一発ヤらせてシアター
今日は始めて彼女が家に来る。俺は今日のために部屋を掃除し、ちょっと高級な寿司をとり、ビールを用意し、ムダ毛を処理し、シャンプーとボディーソープをいい匂いのものに変え、シーツと枕カバーを洗い、ゴムを買い足し、一週間のオナ禁をした。彼女が来るまであと三十分。俺はスマホを片手にソワソワと部屋を行ったり来たりしていた。
ピーンポーン、という音が聞こえた時には思わずビクッと肩が震えた。俺は急いで玄関に向かい、ドアを開けた。
「いらっしゃい。どうぞ、入って」
俺はそこに立っていた彼女に自分の緊張がバレないように平静を装いながら言った。彼女は、お邪魔します、と小さい声で言ってから玄関のドアを潜った。彼女は脱いだ靴をしっかりと揃えてから家に上がり、俺が差し出したスリッパに足を通した。デートの時はフリルのついた服をよく着ている彼女だったが、今日はセーターにジーパンというラフな格好をしていて、それが余計に俺をドギマギさせた。
「お腹空いてる? 一応お寿司あるんだけど、もう食べる?」
俺は彼女が荷物を置いて、ソファに座り、俺が出したお茶を飲み干したタイミングでそう聞いた。
「いや、お腹空いてない」
俺は彼女が食べたいと言うと思っていたので、その返答に驚き、一瞬言葉に詰まってしまった。
「じゃあ、ビール飲む?」
俺は自分が動揺していることを隠すように、なるべく明るい声を出した。飲む、と彼女が小さい声で言ったことに、少しホッとしながら、俺は冷蔵庫で冷やしてあったビールと氷を入れたコップ、それからつまみにミックスナッツとじゃがりこをテーブルに持っていった。俺は彼女が座るソファに、彼女と少し距離を空けて座った。
別にお腹が空いていないと言っただけで、寿司を食べないとは言っていない。また、時間が経ったら食べたいと言ってくるかもしれないし、そんなに気にすることじゃない。俺は自分にそう言い聞かせながら、ビールを飲んだ。酔わないようにゆっくり飲もうと思っていたのに、動揺や緊張も手伝ってか、気づけばいつもよりかなり早いペースで飲んでいた。今日は彼女が異様に静かだ。俺が何か話しかけても生返事を返すだけだった。それが俺の動揺を加速させ、またビールを飲むペースが早まっていく。
ビールが四本空になった時だった(俺が三本、彼女が一本飲んでいた)。彼女が俺の方をじっと見つめていることに気づいた。
「どしたの?」
その時の俺はもう結構酔っていて、うまく呂律が回っていなかったと思う。自分の声が、なんだか遠くに聞こえた。
「大事な話があるの」
彼女が真剣な表情で俺の目を真っ直ぐに見ながらそう言った。俺は何だかひどく胸騒ぎがした。今からとんでもないことが起こるんじゃないか、と酔った頭で考えた。俺が何も言えないでいると、彼女が俺の目を真っ直ぐに見て言った。
「別れて欲しい」
俺は頭が真っ白になった。彼女が言った言葉を全く理解できなかった。ワカレテホシイ、という言葉が、記号としてしか頭に入ってこない。外国の言葉を聞いているみたいだった。
「なんで」
その言葉は無意識に俺の口から出ていた。自分の脳が言葉を発するように命令したとは思えなかった。俺の発した言葉が別の人が言った言葉みたいに俺の耳に入ってくる。彼女が何かを言おうとしている。俺は耳を塞ぎたかったが、それよりも早く彼女が言葉を放った。
「好きな人ができたの。ごめん。私もうあなたとは付き合えない。あなたは優しい人だったけど、私の好きな人じゃなかった。私はあなたを利用してただけだったの。自分でも最低だってわかってる。でも、ごめんなさい。私と別れて欲しい」
ごめんなさい、と繰り返して、彼女はソファから立ち上がり、荷物を持って部屋を出て行こうとした。
「ちょっと待てよ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。俺は立ち上がり、彼女の手を掴もうとしたが、脛をテーブルにぶつけ、その場にしゃがみ込んだ。テーブルの上の空になった缶ビールが、カシャン、と音を立てて倒れた。彼女は部屋のドアに手をかけながら、心配そうにこっちを見ていた。そんな顔で見るなよ、その時俺の中の何かが弾け飛んだ。
「……この前のデートでご飯奢ってあげた。映画のチケット代も俺が出したし、ポップコーンだって俺が買った。君が好きだっていう本は全部読んだし、君の好きなアーティストのCDも買った。今日の為に高い寿司を取って、ビールも買った。部屋も綺麗にした。君に会うときは身だしなみにも気をつけた。君に不満を言ったことは一度もないし、君からの不満は俺なりに解消してきた。君のために、俺は君のために……」
気づけば俺は狂ったように捲し立てていた。自分で自分が何を言っているのか理解できない。しかし、彼女の目が冷めきっているのを見て、自分が取り返しのつかないことをしたことだけはわかった。脛が今更のようにじんじんと痛む。脛の痛みを感じながらも俺が立ち上がると、彼女は肩がビクッと震わせて、怯えたような表情をした。その時俺は、彼女を引き止める手段を失ったことを知った。
俺がこんなことを言ってしまったのは多分酔いが回っていたからだ。俺は彼女から目を逸らすことなく言い放った。
「最後に一発ヤらせてよ」