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天の声を聴く

作者: 原田 環

 私の姑になったやえさんは神通力のような言葉を持っていた。誰もその言葉に逆らえない。

 やえさんは夫に従順な良妻賢母であった。が、本当に従順であったかどうかは疑わしかった。従順に見えて夫を意のままに操っていると思う節が多々あった。それが神通力のような、私が天の声という言葉である。

 やえさんは自分の気に召さないことには賛成しない。しかし自分が気に入らないからとは口が裂けても言わない。「お父さんがね、嫌がるのよ」この一言で息子たちは黙ってしまう。

 いわば水戸黄門の印籠のようなものだ。この言葉が発せられると息子も娘も”へ、へー"とばかりにひれ伏してしまうのだ。なんでそんな馬鹿な、もっと自分の意見を言いなさいよと思うのはまだ原田家一員になっていないということかもしれない。いざ自分がその言葉を聞かされたとき忌々しくも「恐れ入り奉りました」になってしまった私がいた。で、これはもう天の言葉に他ならないと思ってしまったのだ。

 当時の私にはまだ反骨精神があったので「いつか」この声に雄々しく逆らって”ノー”といえる自分になることが目標の一つになった。しかしその誓いは果たされることがなかった。誓いがが果たされる前にやえさん自身が誰にも理解しがたいやえさんだけの不思議の世界に入ってしまったからだ。


「今の皇后様がまだ皇太子妃だった頃ね」(平成天皇の時代でした)このフレーズをもう何十回聴かされたことだろう。私はすっかり暗記できているのにやえさんはさも新しい話題のように毎日繰り返し話しかけてくる。ある日さすがに面倒になった私が「横浜の福祉大会に出たとき一番前に座って美智子様を目の前で見たのでしょう」というとやえさんは目を丸くして

「あらたまきさん、あのとき一緒にいたのかしら」と言う。「もう耳にたこのイヤリングできて床に届くほどですよ」といいたい言葉をぐっとこらえてイヤーと曖昧な返事をしてしまう。

 思い返してみるとこの頃からやえさんは不思議な世界に足を踏み入れていたのだろう。

 やえさん、七十二歳だった。


 やえさんはことのほか電話が好きでかかってくると待ってましたとばかりにワンコールで出る。

 やえさんの声はとても若い。若い声でハキハキと答えるからよく私と間違われる。間違えられたやえさんは結構嬉しそうで「あらあ、いいんですよそんなこと」とか言って明るく笑うものだから誰もやえさんのことを疑わない。

 しかし、恐るべきやえさんは隣に私がすわっていても「あら、ごめんなさいね。たった今出掛けたばかりなんですよ」なんてことは朝飯前の芸当だ。

 伝言を頼まれると「はい、必ず伝えます」と答えるらしいが伝わったためしがない。

 あるとき、夫が私に用事があって電話をしてきた。もちろん、やえさんは速攻で出る。

しかし、内線電話に切り替えることが出来ず散々待たせた挙げ句、電話がかかってきたこと自体を忘れてプツンと切ってしまう。夫は仕方なくもう一度かけ直す。するとまたしてもワンコールでやえさんが出る。思いあまった夫は言ったそうである。「もう一度かけるから今度は絶対に出ないでよ」むくれたやえさんは「わかった。もう出ないから」と答える。夫は言い過ぎたかなと反省しながらかけ直す。すると・・・・・・。夫の想像通りにやえさんが出る。

 夫はため息とともに電話を切ってしまった。以来夫はやえさんが出ると何も言わず電話を切るそうだ。その話を聞いた娘が言った。

「でも、その後おばあちゃん、切れた電話を不思議そうにいつまでも眺めているよ。やめてほしいな、そう言うの」


ドラえもんには何でも出てくる不思議なポッケがあるけれどやえさんには何でも吸い込む不思議なポッケがあるような気がする。やえさんの台所から、あらゆる蓋が消えてゆく。

 お鍋の蓋、やかんの蓋、醤油瓶の蓋、重箱の蓋、弁当箱の蓋、あらゆる蓋が消えてゆく。

 もしかしてやえさんの破れたエプロンのポッケの中に蓋怪獣が住み着いているのではと本気で思ったほどだ。こんなに蓋がなくて不自由でないのかしらと思うのだがやえさんには意外な才能があったのだ。

 一升瓶のお酒の栓が里芋だったことがある。里芋にトイレットペパーが巻いてありそれがなんともうまい具合に一升瓶の口にぴったり合っていたのを発見したときはやえさんの隠れた才能に驚いたものだが、あの蓋たちはどこへ消えてしまったのだろう。私の大事なお弁当の蓋も、高価な重箱の蓋もついに出てくることはなかった。


 成人式にはまだ間があるけれど娘の振り袖を作ろうと言うことになり、行きつけの呉服屋さんいくととにした。出掛ける前に迷った挙げ句にやえさんを誘ってみた。やえさんは大喜びでついてきたが、私は心の中でほんのすこし、やえさんを誘ったことを後悔していた。

 短大生になってアルバイトにはまってしまった娘は、着てみたい、でも一刻も早くアルバイトに行ってしまいたいという気持ちが見え見えだった。いい加減な返事をしては店員さんを困らせている。仕方なく私が娘の好みを聞きながら着物選びをしていると、暇なやえさんはおもむろに口を挟んでくる。「ねええ、由美子もここで着物作ったのかしら?」由美子というのは義姉の二女である。今年成人式を済ませたばかりだった。

「そうよ。お義母さんも一緒に来て着物選びしたんでしょ」

「ああ、そうだったわね。それでどんな着物着物だったかしら」

「どう言うって、むずかしいわね、ほらこの間写真を持ってきてくれたでしょ?オレンジ色で大きな花模様の」

「そうだったわね。思い出したわ」よかったよかったと言いながら着物選びを進めているとまたしてもやえさんが口を挟んでくる。

「ねええ、由美子もここで着物作ったのかしら」え?また?と思いながら先ほどと同じことを説明する。やえさんはこれまた、ああ、そうだったわねと納得して黙る。が、五分もすると「ねええ」がはじまる。その度に私は同じ説明を繰り返す。それが正確に五分おきにやってくる。

 五回目。「さっきも言ったでしょ」私のトーンが高くなる。八回目。「だからあ!」一オクターブ高くなって「何度も言ってるでしょう」

 店内がシーンとなった。


 やえさんの台所のガス釜が壊れた。夫がガス炊飯器は危ないというので電気炊飯器を買ってきた。

 当時流行のファジーな炊飯器だった。使い方を説明するのにどうせご飯を炊くのだからとお米をといでからやえさんを呼んだ。が、それは大きな間違いだった。私はまだまだやえさんを理解していなかったのだ。私が説明する前からやえさんのテンションは高かった。台所が少し暗かったので電気をつけるとやえさんはあら!まあ!と訳のわからない感嘆詞。何をそんなに感心するのか聞くのも面倒だったので「お義母さん、朝ご飯は何時に炊き上がってほしい?」と聞いても反応がない。

「いつも五時頃起きて炊いているようだから五時半にセットしておきますね。こうしておけば寝る前にこのボタンを押すだけで明日の朝ご飯が炊き上がっていますからね」

 するとやえさんは一層大声でへえー!という。なんだかよくわからない反応に

「何をそんなに感心しているの?」と聞くと

「イヤー、便利なものだなと思って」と答えた。

「まあね。世の中どんどん便利な物が出てくるから」私はありきたりの返事をしたつもりなのにやえさんの驚きはとどまると言うことがなかった。

「だってねえ、炊飯器がそんなことまでしてくれるなんてね」

「そんなことって?」

「だって、お米まで洗ってくれるんでしょ、すごいわねえこの頃の炊飯器」

「あのね、この頃でも炊飯器はお米を洗ってはくれませんから。そんな物があったら真っ先に私がほしいですよ」

「あら、だってこの炊飯器がそうなんでしょ、ほらちゃんとお米が入っているわよ」

 やえさんの発想にはついていけないと半分感心しながら「これは私が洗って入れました」と答える私にやえさんはさらなる追い打ちをかけてきた。

「でもねえ、やっぱりすごいわ、この炊飯器。電気も付けてくれたじゃないの」


 爽やかな五月のある日曜日。鼻歌交じりに洗濯物を干しているとご近所の森さんから電話があった。

「ちょっと耳に入れたいことがあって」

 森さんの家は道路を隔てた向かい側である。私はやえさんが干しているバスタオルを横目に見ながら庭先から森さん宅に行った。

 森さんは玄関に出てきて私の顔を見るなり

「おばあちゃんがね、家の洗濯物を干しているのよ」と言った。

 私はその意味が理解できず首をかしげて森さんの次の言葉を待った。

「だからね」と森さんは続けた。

 最近、、森さんの家では洗濯物がちょくちょくなくなるのだそうだ。それもバスタオルばかりがなくなるのだとか。気味が悪いから警察に届けようかという話になったとき、やえさんが森さんのバスタオルを干しているのを発見した。森さんは驚いたが、やえさんは悪びれた様子もなくニコニコと森さんに話しかけてくる。森さんの洗濯物を干しながら。ああ。さっきのバスタオルだと私は思った。

「ね、大分進んでいるのじゃなくて?」さすがの私もシュンとなった。

「ごめん、今すぐ洗濯物返しに来るから」というのがやっとだった。

 家に帰りやえさんが干したバスタオルを畳みながら「これは、よその家の洗濯物だから返してきますね」というと突然やえさんが怒り始めた。

「それじゃ何? 私が他人様の物を盗ってきたとでも言うわけ? 私が泥棒だとでもいうわけ?」

 うわ!やえさんを怒らせてしまった、どうしよう!と身が縮まる思いだった。やえさんはいろいろと小うるさい姑ではあったが大きな声で怒ったことなど一度も無かった。私の中にやえさんが怒ったときのマニュアルが無かった。

 私は洗濯物を抱えて家を飛び出した。そして帰って来たときにはやえさんは何事も無かったのごとく「お茶でも飲みたいわね」とニコニコしていた。

「そうですね。コーヒーでも淹れましょうか」ため息交じりに私は答えた。


 やえさんの天麩羅は絶品だった。からりと揚がって冷めてもべとつかず本当に美味しかった。

 どうしたらこんな風に上手に揚げられるのかコツを教えてもらおうと思っても「ううん、いい加減なのよ」と本当にいい加減な答えが返ってきたものだ。山のように揚げても天麩羅たちが「早く私を食べて」と言っているようだった。

どこにコツがあるのかわからないが、もしかしたらやえさんの言ういい加減なところがコツなのかもしれなかった。とにかく誰も真似の出来ないやえさんの天麩羅でみんな大好きだった。

 が、この頃のやえさんの天麩羅は怪しい。やえさんの中では褒められた記憶だけが残っていて、天麩羅を揚げて皆を喜ばせなければ、と言う気持ちでいっぱいになってしまうのだろう、

 しかし、かつての天麩羅とはほど遠い。油の匂いから違っている。

 天麩羅の形も違う。色が違う。小麦粉の中に埋まっている野菜たちは、べっとりと皆を恨めしげに睨んでいるようで、とても食べられるようなものでは無い。昔は早く食べてと言っていた天麩羅たちが、今は食べられるものなら食べてみろよと挑戦しているようだ。


 かつてのやえさんは洗濯があまり好きでは無かった。一緒に住み始めてこの方、洗濯はたまきさんの仕事と決めていたようなところがあった。

 それなのにどういうわけか最近やえさんが洗濯を始めたのだ。で、私はこの頃水音で目が覚める。

 朝の五時。突然堰が切れたような水音でたたき起こされる。それが洗濯機の音だと頭が理解するまでのほんの数秒間ではあるが、豪雨で家が流されてしまうような恐怖が襲って来る。心臓がドクンドクンと波打って体が震える。それが毎日のことだ。

 やえさんの洗濯はいつまでたっても終わらない。二層式の洗濯機ではどこまで進んでいるのかわからない。だから何回でも初めからやり直すことになる。ほっておけば一日中洗濯機は回っている。

 そんなある日、私の頭が真っ白になることが起こった。水道の請求書を見たときだ。

 水道代が四万円! ものすごい水音を立てて私の頭の中を水が流れていった。


 七十八歳になったやえさんにひ孫が出来た。私たちの孫である。

 やえさんは初め興味を示さなかった。が、生まれてきた子が思いのほかに可愛かったものですっかり夢中になってしまった。

 老人会のサロンと呼んでいた我が家には以前にも増して人が集まるようになった。

 お孫ちゃん見せてと多くの人が集まってくる。やえさんはすっかり得意になって可愛いでしょうと自慢しまくっている。なんだかやえさんの孫のようだった。誰かが来ると部屋に入り「ちょっと貸してね」と、さっさと連れて行ってしまう。しかし、、、、、。

 そのうちやえさんは何故この子がここにいるのかと不思議な気がしてくるのだろう。自分が連れてきたことも忘れて

「ねえ、今の若い人はいいわね。こんな年寄りに子守させて自分は昼寝しているのよ」

 集まった人たちもわかっていると思うのに「そうよねその通りだわ」と同調する。

「おばあちゃん、勝手に取り上げて連れて行くんだよ。私は昼寝なんかしていないから」

 憤懣やるかたない娘は私に抗議してくるのだがなんともし難い。

「ま、しかたないよね」私にはそんな慰め方しか出来ない。

 相変わらず夫は知らん顔でそのくらいで泣くなと取付く島も無い。

 またあるときは婿殿から赤ん坊を引ったくって行った。(婿殿の時は本当に有無を言わさぬ強引さで奪っていくらしかった)

 やえさんが赤ん坊を抱いて玄関を出て行くのは確認したのにやえさんはなかなか戻ってこない。

 心配になり迎えに行こうとしたときやえさんが帰ってきた。ところがやえさんは一人で赤ん坊はいない。婿殿は焦って「おばあちゃん、まりは?」と聞いた。

「え?まりちゃんなんて知らないけど」とすまして答える。

「そんな!嘘でしょう!」婿殿は真っ青になって玄関を飛び出して絶句した。

 やっとお座りが出来るようになったばかりの赤ん坊が道路の真ん中でぽつんと座っていた。

 今のやえさんの世界は過去も未来も無く、今このときしか無いのだと思い知らされた事件だった。

 翌年、二人目の孫が生まれ、我が家は総勢八人、明治,大正、昭和、平成と四世代の大家族になった。娘夫婦と私たちが同じ台所で、やえさんは1階で二人の台所だった。最近は見るに見かねることが度々起る。もう、やえさんに任せておけないと思うのに夫も義父も、無論やえさんも反対する。

 暢気な私さえ覚悟を決めて台所を一つにしましょうと提案しているのに夫は「お袋から台所を取り上げるようなことはするな」という。


 朝。異様な匂いに階下に降りていくとやえさんたちは食事をしている。?と思いながら台所を覗くと空っぽのお鍋が掛けられ既に焦げている。

「お鍋火にかけっぱなしだけど、どうするつもりだったのかな?」

 私はつとめてさりげなく聞いてみた。やえさんは口をもごもごさせて

「あら、そう? 味噌汁作ろうと思って」という。

「もうご飯食べ終わるのに?」と聞いても何の反応も無い。

 私は焦げ付いた鍋と、やえさん、それからこの事態に何の関心も示さずひたすら食事に没頭している義父を見ながらため息をつくよりほか無かった。

 義父はこの状態をどう思っているのだろう。先日はお粥を食べていたので「どこか具合でも悪い?」と聞くと「別にどこも悪か無いけどよ、近頃ましな飯食ってねえな」と言う返事が返ってきた。

 要するに水加減がでたらめで、はからずもお粥のようなご飯ができあがったらしい。

 米びつを見て呆れたというかびっくりしたというか笑ってしまった。計量カップの代わりにアイスクリームの紙カップが入っていた。これでは、と思ったが、義父はこれで満足なのだろうか。五十年以上連れ添った夫婦の愛の証だと言われれば仕方がない。だが明らかにやえさんは普通の状態ではない。と、思うのに夫も義父も認めようとしない。それなのに私一人が何とかしようとする必要があるのだろうか。ない。


 それは朝からどんよりした今にも雨の降り出しそうな昼過ぎのことだった。どこからかグアーン、ゴーという不思議な音が聞こえてきた。

 家の中からのような外からでもあるような。しばらく聞いていたがまずは原因を探すことが解決の早道と思いとりあえず音の源をを探すことにした。

 どうやらその音は浴室から聞こえてくるようだった。

 私は首を傾げながら浴室のドアを開けた。

 開けた途端に仰天した。ものすごい勢いで煙が噴出してきたのだ。頭の中でキーンという金属音が鳴り響いた。心臓が止まったかと思った。

 それは煙でなく湯気だと理解できたが足がガクガクして何をどうしたらよいのかわからない。

 ゴーゴーという音は明らかに浴室の中から聞こえている。

 しなくてはならないことはわかっていたが、足が、手が、体が言うことをきかない。ほんの数秒間だったろうが私には永遠のように思われた。

 もうもうとした湯気で何も見えない。やっとガスを止めたと同時に、噴出した湯気の如くに怒りがこみ上げてきた。後先を考えるまもなく私は声を張り上げた。

「誰!!お風呂を付けたのは!」無駄な抵抗であることはわかっていた。

「誰も付けちゃいないよ」義父ののんびりした返事が返って来た。

「そんなことないでしょ!お風呂が煮えくりかえっているのだから!」

「知らないな。おまえが忘れていたんだろ」

 途端に怒り怒りはシュンとなり何もいえなくなる。

 やえさんは元気な頃は何かと理由を付けてはお風呂のガスを付けるのを嫌がった。

「ポッと音がするのが怖いのよね」と主婦にあるまじき発言をして私を呆れさせていたのに、最近は油断すると自分で付けてしまう。そして忘れる。

 でも、大概が夕方だったので大事には至らなかったが、今回は昼間と言うこともありやられてしまったと思った。それにしても手強い。

 

 夫の設計事務所の家族旅行でグアムに行った。毎日娘に変わりないかと電話を入れてはいたが成田に着くとすぐ電話した。

「変わったことないよね」の問いかけに「ある」と言う答えが返った来た。

 ハンマーで頭を殴られたようないやな予感がした。

「よくわからないんだけど。家中が煤だらけなの」

「まさか、火事?」

「いや、火事ではないよ。家はちゃんとあるから」

「どういうこと?」

「どうなっているのかよくわからない。帰ってきたら電気はやたら暗いし、廊下を歩く足足の裏が真っ黒になるし。天井も壁も煤だらけ。何をしてこうなったのかさっぱりわからない」

「で、おばあちゃん達は?」

「普通にもう寝てるけど」

「わかった。すぐ電車に乗る」  

 私たちは皆に挨拶もそこそこに電車に飛び乗った。

 家に着いて玄関を開けると確かに照明が暗い。よく見るとどこもかしこも煤だらけだ。

 義父はまだ起きていたので事情を聞いてみたがさっぱり要領をえない・

「ゲートボールから帰ってきたらこの有様だった。俺にもわからない」

 何かを燃やしたのに違いないと台所を覗くと、ガスレンジの上になにやらステンレスの輪っからしきものがあった。

「これは何?」と聞くと

「ばあさんは、レンジの下からニューと出てきたって言うとる」

「ニューと出てきたの」あまりの馬鹿馬鹿しさに思わず笑い出してしまった。

 床も壁も、そしてベッドの上も見事に煤だらけだ。それなのに原因がわからない。

 そしてその原因のおそらく張本人はすやすやと夢の中だ。

翌朝、夫が原因らしきものを突き止めた。

 湯沸かしポットを火にかけたらしく、裏庭にかけらが捨ててあった。やえさんに聞いてもわかりはしないだろうが、想像するにお湯を沸かそうとして薬缶とと間違えてポットを掛けたのだ。火を付けたところで何か用事を思い出したか、ポットを掛けたことを忘れとにかく外に出てしまったのだろう。ポットは火達磨になり、ものすごい煤を吐き出して溶けてしまいステンレスの輪っかだけが残ったのだ。やえさんの手のひらの火傷がそのことを物語っていた。

 それからの1週間は、義父と私は掃除におわれ煤はあらゆるところに入り込み、しかも、雑巾で拭き取ると余計に煤がこびりつく。情けないやら腹が立つやらの私にやえさんはにこやかに声を掛けてくる。

「おじいさんもたまきさんもよく働くのにね。ご苦労様」

 さすがに夫もことの重大さに気づき落ち込んだようだが今更遅すぎる。

「君はお袋がおかしいっていつ頃気がついたの?」

 私は夫の顔を見ないで答えた。

「おかしいなんてそんなこと。どうだったかしら。わからないわ」

 それから、今度は真っ直ぐに向き直って言った。

「だってそうでしょ、あなたにわからないものが、私にわかるわけがないでしょう?

仮にわかっていたとしても原田家の嫁の立場としては何も言えません」


 やえさんは電話も好きだが人が来るのはもっと好きだ。新聞の勧誘だろうが、保険の勧誘だろうが来る人は拒まない。

 元来腰の軽い人なのでインターフォンが鳴るとさっと立ち上がる。とめるひまもない。聞くともなしに聞いているととんでもないことを言い始める。

「うちはね、主人が亡くなったばかりでございますの」

 私は仰天するが、まあ外交員相手の断り文句かなと思っていたが、そういうわけでもなかった。

 老人会の役員さんが義父に用事があってきた。

「ご主人ご在宅ですか」と聞かれると涙声になり

「主人は少し前に亡くなりまして」聴いている私はびっくりして玄関に飛んでいく。

「申し訳ありません。冗談です。義父は居間でテレビを見ておりますから」

 やえさん、夫に早く逝って欲しかったのかしら。何度夫を”殺し”たら気が済むのだろう。

 早朝4時。やえさんは寝室のドア越しに大きな声で私たちを呼ぶ。

「あきら、あきら、たまきさん大変なの。おじいさんが死んでいるの。早く来て」

 何を馬鹿なことをと思うが、仕方なく夫が降りていくと義父は鼾をかきながら熟睡中だ。

「心配ないよ。親父はぐっすり眠っているよ」

 するとやえさんはきっとなって宣う。

「当たり前でしょ、眠っているのは。全くこの子は何を馬鹿なことを。早く寝なさい朝朝は早いんでしょ」

 夫はブツブツ言いながら戻ってくる。しかしそれでおさまるやえさんではない。しばらくすると又やって来る。

「大変なの、おじいさんが死んでいるの。早く来て」


 珍しく大雪が降った日の夕方。

 その雪の中律儀な豆腐やさんはやって来た。

 私外外に出るとすでにやえさんがいた。降りしきる雪の中、薄いブラウス一枚の姿だった。

 早く家の中に入るように言ってからため息が漏れた。

 すると豆腐屋さんに

「今、おばあちゃんにがんも50個頼まれたけど」と言われた。

「ああ、気にしないで」と言ってから

「でも何で50個も。何に使うのかなあ」と首を傾げているとお隣の桑田さんが

「お葬式らしいよ」という。

「だれの?」

「おじいちゃんでしょ」

「どこの?」

「お宅の」

「うちは元気だよ」

「でもさっき、おじいちゃんが死んだからってお葬式の手伝い頼みに来たし」

「え、えー。気にしないで、嘘だから」

「大丈夫、本気にしてないから」

 それにしてもがんも50個も何に使うのだろうと思いながら家に入るとやえさんは喪服を出していた。

「ねえ、がんも50個もどうするつもりだったの?」と聞くとやえさんは

「この辺ではね、お葬式の後はがんもを煮てご近所さんに振る舞うものなのよ。

覚えておいてちょうだい」

「ごめんなさい。それは知らなかったけどいったい誰のお葬式?」

「おじいさんに決まっているでしょう」

「だから、どこの?」やえさんは私を睨付けるようにのたまった。

「うちのおじいさん」私は大きく息を吸い込んで

「で、その喪服は?」と聞いてみた。やえさんは喪服を畳む手を休めることなく

「しまっているのよ」と答えた。なるほど、お葬式はもう、終わってしまったのだ。


 82歳のやえさんが検査入院することになった。

 看護師さんにやえさんが少し認知があると伝えるとにっこり笑って

「大丈夫です。私たちは慣れていますし、皆さん、似たり寄ったりですから、安心してお帰りになってください。心配いりませんよ」と天使の言葉そのもで私は涙ぐんだ。


 大丈夫お任せくださいと言われて帰ってきて、1時間もしないうちに病院から電話がかかってきた。

 そのドクターは挨拶もそこそこに

「今すぐに付き添いに来て欲しい」とまくし立てた。

 何がどうなってそう言われるのかわからない私は、もごもごと生返事をした。

「どうもこうも」とドクターは続けて

「あんなに認知が進んでいるととは思いませんでした。あれでは入院してしていただくわけにはいきません。紹介された池田先生に電話しても頼みますの一点張りでどうにもなりません」

「でも私、ちゃんと申し上げましたよ。そうしたらどうぞご心配なくと、、、、」

「ですからね、あそこまでとは思わなかったのですよ。24時間の付き添いにしていただかないと困るんです」

「困ると言われましても家の方も困るのですが」

「病院中を歩き回ってですね、患者様の点滴を引き抜こうとされるのです。命に関わりますから」

 そこまで言われていやとも言えない。付き添いを覚悟して、娘に病院まで連れて行ってもらった。

エレベーターの中では娘も私も無言だった。扉が開くとなんとそこにやえさんが立っていた。

 何事もなかったようにニコニコしている。病室に帰ろうよと言ってやえさんの背中を見るとマジックインクで部屋番号と名前が書かれていた。

 ベッドに連れて行くとやえさんはなんだかとても嬉しそうだった。

「まあちゃんはえらいねえ」と言う。何がえらいのかわからず黙っていると

「こんな素敵な別荘を買ってくれて」

 娘はあっけにとられていたが私は、これは渡りに船とばかりに

「そうよ素敵でしょ、お義母さん。今日からずっとここに泊まれるのよ。だから安心してね。何もしなくていいのよ。ご飯の支度もお風呂もみんなお手伝いさんがやってくれるからお義母さんはのんびりしていればいいから」

「そ嬉しい嬉しいわ。それじゃそうさせて頂こうかしら」

「ゆっくりしてね」と念を押すように言うとやえさんはこっくりと頷いた。

 そこへ主治医のドクターが現れるとやえさんはやおらベッの上にかしこまった。そしてそれはそれは丁寧な挨拶をした。

「まあまあ、これはまたどなたか存じませんが、こんなむさいところにようこそおいでくださいまして」

 つい今しがたは素敵な別荘のはずが、もうむさいところに変身してしまった。

「ここは海が近うございましてね、すぐ裏手が海でございますの。ほら、聞こえますでしょ、波の音が。ザブーン、ザブーンて」

「なるほど。波の音がね」ドクターはただ頷いていたが、私は鼻の奥がツーンとしてきた。

 するとドクターは笑いながら

「付き添いはしなくていいですよ。ナースセンターの隣に移して気を付けて見ることにしましたから」

 私はその時本当の”天の声”とはこういうことを言うのだと思い知ったのである。


 83歳でやえさんは一人で遠くへ旅立った。桜の花がちらほらほころびはじめた春の日だった。

 それはあまりにも急な旅立ちだった。

 救急車で病院に運ばれたのが夜中の1時。

 担当医の心配ないですからの言葉を信じて待合室にいた私たちさえ間に合わなかった。

 後、10日もすれば84歳の誕生日だったのそれそれさえ待たずに逝ってしまった。

「眠るような」のたとえ通りに、元気な頃のやえさんそのままの穏やかで優しい顔であった。

 

 その顔の上にポタポタと涙が落ちた。やえさんに口紅を塗りながら涙が止まらなかった。涙というものがこんなに流せるものだと初めて知った。別に悲しいと思ったわけでもない、残念だった訳でもない。涙の理由が見つからない。でも、後から後から涙は湧いてくる。

 やえさんとの3700日は私には戦場そのものだった。何が始まるかわからない毎日に疲れ果てた。やえさんのとぼけぶりにおなかを抱えて笑い転げたこともあった。そんな戦いの日々がこんなに突然に、こんなにもあっけなく幕を閉じるとは思いもしなかった、考えもしなかった。

 私は一人取り残された戦士のようだと思った。

 しかし、、、、。やえさんはあの世でどんな生活を送るのだろう。元気な昔のままで先に逝った人たちとの再会を喜んでお喋りや、お茶、はたまた旅行に出掛けたりと忙しく立ち回るのだろうか。それとも、自分が誰か見失ったままで彷徨うのだろうか、なんだかそんな気がする。

 そう思ったときだ。

「あら、いやだ、たまきさん。私はのんびり暮らすことにしたの。お友達もたくさんいることだし。。もうお父さんの顔色見ながら暮らすのはたくさんだわ。だからたまきさん、もうしばらくお父さんのことお願いね。お父さんにはもっとゆっくり来てほしいわ。私は当分一人を楽しみたいから」

 春霞の空の彼方からやえさんの声が聞こえてきた。

 やえさんの声はとても晴れやかだった。

「そんな。それはあんまりでしょ、やえさん」そう呟いて振り向くとそこにやえさんに”何度も殺された”義父の妙にぼんやりした顔があった。

 その顔のままで義父は言った。

「ばあさんを探しているのに見当たらない。ばあさんはどこへ行っちまったんだ?」
















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