おぉ、ハンバーガー……
あの大手チェーンのハンバーガー屋の気が狂った。
地域ごとに、商品の価格を変えることにしたのだ。都市部、空港など土地の賃料が高いゆえに生まれた差だとは思うが、狂ったというのはそれが理由ではない。
この町の店だけ、ハンバーガー一個の価格が、なんと驚異の一万円にまで跳ね上がったのだ。
学校帰り、俺は親友の大下と一緒に様子を見に、と、あれは……
「お、おい! 小坂! お前、なにしてんだ!」
「そうだぞ、正気か? 今、お前、中に入ろうとしたんだぞ」
ふらふらと弱った蚊のような動きで店のドアに向かっていた小坂を見つけた俺と大下は慌てて小坂を引き留めた。
小坂は「あ、あ、あ、あ」と両手を前に出し、震わせた。
「お、おれ、ただ、気になって、でも、見てたら、きゅ、急に食べたくなってぇ……」
俺は小坂の顔をこっちに向かせた。が、小坂の見開いた目はドアに向いている。鼻息が荒く、とても正気には見えなかった。
「よく考えろ! ハンバーガー一個が一万円だぞ! スマイルだけでも金取られるかもしれないんだぞ!」
「そうだ。つまり入店料だな。あの自動ドアは行きは開くが、帰りは開かないかもしれねぇ……」
やはり一万円という価格設定は強気どころか正気じゃない。我々、高校生には到底手が出せるものではないと小坂は気づいたようで「ひ、ひぃぃぃ!」と怯えた。
これなら大丈夫だと、俺は大下と顔を見合わせ胸をなでおろした。
「たくっ……あ、大下、見てみろよ」
「おいおい、窓から中を覗くのだって金取られるかもしれねえぞ」
「いや、さすがに向こうも獲物がテリトリーに入ってくるまでは何もできないだろ。それよりほら、ポテトにドリンク、やっぱりどれも一万円以上だ」
「ひゅー、恐ろしい。どうなってんだこりゃ。よそは通常価格だっていうのに……うっ!」
「どうした大下!」
「いや、セットメニューの余りの高額さに、ははは、目眩がしちまった。ハッピーとは程遠いな……」
「ああ。しかし、店員のあの女、不気味だな。ずっと正面向いたまま笑顔を作ってやがるよ」
「客がいないからそうするしかないんだろう。正気じゃない。なにせ自分の時給の数倍のハンバーガーを売ろうってんだから、まともじゃいられないだろう」
「時給に反映されないのかな。まあ、どの道、誰も来やしないから、このまま潰れ、おい! だから小坂! 行こうとするな!」
「は、はなしてくれぇ、食いてぇんだよ俺はぁハンバーガーをよぉ……」
少し目を離した隙に、また小坂は元に、いやさっきよりもひどい状態になっていた。目は虚ろ。涎を流し、鼻をひくつかせている。と、もしや、この匂いが原因かもしれないと俺は思った。
「他の店で買えばいいだろ! それにスーパーでも安いのが売ってるぞ!」
「あの味ぃ、あの味がいいんだぁ」
「駄目だこいつ。完全にキマッてやがるよ。JJ。ジャンクフードジャンキーだ。ほら、肩貸すから立てよ。隣町にもあるだろ。一緒に行ってやるよ」
俺はそう言い、座り込んだ小坂に手を差し伸べた。だが、小坂は首振り人形のように首を動かした。
「むむむ、むりだぁ。お、おれ、調べたから知ってるんだぁ。この県から彼らは撤退したんだぁ。こ、こ、この一軒だけを残してぇ」
「マジかよ。徹底してやがるな……あ、おい! 大下! おまえ、どこへ行く気だよ!」
思えば、奴は店の中を覗きこむのに夢中で喋っていなかったから胸騒ぎはしていたんだ。そして、それは的中した。大下は店の自動ドアに近づいていた。
「……聞いただろ。ここにしかないんだってよ。はは、見てくれよ。この手の震え。ガキの頃から食ってきたからなぁ……俺もMに魅せられた調教済みのマゾヒストだったというわけさ」
「しゃ、しゃんにん! さ、さんにんでお金を出し合えば、い、いっこ約、三千三百円で食える! あの味! くえる! おれ! くう!」
「お前、それ消費税入れてないだろ! いや、どの道、俺は嫌だぞ! 高すぎる!」
「だがなぁ、考えてもみろよ。一個一万円だぜ? こいつはぁ、その辺の女よりもいい味するってことだろうよ。まさにプロの味」
「お前、クソ童貞だろうが! それにあの写真見る限り、絶対普通だって! むしろ写真より悪い、パネル詐欺ってやつだよ!」
と、言ったが確かに、一理はある。一万円のハンバーガーはそれ相応の味がするのではと俺の頭によぎった。
が、ブランド物がブランド物である所以はその値段にある。良いから高いのだ。高いから良いのだ。そう自分たちで暗示をかけているのだ。時計は時計。鞄は鞄。いい革を使っただの、デザインがいいだの言い分はわかるが限度、適正価格というものがあると俺は思う。
こと、ハンバーガーに関してはものの数十秒で食べ終わる消耗品だ。一万円など出せるわけがない。
しかし、金というのはその数字だけで人を狂わせるのだろうか。俺が二人の腕を掴み引き留めているのか、それとも二人が俺の腕を掴み引き寄せようとしているのか端から見たらわからないだろうが、俺自身もよくわからなくなっていた。
メビウスの輪。どちらが表か裏か。円を作った俺たちは、それによって、ぐるぐるとできた力の流れに半ばコントロールを失い、雨が作り出した水の流れに浮かぶ木の葉が排水溝に向かう他ないよう、引き寄せられるように自動ドアをくぐった。
「イラッシャイマッセー! 店内でお召し上がりですかぁ!? お持ち帰りですかぁ!?」
まだカウンターと距離があるというのに、二択を迫る女。強い。
閉ざされた自動ドア。遠くのほうから聞こえた車のクラクションの音が断ち消え、俺はまるで外界と隔絶された気持ちになった。
ここは異界なのか。狂気のピエロとその仲間たちが踊る悪霊の住処なのか。俺たちもその一味にされ、そして存在を消されるのでは。
「なぁ、いい加減手をはなせよ。店員さんの前だぞ?」
と、まともなことを言ったような大下であったが、奴の口からは涎が垂れ落ち蛍光灯、淡く反射するタイル調の床にウイルスのような外側が棘状の小さな丸を作った。そしてそれは、時間とともに数を増した。つまり、大下と小坂が盛りのついた犬のように舌を伸ばし、腰を振りつつカウンターに向かって前進したのである。
「お、落ち着けよ! そ、そもそもお前ら、先週も食ってなかったか!?」
「あ、あ、あ、ああ。値上げの噂を聞いてぇ食いだめしたぁ」
「まさか、一万円とは思わなかったがなぁ、でもぉ、関係なぁい」
食いだめ。その言葉に俺は背筋がゾクッとした。
直感。悪魔の旋律。まさかそれが原因では? と俺は思ったのだ。値上げ直前の期間のみ、中毒性のある物質をハンバーガーを、いや、店の全商品に混ぜそして、この局面を作り出そうとしたのでは?
いや、馬鹿な。他所はどうなんだ? この町だけ? 実験的に? それともこれから始まろうとしているのか?
テレビのニュースで見た、値上げ前にわざわざ並び、あの行列を作っていた連中は臓器売買のために肥え太らされる協会の孤児とでもいうのか。
搾取搾取搾取。強者生存。これは順調に見えてその実、経営難に喘ぐ企業が活路を見出した第三の道とでもいうのか。
いや、これは圧政強いる狂王の死の晩餐会だ。食卓についたら最後、共に盛られた毒により絶命するほかないのだ。
「お前もぉ、食えよぉ。本当は欲しいんだろぉ?」
「そうだよぉ、このムッツリがぁ。勃起してんだろぉ? まーるくて光沢のあるあのハンバーガーを想像してさぁ」
「品のある焼き目」
「ふんわりしすぎない、あの雑に扱っていい感じ」
「ビィィィーフパティィィィ!」
「オニオン選手入場! 歯ごたえあり!」
「ケチャップ! マスタード! 主張しすぎない縁の下の力持ち!」
「こんなとこでしか会わない。だから好き。ピクルス」
「……なあ、素直になれよ。子供のころから寄り添ってくれたあの味。思い出せ、おもちゃ付きのあのハッピーなセットを買ってもらったあの日をさ」
「ほら、食おうよ……一緒に飛ぼう。脳汁出そう?」
二人は俺の手を振り解き、そしてそっと手を差し出した。二人、そっと手のひらと手のひらを重ねるように、でも少し間を開けて。そこに俺の手を迎え入れるためだろう。その形。まるでハンバーガー。
俺たちと、また味わう度に蘇る思い出を一緒に作ろうって言っているのだ。
だが……俺は……俺は……。
「俺……親に連れてきてもらったことがないんだ。だから、思い出も何もない。そもそも外食も行ったことないし、お昼ご飯もいつも自分で作ってる。たまに、食える草とか自分で釣った魚を調理してさ。
気づかなかったよな? いつも、さり気なく、隠すように食ってたからさ。
ああ、でもいいおかずは目立つよう上の方に、それに最後まで手を付けなかったんだぜ。見て貰っても大丈夫なようにさ。なんなら……褒めてほしくてぇ……。
まあ、お前らは昼飯とか……別に……どうでもいいんだよな……コンビニでも……外食でも……お昼代、もらってるからぁ……その範囲ならぁ……なんでも……」
俺は泣いた。鳴いた。声を出して泣いた。
女店員が紙コップに入った水をくれた。これはタダらしい。本当は注文した人しか駄目だけど特別だという。
それは知っている。俺は小学生の時の夏の暑い日。目眩を起こし、このチェーン店に足を踏み入れた。
そして、「水をください」と頼んだ。クラスメイトがタダで水は飲める、裏技だとか言っているのを耳にし、覚えていたからだ。
でも断られた。男の、多分店長に。何も買ってないからって。くたばれ。
俺は喉を鳴らして飲んだ。あの夏の日が脳裏に蘇る。幻の味。でも懐かしの味。これが俺のジャンクフード。
二人に両脇を抱えられる形で俺たちは店を後にした。
思い出はこれから食って作ればいい。牛丼でも何でも。
大下はそう言い、夕日を眩しがり、細めた目の縁がキラリと輝いた。俺は鼻水啜って、うんと答えた。
牛丼は三万円になっていた。
遠くで轟く津波のように、インフレの波が迫っているのだと俺は感じた。