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流転の目覚め

宮殿の石門を抜けると、春のような風が頬を撫でた。石畳の上に、午後の日差しが金色の影を描き、遠くの湖面はガラス細工のようにきらめいていた。


「……外は静かなんだな」


思わずこぼした言葉に、セリスは微笑みを返す。


だが、その穏やかな空気は、ほんの数歩の距離で崩れた。


「待ってたぜ」


低く、嘲るような声。振り返ると、陰になった小道の奥から、数人の男たちが現れた。


先ほど、噴水の前でセリスに絡んでいた連中だ。濡れた衣服は替えていたが、怒りと屈辱を滲ませた目だけは変わっていない。


「恥かかされた借り、きっちり返させてもらうぜ」


セリスの表情は氷のように冷たくなった。だが、俺の胸には不安がざわついた。


奴らの手には、木剣や棍棒のような武器。――これは、遊びじゃない。本気だ。


「やれ!」


掛け声とともに、取り巻き連中の一人がスキルを発動する。掌に出現した魔法陣から、光の球体が出現し、空中へと放たれる。


ぼんっ――と鈍い破裂音。白煙が視界を覆い、胸にひりつくような刺激が走る。


「くっ……なに、これ……!」


体が重い。痺れが走り、膝が笑う。どうやら毒か、あるいは魔力を制限する効果があるらしい。力が抜けていくのを、まざまざと感じる。


視界の端で、セリスが顔をしかめ、ひとつ膝をついた。


その隙を突いて、取り巻きの一人がセリスに向かって踏み込んだ。


だが、俺と視線が合った。


――いける。と確信した。どうやら先ほど味わったスキルに対する警戒は薄いらしい。


蒼穹の奔流(カタストロフィ))》!


意識を集中し、男の“中”へと力を送る。膀胱という密かな器官に圧を加える――


「う、うぐっ!?……っ!!」


男はみるみるうちに顔面を蒼白に染め、腰を押さえて膝をついた。


そして、次の瞬間だった。


男の股間から、まずは微かな湿りが、布地を染め上げるようにじわじわと広がっていった。最初は汗かとも思えたその滲みが、瞬く間に濃さを増し、やがて明確な「液体の色」となって、ズボンの前面を濡らし尽くしていく。


呻き声と同時に、男の脚が崩れ、膝から崩れ落ちる。股間に添えた手は、もはや止水の役目を果たさず、ぬらぬらとした雫が指の隙間からあふれ出した。


「……っ!!なんだよ……っ!!これ!!」


情けない声が漏れる。後ろを向き、顔を伏せ、逃げるように立ち上がろうとする姿は、男の矜持という衣を剥がされたようだった。


羞恥。それは無言の攻撃となって周囲に波紋を広げる。彼の仲間ですら、どこか気まずげに視線を逸らした。ぽた、ぽた、と規則的に垂れる滴が、石畳の上に小さな湖を作っていく。


「こっちからいけっ! 回り込め!」


リーダー格の男が、セリスの背後を狙って動いた。


俺はすぐに、そいつへと意識を向ける――だが。


(……届かない?)


何度念じても、反応がない。先ほどまで確実に作用していた能力が、まるで届かぬ場所にいるかのように空回りしていた。


「ぐっ……!」


その刹那、背中に衝撃。木剣の一撃が脇腹を打ち抜き、膝が崩れる。


「やめろ!!」


セリスの叫びが、霞んだ意識を震わせた。


その声とともに――


空気が軋む音がした気がした。


セリスの右腕から、赤い光が噴き出す。透明な刃のような光線が、剣のかたちを描いて凝固してゆく。


光はやがて、彼女の華奢な体の二倍はあろうかという、禍々しいまでに美しい大剣となった。


赫剣(スカーレットブレード)


セリスが静かに呟く。


まるで意志を持った炎のように、赤い刃がうねりを生む。彼女が踏み込み、空を切るように一閃――


斬撃は直接当たらないように意図しているのは見て取れた。だがその絶大な威力は男の木剣を弾き、斬撃の余波が地面に亀裂を残す。


恐怖が、男の瞳に色濃く浮かぶ。


セリスの目は揺れない。


「彼を――傷つけるな!!」


赫剣がもう一度光を描く。振り下ろされた一撃は地面を砕き、衝撃波が男を吹き飛ばし、彼の手から武器を奪った。


その隙を逃さず、俺は立ち上がった。


リーダー格の男と視線が合う。


俺は再びスキルを唱える。


「《蒼穹の奔流(カタストロフィ)》!」


今度は、力が通った。


膀胱が震え、悲鳴が内部から響いてくるのがわかる。


「うああっ!? ま、まじか……う、うわああああっ!!」


ズボンが、音を立てて濡れてゆく。薄い布地の色が濃く染まり、ぬらぬらと反射するその様は、もはや隠しようもなかった。


男は、自分の股間を信じられないというように何度も見下ろし、膝を抱えてしゃがみこむ。ぽた、ぽた、と垂れる滴が、彼の羞恥を刻むように地面を叩く。


吹き飛ばされた周囲の仲間たちすら、目を逸らすように後ずさった。


誰ともなく逃げ出すと、連中は一斉に散り、影の中へと消えていった。


静けさが戻る。


遠くの湖面が、何事もなかったかのように光を反射していた。


セリスが赫剣をすっと霧のように消しながら、こちらに歩み寄る。


「……大丈夫?」


「はは……ちょっと痛いけど、大丈夫」


ユイトは立ち上がる。笑いながら、腹に手を当てた。


ひとまず何とかなった――その安堵は、確かにあった。


だがその裏で、俺の思考は一つの疑問に囚われていた。


一人の男にだけ、力が“通らなかった”。あれは偶然か、それとも――


蒼穹の奔流(カタストロフィ)》には、まだ俺が知らない“条件”があるのか。


その問いは、胸の底に静かに沈んでいった。


*


戦いの後、風が再び静けさを運んできた。

湖の水面は鏡のように凪ぎ、西の空には朱が滲んでいた。沈みゆく光は空と湖とを溶かし合わせ、世界を柔らかく包んでいた。


セリスはひとつ深く息を吐き、湖に視線を向ける。


「……綺麗ね」


声は囁くように、けれど胸の奥に残る熱のように確かだった。

何かを思案しているのか、その横顔は遠い記憶をなぞるように、静かに沈んでいた。


ユイトは頷き、足元の小石を拾って水面に投げる。

石は跳ねず、ぽちゃんと素直に沈んでいった。まるで、答えを持たない自分の返事のように。


「うん、きれいだ……」


その言葉には、セリスの沈黙の理由を探ることも、慰める術もなかった。ただ、その場に立ち会うためだけの、拙い一言だった。


セリスは微笑んだ。

それはあたたかさよりも、どこか諦念に似たものを含んでいた。


「……さっき言ったヴァレンティアの話、覚えてる?」


「え?」


ユイトが顔を上げる。だがセリスはそのまま湖を見つめ、ゆっくりと語り始めた。


「五年前。王直属の“ヴァルハリオン騎士団”って知ってる? 国で最も優れた七人の騎士が選ばれる、最上級の騎士団」


つい先ほど転生したばかりのユイトにとって、それはまるで神話のような響きを持つ言葉だった。だが、セリスの語り口は、それを現実の重みとして伝えてくる。


「その一人が、私の父だった。

誇り高く、剣に生き、民を守り、王に忠義を尽くす――理想の騎士。私は、あの背中にずっと憧れてた」


ユイトは息を呑む。

セリスの声に滲むのは誇りだけではなかった。痛みと喪失感、そして――怒り。


「でも、ある日。『反逆』の罪で、父は騎士団を追われた」


「誰かにはめられた……とか?」


思わず口に出していた。

セリスの語り口からして、それが冤罪であることは、容易に想像がついた。


「ええ。私はそう信じてる。証拠も、記録も、王都の歴史からはすべて消された。でも、私にはわかるの。父が誇りを裏切るなんて、絶対にありえない」


湖面に映る光が揺れ、セリスの瞳を濡らしているように見えた。

だが彼女は涙を流さない。ただ、その奥にある熱を押し殺すように、凛と立っていた。


「名誉を剥がされれば、剣ではどうにもならない。

今や“ヴァレンティア”という名は、かつての栄光ではなく、汚名になってる。だから、正攻法で騎士になる道も――私には閉ざされた」


ユイトは言葉を失った。

何を言えばいいのかわからなかった。ただ、セリスの声が、湖の水よりも澄んで、心の底へと染み込んでいくのを感じていた。


「だから私は旅に出る。

剣を振るい、名を上げ、この世界に――自分自身の力で、選ばれし者の証を刻むの」


その声には揺らぎがなかった。

彼女は迷っていない。過去に立ち尽くした分、これからは進むしかないと、決めているのだ。


「そして、父の名誉を……取り戻す」


セリスは静かに、けれど確かな意志を持ってそう言い、ようやくユイトのほうを振り返る。


「ねぇ、ユイト。私と一緒に来ない?」


その目は試すようでも、期待するようでもなく、ただまっすぐに彼を見ていた。

“選ばれし者”――それがどんな意味を持つのか、ユイトはまだ知らない。


だが、思い出す。

あの神と名乗る少女、ニアの言葉。「世界から“選ばれた”」――彼女はそう言っていた。


選ばれた理由はわからない。でも、自分にはきっと“やるべきこと”がある。

それを探すには、立ち止まっていてはいけない。


「……改めてよろしく。セリス」


ユイトは、まっすぐに手を差し出した。

それは、単なる旅の同行ではない。生と死の淵で目覚めた力、《蒼穹の奔流》。

この力の意味を探る旅、そして――この少女の信じるものを、ともに見届けるための約束だった。


セリスは目を丸くし、そして――ふっと安堵したように、笑った。


「よろしく。ユイト」


二人は手を取り合う。

その瞬間、セリスの掌を淡く走る感覚――まるで水脈がふと流れを変えるように、魔力のゆるやかな波が伝わった。


言葉にはしない。だが確かに、何かが響き合った気がした。


二人の影が、湖畔に並んで伸びていた。

風が少し冷たくなり、夜の気配が忍び寄ってくる。


だが、胸の奥には、不思議なあたたかさが灯っていた。


*


暖かな夕餉の香りと、静かな灯りが満ちた宿の一室。

セリスの取り計らいで借りられたその部屋は、質素ながらも清潔で、外の喧騒を切り離したように静まり返っていた。


ユイトは窓辺に腰を下ろし、軋むベッドの音を背に、夜空を見上げていた。

ガラス越しの風がカーテンをわずかに揺らし、きしむ音が部屋に滲んでいく。


異世界に転生し、知らぬ土地、知らぬ人々、知らぬ法則。

名前も、記憶も、価値観さえも曖昧に溶けていく中で、ただ一つ、確かに残ったものがあった——“あの力”。


死の間際に発現した《蒼穹の奔流》。

その正体も制御方法もわからぬまま、無意識のうちに、ニアを——あの姿にしてしまった。


ユイトは目を強く閉じる。

震える少女の足元、広がる染み。頬を濡らす涙と、あらがえぬ匂い。

あの光景がまざまざと脳裏をよぎり、胸の奥に沈んでいた不安が、じわじわと——まるで滲んだインクのように、心全体に染み広がっていく。


昨日までは違う文明を生きていたはずだった。

水洗トイレのある部屋、電気、情報、社会。何もかもが、今は遠い夢のようだ。


気づけば、あまりに多くのことが一度に押し寄せていた。

異世界、能力、戦闘、……そして、あの“現象”。


疲労が、肩に、胸に、脳にのしかかる。

まるで自分という存在が、誰か他人の肉体に流し込まれたような、ひどくちぐはぐな感覚。


ユイトはそっと息を吐いた。

それは眠気というよりも、抗いがたい現実に身を委ねるような、静かな諦念のため息だった。


窓の外では、夜空にひとつ、流れ星が落ちていった。

音もなく、まるで誰にも気づかれぬまま。


そのままユイトは、まぶたを閉じる。

重たい意識が、ゆっくりと、眠りの深みに沈んでいった。


*


翌朝。

冷たい井戸水が頬を刺す。

ユイトはこわばった顔を洗いながら、昨夜の夢の名残を水音の中に追いやった。だが、残滓のように胸にこびりつくのは、力への嫌悪感——自分自身への、底知れぬ不信だった。


粗末な朝食。口に運ぶたびに、乾いたパンが喉にひっかかる。

そこへ、セリスの透き通るような声が、不意に差し込んだ。


「ユイト、君の“能力”を試してみたいの」


パンを咀嚼する顎が止まり、手が中空で固まる。

その声に込められた真剣さは、冗談ではないことを瞬時に悟らせた。


「え……な、なんで急に……」


乾ききった唇がかすれた声を漏らす。

食欲がすうっと引いていくのを感じながら、ユイトは彼女の瞳を見た。

そこには迷いはなかった。ただ真っ直ぐに、強い意志の火が宿っていた。


「これから行動を共にするなら、仲間の能力は理解しておかなきゃ」

セリスはわずかに顎を上げた。


「いざというとき命取りになる」


その言葉に嘘はなかった。だからこそ、ユイトの胸にのしかかる重みは倍増する。

——あの能力を、また使えと?

しかも、今度はセリスに?


ふと昨日の戦闘が脳裏に甦る。

力を行使しようとしてもできなかった瞬間の焦り。

あの違和感が、自身のスキルに未知の制約がある可能性を思わせた。


「確かに……昨日、能力が発動しない瞬間があったんだ」


それを口にしたとき、自分の声がどこか他人のように聞こえた。


セリスは静かに頷く。


「能力には、条件や代償がある場合もある。調べる必要だってあるわ」


正論だった。

だが、それでもユイトの胸に渦巻く感情は晴れなかった。

それでも、拒む理由がなかった。

少なくとも、今の彼には。



やがて二人は街はずれの森へと足を踏み入れる。

木漏れ日が差し込む小道。葉擦れの音が、静けさに溶けていく。

心地よいはずの自然の匂いも、ユイトにはざらついた空気に思えた。


セリスは一歩、先へと進むと、背を向けたまま言った。


「じゃあ……早速はじめるわよ」


その背中はまっすぐだった。

だがユイトの足は、一歩を踏み出せずにいた。


「本当に……いいのか?」


かすれた声が、空気に吸い込まれる。

それは確認ではなかった。最後の、せめてもの懇願だった。


だが、セリスは振り返らず、きっぱりと断ち切るように言い放った。



「言ったでしょ。私は騎士を目指してる。何があっても——受け止める覚悟くらい、あるつもり」


その言葉の重みが、ユイトの胸にのしかかる。

彼女の強さがまぶしくて、同時に残酷だった。

自分の迷いが、彼女の覚悟によって際立ってしまう。


「私は……簡単に屈したりしない」


強く、凛とした声。だが、どこかで自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。



(……やるしかないのか)


彼は小さくつぶやき、震える指先をゆっくりと掲げた。能力を解き放つ。


蒼穹の奔流(カタストロフィ)》が、静かに目覚める。


セリスの身体が、びくりと震えた。


「……っ!」


見えない圧力が、彼女の下腹部をじわじわと苛んでいく。

膀胱が張り詰め、波のような尿意が幾重にも押し寄せる。


「ちょ、ちょっと……これ、かなり……きついわね……っ」


セリスは、そんな状況にあってもなお、能力の性質を冷静に見極めようとしていた。

歯を食いしばり、膝を寄せ、両腿をぎゅっと擦り合わせる。


「……んっ!」

頬が真っ赤に染まり、吐息が上ずる。



「ん……ユ……ユイト、わかったわ。能力を止めて……っ」


その声は、かすれ、震えた。

それでも、その一言を必死に絞り出す姿勢には、懇願の色がかすかに滲んでいたとしても、何かを堪え忍ぶ騎士としての誇りが強く漂っていた。

セリスは膝を固く閉じ、わずかな動きも見せずに、体全体を真っ直ぐに保とうとした。

その姿勢には、崩れそうな精神を支えるために必死で誇り高き騎士であろうとする意思が感じられた。



だが、ユイトは戸惑いのまま答える。


「能力って……止められるの?」


言ってから、しまったと思った。

セリスの顔が見る見るうちに青ざめていく。瞳が絶望の色に染まる。


「えっ……。冗談よね……っ?」


視線が泳ぎ、肩が震えだす。姿勢が崩れ始め、堪えようとする力が次第に弱まっていく。


「いや、ほんとに……止め方がわからないんだ……」


恐怖と無力感。必死に抑えようとする震えが、彼女の膝を更に引き締めさせた。しかし、その締まった膝は、やがて震えに耐えられず、微かに開き始めた。



「嘘っ……いやっ、や……めてっ……!」


彼女の体がビクンと跳ね、最後の抵抗を見せた。

しかし、それも無駄だった。

頑なに閉じていた膝が震え微かに開いた。


じゅわ……じょわぁぁ……っ……


最初の一滴が、粘るようにスカートの内側を滑った。


しゃあああああっ……!!


溜め込まれていた熱と水分が、一気に放出される。

セリスの脚を伝って、地面へと滝のように流れ落ちる。


「やだ……いやっ、こんなの、だめっ……っ!」


彼女の声が、羞恥に掠れながら、懇願とも呪詛ともつかない音に変わっていく。


しゃあ……しゃああ……じょぼっ、じょぼじょぼ……


温かく、生臭い尿が太腿を這い、下着を飽和させ、草を濡らしていく。

少女の身体から、理性が流れ落ちるように、すべてが抜けていった。


「見ないで……お願い、見ないでっ……!」


顔を両手で覆い、膝を折る。だが、ぬかるむ大地が彼女を拒むように、転びかけた身体を支えきれない。


「……私、……君の前で、こんな……っ」


その声は嗚咽にも似た震えを帯びていた。


布越しに染みる液体。じゅくじゅくと粘ついた音が、まだ続いている。

音も、匂いも、熱も——すべてが彼女を責め立て、逃げ道を奪う。


ぽたっ……


最後の一滴が、草の上に落ちた。


「……さいってい……」


誰に向けたのでもない、自己否定。

それは剣でも魔法でも砕けない、言葉という名の呪いだった。


森の風が、濡れたスカートの裾をそっと揺らす。

羞恥と排泄の匂いが、木々の隙間を漂っていた。


*


事の後、宿の一室。

木製の床に、簡素なベッドが一つ。二人分の椅子と小さな丸テーブルがあるだけの、質素な空間。


ユイトは持ち帰った水差しから、ぎこちなくカップに水を注いだ。

テーブル越しに座るセリスは、着替えたばかりのスカートの裾を指先でそっとつまみ、何度も直すようにいじっている。


気まずい沈黙が、じわじわと部屋の空気を曇らせていた。

視線を合わせることもできず、ただカップの中の水を見つめながら、時間だけが過ぎていく。


ユイトがちらりとセリスの方を見たが、すぐに目を逸らした。

セリスもまた無表情を装っていたが、その耳はほんのりと赤く染まっていた。


やがて——

「……こほん」


セリスが、わざとらしい咳払いをひとつ放った。

その声音には、いつもの毅然とした調子ではなく、どこか気まずさを押し隠すようなぎこちなさが混ざっていた。


「その……さっきのことだけど」


声のトーンがわずかに落ちる。

ユイトの脳裏に、あの情景が不意にフラッシュバックした。

羞恥に震え、失禁するセリスの姿。

普段の凛とした彼女とはかけ離れた、涙ぐむ顔。頬の火照り。そして、ほのかに漂った匂いまでもが、記憶にこびりついていた。


セリスの視線が鋭く跳ねた。


「……なにか、変なこと思い出してない?」


じっとりと刺すような眼差しに、ユイトは肩をすくめ、視線を逸らす。


「いや、別に……」


ごまかすように苦笑し、水をひと口飲んだ。


セリスはため息混じりに呟く。


「能力の発動条件を試して探るって……やっぱり難しいわね。まさか止められないなんて思わなかったし」


「普通は止められるのか?」


ユイトの問いに、セリスはうなずいた。


「スキルにもよるけど……私のスキル、魔力で剣を作ってたの、覚えてる?」


昨日の戦いが脳裏をよぎる。確かに、セリスの剣は戦いが終わると同時に消えていた。


「そうか。戦闘中だけ発動してたな」


「そう。あとは魔力を放出して攻撃するタイプとかね。ずっと出しっぱなしなんて、まず無理でしょう?」


なるほど、とユイトは思った。

自分のスキルは、その類とは明らかに異なる——そう、ぼんやりとだが理解し始めていた。


「……だから、“詳しい人”に話を聞くしかないって思ってる」


「詳しい人?」


ユイトが首を傾げると、セリスは小さくうなずいた。


「旅をするなら、いずれパーティを組むことになる。その中に——能力や魔術の研究に詳しい人物を加えたいと思ってたの」


「もう、あてがあるのか?」


「ええ。目途は立ってる。話はしていないけど……」


会話が現実的な方向へと進むにつれ、部屋の重苦しかった空気が、少しずつほぐれていく。


「ただ——」


セリスは静かにカップを置いた。

その仕草には、先ほどまでとは違う、確かな意志がにじんでいた。


「まずは、君自身が最低限の戦闘を学ばないと話にならないわ。能力頼りでは、生き残れない」


昨日の戦闘で、ユイトが戦いにおいては素人であることは露呈していた。


「武器も持ってないしな……」


ユイトは小さく呟く。

転生直後の自分に、持ち物らしいものなど何ひとつない。ましてや、武器など。


「まずはそこからね。この宿の滞在費も、そう長くは持たない。お金を稼ぐ手段も確立して、準備が整ったら——別の街へ向かう」


「そこに、その“詳しい人”が?」


「ええ。スカウト予定の相手よ。応じてくれるかはわからないけど……あなたの能力には、きっと興味を持つと思う」


「なるほどな……」


ユイトはゆっくりと頷いた。

少しずつではあるが、次に進むための道が、ようやく見え始めていた。


「とりあえず、武器を手に入れて、稽古か」


「ええ。まずは一週間、みっちり鍛えるわ」


——この世界にも、一週間という単位があるのか。

そんな疑問が、意識の端でふと浮かんでは、すぐに流れていった。


「……一週間でどうにかなるもんなのか?」


「なるわけないでしょ」


即答だった。

けれどその声には、どこか柔らかな笑みがにじんでいた。


「でも、一週間で“基礎”は身につけてもらう。それができれば、旅の途中でも鍛錬は続けられるから」


「……わかった。頼むよ、師匠」


「ふふん、任せて」


ようやく、セリスが微笑んだ。

その頬の赤みは、もう羞恥ではなく、少しだけ誇らしげな色へと変わっていた。


*


宿を出ると、朝の陽光がまっすぐに降り注いだ。

石畳の路地は夜露の名残をかすかに光らせ、踏みしめるたびに小さな音を立てて応える。


木と石で組まれた街並みは、どこか中世ヨーロッパを思わせる造りだが——

漂う空気の匂い、吹き抜ける風の温度、空をゆく雲の輪郭にさえ、この場所が“異世界”であるという実感がしっかりと刻まれている。


そして何より、目を引いたのは建物の壁や軒先、あるいは通りの片隅にまで設置された**“機械のようなもの”**だった。

それらは現代の洗練された意匠とはほど遠く、どれもがむき出しの金属と露骨な歯車で構成されており、街の素朴な景観に不思議な違和感を与えていた。


家の外壁に張り付いた鉄製の筒には、ゆっくりと回転する羽根車が収められ、内部からは淡い紫の光が漏れていた。

軋むような音とともに、歯車のひとつひとつが確かに命を得たように動いている。


四角い結晶が嵌め込まれたガラス管は、街灯のように通りを照らし、ほんのりとした温かさまで伝えていた。

鍛冶屋の隣の小屋では、煙突の根元に据えられた巨大なファンが、まるで呼吸をするかのように、魔力の帯を揺らしながら静かに回っている。


「田舎から来たって言ってたけど……こういう都は、初めて?」

「……ああ、初めて見るよ」


転生者であるユイトにとって、この街のすべてが未知だった。

目に映るものすべてが鮮やかで、肌に触れる空気さえどこか軽い。まるで異国どころか、夢の世界を旅しているような心地だった。


「昨日も思ったけど、儀式も知らないなんて、相当な田舎で育ったのね。一体どこから来たの……あっ、危ない」


セリスの声に反応し、ユイトは咄嗟に一歩後ろへ跳ねた。


目の前を、板状の金属製乗り物が音もなく滑るように横切っていく。形状はスケートボードに似ていたが、下部には円形の浮遊機構が取り付けられており、青白い魔力の粒が尾を引いて宙に舞った。


操っているのは、茶色いゴーグルを額にかけた青年だ。

分厚い鞄を背負いながら、片手で手綱のようなレバーを操り、人混みの合間を巧みに抜けていく様子は、まるで馬術でもしているかのように軽やかだった。


あれも“能力”によって制御されているのだろうか?

それとも、この世界で言うところの“魔力機構”——魔力を動力とした機械文明の産物なのだろうか?

ユイトの思考はしばらく、その浮遊装置の構造に釘付けだった。


通りを進むうちに、古びた木製の書棚を並べた古書店が目に入る。

試しに一冊を手に取ってみると、表紙は革装で、角に金属の補強が施されていた。ページを開けば、やはり見慣れない文字がびっしりと綴られている。

異世界語でありながらも理解できるのは、転生の影響なのか、それともこの世界の仕組みによるものなのか。


意味のわからない単語も多いが、挿絵や文体からして、おそらく御伽噺のような内容なのだと理解した。


「本とか、資料とか……読める場所ってあるのかな?」


ユイトの問いに、セリスはさらりと答えた。

「大体の町には、民間向けの書庫があるわよ。ただ、タダで読めるのは、まあ……それなりね」


“それなり”という表現が意味するところは、魔術や能力の文献といった専門的な知識にはアクセスできないということだろう。

だとしても、ユイトはこの世界の基本を知る手がかりが欲しかった。ただの読み物でもいい、地図でもいい、何かしらの“入り口”が。


セリスに頼んで、書庫の場所を教えてもらう。

——時間があるときに通ってみよう。


少し街を歩きながら、ユイトたちは武器屋へと向かった。

石畳の通りを抜け、人通りの少ない裏通りに入ると、木の看板に鉄の剣が交差する印が描かれた店が現れる。


店内には大小さまざまな武器が並び、刃の光が差し込む朝日を受けて鈍く反射していた。

ユイトには、その違いなどまるでわからなかった。ただ、どれも本物であり、自分の命を左右するものであることだけは、手に取る前から伝わってくる。


武具の良しあしはわからないのでセリスに選んでもらった

装飾もなく実に素朴な一振りだった。

だが、握った瞬間に伝わる重量感と、手に馴染む質感には確かな“道具”としての説得力があった。


——派手さはなくとも、自分にはこれで十分だろう。


武器屋を後にし、再び賑やかな市場を抜けていく。

果物の香りや焼き菓子の匂いが混じる通りを歩きながら、道中で食料を少しだけ買い足した。


こうして、ふたりはゆっくりと宿へと戻っていく。

武器、食料、そしてほんのわずかな安心感を手に入れながら。



*

*


そして、修行が始まった。


まずは刀の持ち方からだった。

手の内の締め方、足の位置、視線の置き方。

すべてが不格好で、見るに堪えないというように、セリスの眉がわずかに動いた。


ただ棒を振る。それだけのはずなのに、次第に肩が焼けるように痛み、腕が上がらなくなっていく。

普段使わない筋肉が悲鳴を上げ、何百回目かの素振りの途中で、膝がふらついた。


身体は、こんなにも脆いのか。

気づけば、息が上がり、汗がぽたぽたと地面に落ちていた。

それを見て、セリスはただ一言、「まだ、五十回目よ」とだけ告げた。


ひたすらに、基礎だった。

午前に素振り、午後に模擬戦。

武具屋で買った木製の刀が手の中で軋むたび、身体のどこかが軋んだ。

斬るでも守るでもない。ただ、動く。転がる。叩かれる。


セリスにかなうはずもなかった。

その一撃一撃は決して重くはないが、確実に隙を突いてきた。

もし実戦だったなら、幾度も命を落としていたはずだ。


だが、ユイトは不思議と、逃げたいとは思わなかった。

悔しさもあったが、それ以上に、身体を通して“何か”を掴みかけている感覚が、確かにあった。


三日間、ひたすらに鍛錬だけを繰り返した。

起きて、食べて、倒れて、また起きる。

筋肉痛は全身に広がり、ベッドから身を起こすのも苦痛になっていた。

だが、それでも足を止めることはなかった。


四日目。

朝の冷たい空気を吸い込んだ瞬間、ふと身体が軽くなっていることに気づいた。

慣れたわけではない。ただ、わずかに順応し始めているのだ。


その日から、修行の合間に書庫にも通った。

セリスが案内してくれた、町外れの小さな施設。

民間向けの簡素な資料ばかりだが、それでも異世界の仕組みを垣間見るには十分だった。


地図や歴史の断片、魔力と呼ばれる力の概念。

曖昧な理解しか持てなかった言葉たちが、ページをめくるごとに少しずつ自分の中に根を下ろしていくのがわかった。


日が沈む頃、書庫を後にし、宿へと戻る。

手には木刀。脳裏には、セリスの指導と、本で読んだ知識の断片。


確かな実感はまだない。

だが、ほんの少しずつ、自分の足で立ち始めている気がしていた。



七日目の夜、ようやく夕餉を終えたころ、セリスが言った。


「まず、基礎はこんなところね」


言葉は簡素だったが、そこに込められた評価の重みは、ユイトにも伝わった。

肩や腕には、今も鈍い痛みが残っている。

全身の節々が、鍛錬の証のように軋んでいたが、それでも――。

不格好な動きの中に、ようやく芯が通り始めているのを、自分でも感じていた。


「とはいえ、まだまだ。ここからが本番よ」


セリスはそう言いながら、湯の冷めた木椀を机に静かに置いた。


「次は資金調達。それが済んだら、この町を出るわ」


「資金……って?」


「依頼よ。人探しとか、魔獣退治とか。無名の私たちが受けられるのは、小さな仕事ばかりだけどね」


それもまた、訓練の一環。

そう付け加えたセリスの瞳は、どこか遠くを見ていた。


街では、ギルドと呼ばれる組合から依頼を受けることができる。

こうしてユイトは、資金調達と鍛錬を兼ねて仕事に取り組むこととなった。


それからの日々は、町の外れでの鍛錬と依頼の繰り返しだった。

街に危害を及ぼす恐れのある魔獣の退治。

報酬の良い依頼では、人探しや行方不明者の捜索もこなした。


セリスが選ぶ依頼は、常にユイトの力量に見合ったものだった。

彼女が本気を出せば一瞬で終わるような相手でも、ユイトにとっては困難な敵。

油断すれば命に関わる。それだけに、一つひとつの任務に緊張が走った。


依頼の合間には、書庫にも通った。

古びた木棚に並ぶ本たちは、この世界の仕組みを少しずつ教えてくれた。


この国はアルトリアと呼ばれるらしい。

セリスが言っていたように、この世界では、八歳から十八歳の間に力が“目覚める”のだという。

「スキル」という呼び名は比較的近年に広まった俗称で、元々は魔術や能力といった様々な呼称で語られてきたらしい。

呼び方はどうあれ、それは内に宿る魔力から発現するものだという。


とはいえ、すべての人が能力を持つわけではない。

魔力を持たぬ者もいれば、持っていてもそれを用いずに生きる者もいる。

武に生きる者もいれば、商人として力を封じたまま日々を過ごす者もいた。


街の人々の姿からも、それは見て取れた。

力のあり方は、人の数だけ存在していた。


ユイトもまた、鍛錬を重ねる中で、自らの能力を探り続けた。


能力についても、少しずつ見えてきたことがある。


セリスとともに行った魔獣退治。

ある時は鋭い牙を持つ四足の獣、またある時は蔦のように這い回る異形。

力を試行する中でそのすべてに一様に通じるわけではなかったが、いくつかの法則が見えてきた。


まず、臓器を持つ生物であれば、たとえ魔獣であってもスキルは作用する。

膀胱に似た器官を刺激すれば、排尿の反応が現れる。

だが、羞恥心のない相手には、それが単なる生理現象として現れるだけで、足止めにはなりづらい。


それでも、はっきりと動きが阻害されている場面もあった。

羞恥がない相手であっても、スキルには何らかの効果が及んでいるようだった。



そしてもう一つ、戦いの中で決定的な条件に気づいた。


――「目」だ。


スキルが発動したすべての場面で、ユイトは相手の目を見ていた。

ニアやセリスに発動したときも、同じだった。


逆に発動しなかったのは、視線を外していたとき。

背後から力を試みた場面では、何も起こらなかった。


視線を通じて、精神を繋ぐ。

意志が交錯する、その一瞬。

そこに「蒼穹の奔流」は宿る。


そんな仮説が、ユイトの中で、静かに形を成し始めていた。


日々の鍛錬と依頼、書庫での知識収集――。

一か月が過ぎた。


日々の鍛錬と依頼、そして書庫での知識収集――。

繰り返される生活の中で、ユイトの身体には確かな変化が現れていた。


劇的に何かが変わったわけではない。強大な力を得たわけでもない。

けれど、かつては常に張っていた筋肉の痛みが、いまは鈍く、どこか馴染んでいた。

疲労も、いつしか耐えられるものに変わっていた。

一日一日が、確かに自分を鍛えていたと、身体が語っていた。


スキルの精度も、わずかずつではあるが、着実に研ぎ澄まされていった。


そんなある夜、夕食を終えたセリスが、ふと切り出した。


「明後日、この町を発つわ」


その声は淡々としていたが、言葉には揺るぎない決意が込められていた。


「前に言ってた“詳しい人”を、パーティに誘うんだよな?」


ユイトが確認すると、セリスは小さく頷いた。


「そう。ただ……会ったことはないのよ。向こうが有名人なの」


「誰なんだ?」


ユイトの問いに、セリスはふっと息を吐いて答えた。


「リリィ・セラフィーヌ。魔術の天才。

 王都の魔法学院を飛び級で入学して、今は旅に出る仲間を募ってるって噂」


「旅……魔術の研究とか?」

「そう。王直属の魔術研究機関が志望らしいけど、そういう人でも、知見を深めるたり各地の魔術を研究するためにに旅に出るのは珍しくないの。

 彼女ほどの優秀な人なら、誘いも山ほど来てると思うけどね」


「ほんとにスカウトするつもりなんだな」

ユイトは感心と不安の入り混じった声で言った。


「……入ってくれる見込みは?」


セリスは少しだけ目を伏せ、苦笑するように言った。


「――微妙ね。なんせ“ヴァレンティア”の名は、悪名だし」


自嘲めいた響きが、その言葉に滲んでいた。


「でも――」

セリスは顔を上げ、ユイトを真っ直ぐに見た。


「勝算があるとすれば、君よ」


「……俺?」


思わず聞き返すと、セリスは静かに頷いた。



「あなたのスキルよ。彼女が研究職を志しているなら、興味を示す可能性は高いわ」


ユイトは少しだけ肩をすくめて苦笑したが、心の内には小さな緊張が生まれていた。

セリスが未来を賭けようとしている出会いに、自分が鍵を握っている。


「彼女がどんな人間か、まだ分からない。でも、君の存在が“切り札”になるかもしれない」


そう言ったセリスの表情は、どこか期待と不安が入り混じったものだった。





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