プロローグ・1話 〜少年の日の思い出〜
第1話を開いてくださり、誠にありがとうございます!
このエピソードはラスト1行がとても大切なので、ぜひ、最後まで読んでいただけますと幸いです!
2019年10月17日。
周囲を取り囲む山々が色づき始め、
肌寒さを感じるようになったこの日、
少年は人生を変える出会いをした。
「何度も何度も盗みに来やがって!
今日という今日は許さねぇからな!」
「売女のガキが、汚ねぇ体で店に入んな!」
「おい逃げるぞ!捕まえろ!」
少年は走り続けた。
迫り来る大人たちの罵声と暴力から逃げるために。
腹部に広がる鈍い痛みを忘れるために。
この不条理な世界で生き残るために。
足元はふらつき、視界は揺れる。
腹に喰らった蹴りの痛みが鈍く広がる。
それでも足を止めるわけにはいかなかった。
「くそッ、どこ行ったんだ!」
「腹に重たいのを一発喰らわせてやったし、そう遠くへは逃げられないはずだ」
「よし、お前らはあっちを探せ!俺はこっちを探す!」
少年は咄嗟の判断で草むらに身を潜めた。
息を殺し、草の間から大人たちの動きを伺う。
しばらくして静けさが戻った。
少年は恐る恐る立ち上がり、周囲を確認する。
誰もいない。
少年は腹を抑えながら、隠れ家である廃工場へと戻った。
つい半年前まで鋼鉄製品の加工成形が行われていた廃工場は、今も油や溶接の臭いを漂わせている。
少年は秘密の抜け穴から中へ入ると、冷たいコンクリートの上に、力尽きたように倒れ込んだ。
食料は盗めなかった。
空っぽの胃袋が泣くように鳴り続ける。
腹の虫の声に耐えられなくなった少年は、かすれた声でつぶやいた。
「‥‥‥つかれた」
少年は静かに目を閉じる。
空腹による飢餓感と蹴られた痛みを忘れるために、少しの間寝ることにした。
目を瞑ってから1分ほど経ったころ、
不意に、知らない女性の声が静かな廃工場に反響するように響いた。
「大丈夫?怪我はない?」
少年は驚いて、ハッと目を開ける。
倒れた少年を覗き込むように立っていたのは、中学生くらいのお姉さんだった。
後頭部で1つにまとめられた光沢のある艶やかな黒髪。
彼女の身にまとっているのは、深い紺色を基調としたセーラー服。
襟元には真紅のリボンが結ばれ、裾や袖口に繊細な刺繍が施されている。
どこか格式のある軍学校を思わせるデザインだった。
優しげな顔立ちに加え、こちらを心配そうに見つめる瞳。
その視線は、少年が生まれて初めて向けられるものだった。
少年はどう答えるべきか分からなかった。
目の前に突然現れたお姉さんが、何を考えているのか分からなかったから。
心配するふりをして、自分に何かひどいことをするつもりなのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎる。
何も言えず、じっと彼女の様子を伺う。
だが、少年の思考に反して体は正直であった。
不意に腹がぐう、と鳴った。
「お腹空いてるの?
ちょっと待っててね」
お姉さんは学生鞄を開け、中から小包みを取り出した。
「はい、どうぞ」
笑顔と共に差し出されたのは、見たことのない高級なお菓子だった。
それがとても美味しい食べ物だと一目で理解できるほど、
非常に手の込んだ、職人技の光る逸品だった。
頭が、お腹が、それを食べたいと騒ぎ立てる。
だが、すぐに手を伸ばすわけにはいかない。
何かの罠かもしれないから。
少年は警戒を崩さず、じっとそれを見つめる。
しかし結局、空腹には抗えなかった。
やがて、少年はゆっくりと慎重に手を伸ばし始めた。
ゆっくりと、ゆっくりと。
そして、お菓子に触れた瞬間、奪うようにもぎ取った。
少年はすぐさま部屋の隅まで移動し、無我夢中でお菓子を食べ始めた。
その間も、お姉さんをじっと見据える警戒の視線だけは崩さなかった。
「ねぇ坊や、名前は何て言うの?」
無愛想な少年に怒ることなく、お姉さんが優しく問いかける。
少年は答えるかどうか迷った。
少年にとって、他人とは概して自身に害をなす存在だったから。
でも、目の前のお姉さんは他の人と違う気もする。
10秒ほど迷った結果、少年は小さな声で言った。
「‥‥‥一颯」
「一颯君ね。うん、覚えたわ。
それで、一颯君はどうして大人に追われていたの?
学校には行かないの?」
度重なる質問に、少年は警戒の色を強めながらも、
ぽつりぽつりと話し始める。
自分はこの国の人間ではないから、学校へ行けないこと。
少年の母親は白色系のメルア人だったが、父親は東陽人だ。
本来なら国籍を貰えるはずだったが、父親は少年を認知しなかった。
故に、学校教育などの権利を持たない劣等非民として生きてきた。
少年の母親も、少年が魔術に対する適正を持っていないことを知ると、途端に少年への興味を無くし、育児を放棄した。
大東陽帝国において、魔術を扱えない、ましてや他人種の血が混じった人間など何の価値もないからだ。
少年は生きるために、そして、病気で働けなくなった母親に自身の価値を示すために、自身と母親の2人分の食料を盗むようになった。
生きるか死ぬかの極限状態で培った窃盗術によって、
これまで何度も食料を手に入れてきたが、
今日は運悪く、盗みに入ったお店の店員たちに見つかってしまい、
逃げきれはしたものの、食料は手に入らなかったし、腹に蹴りを入れられた。
少年の拙い言葉では、「自分は人間ではないから学校に行けないこと」、「食べ物がないから盗みを働いており、そのせいで大人たちに追われていたこと」を伝えるので精一杯だったが、少年が話している間、彼女は一言も口を挟むことなく少年の言葉に耳を傾けていた。
その表情は優しさに満ちていたが、どこか考え込むような静けさもあった。
「そっか……一颯君も大変なんだね」
話が終わると、しばらく沈黙が続いた。
お姉さんも、どうしようかと考えてあぐねているようだった。
だが、その沈黙を破るように、お姉さんは小さく頷いて言った。
「よし、じゃあお姉ちゃんと一緒に謝りに行こう」
「え、なに?」
「生きるためには仕方のないことだったけど、
それでも人の物を盗るのは良くないことだから。
お姉ちゃんと一緒に謝りに行くの」
彼女の言葉は真っ直ぐだった。
「でも‥‥‥会いに行ったらまた殴られるよ。
痛いのは嫌だよ」
「その時は、お姉ちゃんが守ってあげる。
こう見えて、わたし強いんだから」
お姉さんは自信満々に、細い腕を折り曲げて筋肉をアピールする。
まったく鍛えられていない、普通の女子中学生の腕だった。
「ほら、手を繋いで。
これなら安心できるでしょ?」
お姉さんは動揺している少年の手を勝手に握り、ずんずんと歩き出した。
少年は戸惑いつつも、その手を振り払うことができなかった。
盗みを働くことに罪悪感を感じていたというのもあるが、
それ以上に、彼女の手が、表情が、すべてが温かかったから。
「あれ、入る時は大丈夫だったんだけど‥‥‥。
どうしよう、お姉ちゃん、出られなくなっちゃった」
廃工場の出入りに使っている抜け穴にお姉さんのお尻がはまってしまい、数十分ほど悪戦苦闘することになったものの、2人は無事に商店街へと向かった。
「今までお店のものを盗んじゃってごめんなさい」
少年は小さな声でそう言い、頭を深く下げた。
2人を取り囲む店員たちは、謝罪ごときで許せるかと口々に罵ったが、
お姉さんが財布を取り出し、お金を差し出すことで事なきを得た。
貨幣経済を知らない少年には、それがどれほどの大金なのか知る由もない。
「今日はお姉ちゃんがなんでも買ってあげるから。
好きなもの全部、カゴにいれてきていいよ」
なぜこんなにも自分に良くしてくれるのか。このお姉さんは一体何者なのか。
少年は何も知らなかった。
それでも、自身を助けてくれた彼女に対して、
少年の心中には少なからず特別な感情が芽生え始めていた。
ご馳走がたくさん入ったレジ袋を2人で橋渡しするように持ちながら、夕暮れ時の歩道を並んで歩く。
「一颯君はこの中でどれが1番好きなの?」
「うーん、これとか?」
「松前漬け‥‥‥意外と渋いのが好きなのね」
「でも、お姉ちゃんがくれたお菓子の方が美味しかったな」
「そうなの?
それなら、もっと持ってくれば良かったね。
お姉ちゃん、今、絶賛ダイエット中だから。
痩せるためにお菓子を制限してるの」
「え、そんなの必要ないよ。
お姉ちゃん、僕が会ってきた人の中で1番きれいだもん」
「うぅ、純粋無垢なストレート褒め言葉に心が癒される。
一颯君こそ、育ち盛りなんだからもっと食べた方がいいよ。
ほら、袋はお姉ちゃんが持っててあげるから。
歩きながら食べていいよ」
「ううん、お母さんが待ってるから。
お家に帰るまでガマンする」
「そう、母親思いなのね。
一颯君のお母さんはどんな人なの?」
お姉さんが何気なく聞いたその一言で、
ピタリと、少年の歩みが硬直するように止まった。
「一颯君?」
少年は自身の母親について話そうとしたが、
どう説明すれば良いのかまったく分からなかった。
人の寄りつかない林の奥にある寂れた小屋の中で、
切れかけの電球に照らされながら、
姿鏡に向かってぶつぶつと何かを囁く、
病的なまでにやつれた、
春を売り尽くせし異国の売春婦。
昔は道行く人々の視線を奪っていた滑らかな白髪も、青く冴え渡った瞳も、白く透き通った肌も、全身を蝕む病魔によって今は見る影もない。
美しさを失ってしまった女は、愛した男がくれた和風の着物を身に纏いながら、あの日のように男が再び現れるのをずっと待ち続けている。
そして、男と自分を繋ぐ役目を担うはずだった少年に対して、現実に対するやるせなさ、鬱憤のすべてをぶつけていた。
「お前に魔術の適性があれば、あの人はいなくならなかった」と。
そんな母親をどう言い表せばいいのか。
10歳にも満たない少年には荷が重すぎた。
どう答えたら良いのか戸惑っていると、
不意に後ろから、楽しそうにはしゃぐ子供の声が聞こえてきた。
振り返ると、70メートルほど離れたところにある踏切で、
小さな男の子がワクワクした様子で背伸びをしながら、
母親らしき人物と電車が来るのを待っている姿が見えた。
母と子が楽しそうに話す光景を見せつけられた少年は、
ついに、お姉さんの問いに答えるのを完全に諦めてしまった。
世間一般の母親像と、自身の母親があまりにもかけ離れているから。
前提からして違うのだ。
少年は、あの人を母親と呼んで良いのかさえ分からなかった。
「一颯君、ちょっと後ろ向いてもらえるかな?」
羨ましそうに親子を見つめていると、
間に割って入るように、お姉さんが少年の視界に身を乗り出した。
「え、う、うん、わかった」
少年は言われるがままに後ろを向いた。
「髪、触るね」
髪にそっと触れる感覚が走る。
お姉さんは器用な手つきで、
自分の髪からほどいたヘアゴムを少年の髪に結んだ。
「もういいよ」
柔らかな声に促され振り返ると、
お姉さんの髪は解かれ、風に揺れていた。
「わたし、もう帰らないといけないんだ。
だからその前に、私のヘアゴムをあげる。
一颯君の髪、長くて綺麗だから、きっと似合うと思うわ」
少年は自分の髪に触れ、しっかりと結ばれているゴムの感触を確かめた。
胸がじんと熱くなる。
「帰ってほしくない……もっと一緒にいたいよ」
少年は震えた声で本心を絞り出した。
「ごめんね、もうすぐ時間になっちゃうから」
お姉さんは少し寂しげに笑った。
「一颯君にも、帰るべき場所があるでしょ?
大丈夫、親子の絆はとっても強いの。
一颯君のお母さんも、きっと一颯君を愛しているわ」
そう言うと、お姉さんは少年の頬にそっと手を添え、目を閉じた。
彼女の吐息とともに、ふわりと甘い香りが漂う。
その香りは心にじんわりと染み込み、
どこか懐かしくも安らかな感覚を呼び起こした。
次の瞬間、お姉さんは静かに、
自身の唇を少年の唇に重ねた。
彼女の柔らかい唇が、少年の思考のすべてを塗りつぶす。
少年にとって、それはまるで夢の中の出来事のようだった。
現実味が薄れ、時間さえ止まってしまったかのような不思議な感覚に包まれる。
初めてのそれは、母性的で、
反面、ひどく官能的で、ほんのちょっぴり、
ーーー血の味がした。
第1話を読んでいただきありがとうございました!
ラストの意味するもの。
それは『マーキング』です。
「わたしはあなたを呪います」
という、お姉さんからのサインです。
作者は、ダークでホラーなファンタジーが大好きです。
共感してくれる方は、何卒、ブクマと★評価をよろしくお願いします!