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本番前

無事、志望校に合格できたためこれまでにないぐらい湧き上がってくる興奮を抑えられずにいた。これから入学式を控えているのにも関わらず、校門をくぐると部活勧誘で人がごった返していた。誘われた部活のすべてを断って、軽音楽部の部員を探した。しかし、結局見つけることはできず、新入生として組まれた予定に従った。そして、最後に担任となった先生の激励の言葉をもらって、すぐに教室を飛び出した。配布された資料の中にあった学内マップから音楽室の場所はすでにマークしていた。まだ誰もいない可能性もあったが、去年見たあのパフォーマンスの一員に加われると思うと、走らずにはいられなかった。教室棟と特別棟で分けられた校舎の渡り廊下を走り抜け、一番奥にある音楽室めがけて一直線だった。

「ここが軽音楽部の部室で合ってますか!」

 ノックもせずに扉を開け放ち、大きなで叫んだ。走ってきたせいで、すぐには顔を上げられず呼吸を落ち着かせようと胸に手を当てる。少しずつ落ち着いてきて、顔を上げようとしたが返事がなかったため自分のほうが一足早かったか、もしくは部屋を間違えてしまったのかと考えた。ちゃんと考えてみれば、音楽室は吹奏楽部が使い、軽音楽部は空き教室などを使っている可能性もあった。恥ずかしくなり、その場にしゃがみ込むと人の声がした。

「きみ、大丈夫……?」

 それは、遠くまで響き渡りそうな澄んだ声の持ち主だった。去年ボーカルをしていた人とは絶対に違う声。思わずバッと顔をあげると、驚きを隠せない女性の顔があった。腰まで届きそうな長い黒髪は艶があり、重々しくなかった。ふわりと香ったシャンプーの香りに思わずドキリとする。

「すみません、突然入ってきて。ここって軽音楽部の部室で合っていますか? ビラなど配ってなかったので確証が持てなくて……」

「えっ! 入部希望者!? しかも男の子とか初めてなんだけど! すごいすごいすごい!」

 間違ってはいないようだったが、先輩の興奮具合がすごかった。もしかして、誰も来ないのだと思っていたのだろうか。思考を巡らせているうちに、先輩は僕の手を引いた。音楽室の奥にある扉から隣の部屋に入ると、手入れの行き届いた楽器たちが並んでいた。当然、その中にはギターもあった。

「ねぇ、きみは楽器なにか弾ける? それともボーカル志望だったりする?」

「一応去年からギターの練習はしていて、基礎とか簡単な曲ぐらいなら演奏できます」

「じゃあ楽譜も読める? どれぐらい弾けるか試したいんだけどいいかな」

 返事をする前から先輩は鞄の中から楽譜を取り出した。渡されたものをそのまま受け取り、軽く目を通してみる。そして気づいた。これは去年僕が見た軽音楽部のパフォーマンスで演奏された曲だ。そんなに難しい箇所はなさそうだが、自分の場合一曲弾きこなすのに相当な時間を要する。もしこれが入部テストだったらどうしようかと考える。

「はい、これギターね。調律は済んであるからそのまま使えるよ」

 微笑んだその顔を見ては断れずにいる。

「あの、僕そんな上手くないし、練習だって時間かかるし……上手く弾けるか、なんて……」

「大丈夫だよ、私がメロディーを歌うからゆっくりやってみよう」

 花が咲いたかのような明るい笑顔で先輩は言った。一呼吸置いて、演奏する心の準備を整えると、先程自分が通ってきた扉から大きな声がした。

「ちょっと待って! 入部希望者かもしれないから見てくるね!」

 そう言って先輩は駆け出した。せっかく整っていた心の準備が乱されてしまう。隣の入り口から聞こえてくる声に耳を傾けてみた。

「去年の学園祭のパフォーマンスを見て来たんです!」

「バンドにもともと憧れがあって……」

「吹奏楽やってたんですけど、今までと違う楽器を弾いてみたくて」

 様々な理由をもとに数人集まっているようだった。

「うちは誰でもウェルカムだよ! 楽器も弾けなくても大丈夫、これから練習していこう! 実は先に一人来ていてね、一緒に案内するよ」

 すると、ぞろぞろと五人ぐらいの人が中へ入ってきた。男女混じっていたが、若干女子生徒のほうが多かった。みんなが適当に座ったところで先輩は僕の顔を見て、続きをやろうかと言った。もう一度ギターを構え直し、深呼吸をした。

「ワン、ツー、スリー、フォー」

 人に見られている中、演奏するのは初めてのことだったから緊張していた。何度もミスしたが、僕の演奏と先輩の歌。目立っていたのは後者だった。気まずそうな雰囲気の中、演奏を聴いていた同じ一年生たちは顔を、見合わせたあとまだらに拍手をした。その空気に一人気づいていない先輩はこれでもかと嬉しそうな表情を浮かべていた。

「久々に歌えて楽しかったよ。去年先輩たちが引退してから私一人になったからさ。この後、みんなが弾いてみたい楽器に触れてみる時間にしようかと思うんだけどどうかな?」

 僕が口を開こうとしたところで、一年生たちが即座に立ち上がった。

「すみません、私ちょっとこのあと塾があるので……」

「私も家の用事があって」

「僕もちょっと残れないです……」

 各々言い訳がましい言葉を並べては、帰る準備を始めていた。ここに入ってきた瞬間の楽しそうな雰囲気はどこにもなかった。それでも先輩は嫌な顔ひとつせず、みんなに手を振っていた。

「そっか、じゃあ仕方ないね! ここは毎日活動してるからまたいつでもおいでよ!」

 その言葉には誰も返事をせず、あっという間にまた僕と先輩のみになった。

「先輩、いい人ですね」

「え、私? そんなことないよ」

 顔の近くで手を振りながら否定されたが、あの一年生たちの嘘を見抜けない辺りきっと純粋な人なのだろうと勝手に思った。

「君……ってか、名前訊いてなかったから教えてもらってもいい?」

「あ、藤野翔太です」

「私、愛原恵、三年生です。藤野くんは入部するの?」

 期待の眼差しを向けられなくても、先輩の歌声を聴いたときから答えは決まっていた。

「はい」


 それから部活勧誘期間である一週間を経過した今、最終的に正式入部したのは僕だけとなった。何人か見学に来た人はいたが、その後部室に顔を出した者はいなかった。先輩はその事を不思議がっていたが、理由に察しがついていた僕は、口にこそは出さないものの仕方のないことだと捉えていた。そして、今日も先輩は一年生が僕だけだということを嘆いていた。

「私と藤野くんだけでバンドやるのぉ。もっと人欲しかったなー、なんで皆他のとこ行っちゃったんだろう」

「実際に見学に来て理想と違ったとか、自分にはできないって思ったんじゃないですか?」

「そんなの練習してみなきゃ分かんないじゃん、合う合わないは確かにあると思うけどさ」

「まぁ、僕ら二人だけで今年は頑張りましょうよ」

「学園祭のパファーマンスで成功すると次の年の新入部員がたくさん来るっていうジンクスみたいなものがあってさ、去年見てたでしょ? 大成功だったじゃんあれ。だから、今年期待してたんだけどなぁ」

 そう言って先輩はさらに項垂れた。

「そういや、二年生はいないんですか?」

「いたんだけどねぇ。去年の三年生が引退したあと、誰も来なくなっちゃった」

 これも大体想像がつく。

「去年の部員みんなレベル高かったから私もパフォーマンスに出たかったんだけど、推薦式でメンバー決めることになってさ。私、選ばれなかったんだよね。先輩たちにとっては最後の学園祭だったから優先してあげたいって気持ちはもちろんあったし、異論はなかったんだけど、今年に期待してたからなぁ」

「やっぱりボーカル志望だったんですか?」

「そうそう」

 これも納得する。推薦式にしてしまえば、自分が選ばれなかった理由を愛原先輩が勝手に作り上げて納得するとでも考えたのだろうか。ギターを構えて、指の柔軟性を鍛えるトレーニングをしていると、ノックもせず顧問の先生が入ってきた。週に一度だけ、顔を出しに来るが音楽に関する知識はほとんどないため、基本的には数分椅子に座って様子を見て帰る。

「入部したのは藤野だけか」

「あ、まぁそうですね」

 楽譜をひらひらとさせていた愛原先輩が顧問に噛みつく。

「藤野くんは期待の新入部員だから。藤野くん一人でも十分ですぅ」

「でも二人じゃ学園祭には出れないぞ」

「軽音楽部として出るから人数は関係ないでしょ。録音音源使ったりしてなんとかするわ」

 今にも唸り声を上げそうな愛原先輩の顔と、全く興味のない顔をした顧問の顔が近づく。すると、顧問が愛原先輩の頬をペチッと軽く叩く。

「まぁ、録音音源どうのこうの以前の問題だと思うがな。なんとかできるなら、なんとかしてみせろよ、藤野」

 やはり、顧問も把握していたのかと驚きはしなかった。そりゃあ、顧問だもんなと納得したが、先輩は納得がいかなかったようで、部長は私なんですけどと叫ぶ。自分に任された荷の重さを感じながら、この問題をどうするべきかを悩んでいた。

「じゃ、また来週」

 それだけ言い残して顧問は部室を出ていった。あの様子じゃ、きっとアドバイスする気なんてさらさらないのだろう。

「先輩、学園祭って十月でしたっけ」

 不思議そうな顔をしながら、そうだよと愛原先輩は答える。学園祭まで半年と考えると、案外なんとかなるのではないかという気がしてきた。大丈夫だ。僕と愛原先輩で去年のようなパフォーマンスをしてみせる。謎の自信に満ち溢れていた頃、もう一つの問題が隠れていることに気づいてなかった。


 期末試験の期間、部活動は休みに入っていた。そして、試験以外にもう一つ頭を悩ませていた。七月に入ったのにも関わらず、学園祭で演奏する曲が決まっていないのだ。愛原先輩いわく、去年演奏した曲は愛原先輩が作詞作曲したものだったらしい。そのため、今年も同じように自身の手で書き上げた曲を演奏したいそうなのだが、いまいち進捗がよろしくないのである。

 さて、どうしようものかと悩んだが、僕に作詞作曲の知識は一切ない。楽譜が出来上がらない以上、僕も練習に入れないため、完成が遅れれば遅れるほど練習時間は短くなる。そのことに先輩も追い詰められているようだが、進まないものは進まない。期末試験が始まる前に何度か助けを求められたが、助力になるような言葉はなにもでなかった。去年はポップ系の曲と、失恋ソングを書いたそうだが、残りの期間を考えて今年は一曲に絞るそうだ。

 試験最終日、いつもより練習時間が長く取れるということで、退室の許可が出た瞬間すぐに廊下へ飛び出した。部室から少し離れている教室のため距離はあるが、階段がないだけマシだ。部室に着くと、既に愛原先輩が椅子に座って鼻歌を歌っていた。

「藤野くんテストお疲れ! どうだった?」

 僕の存在に気づくと、すぐに顔を上げいつもの花が咲いたかのような笑顔を向けてくれた。

「思ってたよりも簡単でした。愛原先輩が過去問貸してくれたおかげです」

「それは良かった! 私からもね報告が一つあるんだ」

 ニヤニヤと嬉しさが滲み出るような表情に、なんだか僕までニヤつきそうになる。なんでもない顔で、なんですかと訊いてみる。

「ついに作詞のほうが完成しました! いやー、テストの力ってすごいね。化学のテストを捨てて問題用紙裏返してさ、真っ白な紙見てたらスラスラと歌詞が浮かんできたの。これはいい曲になるよ、自信ある」

 手渡された化学の問題用紙の裏側には何度か添削された歌詞がつらつらと書かれていた。しっかりと目を通してみる。

「サビの辺りですかね? この、音楽が溢れたこの世界で私は君と作った歌を歌っていきたいってのがいいですね」

 素直な感想を口にすると先輩は、幸せが溢れだしそうな表情で笑った。思わず、つられそうになり問題用紙で顔を隠す。先輩の力は不思議だ。いつも笑っているが、時折周りまでをも巻き込むような、とびっきり優しい笑顔になる。

「今から作曲やってくぞー! 夏休み入るまでには完成させるから。そしたら、夏休みたくさん練習して学園祭に挑もうよ」

 頼もしい表情で突き出された拳を、僕も軽くコツンとぶつける。

「もっと力強くやらなきゃ、ほらもう一回!」

 今度は少し距離を取って、勢いをつけて骨と骨をぶつけ、天井に向けて拳を突き上げた。

「愛原先輩、楽しみにしてます」

 その言葉が意外だったのか、少しキョトンとした表情を見せた。だが、それもほんの一瞬の間。すぐにいつもの笑顔になった。

「この愛原恵ちゃんに任せておけってい!」

 二人しかいない部室は、いつの間にか最初ほど広く感じないようになってきていた。


あれから僕はひたすらにギターの練習を繰り返していた。どんな曲ができあがってもきちんと弾きこなせるように特にテクニック面を重視した。もちろん、指の柔軟や基本となるコードの練習は欠かさなかった。僕がギターを練習している横で先輩はピアノを鳴らしながら、一音一音確認していくかのように楽譜を埋めていった。今回、舞台に立つのは僕ら二人だけのため、ベースやピアノ、ドラムの音はスマホで打ち込んで作曲を進めていった。生の演奏にこだわった先輩はギターとボーカルは録音せずにやると宣言していた。顧問は顔は出すものの口出しは一切せず、毎回目線で僕にプレッシャーをかけてきていた。

 そしてついに、一学期の終業式が行われた今日。部室へ行くと、清書した楽譜を愛原先輩から手渡された。

「待たせたね、これでやっと練習ができるよ」

 少しだけ目元にクマが浮かんでいた。

「すごいですね。お疲れさまです。徹夜したんじゃないですか」

 少し恥ずかしそうな顔をして、愛原先輩はちょっとだけねと呟いた。カバンからスマホを取り出し、スピーカーに接続していた。

「とりあえず、ギターとボーカル以外の音源は作ってきたから試しに聴いてみてほしい」

 いくよと言って愛原先輩は音源を再生した。去年とはうってかわって、シンプルな演奏だった。特に激しく演奏する場面はなく、優しそうな雰囲気に仕上がっていた。そして、これだけ伴奏が柔らかいと曲の主軸はボーカルに委ねられる。

 曲が終わり、不安げな表情で愛原先輩はどうだったと尋ねてきた。僕はできる限りの満面の笑みを浮かべて親指を立てる。

「良かったー! これで安心して学園祭に挑めるよ」

 やりきった表情で、綺麗とはいえない部室の床に寝転がる。

「この曲、先輩の歌にかかってますね」

「やっぱり気づいた? 去年は先輩たちが演奏する曲だから派手な見せ場のあるものを作ったけど、今年は私が主役になれるような曲を作ったんだ。もちろん、練習は頑張るから」

 また、花が咲いたかのような笑顔だった。明日からしっかりと愛原先輩のサポートができるよう、今日中には音源を頭に叩き込んでおこうと心に決めた。

「明日から練習、頑張りましょうね」

 そう言って立ち上がり、ギターを手に取った。

「何言っているの? 今日から練習するよ」

 いたずらっぽく笑った口から見えた八重歯が、可愛らしい悪魔のようにみえた。その笑顔に免じて、練習する場所を自宅から部室に変更したことは言わないでおこう。

それから僕らは日曜日以外、毎日練習を繰り返した。そんなに難しい曲ではなかったため僕自身はすぐに演奏できるようになっていた。ただ、僕と先輩の認識の齟齬を正すのがどうも上手くいかなかった。

「今の感じどうだった? 私的にはすごく気持ちよく歌えたんだけど」

 スカートをひらめかせながら、その場でくるくると回る愛原先輩。厳しい言葉も甘やかした言葉も言えず、中途半端な中立に立とうとする僕。

「悪く、なかったと思います」

「だよね。このままもっと練習して、音源にもアレンジ加えていってさ、もっともっといい曲にしようよ」

 目を輝かせながら、真っ黒なカーテンに身を巻いていた。この先に待つ未来を不安に満ちたものだと思っているのは僕だけのようだった。

「お前ら本気でやってそれか」

 突然聞こえた顧問の声に一驚する。その言葉の意味をすぐに理解した僕は、どうかこれ以上深入りしたことを言わないでくれと願っていた。その反対、顧問の言葉が理解できなかった愛原先輩は不安げな表情で、どういうことですかと訊ねてしまった。

「どういうことですかって……。お前自分の歌声まともに聴いたことあんのかよ、おん……」

「僕は先輩の歌声が好きです!」

 顧問の言葉が最後まで聞こえてしまわないよう、僕は叫んだ。自分のやっていることが正しいとは思えない。それでも、ここで先輩の心を折るのはきっと違う。緊迫した空気に耐えるため、制服の裾を力強く握っていた。やがて、驚きの目から呆れの目に変わった顧問は僕の方を真っ直ぐ見据えて強く言い放った。

「じゃあお前が学園祭までにこれをどうにかしろ」

 頷く前に顧問は部室から出ていった。二人に戻った空間にはしばらくの間、静寂がおりたが、それを壊すように先輩が黄色い声をあげた。

「藤野くん照れるじゃん、あんな大きな声でいきなり褒めるなんて」

 嬉しそうな悲鳴を上げながら、両頬に手を添える愛原先輩。普段は褒めても、ありがとうと言って受け流すだけだから照れている様子は新鮮だった。

「それにしても、先生はなにが言いたかったんだろうね」

 良かった、顧問の言葉の真意が伝わっていないようで。ひとまず、安心はできた。だが、僕の力で学園祭までどうしようというのか。そうだ、今まで散々逃げてきた現実といよいよ向き合わなければならない。学園祭を成功させるためには僕が鬼にならなければ。

「愛原先輩、これからもっと厳しく練習していきましょう」

「そうだね、私も頑張るよ」

 歌詞ができあがったあの日のように、部室の天井めがけて僕らは拳をぶつけ上げた。


「愛原先輩、録音音源のメロディーラインだけ再生することってできますか」

「ちょっと、いじって別データに移さないといけないけどすぐにできるよ。でも急になんで?」

「他の楽器と合わせて演奏するの初めてなんで、まずは先輩の歌声に完璧に合わせられるように楽器の音の数を減らして練習したいんです」

 昨日から用意した言い訳に、緊張で心臓が痛くなっていた。先輩の良心につけこんでいることはわかっていた。

「そういうことならわかった。すぐに音源作るよ」

 また、いつもの花が咲いたような笑顔。大丈夫、これで練習しやすくなるはずだ。お礼を真っ先に伝える。そして。

「愛原先輩、もう僕遠慮しないんで」

「なに言ってんの。私もこれから藤野くんのミス一つ見逃さないからね」

 お互いに歯を見せて笑い合う。まだ時間はある。きっとなんとかできる。顧問の言葉が杞憂で終わるよう僕が努力しなきゃ。そう自分に言い聞かせ、学園祭までの日数を数える。夏休みも終わりに差し掛かり、そろそろ二学期が始まる。そう考えると残り一ヶ月と少ししかない。自分の音感に自信があるわけではなかったが、違和感の強いところから少しずつ修正していこう。

そう決めてから挫折してしまいそうになるまでが早かった。僕のギターと先輩の歌声、ピアノの伴奏だけになるとお互いの未熟さが浮き彫りになっただけだった。どちらも技術不足。自分の演奏はこれまでの録音音源に隠れているだけだった。

「バケツ被って歌うと、自分の歌声が反響していつもより聞き取りやすくなるみたいですよ。試してみませんか」

 僕らの演奏を録音して聞くまでは勇気が出なかった。だから、どうにか愛原先輩の歌声を客観視できる方法を昨日調べていた。その時に見つけたのが、先程愛原先輩に提案した方法だ。バケツを被ることで声が中で反響して、自分の歌声を客観的な視点で聞くことができるようになるらしい。どれくらい効果があるかはわからないが、とりあえず愛原先輩が嫌がらないことだけを祈った。

「そんな方法があるんだ。それじゃあせっかくだから試してみよっか」

 部室の隅に置かれたバケツを一度水で洗ってから、愛原先輩はすぐにそれを被った。

「おぉ、確かにエコーがかかってるように聞こえる。なんか、普段聞いてる自分の声とは違うね」

「それで一回歌ってみましょうよ」

 大きなバケツを支えながら愛原先輩は首を縦に振った。見えない愛原先輩に代わって、音源の再生を始めた。

やはりと言うべきか、上手くいかなかった。愛原先輩は声がくぐもって歌いづらいと言った。無理強いをするわけにもいかず、笑って誤魔化しながらバケツを片付けた。先輩自身が自分の問題に気づいてくれるのが理想だが、考えが甘いのだろうか。

「ねぇ、私の歌声って変?」

 自信なさげに呟かれたその言葉が心臓に刺さる。

「僕は好きですよ、愛原先輩は綺麗な歌声をしています」

「違うの、好きとか嫌いとかじゃなくて客観的な意見がほしい。私ってもしかして下手なのかな」

 なにがそう思わせてしまったのか、わからないがそれでも違うと叫びたかった。それなのに声が出ない。ここで嘘をつくと取り返しのつかないことになってしまうことだって想像ついてた。それなのに。

「……なに不安になっているんですか。大丈夫ですよ、愛原先輩ならきっと」

 少しの間をおいて、愛原先輩が笑う。それはいつもの花が咲いたような笑顔ではなかった。

「そうだよね、私が不安がっちゃダメだよね。ありがとう」

 無理して笑っているんだと一目でわかる表情に後悔が募る。学園祭までどうにかすると息巻いていたのに、どうにもならないかもしれないと考えた途端、ギターの弾き方がわからなくなった。


 あれから自宅でも部室でも指にマメができてしまうぐらい、練習を繰り返した。それでも、愛原先輩の曲を演奏できるようになっていたあのときの感覚は戻らなくて。二人で合わせて練習しても、僕のミスが目立ち顧問に注意されたときよりも酷い出来栄えになっていた。愛原先輩が僕のことを気遣って、しばらく個別で練習しようと言い出した。部室で一人になり、集中できる環境は揃っているはずなのに焦りばかりが先走ってしまった。学園祭まで残り一ヶ月になったところで、精神的にも限界が来ていた。

「ねぇ、藤野くん」

 突然声をかけられて、驚きから勢いよく顔を上げた。目の前に愛原先輩が立っていたことに全く気が付かなかった。久々に見た愛原先輩の顔はどこか不安げで、一人で勝手に気まずさを感じていた。

「すみません、気づかなくって。どうしましたか」

 ギターを机に立てかけて、しっかりと愛原先輩と向き合った。

「これは私の勝手な判断なんだけど、今年はもう全部録音音源で学園祭に出ない?」

「……は?」

 突然の提案を受け入れられず、思わず口から出たのはとても失礼な一言だった。もっと他に言葉を選ぼうとするが、理解が追いつかず魚のように口がパクパクと動くだけだった。

「これは私の勝手な考えだけど、お互い上手くいってないじゃない? だから、練習で常に録音して演奏してさ、その中で一番上手くいったものを……」

「嫌ですよそんなの僕! 愛原先輩が一番生演奏にこだわっていたじゃないですか! 今すごく迷惑かけてるかもしれないですけど、本番までにはなんとかしますから。だから……」

 持っていた荷物をその場に捨てて、愛原先輩は僕に飛びついた。力強く抱きしめられる。相手の表情が見えない不安さがあったが、そんな不安をかき消すように愛原先輩が力強い声で話し始めた。

「ごめん、私いっぱい練習してる藤野くんの気持ち考えてなかったよね。勝手なこと言ってごめん。だから、もっともっと二人で練習しよう」

 愛原先輩の声が、だんだんと涙混じりになり自分も泣いていたことに気づく。自分よりも少しだけ小さい愛原先輩の背中に手を回す。

「僕の方こそ取り乱してすみません。でも、やっぱり先輩の生歌をあの舞台で披露したいんです」

「藤野くんは優しいねぇ」

 安心したような声色に、僕も少しだけ心に余裕ができる。その瞬間、高校生の男女が二人っきりの部室で泣きながら抱きしめあっているというこの状況に恥ずかしくなった。だからといってここで先輩を引き剥がしたら、意識してしまった自分がもっと恥ずかしくなる。鳴り止まない心臓が愛原先輩に届いてしまわぬよう、少しだけ胸の部分に隙間を開ける。鼻孔をくすぐる初めて部室へ来たときと同じ香り。

「ごめんね、思わず泣いちゃった。これから頑張ろうね」

 涙を拭きながら愛原先輩が見せたその笑顔はやっぱり花が咲いたようで。

 愛原先輩が、好きです。


 あれから僕と愛原先輩は、朝練もするようになった。朝練の許可を取りに顧問のもとまで行ったときに、調子はどうだと聞かれたが曖昧に誤魔化した。努力が実るとは限らないことぐらい知っていても、やめられなかった。

「愛原先輩、また音がズレてます」

「今のところもう一度確認しましょう」

「藤野くんミス減ったね」

「ちょっとここの辺りあやふやだからチェックさせて」

 遠慮しないんでとか言っておきながら、愛原先輩のミスを指摘する勇気はなかった。愛原先輩がミスしたところで僕もわざとミスをしてもう一度やり直していた。それをやめ、ちゃんと指摘するようになると、愛原先輩も僕を甘やかすことがなくなった。あれだけ弾けなくなっていたギターもミスを指摘されるごとに、少しずつ感覚を取り戻せるようになっていた。学園祭まで残り一週間をきったところで、演奏は完璧に近づいていた。

「どうよ! 今お互いミスなかったんじゃない?」

 最後のロングトーンを歌い終え、僕のギターの残響もなくなったところで愛原先輩は振り向いた。

「最高でした! これなら学園祭も成功しますよ」

 いつものように拳をぶつけあった。少し休憩しようという愛原先輩の提案にのり、二人で部室を出た。初めて完璧に弾ききった感動は大きく、全身が熱を帯びていた。中庭のほうまで歩くと自動販売機があった。

「炭酸飲める?」

「え。いいですよ、自分で買います」

 慌ててポケットを探るが、財布がないことに気づいた。

「私が奢りたいの、祝杯だと思ってさ」

「それじゃあ、ありがとうございます」

 はいと言って手渡された缶を一緒に開ける。プシュッという気持ちのいい音が鳴った。

「かんぱーい!」

中身が溢れてしまわないよう、軽くコツンとぶつけ合う。いつの間にか入部してから半年ぐらい経っていた。一つの曲を演奏しきる難しさを知った。来週に迫った学園祭では初めて人前に立って演奏することになる。前日の予行練習では本番と同じ状況で演奏できるが、やはり人に見られている状況でいつものように演奏できるかどうかは大きな不安の種だった。

 そんな僕の不安をよそに愛原先輩はゴクゴクと一気に飲んでいた。そして一息ついたところで、ゲップを我慢するためか口元を覆った。

「藤野くん、もうすぐだよ」

「もうすぐ、ですね」

 ここまで練習した成果を、まだ顔も知らない幽霊部員の先輩たち、あの日帰っていった入部希望だった人たち、馬鹿にしてきた顧問にも見せつけてやりたかった。ドラムやピアノが録音なのはもったいないが、それでもやれるだけのことはやる気でいた。先程の演奏を思い返せば、大丈夫だと自分に言い聞かすことができた。

ジュースを飲み干した愛原先輩がベンチに座ろうと言い出したので移動した。炭酸があまり得意ではない僕はちまちまと飲んでいた。

「私ね、音大志望なんだ」

 初めて聞く話だったが、なんら驚きはなかった。自分で曲を作っているぐらいなのだ。なんら、違和感はない。

「自分で作詞作曲した曲を歌って、シンガーソングライターとして活動したいの。でも、今まで私がなにを選んでも全て応援してくれていたお父さんやお母さん、親友までもがそれは無理だ、諦めろって言うの。誰も理由は教えてくれないし、自分でも成功する人が一握りの選ばれし人たちだってこともわかっている。でも、こうやって頑張ってみちゃダメなのかな。藤野くんはどう思う?」

「愛原先輩は綺麗な歌声をしているので、きっと大丈夫ですよ。僕は応援します」

 ポロッと音もなく、愛原先輩の目から涙が流れた。なんだかとても愛おしく感じてしまう。

「泣かないでくださいよ、きっと大丈夫ですから」

 一粒だけだった涙が溢れてくるのか、愛原先輩は下を向いてしまった。その背中にそっと手を伸ばし、こんな感じでいいのかなと不安になりながら背中をさすった。

「ありがとう……。自分の夢を応援してくれるのってこんなに嬉しいことなんだね」

「愛原先輩、帰る前にもう一回だけ演奏していきましょうよ」

「いいね、行こっか」

 二人で立ち上がると空はもうオレンジ色に染まっていた。校門が閉まるまで時間はあるが、少し急いだほうが良さそうだ。愛原先輩にそう言おうとしたが、先程までの涙はかげもなく消えていた。競争だよ。そう言って先頭を走り出した先輩のあとを必死に追った。

 音楽室に着く頃には二人とも汗だくで、部室の床に寝そべった。

「ダメだ、息切れしちゃって歌どころじゃない……」

「愛原先輩が急に走り出すからですよ」

 体育の授業以外では走らない僕も久々に走ったせいで、まだ呼吸が整っていなかった。明日、楽器を体育館の舞台袖に移動させて予行練習。明後日には本番だ。緊張なんてこれっぽっちもなかった。僕ら二人なら完璧な演奏ができると信じている。

「愛原先輩、そろそろ落ち着きました?」

「うん、いけるよ」

 やっと床から身体を引き剥がし、立ち上がった。それぞれのポジションに付き準備をする。愛原先輩に見られないよう、スマホを取り出し録音の準備をした。後ろの机にスマホを置いて、先輩の合図をもとに部室最後の演奏を始めた。さきほどよりも伸び伸びと歌う愛原先輩の声と、指に覚え込ませた音を弾いていく。

 待っていろ、学園祭。僕らは最高の演奏をする。


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