お名前聞いてなかったわ
昔、奉公先のお屋敷にいた貴族の子息にも同じようなことをしてしまったことを思い出した。
その子息は実家から投資金として託された大金を内緒でギャンブルに使い込んでしまったのだ。
カルセオラリアがそのことを知ったのは本当に偶然だったのだが、彼は使い込んだことが実家にバレぬよう事情を知った者に口止めをした。
賊に奪われたことにしよう、と。
住み込みで奉公していたカルセオラリアも同様に口止めをさせられたのだが、まだ世渡りというものを何も分かっていなかったカルセオラリアは馬鹿正直に口出ししてしまったのだ。
正直に謝罪したほうがいいのではないですか、と。
(結局ご子息は『女の貴様に何が分かる』と激高して、わたしが賊を手引きした、あるいは賊の侵入を許した不届き者として全ての責任を擦り付けた。奉公先から解雇されただけならよかったのだけど、悪評を吹聴して次の奉公先を見つからないようにさせられたのは大変だったわねぇ)
貴族間の情報網というのは独立していて異質なところがある。
同じ貴族というものでも爵位が基準とされていており、男爵家でしかも貧乏ときたらカルセオラリアの言い分が信用してもらえるわけがない。
そうやってカルセオラリアはあっという間に奉公先を失い、次の働き口まで潰されてしまったのだった。
幸い、貴族としての働き方に拘らなければこうやって平民のように働くことができている。
平民は貴族独自のネットワークに組み込まれてはいないし、どこかで噂を聞いたとしてもその時には自分の目で見たことを信じてくれる人が多かった。
カルセオラリアが働かせてもらっているところは全てそうだった。
(貴族としてでしか働きたくないというわけではないし、噂を広められていても社交界はお金が無くて行けていないからいいわ。……彼に対して思うところがないというわけでもないけれど、もっと上手な方法があったということは自分で認めているのよねぇ。だからあれは高い授業料だと思って割り切ってしまった)
本当は無実の証拠を集めて証明してやり返すとか、そういう復讐の仕方もあるのだろう。
だが、カルセオラリアはそんなことをしている暇があったら仕事して少しでも早く母親の病気を治してあげたい、弟たちに美味しいものを食べさせてあげたい、そう思ってしまうのだ。
実際はその日の生活費や借金の利子を返すので精一杯なのだけど。
「お前はーーーーているだけか?」
「はぁ。お金がないって辛いことねぇ……ってあら? ごめんなさい、なにか言いましたか?」
「……お前は呑気に犬の散歩をしているだけか?」
あまりにも酷い言い様に、一瞬言葉を失った。
呑気に……そうか、これは呑気に犬の散歩をしているように思われたのか。
いや実際にのんびりと犬の散歩はしているのだけど、そもそもこの犬はカルセオラリアの犬ではない。
まずはそこから訂正すべきだろう。
「この子はわたしが飼っているお犬さんではありませんの」
「何?」
「お勤め先で追加のお仕事としてお散歩を引き受けただけです。呑気にのんびりお散歩するのがわたしのお仕事ということなので、そう見えたようでなによりですわ」
そう言いきってしまえば彼はなんとも渋い顔をした。
少し言い方がキツかっただろうか、でもそれは相手もなのでおあいこ様だ。
「そうか、それは悪かった。まさかこれがお前の仕事だったとは。平民の仕事にはまだ知らないものがあるのか」
意外とすんなり謝罪の言葉をくれたので驚いた。
もっと頑なな人かと思っていたのだが。
(それにしてもわたしのことを平民と思ってるのね。あら、でも生活ぶりは平民と変わらないしどっちも同じだったわ)
一応爵位を持つ家ではあるので貴族なのだが、生活水準は平民の中より下くらいなので胸を張って貴族ですとは言いにくい。
「あら、ここで一周できましたね。お付き合いいただきありがとうございました。わたしはこの子を飼い主さんの元へ連れていきますので」
「本当に歩くだけだったな。まぁいい」
と彼はブツブツ言っているが、傍目から見ても肩の力がだいぶ抜けたように見える。
少しでも気晴らしになったみたいでよかった。
(じゃないとただ散歩に付き合わせただけになってしまうものね)
「それでは騎士様、わたしはこれで」
簡易的な礼をした後、散歩に満足した犬を連れてカルセオラリアは公園から出て行く。
男性は軽く頷いただけで何も言わなかった。
お預かりしていた犬を飼い主に返し、カルセオラリアは次の仕事先である商家へと向かう。
そこでいつも通りの仕事を終えた後、家へ帰って弟たちの面倒を見て母親の看病をして炊事洗濯家事全般をこなし、まだ幼い弟妹たちとお風呂に入り寝かしつけてようやく自分の部屋へと帰ってくる。
管理する使用人はいないだけで部屋数は十分すぎるほどあるため、一人一部屋は優に使える。
まぁ、幼い弟妹たちは寂しいからか何人かでまとまって部屋を使っているけど。
「んー、今日もよく働いたわぁ。良き労働良き睡眠、ね」
自らのベッドへとダイブし、疲れ切った体を貴婦人としてはだらしなく伸ばすが、誰も見ていないのでいいだろう。
そのまま眠りに落ちてしまいそうなほど疲れていたが、その前に一つだけ思ったことがあった。
「あの騎士様、眉間のしわはとれたかしら」
眉間のしわをこれでもかと言わんばかりに深くしていた池のほとりにいた男性。
犬の散歩で良い気分転換になって明日から気分良く働いてくれたら嬉しい。
彼が晴れやかな顔で働く姿はとてもとても想像できないが、多少はスッキリした顔になっていてくれたらと思う。
騎士というものはとても大変な、命を扱う仕事でもあるから。
「あら、そういえばお名前を聞いてなかったわ」
でもまあ大丈夫だろう。
きっと彼はもうあの公園に姿を現すことはないだろうし。




