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1/6

そして、俺は漏らさず死んだ

窓の向こうに広がる春の空は、あまりにも蒼かった。

まるで時間がその青に溶けていくように、淡く、深く、永遠に思えた。


だが、そんな情緒とは裏腹に、俺の脳内はひたすら切実な、ある一点だけを凝視していた。


――膀胱が、限界だ。


雨宮ユイト、17歳。

ごく普通の男子高校生は、今まさに人生の尊厳を賭けた闘いの渦中にあった。


体の芯に走る痛みは、膀胱を伝わる重さはもはや明確なメッセージとなっていた。

「もう持たない」と。


時計の針は、授業終了の十二時まで残酷にもあと二分。教壇では数学教師が証明問題を板書しているが、俺の中ではただ「尿意」という概念が凶器となって暴れていた。


冷や汗は背筋を滑り、もはや幻聴のように蛇口の水音が脳裏を掠める。


決壊寸前のダムのように。あるいはすべてを飲み込む濁流のように。

自身の膀胱の中にあふれ出んとする尿はすべての意識を遠い空に飛ばすのだった。


限界を超えて決壊を目前にした時、福音にも似た音が鳴り響いた。


――チャイムが鳴った。


天の鐘のようなその音を合図に、俺は席を蹴った。

滑るように廊下を駆ける。視界は揺れ、音は遠のき、膀胱の重力がすべてを支配する。


目指すは男子トイレ。己の尊厳が失われる前に――

決して運動神経がいい方ではない。平々凡々な己の運動能力は理解している。

しかし限界を超えた今、さながら颯のような速さで廊下を駆けていった。


一瞬のようでも、永遠のようでもある時間を駆けて、トイレのマークを目視したとき、わずかな希望を感じた。

走馬灯のように、ほんの数分前――絶望の最中に、己の膀胱と命運を天秤にかけていたあの瞬間が脳裏をよぎった。

あのとき確かに、すべてを諦めかけていた。尊厳も、希望も、そして制服の股間の乾きさえも。


だがいま、俺はまだ濡れていない足で立っている。

脚にかすかだが確かな力を感じ、呼吸は荒く、だが意志ははっきりとしていた。

手は壁をかすめながら、確実に男子トイレという聖域へと伸びていく。


――まだ、人間としての尊厳を保てている。


その事実が、ひたすらに安堵を呼んだ。

この数歩が、命にも等しい価値を持つことを、俺は初めて実感していた。


高校2年生であるユイトの教室は校舎の2階に位置する。

この古い校舎には奇数階にしかトイレが無い。


1年と数カ月の期間を過ごし、その校舎の構造はすでに理解している。

高速で思考し階段を降りることを選択し1階のトイレに向かった。


……が、運命はその一歩手前で牙を剥いた。


階段の踊り場、確かに俺の足は踏みしめたはずだった。だがその感覚はどこか曖昧で、まるで誰かに背中を押されたような錯覚と共に、視界が反転した。


俺の身体はふわりと浮いた。


重力も、音も、痛みさえも感じない。

ただ、蒼穹を見上げながら、気づく。


――あれ、出てない……?


どこか拍子抜けした感覚と共に、俺は思わず呟いていた。


「……スッキリしてる……?」


死の瞬間に、失禁せずに済んだことを喜ぶ。


そんな思考を打ち砕いたのは、甘く澄んだ声だった。


やれやれ、なかなかスリリングな逝き方をなさいましたね」


ふわりと漂う香のように、現れたのは――まるで幻想から抜け出したような存在だった。


銀白の髪は陽光を跳ね返し、真珠のような肌に宿る威厳は、端整な顔立ちでどこか抗えぬ権威を感じさせた。

荘厳な風貌に惑わされるが、無機質なワンピースに身を纏ったその姿は、穏やかな女性のようでもあり、少女のようでもあった。


「……お姫様? それとも、妖精?」


「ふふ、どちらでもあるようで、どちらでもないのです。わたくしの名はニア。この世界の理を司る神のひとり。そして、あなたに“選ばれた者”としての務めを与える者です」


その声音は柔らかく、波紋のように心に広がる。心地よいが、同時にどこか危うさを感じさせた。


「神様……って、いや、そんなわけ……?」


「失礼です、無粋なことを言う殿方は嫌われますよ?」


あきれ顔でこちらを見つめる神。

肩をすくめる彼女――いや、ニアは、軽く溜息をついた。


「さて、冗談はそのくらいにして……あなたは既に現世での命を終えました。そして、ある世界から“選ばれた”のです。この先、貴方は異世界で生まれ変わることになります」


「…………は?」


その言葉は、脳の中をゆっくりと反響し、最後には静かに落ちた。

死んだ? 俺が?


「……俺、死んだのか……?」


吐き出すように、呟いた。

確かに階段で転んだ。意識が飛んだ。でも、こんな……あっけなく?


「申し訳ありません。あの場に“接触”があったようで。あなたの魂は不運にも、そこで解かれてしまったのです」


ニアの言葉は優しく、同情を含んでいた。だがその優しさは、静かに現実を突きつける。


俺は――死んだのだ。


思い出が、断片的に蘇る。

春の空、教室の静寂、走った廊下、見えたトイレのマーク。そして――ふわりとした感覚。


もう戻れないのだ。

高校生活も、友人たちも、家族のもとにも。


胸が締めつけられる。だが、不思議と涙は出なかった。



「……異世界転生、ってやつ?」


ようやく言葉が出た。

その響きは、どこか浮ついていて、それでも心を救うものだった。

まるでゲームのキャラクター作成画面のような、未知への興奮。

きっと、あまりに非現実的で、実感が追いついていないのだ。


「それでさ、能力とか、もらえたり……するんだよね?」


俺の問いに、ニアはほんの小さく首を傾げた。

その銀の髪が、天界の風に溶けるようにふわりと舞い上がる。

指先を天にかざすと、彼女の掌から微細な光が漏れた。


そして、空間が脈動した。まるで空そのものが呼吸をはじめたように。


その瞬間――


光が編まれ、世界に意味を刻み始めた。


俺の目の前、虚空に浮かぶ文字列は、確かに「言葉」だった。

だが、それは日本語でも英語でもラテン語でもない。おそらく人類が記したことのない、神代の象形か、魂の波形のような文字列。それはまるで生き物のように脈打ち、発光しながら、俺の網膜ではなく、心に直接刻まれていった。


見た瞬間、理解した。


言葉ではない。“概念”そのものが、俺の中に注ぎ込まれたのだ。


蒼穹の奔流(カタストロフィ)

能力:対象の尿意をMAXにする。

その真意が、脳内でぐしゃっと崩れるように、無慈悲に浸透してきた。


水、流れ、限界、解放――その言葉が脳裏に浮かぶ。次々と、なぜか繋がっていく。羞恥、尊厳、快楽、痛み、抑圧、排泄。それらの概念が、まるで無理やり一本の糸で結ばれたように感じられた。


「う、嘘だろ……これ、俺の力……?」


信じられない。あり得ない。


馬鹿馬鹿しい。こんな能力が、俺のものだなんて――


何をどう考えても、この能力はあり得ない。尿意をMAXにする? それが何だ? どこがカッコいいんだ? どんな英雄がこんな能力を持つんだ?


「こんな……馬鹿げた力が、俺に?」


「あなたの魂は……かなり、奔流に適応しているようですね……」


ニアは微笑みながらも、どこか息を呑んでいた。その笑みは、警戒すら含んでいた。


今だ信じがたい非現実な状況の最中、俺の中に芽生えた感情。

――試してみたい。


この力を。

この、馬鹿馬鹿しいけど、抗いがたい能力を。


俺はゆっくりと、ニアの瞳を見た。


深い水底のような、その双眸。

その奥には確かに、水があった。潤んだ瞳孔、目尻のわずかな艶。そこに宿る水分が、まるで“鍵穴”のように俺の能力に反応しているように感じた。


意識を集中する。


視線を通じて、脳から発される電気信号のようなものが“走った”。

そして次の瞬間――


「……っ!? ちょ、ちょっと、あなた……!?」


ニアの声がわずかに裏返った。

白磁のような肌に、じわじわと紅潮が走る。唇が震え、脚がわずかにすり合わせられた。


始まったのだ。


尿意の“奔流”が、神の身に流れ込む。

それはまるで、堅牢にして神聖だった構造物に、小さな穴が開き、そこから決壊が始まるような感覚。


「ま、まさか……いきなり能力を試すなんて……っ!」


彼女の声が、ひときわ高くなる。

そして、見た。


その手が、無意識のうちにワンピースの前を押さえていた。


神が――膀胱を、押さえている。

羞恥と屈辱の入り混じるその表情は、神聖さよりも、もっと俗的で、抗いがたい魅力を帯びていた。


「く、くっ……い、一時的な排泄欲求など、わたくしには関係ありません……っ! こ、これしきの奔流……んっ……!」


だが、顔は真っ赤だった。

眉根を寄せ、睫毛を震わせ、唇を噛む。

時折、身体が小さく震え、その両膝がかすかに内側に寄っていく。


「な……なんですの、これは……っ……頭がぼうっと……して、意識が……っ」


――“尿意”は、生理現象であると同時に、精神をも侵す。


理性と羞恥、その曖昧な境界線が、静かにしかし確実に崩れ落ちていく。 たとえ神とて、その奔流には抗えない。

神とて、例外ではない。


その様子は、まるで神聖な泉が毒され、神殿が崩れ落ちていく瞬間のようだった。


「わ、わたしは……か、神です……っ! この程度で……あぁ……っ!」


ぷるぷると震える手。押さえることで余計に圧迫されるワンピースの下。

その奥では、限界点を超えた奔流が、今まさに決壊を告げようとしていた。


「っっぁ、ああああああっ……!!」


小さな音がした。


ぽたっ。


透明な液体が、一滴、足元の白床に落ちる。

そして二滴目、三滴目と――


「あぁっ!……ああああっ、いやああっ……!!」


決壊した膀胱は無慈悲にあふれ出る。

――しゃああああ……


真っ白な異質な空間に、黄金の水たまりが広がる。

目の前の可憐な少女の股からあふれ出るそれは、

あまりにも生々しい匂いを放っていた。


やがて放尿の音が弱まり、濁流のような尿は、ぽたぽたと水滴に姿を変える。



顔を赤らめ、疲弊した表情で、ニアは、その場に崩れ落ちた。

美しい衣が濡れ、銀の髪が乱れ、顔を両手で覆い、嗚咽のような声を漏らす。


「……なんてこと……わたしが、わたしが……目の前の男に、尿意を操られて……っ、も、漏らすなんて……っ!」


その声は、涙声だった。

神の威厳はもうどこにもなかった。

そこにはただ、羞恥に濡れた少女が、己の尊厳の崩壊に打ち震えているだけだった。


俺は――


その光景を、しっかりと見つめていた。


ただ、静かに。

ただ、確かに。


ニアは、床に座り込みながら、なおも震え続けていた。

それでもようやく、唇を震わせながら、俺に向き直った。


「……あなたには、“奔流”の資質があります……まちがいなく、異世界で災いをもたらす者として……けれど……」


濡れた頬を指で拭い、震える身体を起こしながら、ニアは言った。


「わたくしは……あなたを異世界に送り出す役目を、最後まで果たします。

たとえそれが、再び漏らすことになるとしても……」


その瞳には、涙と、僅かな怒りと、そして――期待にも似た光が宿っていた。


俺は、うなずいた。


奔流は、まだ始まったばかりなのだ。


ニアがゆっくりと手をこちらにかざす。それと同時に光が全身を包んだ。

そのまぶしさに思わず目をつむった後、長くも短くもあるような一瞬の後、そこではないどこかに飛ばされていた。


*


水面に反射する陽光が、白大理石の床を柔らかく染め上げていた。天蓋の高窓から差し込む陽の光は、聖域と呼ぶにふさわしいその場を、まるで神話の一幕のように演出していた。


その中央には、四方に清流を滴らせる巨大な噴水が鎮座している。中ほどの水面は、鏡のように滑らかに空を映し、その揺らめきすら神聖なものに思えた。


噴水を取り囲むように、無数の若者たちが円陣を描いて立っていた。ある者は緊張の汗に額を濡らし、ある者は自信に満ちた顔つきで顎を高く掲げていた。華麗な礼服に身を包んだ貴族の子弟から、つぎはぎの衣をまとう平民の少年まで、その出自はさまざまだが、等しく厳粛な空気に包まれていた。


ここがどこなのか、自分がどうしてここにいるのか――まだ何もわからない。ただ、場の張り詰めた気配と、ざわめく期待の視線に、自分が何か特別な瞬間に立ち会っているということだけは、直感的に理解していた。


「……ここは、どこだ……?」


思わず洩らした呟きに応える声はない。ただ、水のせせらぎが、静かに場を満たしていた。


そのとき――


「ははっ、“裏切りヴァレンティアの娘”がこんなところにいてもいいのか?」


静寂を切り裂くような、乾いた嘲りが響いた。


視線を向けると、噴水の縁近く、赤髪の少女が数人の男たちに囲まれていた。

長く編まれた髪、腰に佩く剣。わずかにたなびく深紅のスカート

その佇まいは、彼女がただの民ではないことを一目で悟らせた。だが、何より目を引いたのは、その毅然とした態度だった。


セリスと呼ばれた少女は、唇を引き結び、挑発に動じることなく立っていた。怒りの色は確かにその目元にあったが、それを押し殺すようにして保たれた冷静さが、彼女の中の理性の強さを物語っていた。


「……父の侮辱は、許さない……」


その声は凪いでいた。だが、その静けさの奥に、研ぎ澄まされた刃のような意志が宿っていた。


「へぇ、でももうお前の父親なんて、今じゃただの酔いどれの腑抜けじゃねぇか?」


リーダー格の青年が、肩をすくめて笑う。取り巻きたちもそれに倣って嘲笑した。そこには悪意しかなかった。敬意も、配慮も、一片たりとも存在しなかった。


その笑いに、周囲の若者たちは――誰一人、止めようとはしなかった。


噴水を囲む数十人の視線の多くは、関わることを避けるように逸らされていた。中にはひそひそと何かを囁き合う者もいたが、それは哀れみでも怒りでもなく、ただの野次馬根性だった。


「ああいうのに関わると、面倒だよな」

「ヴァレンティアの娘か……ま、しょうがねぇだろ」


声を潜めて交わされる言葉には、無関心と傍観が滲んでいた。まるでこの場で起こっている人間ドラマが、舞台の上の芝居ででもあるかのように。


セリスの指が、腰の剣の柄にかかる。しかし――引かない。わずかに震える肩を抑え込み、睨み返す瞳には、まだ矜持が宿っていた。彼女は、自らの剣が正しき時にのみ振るわれるべきものだと信じていた。


なぜだろう。気づけば胸の奥が熱くなっていた。 他人事のはずだった。異世界の、知らない誰かの話であるはずなのに――


いつの間にか、青年とセリスの間に立っていた。


彼女の理性を思えば、あの無神経な嘲笑を見過ごすことなど、できなかった。


青年たちの視線が一斉にこちらに向けられた。


「なんだお前……? どけよ」


リーダー格の男が、苛立ちを滲ませてにじり寄ってくる。


俺は一歩を踏み出す。奇妙な熱が体内を這うように湧き上がり、身体の奥で、なにかが目を覚ます。


「その辺にしとけよ」


「へぇ、生意気じゃねぇか。さぞいいスキルでも授かったんだろ?」


スキル。この世界の人々が持つという力。そう、さっきの“神”と名乗る少女との対話を反芻する。


そして――思い出す。自分が授かったスキルの、あまりにも馬鹿馬鹿しく、奇怪なその性質を。


「さぁ、どうだろう」


 《蒼穹の奔流(カタストロフィ)


意識を集中し、目の前の青年を見据える。


その瞬間、青年の顔色が変わった。


血の気が引き、唇が震え、口元は歪んで引きつった。嘲笑はかき消え、虚ろな目が足元をさまよい始める。


「……え、な、なんだこれ……?」


声が震え、威圧のかけらもない。あるのはただ、戸惑いと、恐怖。


青年は両腿を寄せるようにして片膝を折り、股間を押さえた。薄いズボン越しに伝わる湿気――まだ視認できないが、彼にとってはあまりに現実的な感覚として襲いかかる。


「っ、やべ、ちょ、まっ……くそ……!」


背を丸め、歯を食いしばる。額から汗が滴り、息を詰まらせながら、一歩を退こうとした――だが、もう遅い。


「……う、あ……っ」


ぴちゃっ。


石床に最初の雫が落ちる。その音は、鐘の音のように澄んでいた。


全身が震え、次の瞬間、足元に水音が広がる。ぬかるみが彼の尊厳を飲み込んでいく。


「や、やめろ……見るなッ!!」


絞り出すような叫びと共に、彼は顔を覆った。だが、誰もが見ていた。染み広がるズボン。足元の水たまり。


失禁。意志では抗えない、恥辱の敗北。


「うっわ……漏らした……」



嘲笑。軽蔑。滑稽なものを見るような眼差しが、一斉に青年を突き刺した。

さっきまで取り巻いていた仲間すらも、今は距離を取り、あからさまに笑っていた。


彼は呻きながら、その場を逃げるように走り去った。取り巻きたちも言葉を失い、数歩遅れて彼を追った。


そして――場には沈黙が戻った。ただの静けさではない。誰もが、その出来事が「確かに起きた」という事実を、重く受け止めていた。


ただ一人。


セリス・ヴァレンティアだけが、その場に静かに立ち尽くしていた。


冷ややかな眼差しで男の背を見送りながら――その横顔には、わずかに笑みに似たものが浮かんでいた。


そして彼女は、こちらに視線を向ける。

正面から改めて見るとその成端な顔立ちと凛とした目に吸い込まれそうになる。


「……今のは……君が……?」


その声には、疑念と好奇心、そして微かに、安堵の色が混ざっていた。

セリスの問いかけに、俺は軽く肩をすくめてみせる。


「まぁ、そんな感じ」


胸を張って言えるようなスキルじゃない。

だから、つい曖昧な言い方になってしまう。

けれど、それでも彼女の目はわずかに見開かれ、次いでふっと細められた。


「……助けてくれて、ありがとう。私、セリス・ヴァレンティア。……一応、名乗ってもいい名前のつもりだけど」


最後の一言だけが、ほんのわずかに沈んでいた。

誇りの陰に、何かを隠すような――逡巡を含んだ響き。


「セリス、ね。俺は――」


名を口にしかけたところで、ふと間が空く。

まるで、記憶の底から“自分”を掘り起こすように。

いや、本当に思い出していたのかもしれない。この名前が、自分だったという事実を。


「ユイト・アマミヤ。よろしく」


あっけらかんとそう告げると、セリスは一瞬だけ目を丸くし、それからかすかに微笑んだ。


「……変わってるのね。普通、私の姓を聞いて少しは身構えるものだけど」


「ん? なんか、まずい名前だった?」


その言葉を投げると同時に、先ほどの取り巻きたちとセリスと名乗る少女のやり取りを思い出す。

どうやら、この世界ではファーストネームを先に名乗るのが通例らしい。

とっさに「ユイト・アマミヤ」と名乗ったのは、正解だったようだ。

そんな自分に、ほっと胸を撫で下ろす。


俺が軽く首をかしげると、セリスは目を逸らし、唇を噛むようにしてぽつりと呟いた。


「……知らないわけじゃないでしょ?」


その言葉に滲むのは、重さ。

この国では、それが“常識”であるという予感。

けれど――


「ほら、俺、田舎のほうから来たからさ」


――異世界から来た、なんて言えるわけもない。


「……」


セリスはしばし沈黙し、視線を落とした。

だが、その頬はかすかに紅を帯びていた。

そしてもう一度、まっすぐに俺を見つめて言う。


「……やっぱり、変わってるわね。君」


「たぶん、そうなんだろうな」


――まぁ、異世界から来た身だし。


冗談めかして笑ってみせると、彼女の口元もわずかに緩んだ。

張り詰めていた空気がやわらぎ、そこには年相応の少女の顔があった。


噴水の水音が、風に乗って静かに響く。

ふと、俺はその中心へと視線を向けた。


「そういえば、ここって何なんだ? さっきから気になってたんだけど。みんな、あの水面を見てたような……」


俺の問いに、セリスもまた噴水を振り返る。


「ここは“聖泉”。君もスキルを使ったってことは、儀式をしたんでしょ?」


「儀式?」


思わず聞き返すと、彼女は少しだけ呆れたように目を細めた。


「……知らないの? 田舎って、どこから来たのよ」


どうやら、常識を尋ねてしまったらしい。


「まぁ、ほんとに田舎でさ。両親もいないし」


――嘘だ。

けれど、異世界からの転生がこの世界で“異常”なのか、“日常”なのかもわからない以上、ごまかすしかない。


彼女はわずかに不信感を浮かべたが、先ほど助けたことが効いたのか、やがて息を吐き、落ち着いた口調で語り始めた。


「この世界――では、八歳から十八歳のあいだに、“スキル”と呼ばれる力が目覚めるの」


その言葉で、俺の脳裏に先ほどの光景――

ニアの言葉、その後の震え、失禁、あの異様な瞬間がよみがえる。


「神様から授かるやつ、だよね?」


セリスの瞳が鋭さを増した。


「……神?」


また、まずいことを言ったらしい。


「あ、いや……スキルの目覚めって、どんな感じかなって」


――自分でもわかっている。つじつまが合っていない。

さっきスキルを使ったばかりのくせに、まるで他人事のように訊ねるこの不自然さ。


だが彼女は、それをとがめず、静かに説明を続けた。


「スキルの発現は……感覚的なものよ。魔力が、体に宿るのを感じるの」


「魔力?」


「ええ。……たとえば、身長が伸びるとき、自分じゃあまり意識しないでしょ? それと似ているの」


妙に現実的な例えに、少し笑いそうになったが、彼女は至って真剣だった。


「発現の兆候が見られた者は、王国各地の“聖泉”へと呼ばれる。そして――この水面に、自分の顔を映すの」


「……」


「そうすると、スキルの名と力が、水面に淡い光とともに浮かび上がる。それが、人生の指針になるの」


その声には、儀式への敬意と、どこか運命を受け入れたような静けさがあった。


「剣の才かもしれないし、魔法かもしれない。あるいは……君みたいな、ちょっと異質な力もね」


最後の一言に、どこか含みがあるような響きがあった。


俺はただ、噴水の静かな水面を見つめていた。



「……まぁ、物は試しよ。やってみましょ」


セリスが自然に微笑んだ。


その言葉に背中を押され、俺たちは“聖泉”のもとへと歩みを進める。


石畳を踏むたび、足元に反射した陽光が揺れる。昼の光は柔らかく、噴水の縁を金に染めながら、その中心の水面を静かに照らしていた。


透明な水は、見た目こそ普通のそれと変わらない。だが近づくにつれ、肌の内側がざわめくような、妙な気配を感じる。目には見えない何かが、確かにここにはある。


「……これが“聖泉”」


セリスが、そっと噴水の縁に手をかけた。


指先が触れた瞬間、水面がほんのわずかに揺れた。それはまるで、眠っていた存在が目を覚ますような、静かな呼吸のようにも思えた。


「顔を映すだけでいいの。初めての者には、発現したスキルがそこに現れるわ」


彼女の声が、空気を震わせることもなく、澄んだ水面と同じように静かに響く。


儀式というより、どこか“祈り”に近いような空気だった。


セリスがそっと身を乗り出すと、不意に水面が淡く輝きはじめる。光の粒が舞い、やがて静かな波紋が広がった。


そして、中心に淡く浮かび上がったのは――


【名前】セリス・ヴァレンティア

【スキル】《赫剣(スカーレットブレード)


能力:魂の熱を剣に宿す。怒りに比例し、斬撃の威力が上昇する。


文字は見慣れないものだった。けれど、ニアのときと同じだ。読めないはずなのに、その意味が感覚的に、脳の奥へとすっと入り込んでくる。


「……まぁ、見ての通り。これが私の力みたい」


そう言ったセリスの横顔は、どこか誇らしげで、それでいてほんの少しだけ――寂しげでもあった。


力に頼らなければならなかった過去を背負っているような、そんな表情。


剣にすべてを託した者の覚悟が、その声から、仕草から、滲んでいた。


そして彼女は、ふと俺に向き直る。


「次は、ユイトの番ね」


淡く、優しい笑みだった。


俺は無言で頷き、水面へと視線を落とす。


さっきと同じく、噴水の水は穏やかに澄んでいる。けれど、今度は自分の心が騒がしい。息が、少しだけ浅くなる。


大丈夫だ。大丈夫――自分に言い聞かせるように深呼吸をひとつして、そっと身を乗り出した。


――映ったのは、確かに俺の顔だった。


だが、その直後。


水面が脈打つように波紋を広げ、空気がわずかに震えた。


光がゆっくりと形を取り、ふたたび見慣れぬ文字が浮かび上がる。


背後から、セリスが興味深げに顔を覗かせる気配を感じる。


【名前】ユイト・アマミヤ

【スキル】《蒼穹の奔流(カタストロフィ)


能力:対象の尿意をMAXにする。


……また、これか。


頭ではわかっていた。ニアのときと同じことが起こるだろうとは。


けれど、こうしてあらためて文字として突きつけられると、なんというか、現実味のなさが逆にこたえる。


俺は、そっとセリスのほうを見た。


「……やっぱ、変だよな?」


思わず漏れた言葉は、言い訳でもなければ、開き直りでもなかった。ただ、困惑と戸惑いをそのまま吐き出しただけの声だった。


けれど――


セリスは、ふいに笑った。


さっきまでの凛とした戦士の顔ではなく、どこにでもいる少女の、年相応の、あたたかい笑顔だった。


「でも君は、その力で私を助けてくれたんでしょ?」


まっすぐな瞳が、揺るぎないものを宿して、こちらを見つめている。


「……セリス」


あのときの直感が、胸の奥からふたたび湧き上がる。


彼女は、真っ直ぐで実直な人間だ。誰かを見下すことなく、真正面から“他人”を受け止めることができる。


その言葉に、どこかが救われた気がした。


見下されても、おかしくはなかった。引かれても、驚かれても、当然だった。


それでも――彼女は、俺を見てくれていた。


ちゃんと、俺という存在を。少しだけセリスという人間を理解した気がした。


「この後、どうするの?」


セリスの問いかけは、聖泉の静寂を壊さぬよう、そっと差し出された。


俺は即答できず、眉を曇らせた。


「……特に、何も」


思えば、この世界での“次”なんて、まだ一歩も見えていなかった。振り返ると、セリスが静かに笑う。


俺は問い返す。


「セリスはどうするの?」


ほんの少しの沈黙のあと、セリスはそっと目を伏せ、言った。


「少し……話しましょ」


セリスに促されるようにその場所を後にした。


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