1.ナンパ?
1.
虫の羽音ではなかった。
頭上で空気を何かが震わしている。低い呻りが断続的に聞こえた。
意識が水面下から浮上するように戻ってくる。
金本樹里は手を伸ばして、それに触れた。携帯電話だった。
身をよじるように体を震わしている携帯のボタンを押し、目覚ましを止めた。
頭がぼんやりしている。つい今まで夢をみていた。
しかしその夢も目覚めると同時に、儚く霧散するように消えていく。
朧気なものながらも微かに覚えているその夢のかけらを反芻してみる。
要領を得ない内容だ。
今までにもたくさん夢を見てきた。
見たくないようなものから、楽しいもの、そしてよく分からないもの。
ほとんどが取るに足りないようなものだった。
たまにどうしてこんな夢を見たんだろう、と訝しむような夢も中にはあったが、後で考えると、疲れていたりストレスを感じていたんだろう、と結論づけることが出来た。
しかし、ここ最近の夢は明らかに普段見るような夢ではないと感じていた。
初めは、なんてこともないような夢だと思っていた。だけど憶えている夢を漠然と考えているうちに、ある一致に気づいたのだ。
どの夢も断片的なもので、時間軸はバラバラだったが、主要な登場人物は見事に一緒だった。それだけなら深くは考えなかったかもしれない。
だが、そこにはちゃんと世界があり、人生があり、物語があった。
色があり、匂いがあり、痛みがあった。その夢の中で樹里はまったく別の人間として生きていた。
それは樹里が、今こうして起きている自分が本当なのか、夢の中の人物が本当なのかわからなくなるほどリアルなものだった。
頭がおかしくなった。初めはそう思った。よく思春期にある妄想が、夢の世界にまで現れたのか、現実から逃げるために、夢の中に安住の場所をつくりあげたのだろうか、と。
けれど、どう考えてもそうは思えなかった。
夢自体はとても現実的とは思えなかったし、悪夢の類のそれとも違った。
考えても答えは出なかった。
そしてひとつ、最近気づいたことがあった。
今までにないぐらいに体が軽く感じることだ。それは、このおかしな夢を見る頃から始まっている。
それも夢を見るたびに、その感覚は漠然としたものから確かなものに変わっていった。
自分の中で何かが起こっている。まだぼんやりした頭で樹里は思った。ただそれが何なのか自分でもよく分からない。
再び携帯の目覚ましがなった。
一度目のアラームから五分後になるようにセットしてある。以前は二度寝防止の為だったが、今は夢についてあれこれ考えるのを打ち切る為のものになっていた。
そうしなければいつまでも答えのでない問題を解いているように、頭の中をかき回すことになる。
樹里は頭から夢の事を振り払い、目覚ましを止め、体を起こした。
よく分からない夢を見たときは外に出るようにしている。気分転換にもなるし、家に閉じこもっていても考えることといえば、夢のことだけだからだ。
どの通りも今日が休日ということもあって人が多かった。
人のあいだを縫うようにして歩き、ウインドウショッピングを楽しむ。
ひとりで時間を過ごすのは樹里にとって苦にならなかった。
ショッピングやカフェ、それに図書館など、むしろひとりのほうが楽でいいとさえ思った。誰かと一緒じゃないと行動をしないという学友がいるが、樹里には信じられなかった。
どうしてそこまでして人と行動しなければならないのか。樹里にはいまいちよく分からなかった。
ある洋服店から何も買わずに出たとき、男が声をかけてきた。線が細い見たことのない男だった。
「ねえ。ちょっといいかな?」
その男は言った。
すぐさまナンパかアンケートに答えてほしいといった勧誘の類だろう、と樹里は思い、無視を決めた。
しかしその男は、しつこく声をかけてきた。
「忙しいんで」
樹里はうんざりした。素っ気なく答え早足で駈け抜けた。すると男は意味が分からない事を言った。
「君は、ヴイだろ?」
男の言葉に思わず樹里は立ち止まり、振り返えっていた。それをみて男は少し笑った。
「なんとなく面影があるね。いや、もちろんそんなはずないんけど……」
男は言い訳するように手を胸の前で振った。手の指にはシルバーリングがはまっている。
「あ、ごめん。ナンパじゃないよ、これ」
再び立ち去ろうとすると、男は素早く回り込んで樹里の前に立ちはだかった。
そして確かめるように言葉を続けた。
「ヴイと呼ばれていた記憶は無い?」
樹里は黙って男をみた。
男はこっちの反応を待っていた。まるで信号の色が赤から青に変わるのを待っているように、じっと樹里を見つめている。
頭が混乱した。
男に見つめられたからではない。男が言った言葉が上手く理解できなかったからだ。
ヴイと呼ばれていた記憶は無いか、と男はいったのだ。
普通、こういう場面に出くわした場合、すぐにでも立ち去るべきなのだろう。おかしな人間はどこにでもいるし、言葉をまともに受ける必要はない。
しかし、樹里はそうはしなかった。その言葉に引っかかるものがあった。
今朝見た夢を思いだしていた。
男がいったヴイとは、あのVの事だろうか、と樹里は考えた。
樹里は夢の中でVと呼ばれる存在だった。ならば、どうやって夢の中で呼ばれている暗号名をこの男は知ったのだろう。
不思議な夢の事は誰にも話したことはなかった。別に隠してたわけではなかったが、誰かに話そうとも思わなかった。もちろん、ブログやSNSのようなネット上に書き込んだこともない。
夢の中から出てきた人物が目の前にいる。一瞬、そういう錯覚に陥った。しかし、すぐに否定した。
あり得ない。そんなことが現実に起こるはずは無いのだ。
ため息をついた。
男は樹里のそんな顔を見て、確信したように頷いた。
「やっぱり、そうか。僕はエスと呼ばれていたんだ」
男の言葉を聞き、頭の一部が熱を持ち始めた。
何がどうなっているのだ?
夢の中でSと呼ばれている仲間はいた。でも顔は全く違う。
それもそのはずで、夢の中のSは女性だった。しかし今、目の前に立っているのは、色白の線の細い男だ。
訳が分からなかった。
この男も私と同じような夢をみているのだろうか。
お互いが同じ夢を共有していてるのだろうか。ちょうどネット上のオンラインゲームのように。
考えてみたが、あまりいい気分ではなかった。
なぜ、よく分からない人間と夢を共有しあわなければならないのだ。
そんなことはありえない。