅に誘うんだね?」


セリスがうなずくと、マリシュアは優しく頷き返した。


「あの子なら、きっと頼もしい旅の仲間になるよ。まっすぐで、いい子だもの」


地図に印をつけながら、マリシュアは二人を門前まで見送りに出た。


夕焼けに染まる石畳の上で、振り返る彼女の瞳には、別れの寂しさと同時に、揺るがぬ希望の光が宿っていた。


「セリス。きっと、あなたは大丈夫。気をつけてね。旅の無事を祈ってるから」


その言葉を受けて、セリスは一歩踏み出す前に深く息を吸い込んだ。


「うん、絶対に胸を張って、またここに帰ってくる。……約束する」


すると、マリシュアはユイトの方へ静かに向き直った。


「セリスと同じ、まっすぐな目……いい目をしている……」


柔らかい言葉。

その一言が、ユイトの胸に温かく染み入る。

セリスがなぜこの人を心から慕っていたのか、今はもう、言葉にしなくてもわかった。


「セリスのこと、お願いね……」


「はい」


静かに、けれど確かな意志をもって、ユイトは答えた。

セリスの願い、マリシュアの願い――その両方が、今の自分の中に流れ込んできているのを、はっきりと感じた。


そして、セリスの瞳には、これまでに見せたことのない強い光が宿っていた。

それは少女のまなざしではなく、明日を選び取る者のまなざしだった。


二人は再び王都の石畳を踏みしめる。

夕暮れの空の下、その背に映る影は、確かに前へ進もうとしていた。


その決意は、ひそやかに、けれど確かに燃え続けていた。



マリシュアにもらった古びた地図を頼りに、ふたりは王都の北端、坂を上った先にある静かな地区へと足を進めていた。


だが、目の前に現れた一軒の家だけは、周囲のどれとも明らかに異質だった。

屋根には奇妙な文様の刻まれた風見がいくつも立ち並び、外壁は雪のように透き通る白で塗られている。門柱に刻まれた魔法文字は淡く光を放ち、家そのものが空間の重力からわずかに逸れているかのような、奇妙な歪みすら感じさせた。


「……あれだな、きっと」


ユイトが小さく呟くと、セリスも静かに頷いた。

この家に流れる空気――明らかに只者ではない力が漂っていた。


セリスが扉の前に立ち、手を伸ばす。

コン、コン、と控えめなノックの音が、周囲の静寂に吸い込まれていく。


……しかし、返事はない。


再び、今度はやや強めにノックすると、内側から――ゆっくりと扉が軋みながら開いた。


姿を現したのは、年端もいかぬ少女だった。


金糸のような髪を高く二つに結ったツインテールが、陽光を受けてふわりと揺れる。

その瞳は澄んだ空を思わせる青。だが、その奥には鋭い眼光が宿り、こちらを測るように射抜いていた


彼女の身を包むのは、まるで皮膚の延長のように身体へぴたりと吸いつく衣だった。

レオタードを思わせるような形状の服だが、艶めいた質感を帯びており、魔術師が纏う特殊な衣服なのだと感じた。


素材のてらりとした質感もあいまって、華奢な肢体の輪郭を浮かび上がらせていた。

柔らかな肩の輪郭、しなやかに伸びた腕、幼さの残る膝――そのすべてが、あまりに無防備だった。


肩に羽織った深緑のケープは、風にひらひらと揺れ、唯一の“学生らしさ”をかろうじて主張している。


細くしなやかな脚には太ももまで届く靴下がぴたりと這い、却って肌を際立たせる。

その脚の付け根、肌と布のわずかな境界は、妙に目を引いた。

その全体の印象は幼さと、どこか計り知れぬ異質さが奇妙に同居していた。


「……子供?」


ユイトの口から、不意に漏れたその言葉が空気を裂いた。


少女の眉がぴくりと跳ねる。


「――誰が子供よッ!」


まるで矢のような鋭さをもって放たれた声に、ユイトは反射的に一歩後退した。


「す、すみません……!」


少女は一度、肩をすくめてため息をつくと、そのまま玄関の内側からふたりを睨み上げた。


「で? 用は何? またのスカウト? 最近、弱そうなやつらばっかでウンザリなのよね」


セリスが一歩前へ出た。その眼差しには、揺らぎがなかった。


「私たちは、パーティの仲間を探してる。あなたの力を貸してほしいの」


その声音は穏やかだが、明確な意志が宿っていた。ここまでは宿で打ち合わせた通りのやり取りだ。


「ふぅん……偉そうに言うけど、あんたたちのパーティがどれほどのものかも知らないで、力を貸せなんて――虫がよすぎるわね」


その口調は挑発的ですらあったが、どこか自信に裏打ちされた確かさがあった。


「そうね。私は――セリス・ヴァレンティア」


ヴァレンティアの名を聞いた瞬間、リリィの表情がわずかに揺らいだ。

それが不信感だったのか、あるいは別の感情だったのか――読み取るには一瞬すぎた。


リリィは一度だけ視線を伏せ、すぐにまた顔を上げると、今度はユイトに視線を移した。


「で、その隣の生意気そうな男。あんたは?」


じとりとした視線が、小柄な身体からこちらを射抜く。


「……っ!」


ユイトが言葉に詰まったその瞬間、セリスが一歩前に出て、彼を庇うように立った。


「じゃあ、ユイトと勝負してみる?」


その提案に、リリィの目が面白そうに輝いた。


「勝負? へえ……」


まるで無邪気な子供のような笑みだった。

いや、見た目は子供そのものなのだ。だがその笑みの奥には、年端もいかぬなどという言葉では収まらぬ計算が見え隠れしていた。


「きっと五分後には――いえ、一瞬で、あなたが膝をついてる」


セリスの挑発的な一言に、リリィの唇がついっと吊り上がる。


「ふーん」


またしても、どこか生意気な光を帯びた瞳でこちらをじっと見た。


唐突な展開に、ユイトは思わずセリスの腕を引いて距離を取った。

リリィに聞こえないよう、小声で問いただす。


「勝負ってどういうことだよ……!」


思いがけない展開にセリスに問いただす。


「あなたの能力は異能。きっと興味を持つはず」


セリスは即答した。その目は冗談ではないと告げていた。


「でも、能力を見せるのはリスクがある。たとえば、ユイトの能力を見せると言って、私で試したら――」


「……家の前でいきなり失禁する、不審者になるな」


「でしょ?」


セリスは肩をすくめた。


「かといって、リリィ本人にいきなり使うのも難しい。ここは一応、街の外れとはいえ、人通りもあるしね」


なるほど、とユイトは頷いた。

勝負という形式をとって場所を移し、そのうえで彼女に能力を使う――

そしてセリスが異能と称する能力を体感させる。それがセリスの作戦なのだ。

実直で、まっすぐなセリスらしい策だった。


「大丈夫。彼女は高度な魔術師。でも、あなたのスキルなら……目を合わせた瞬間、勝負は決まる」


「……なるほど。不意を突けば、勝算はあるってわけか」


「何こそこそ喋ってんのよ!」


リリィの苛立ちが爆ぜるように響き、ふたりはぴたりと口を閉ざした。

その瞳には、ただの少女には似つかわしくない、鋭い光が宿っていた。



「――場所を変えましょう」


セリスが静かに言った。


その言葉に、リリィは少しだけ目を細め、くつくつと喉の奥で笑った。


「いいわ。こっちに来て」


軽い口調でそう言い、くるりと踵を返して家の中へと足を踏み入れていく。


「え……家の中? これから戦うんだろ?」


ユイトは小声で疑念を漏らしつつも、リリィの後を追った。


家の中は、外観以上に異様だった。無数の本と瓶が乱雑に積まれ、壁には意味不明な装飾が無秩序に散らばっている。その中央――無造作な棚から、リリィは青白く光る石を取り出した。


「見てなさい」


囁くように呟くと、リリィはその魔晶石にそっと魔力を注ぎ込む。すると――


空中に浮かぶ魔方陣がまばゆい光を放ち、幾何学的な紋様が走るように広がっていった。やがてその光は半球状に膨らみ、三人を包み込んでいく。


床と天井の境界が曖昧になり、眩い光が視界を覆う――そして気がつけば、彼らは見知らぬ石畳の広場に立っていた。


風もなく、音もなく、灰色の空が遥か高みに広がっている。地面は滑らかで、あまりにも無機質だ。


「ここは……?」


ユイトが戸惑いの声を上げる。


リリィはつまらなさそうに肩をすくめて答えた。


「私が開発した魔具よ。空間上に魔力の壁を貼って、亜空間を構成してるの。外部からの干渉はないわ。ま、壁に触れれば簡単に出られるけどね」


挑発めいた声音で、リリィはくるりと一回転してみせた。


「これなら、文句ないでしょう?」


セリスは無言で頷き、ユイトは小さく息を呑む。 空気が一変し、場が戦いの舞台に変わったことを、二人は肌で感じ取った。


「じゃあ――勝負、始めましょうか」


その一言が無機質な広場に反響し、張り詰めた空気が微かに震えた。風はない。音もない。灰色の天幕の下、時が軋むように動き出す。


次の瞬間、リリィの掌から放たれた魔法陣が蒼白く空間を裂いた。そこから巨大な杖が現れる。


しかし“杖”と呼ぶにはあまりに無骨で、鈍く光る金属の装甲が重厚に組み上げられている。それは彼女の身長ほどもあった。兵器のような質量が、そのまま殺意として場を圧迫する。


リリィは迷いなくそれに片足をかけ、しなやかに跨がると――


「いくわよ!」


叫び声と同時に、杖の機構が轟音を吐いた。青白い光が噴き上がり、彼女の身体ごと空中へ飛び立った。爆ぜる風が石畳をえぐり、振動が遅れて地を駆け抜ける。


「なっ……!」


ユイトが本能的に一歩、後ずさった。


作戦では、開始と同時に“目を合わせる”ことで能力を発動するはずだった。だが、彼女はまるでそれを見越したように、天へと逃れた。


その瞳は――もう、届かない。


「くっ……!」


セリスの鋭い視線がユイトに向けられる。問いかけはない。ただ、冷静に「次を考えろ」とだけ言っていた。無言の檄が、脳を震わせる。


ユイトは奥歯を噛み、額に滲む汗を拭う余裕もなく前を見る。心臓が早鐘のように鳴る中、己の判断が遅れていたことを痛感する。最初の一手で、すでに主導権は奪われていた。


そして、静寂を裂くように上空から笑い声が降ってくる。


「“能力”とやらは、どうしたの?」


乾いた声だった。響くその声音には、まるで全てを試すような意図が滲んでいた。探っているのだ、こちらの奥の奥まで。


「こないなら――こっちから行くわよ」


その瞬間、杖の先端が唸りを上げ、蒼白い魔力が渦を巻いた。光は刃となり、空気を引き裂くほど鋭く形を成す。


ユイトの身体が強張るより早く、リリィが動いた。


「っ!」


音を置き去りにして、リリィの身体が地上に向けて急降下する。光刃を掲げ、一直線にユイトを貫かんと迫るその姿は、まるで彗星のようだった。


ユイトは反射的に身を翻し、地を蹴る。石畳が砕け、白い粉塵が舞い上がる中、ギリギリで軌道を逸れる。だが、それだけでは足りない。


――目を合わせなければ、意味がない。


ユイトは跳ねながら着地の反動を殺し、正面へと回り込もうとする。しかしリリィはすでに動いている。再び高く飛び、弧を描いて襲いかかる。


「くっ……!」


刃が地面を抉る。火花と石屑が舞い上がり、リリィは風のように翻る。回避を重ねながら、ユイトは視線を探るが――交わらない。


三度、四度、五度。攻防は繰り返され、次第に息が荒くなる。喉が焼け、肺が悲鳴を上げる。


上空で舞いながら、リリィが鼻で笑った。


「ねえ、あんたの“スキル”――発動条件があるんでしょう?」


その一言で、ユイトの肩がわずかに揺れる。それを見逃すはずもなく、リリィは微笑む。


「やっぱり。わざと正面に立とうとしてるの、丸わかり。」


すべてを見透かすような態度でリリィは続ける。


「空中にいるとき、何の動きもないのがその証拠。……おおかた、相手に触れる必要があるとか……目を合わせる必要がある……とか?」


能力を一瞬で見透かされて思わず困惑する。

無邪気で無慈悲な笑み。その声は、まるで処刑を告げる鐘のように響いた。


「はぁ……やっぱり弱いじゃない」


軽くため息をつくと、リリィは急降下に移る。機構が唸り、光が尾を引くように落下する。

地面につく寸前で急旋回し、ユイトの正面に向かう。


「っ……!」



前から自身めがけて飛んでくる刃に目を合わせる余裕はない。

ユイト身を低くしてさけるのが精いっぱいだった。その刹那、一瞬視界からリリィが消えた。


見失ったリリィを探す。一瞬の間だったが、リリィにとっては十分な時間だった。



背後――!


気配を感じて振り返ると同時にリリィの声が響く。


「――遅いわ」


振り返ったとき、彼の視界に飛び込んできたのは、変形した“杖”。複雑な構造はさながら銃の形へと変化しており、魔力の奔流を放つべく構えられていた。


「さようなら」


引き金が、引かれる。


青白い光が爆ぜ、時間が凍るほどの静寂が走る――


だが、その刹那だった。

ユイトの意識は思考を超えた。自身の能力の限界を超える反応速度。

明らかに異質な反応だった。


引き金が引かれる瞬間、ユイトは驚く程冷静だった。

自身に向かってくる光ではなく、銃口の向く先を冷静に見ていた。


銃口の先はユイトの体をわずかにそらしていた。

致命傷にならないように、四肢をわずかに掠るような向きをしている。


それを理解したとき、ユイトの体が、意識よりも先に動いていた。


「……っ!」


地を擦るように身を低く沈める。轟音。閃光。世界が白く焼き尽くされる寸前――ユイトは、あえてその光に向かって突っ込んだ。

銃口の先から光弾が向かう先を理解していた。

蒼い閃光が頬を掠める。肌が焼ける。石畳が裂け、灰が舞う。だがユイトは止まらない。体をひねり、重力を断ち切るように跳躍し、光の中をすり抜けた。


「なっ――!」


目の前に現れたのは、リリィ。銃を構えたまま、呆然と立ち尽くす。


対応できない。


――目が、合った。


真正面から。避ける余地はない。


「――っ!」


ユイトの瞳が、深く、静かに、蒼く光る。


「《蒼穹の奔流(カタストロフィ))》」


音もなく、魔法でもなく、ただ“羞恥”の波動が空間を満たす。


次の瞬間――リリィの身体が跳ねた。


「……ぁ、な、に……これっ……?」


能力が発動した確信があった。次の瞬間リリィの体が、ぴくりと震えた。


「っ……なによ、これ……っ!?」


金色のツインテールが揺れ、彼女の瞳が驚愕と困惑に染まる。小柄な体がぎゅっとこわばり、真っ白な太ももがキュッと押し合わされる。わずかに開いた唇からは、浅い息がこぼれた。

彼女は両手で秘部を押さえ込み、身を折りたたむようにして膝を軽く曲げる。その姿は、誇り高き魔導士というよりは、羞恥に震える少女そのものだった。



「や、やだ……っ。ちがう、違うから……!」


両足をきゅっと内股に締めたまま、リリィが小刻みに足を動かしながらと情けない音を立てて床を蹴っていた。

もどかしく揺れる太ももの奥、そこに溜まった熱を、どうにか堪えようと震える足先で押し返すように。

だがそれは、耐えるというより、羞恥に身をよじらせているようにすら見えてしまう。


強がるように言ったものの、声はかすれ、明らかに自信を失っていた。自分でも認めたくない限界が、膀胱から喉元までせり上がってくるようだった。

冷や汗が、こめかみを伝い、背筋を流れる。息を吸うたび、腹の奥がきりきりと疼いた。


「なんで……っ、あたしが、こんな目に……。、王立魔導学院首席よ……っ。こんな、こんな……っ、情けない姿、見せられるわけないのに……!」


ひとりで自分を励まし、震える脚に力を込める。それでも、奥からせりあがる圧迫感が、もう理性を追い詰めていた。


「あっ……やだっ、だめだめっ!お願い、やめて、もう……っ!」


顔を真っ赤に染めて、涙を滲ませながら、リリィは初めて助けを求めた。言葉にはならない、けれど少女の心の奥にある“どうしようもなさ”が、表情全体に滲み出ていた。


「どうしてこんな、みっともない……っ、最低……っ」

声はかき消されそうなほど細くかすれていた。



「くっ……!あ、あっ……もう、ダメ……っ!……出ちゃう……っ!」


明確な「ぬるい感触」が彼女の太ももを伝い落ちていった。


そして――


――ぷしゃああっっ!!


決壊の音は、あまりにも鮮烈だった。

皮肉にも彼女が作り出したこの無音の空間がその音を際立てる。


太ももまである靴下が、一瞬で黄金に濡れ広がっていく。ぐしゅっ、と音を立てて床に水音が跳ね、石畳の隙間を伝い、広がっていく。


じゅわっ、しゃぷっ、しゃああああ……


その小さな身体からは明らかに許容できない量の液体が広がっていく。

濡れた音が空間を支配する。そのすべてが、リリィという少女の“誇り”が崩れ落ちていく音のようだった。


「あ、あああ……やだ!、やだやだ、うそ、こんなの……!」


露出の多い服のせいで、足の付け根からあふれ出た液体が徐々に染み出していく様子が、あまりにも鮮明に目の前で広がる。


膝から崩れ落ち、床に座り込んだリリィは、ぶるぶると肩を震わせていた。目を伏せ、顔を両手で覆う。

ぶるりと震えて彼女の身体は、最後の一滴を残さず流れ出したようだった。

ぐっしょりと濡れた布地が肌に吸い付くように貼りつき、わずか一枚隔てた下半身の形をあらわに浮かび上がらせていた。


「なんで……なんでこんなの……」



その声は、震え、滲み、そして砕けた。

何もない空間がより一層匂いを際立てていた。

最後の残滓のように、ぴちょ、ぴちょ……と音が続く。身体が、心が、濡れていく。床には少女の“限界”が濡れた地図のように広がっていた。



魔力の供給が尽きたのか、空間を構成していた壁が揺らぎ始めた。

仮初の戦場を覆っていた結界が、音もなく崩れ落ちる。視界が揺れ――そして、場面はリリィの家の中へと戻ってきた。


それはほんの一瞬の出来事だったが、床に広がる水たまりが、先ほどの戦いが夢ではなかったことを雄弁に物語っていた。


セリスが静かにリリィの傍に膝をつき、そっと肩に手を添える。


「もう、終わったわ。……立てる?」


リリィは小さく首を振り、目を閉じたまま、何かを噛みしめるようにして唇をかすかに震わせた。悔しさか、それとも別の感情か――それを読み取るのは難しかった。


ユイトは無言で玄関の扉を開き、外へ出た。

曇り空の下、冷たい風が頬をなでる。呼吸を整えようとしても、胸の奥にはまだ熱がこもっていた。手のひらの震えが止まらない。

勝利の実感よりも、ただ――何かが“始まってしまった”という予感だけが、重く心にのしかかっていた。


先ほどリリィの攻撃をかわした一瞬、明らかに自分の意思ではない動きがあった。

ほんの一月前に剣を握ったばかりの自分には、到底できる芸当ではない。

あれもまた、“能力”なのか――。

どこか他人事のように思い返しながらも、わずかな不安が胸に渦巻いていた。


どれほどの時間が経ったのだろう。数分か、それとももっと――

カラリと扉の開く音が背後から響く。振り返ると、セリスが立っていた。


「中へ。……リリィが、話があるって。」


ユイトは黙ってうなずき、室内へと戻った。

空気はまだ冷たく、戦いの余韻をわずかに残していたが、灯りがともされ、空間には少しだけ柔らかさが戻っていた。


リリィは小さな丸椅子に腰かけ、背を丸めてうつむいていた。

身に着けているのは魔術学園の制服。深い紺色に金糸の刺繍が施されたその整った姿が、かえって敗北の静けさを際立たせていた。


「……私が、負けるなんてね。」


顔を上げたリリィの表情に、怒りや憤りはなかった。ただ、受け入れがたい現実を口にするための、乾いた微笑が浮かんでいるだけだった。


「あんな能力、知らないわよ。まるで……理に抗うような……」


小さく首を振りながら、リリィはセリスへと視線を向けた。


「さっきの話だけど……あなた、“ヴァレンティア”の娘よね?」


セリスの肩がぴくりと震え、目元がわずかに強ばる。


「……ええ。そうだけど、それが何かしら?」


「責めたりはしないわ。むしろ……私は、あなたの父親は無実だったと思ってる。」


その言葉に、空気が変わった。

セリスは唇を噛みしめ、何かを言いかけたが、その言葉は胸の奥へと飲み込まれた。


リリィは静かに立ち上がり、ユイトとセリスを見つめて言った。


「あなたたち、私をパーティに誘いたいんでしょう? なら、ひとつだけ聞かせて。――覚悟はあるの?」


その声音から、さきほどまでの軽やかさは消えていた。

冷えた刃のように、鋭く、確かな意志が込められていた。


ユイトは黙って頷き、セリスもまた、視線を逸らさずにうなずく。


「……なら、来て。」


リリィは二人を促し、家の奥へと進んだ。木製の扉の先にある、地下へと続く急な階段。

きしむ段を一歩ずつ下りるたびに、冷たい空気が肌を刺す。


普通の家には不釣り合いなほど深く続いた階段の先――

地下室には、奇妙な静けさが広がっていた。壁に設置された灯具が、ほの白い光で空間を照らしている。


重厚な扉が、きぃ、と鈍い音を立てて開く。

その先にあったのは、一台のベッド。そして、その上に横たわる“何か”。


それは、かろうじて人の形をしていた。

だが――あまりに異形だった。


全身が黒くただれ、まるで木の皮のような硬質な肌が覆っている。いくつもの管が身体に差し込まれ、魔力の流れを保っているようだった。

その姿は、辛うじて「人間」と呼べるだけの存在だった。


「これが……私のお母さん。」


目をそむけたくなるような姿。

だが、それでも母と呼ぶリリィの声は、揺らがない。


目を背けてはいけない――これこそが、彼女の覚悟なのだ。


リリィの声が、沈んだ色を帯びる。


「魔術によってこうなったの。」


その言葉に、どこまでも深い重みが宿っていた。


「はっきりしたことはわからない。でも、残滓から見て――これは誰かが意図的にかけた魔術。それだけは確か。」


“人の母親”を、こんな姿に変える魔術。

そして、それを放った誰か――その存在の凶悪さに、ユイトの背筋が粟立つ。


「あなたの父親、カイレル・ヴァレンティアが突然除団されたのはいつ?」


ふいの質問にセリスの目が見開かれる。


「5年前……」


「そう。カイレル・ヴァレンティアは国の英雄だったから突然の除団は、大きな騒ぎになった。」


リリィはこちらを向き直り続ける。

「でも、実はそれだけじゃないの。知られていないけど、同じ時期、王に仕えていた複数の者たちが、不自然に失踪したり、亡くなったりしている。」

その言葉を聞いて二人に緊張が走る。その様子からセリスも知らない話のようだった。


「そして私のお母さんがこの姿になったのも5年前……」


「いずれも理由は曖昧。あなたの父親と同じね。」


リリィの言葉に、沈黙が落ちた。

それは彼女がセリスの父の無実を信じる理由であり――

そして、セリスにとってもまた、初めて光が差し込んだ瞬間だった。


セリスの瞳に、静かな決意の色が宿っていた。


「……私が旅に出る理由。それは、お母さんを元に戻す方法を探すため。そして……お母さんがなぜこんな目に遭ったのか。必ず明かしたい。」


その声は、怒りではなかった。

もっと深い――静かな情熱と、祈りにも似た決意だった。


セリスが向き直り、静かに言う。


「リリィ。私たちの志は、きっと近い場所にある。……改めて言わせて。私たちに、力を貸してくれる?」


リリィは深くうなずいた。

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