表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

掴んだ手は

作者: ウォーカー

 これは、山奥の大きな湖の畔にやってきた、ある男の話。


 山奥の大きな湖の湖岸に、男が立ち尽くしている。

その湖は人を引きずり込んで飲み込む湖として、

その地方では悪名の知れた場所だった。

その湖に、みだりに近付いてはならない。

人の手が入っていないその湖は、まるで底無しの沼。

今までに何人もの人が飲み込まれて、行方知れずになっている。

そんな曰く付きの湖だった。

今では噂が広まって、他所から入水目的の人がやって来ることもあるという。

だが、その男がやって来たのはそんな理由ではなく。

この湖で行方不明になったという、恋人を探すためにやってきたのだった。


 その男は半年ほど前、恋人を亡くしていた。

恋人はその湖にほど近い村の出身で、

半年ほど前、村にある実家に帰省していたところ、

ちょっと湖まで涼みに行ってくる、

そう言い残してそのまま姿を消したのだった。

捜索の結果、

湖の湖岸に恋人の靴が残されているのが見つかったため、

誤って湖に落ちたか、

あるいは湖で泳いでいて溺れたのだろうという結論になった。

法的にはまだ死んだとは確定していない状態ではあるが、

誰もがもう恋人は亡くなっていると考えていた。

しかし、その男だけは、

恋人が湖で溺れ死んだとはどうしても信じられなかった。

なぜなら、その男も恋人も水泳は得意で、

二人でよくダイビングなどに行ったものだったから。

水の恐ろしさも重々心得ている。

そんな恋人が近所の湖で事故だなんて起こるはずがない。

とはいえ、それでも起こってしまうのが事故というもの。

そう言われてしまえばそれまでだが、

しかし、やはりどうしても信じられない。

ましてや、自ら入水などするはずもない。

その男と恋人の仲は良好で、結婚を考えているところだったのだから。

事故に遭う理由も、自ら入水する理由も、

どちらも考え難い。

だからその男は、恋人が亡くなったとはどうしても信じることができなかった。

そして、その考えを裏付けるかのように、

先日、その男のところに一通の手紙が届けられた。

差出人は恋人の両親。

封筒を開けると中には、手紙と一通の封筒が入っていた。

その手紙に拠ると、話はこうだ。

湖の湖岸で、瓶に詰められた手紙、

いわゆるメッセージボトルが見つかった。

差出人は亡くなった恋人で、宛先はその男になっていた。

きっと、メッセージボトルを出すために湖に行って、

事故に遭ってしまったのだろう。

そして、それが今頃になって届いたに違いない。

それならば、形見分けとして手紙を受け取って欲しい。

恋人の両親からの手紙には、そのように書かれていた。

同封されていた封筒の方を確認する。

メッセージボトルに入っていたというその封筒は、

紙が古く色あせていてあちこちボロボロ。

かすれた文字を何とか読み解くと、

確かに宛先はその男で、差出人は恋人の名前になっていた。

ペーパーナイフなど使うまでもなく、ボロボロの封筒は崩れるようにして、

中から手紙が吐き出された。

同じく古くボロボロの紙に書かれた手紙に目を通す。

すると、その手紙には一言、

「私を助けてください。」

とだけ書かれていた。

言葉としてはたった一言。

しかしその一言は、その男を奮い立たせるのに十分だった。

恋人はきっと生きている。

何かが起こったに違いない。

その男は思い立って、その湖へとやって来た。

手紙の裏に、

「絶対に来ては駄目。」

という相反するメッセージがあるのに気が付いたのは、

それから少し後になってからのことだった。


 夕暮れで薄暗くなってきた山奥の湖。

その男は湖岸の砂地に立って、周囲の様子を確認していた。

湖の周囲は人の手が入っていないようで、

岸壁を作る護岸工事も行われていなかった。

森の中に自然のままの湖が存在している。

湖に岸壁が作られている場合は、湖と地面の境界に切り立った壁があるので、

誤って落ちてしまうことも考えられる。

しかし、この湖の湖岸はなだらかで、海岸のように砂地から湖へと続いている。

間違えても落ちてしまうことはなさそうだ。

では、恋人は事故で湖に落ちたのではなく、自分から湖に入ったのだろうか。

あるいは、たまたま靴が落ちていただけだったのか。

容易には判断がつきそうもなかった。

その男は湖岸に立って、腕組みをして一人考える。

「湖にやって来たは良いけど、

 見たところ荒らされた形跡も無いし、

 湖に落ちたり入ったりしたのか分からないな。

 そもそも、靴が他人のものだった可能性もあるだろう。

 お義母さんが確認したとは言っていたけど、

 気が動転していたなんてこともありえる。」

腕組みをしてそんなことを考えていたので、

その男は自分の身に起こっている事に気が付かなかった。

足元、足先のすぐそこ。

湖の水面から真っ白な腕が静かに伸びていた。

その真っ白な腕は、何かを探すように周囲を手触りで確認している。

それから、目当てのものを発見したようで、

獲物を狙う蛇のように鎌首をもたげると、

湖の畔に立っているその男の足首に、噛みつかんばかりに掴みかかった。

その男は気配を感じ、足元を確認し仰天する。

「なんだ!?

 何かが足を掴んでる。

 蛇か?いや、人の腕だ。」

何の気配もなく現れた白い腕を、足で蹴って振りほどこうとする。

しかし、万力で締めたように強く掴まれていて、

なかなか引き剥がすことができない。

白い腕はその男の足首を掴んで、湖へと引きずり込んでいく。

湖の水が水嵩を増し、足首、膝、腰、胸へと迫ってくる。

そうして、とうとう顔から頭の先まで湖に沈められて、

その男は完全に水没してしまった。

このままでは息が続かない。

しかし、白い腕はその男の足首を掴んで離そうとしない。

そうして、湖の水の中で窒息したその男は、

そのまま意識を失ってしまった。

薄く曖昧になっていく意識に、湖の水の中の光景が映る。

水の中、白い腕の持ち主であろう人影は、どこかで見覚えがあるような気がした。


 真っ黒だった視界に、ぼんやりと色彩が戻ってくる。

その男は、全身ずぶ濡れの仰向けで目を覚ました。

目の前の頭上に見えるのは、ぬめぬめと濡れた岩壁。

夜光塗料を塗ったように薄く光っていて、

周囲のあちこちから水滴が落ちる音が聞こえている。

どこかの洞窟の中だろうか。

水滴の音が響くので、それなりに広い空間のようだ。

もっと周囲を見てみようと首を動かすと、何者かの顔が覗き込んできた。

覆いかぶさってきた顔を見て、その男は息を呑んだ。

それもそのはず、仰向けのその男の顔を覗き込んできたのは、

亡くなったはずの恋人だった。

その男は、座っている恋人の膝枕で寝かされていたのだった。

驚いて起き上がる。

目の前に座っている人の顔は、確かに恋人のもの。

服を着ていないようで、代わりに、

ぶよぶよとしたゼラチン状の物質に覆われている。

その男は呑んだ息を吐き出して言った。

「君、無事だったのか!

 あの手紙はどういうことなんだ?

 ここはどこだ?」

「・・・それは、これからゆっくり説明しましょう。

 落ち着いて、どうか座ってください。

 説明する時間は、たっぷりあるのですから。」

恋人は穏やかに微笑むと、その男に座るように促した。


 その男は、真っ白な腕に足首を掴まれ、湖に引きずり込まれた。

目を覚ますとそこには、行方不明の恋人の姿があったのだった。

恋人は穏やかな笑みを浮かべると、

口元に右手を添えたまま、ゆっくりと話し始めた。

「ここは、湖の底にある洞窟。

 私達の家です。

 半年ほど前、

 私は、この湖の底に何かがあるのに気が付きました。

 思い切って湖の中に潜ってみると、この洞窟があるのを見つけたのです。」

恋人の穏やかな説明に、その男は呆然と尋ねる。

「洞窟?

 ここは洞窟の中なのか。

 それにしては地面や壁が柔らかいようだけど。」

「水の中にあるので、藻などが繁殖したせいでしょう。

 この洞窟の中では、息ができるのはもちろん、

 飲み水になる湧き水や、食べ物になる海藻などがあって、

 人が生活している形跡がありました。」

言われてその男には心当たりがあった。

「それってもしかして、この湖で姿を消した人達か。」

「そうです。

 この湖で姿を消した人達は、

 皆が死んだわけではなかったのです。

 その内の何人かが、

 湖の底にこの洞窟を見つけて、住み込むようになりました。

 外の世界のしがらみが無いこの洞窟は、正に理想郷。

 今では村と呼べる程に大きな集団になったのです。」

「村ができるほど、人がたくさん住んでいるのか。

 これは驚きだな。」

「地上の人達に比べれば、微々たるものですけどね。

 ここからもっと奥に進んで、

 分かれ道を右を行くと、村があります。

 どうでしょう。

 あなたも村で一緒に生活しませんか。」

恋人の提案に、その男は考え込んでしまう。

死んだと思われていた恋人が無事に見つかったのは嬉しい。

もう離れたくない。

・・・しかし。

だからといって、湖の底の洞窟で暮らすなんてできるだろうか。

両親や役所にも連絡しなければならないだろう。

いくら外の世界のしがらみから逃れられるとはいえ、

こんな薄暗くじめじめした洞窟で生活するなんてぞっとしない。

その男は言い難そうに応える。

「申し出は有り難いが、こんな洞窟で生活するわけには・・・」

その言葉を言い終わらない内に、

恋人の眼光がすっと鋭くなった気がした。

正座をして背筋をぴんと伸ばし、その男を鋭く見つめている。

その目はまるで獣のようで、背筋が冷たくなってくる。

今の返事が、そんなに癇に障ったのだろうか。

それにしたって、あんな顔をしなくてもいいだろうに。

・・・おかしい。

自分が知っている恋人は、こんな人では無かったはずだ。

鋭い目つきも、冷たい話し方も、今までに見たことがない。

まるで別人になってしまったみたいだ。

その男が訝しんでいるのを知ってか知らずか、

恋人は鋭い表情のまま、口元に添えていた右手を下げた。

すると、それを待っていたかのように、

入れ違いに左手が口元に添えられる。

穏やかで優しい声になって、そっと言葉を紡いだ。

「今は話を合わせておいて。

 事情は後で説明するから。」

その声色には先程までの鋭さはなく、

穏やかで優しい恋人本来の声だった。


 恋人の話は、それからもしばらく続いた。

今度は機嫌を損ねないよう、その男は注意深く相槌を打つ。

この洞窟の中は、外の世界とは違って安全で快適だ。

自分もこの洞窟の中でしばらく生活したい。

先程そっと言われた通りに、その男は恋人が言うことに話を合わせていた。

恋人はその男の内心には気が付いていないようで、

口元に右手を添えて嬉しそうに話していた。

そして、一通りのことを話し終えると、

その男と恋人の間にしばしの沈黙が流れた。

恋人の口元に添えられていた右手が下る。

すると、左手がすかさず口元に添えられた。

またしても小さな声でそっと話を始める。

「わたしの言葉に惑わされないで。

 今のわたしが自由に動かせるのは、この左腕で触れている部位だけ。

 他の部位はもう、置き換えられてしまった。

 自分の意思で言葉を口にできるのは、左手を口に添えた時だけなの。

 あなたも返事をする時は、私に聞かれないように小声でお願い。」

恋人はヒソヒソとそんな話をしている。

訳も分からず、その男も口元に手を添えてヒソヒソと聞き返す。

「君、今の話はどういうことなんだ。

 君に聞かれないように話をしろだって?

 何が起こっているんだ。

 ここはどこなんだ。」

その男の疑問に、恋人は少し語調を強めて応える。

「ここがどこなのか、正確には分からない。

 でも一つ言えるのは、ここはただの洞窟なんかじゃないってこと。

 ここに長く居れば居るほど、体が変化していく。

 わたしよりも前から居る人達は、もう人の姿すら保てないの。」

「君、具合でも悪いのか。」

小馬鹿にするような言葉に、恋人は至って真剣に言う。

「聞いて、もう時間がないの。

 このままここにいたら、あなたも自分でいられなくなるわ。

 絶対に村に行っては駄目。

 早くここから逃げなきゃ。

 これからわたしが外に通じる通路まであなたを誘導するから。」

「それじゃちっとも話が分からないよ。

 もっと分かるように説明してくれ。」

「もう!

 チョウチンアンコウって知ってる?

 頭に付いた触覚みたいなのを光らせるんだけど・・・」

そこまで話したところで、恋人の右腕が持ち上げられた。

口元に添えられていた左腕が、隠れるようにして降ろされる。

入れ替わりに右手が口元に添えられた。

何事も無かったかのように、恋人は右手を口元に添えてにこやかに話す。

「どうしました?

 急に黙り込んでしまって、きっと疲れたのね。

 村まで案内しますから、私に付いて来てください。」

そう言って恋人は立ち上がった。

それから、慣れた様子で洞窟の奥へと進んでいく。

その男も立ち上がって、恋人の後に続く。

さっき聞いた話は、どこまで本当のことなのだろう。

恋人が口元に右手を添えて言ったことを信じるか、

左手を添えて言ったことを信じるか、

それとも、全ては冗談でからかわれているのか。

その男は逡巡していた。


 薄暗くぬめぬめした洞窟の中、

その男は恋人の先導で奥へと歩いていた。

目的地は、洞窟の奥にあるという村。

村には他の人達も住んでいるのだとか。

村に行けば、恋人と一緒に生活することが出来るという。

理想郷のような世界。

恋人は口元に右手添えてそう話していた。

しかし。

途中で聞いた別の話が頭の中を過る。

恋人が口元に左手を添えていた僅かな時間。

その時、恋人は、自分の話を信用するなと言っていた。

恋人の話に拠れば、

自分の体は左腕以外、置き換えられてしまったという。

置き換えられたとは何に?

信じがたい話だ。

きっと窒息が原因で、思考が混濁しているのだろう。

そう考えた方がいいのかもしれない。

この洞窟の村でしばらく休んで、明日の朝になってから地上に帰ろう。

きっと全てが冗談みたいな話になるだろう。

その男は恋人の後ろ姿を見ながら、そんな風に考えていた。

恋人が着ている服は透明なゼラチン状で、

服どころか背中まで透けて、薄っすらと向こう側が見えている。

その背中越しの向こうに、二股の分かれ道が姿を現したのだった。


 洞窟を進むとやがて二股の分かれ道に差し掛かった。

右と左の分かれ道。

どちらの行く先も薄暗く、先がどうなっているのかは確認できない。

ただ微かに音が聞こえてくるのは分かる。

右の道からは、ぬめぬめうごうごと何ものかの蠢く音。

左の道からは、水が滴り流れる音が聞こえてきていた。

「こちらです。

 私に付いて来てください。」

先導する恋人は、迷うこと無く右の道に行こうとしている。

その後に続きながら、その男は薄ぼんやりと考えていた。

これがさっき話していた、村に通じる道か。

いや、外に通じる道だったか。

どっちに行けと言われていたのだったか。

そういえば、それ以外にも何か話をしていたな。

チョウチンアンコウだったか。

こんな時に、何故チョウチンアンコウの話なんてしようとしたのだろう。

チョウチンアンコウと言えば、

光る触覚で獲物を誘うナマズのようなものだったか。

そこまで考えて、その男はゆっくりと目を見開いた。

ぼんやりした頭に生気が戻っていく。

思い立ったその男は、背後から恋人の左手を掴むと、

迷うこと無く左の道へと駆け出したのだった。


 その男は恋人の左手を掴んで、洞窟の中を走っていた。

行く先は、洞窟の奥にあるという、外へ通じる通路。

引っ張られるように走る恋人が、口元に右手を添えて口を開く。

「そんなに急いでどうしたのかしら。

 村へ続く道は、こちらではないわ。」

しかしその男は耳を貸さず、一心不乱に走り続ける。

その様子に恋人は驚き、そして抵抗し始めた。

「止まって!

 腕を離しなさい!」

しかし、恋人の体はゼラチンのようなぶよぶよとした質感で、

暴れられたところでさしたる邪魔にもならならなかった。

その男は恋人を引きずるように従えて進み、

間もなく左の道の突き当りにたどり着いた。


 左の道の先は、水路になっていた。

足元には今いる通路よりも小さな通路が口を開けていて、

中は波々と水に浸かってしまっている。

その男は立ち止まると、ぶよぶよの体で暴れている恋人の口元に、

掴んでいる左手を押し当てた。

思った通り、恋人の口からは聞き慣れた穏やかな声が紡がれた。

「わたしが言いたかったこと、分かってくれたのね。」

「ああ。

 チョウチンアンコウの話だろう?

 君はチョウチンアンコウの光る触覚、つまり囮なんだ。」

話の要旨が理解できて、その男は得意げな様子。

意図が通じたことに、恋人の声も嬉しそうだった。

「そうなのよ。

 チョウチンアンコウは、触覚に光る細菌を住まわせて、

 餌をおびき寄せる囮として使うの。

 半年前に実家に帰省した時、わたしは湖に散歩に出かけた。

 そうしたら、溺れて助けを求めている人を見つけて、

 無我夢中で湖に飛び込んだの。

 でも、溺れていた人は、実は人ではなくって、

 わたしは何かに襲われて飲み込まれてしまった。

 この洞窟はきっと、生き物の内臓なのよ。

 人間を囮にして人間を捕まえて、それを食べる生き物。」

「ここに長く居ると、体が消化されてしまうのだろう。

 体がゼラチンの状になるのは、きっとそのせいだ。」

その男と恋人の推測がぴったり合って、疑問が解消されていく。

しかしその男は唇を噛みしめる。

体が消化されるとゼラチン状になる。

ということは。

体の自由が利かず、透けるほどにゼラチン状の体になった恋人は。

その男の苦悩を知らずか、恋人は言う。

「その水路の先から外に出られるはず。

 村の人が出ていくのを見たことがあるの。」

考えるのは後だ。

その男は思考を中断して行動する。

「わかった。

 じゃあ水の中で逸れないように、手を繋いで一緒に飛び込もう。」

恋人の手を取り直し、その男が言う。

しかし恋人は悲しそうに首を横に振った。

「わたしは、一緒には行けないわ。

 ここに長く居過ぎたもの。

 わたしは、生かされている。

 死ぬはずだったのに、体の大部分を置き換えられて、

 仮りそめの命を与えられた。

 私は、次の餌をおびき寄せるための囮。

 こんな体では、外に出ても生きていけない。」

それでもその男は、恋人の手を固く握りしめた。

恋人が困った顔になる。

「だから!

 わたしのことはいいから、あなただけでも逃げて。

 もうすぐ村の人達がここへ来るわ。

 この洞窟の存在を外に漏らすことを、村の人達は許さないはず。

 もう話をしている猶予も無いのよ。」

「それでも、僕は君の手を離さない。」

その男の決意は固く、同じ固さで恋人の手をしっかりと握っている。

この人は、一度決めたら考えを変えない。

そんな頑固な人だった。

その男の決意が固いのを察して、恋人もその手をしっかりと握り返した。

二人見つめ合って、静かに頷き合う。

それから、二人は手を繋いで水路の中に飛び込んでいった。

間もなくして水路は激しい水流を巻き起こし、

水の中に潜った二人の姿を、瞬く間に洗い流してしまったのだった。


 栓が抜けたプールのような激しい水流の中、

その男と恋人は、片手だけを繋いで流されていった。

水流に流されて壁に当たり、また水流に流されを繰り返して、

ようやく開けた場所に流れ出ることができた。

水流が広がって穏やかになっていく。

どちらが上なのかも分からない中で、とにかく明かりが見える方を探す。

遠くの水の中に、月明かりが見えた気がして、

その男は片手を繋いだ状態で水の中を泳いでいった。

行けども行けども水の中。

もう息が続かない、溺れてしまう。

そう思った時。

ようやく水が切れて、水面に飛び出ることができたのだった。


 水面に顔を出して、

その男は口から水を吐き出しながら声を上げた。

「やった!外に出られた!

 君、助かったぞ!

 もう・・・」

歓喜の声。

しっかりと繋いでいた手を引くと、そこには、しっかりと繋がれた手。

そしてその先には、腕しか無かった。

恋人の腕の先は、

ぷっつりと切れて失くなってしまっていた。

繋いだ手は確かに血肉が通っているのに、

それが二の腕に向かうに従って、ゼラチン状の質感になっていき、

肩の辺りで完全に切れて失くなってしまっていたのだった。

恋人が話していた通り、

人間以外のものに置き換えられた体では、外の世界に耐えることは出来なかった。

その男が呆然と握っていた手も、

ぶよぶよとしたゼラチン状に変化していき、

やがて指の間をすり抜けるようにして、湖の底に沈んでいった。

恋人の片腕が沈んでいった湖の遥か底で、

巨大なナマズのような魚影が、悠然と泳ぎ通り過ぎていったのだった。


 それからその男は一人湖岸に上がると、

砂地の上に大の字になって倒れ込んだ。

折角恋人を見つけることができたのに、無事に連れ帰ることができなかった。

残った片腕も、湖に沈んでどこかに行ってしまった。

改めて恋人を失った悲しみに包まれたその男の眼前に、

そっと何かが流されて運ばれてきた。

流れ着いたのは、瓶の中に手紙を入れたメッセージボトルだった。

もしやと目を見開いて中身を確認する。

中に入っていた手紙の宛先はその男。

差出人は、恋人だった。

「あの洞窟から連れ出してくれてありがとう。

 あなたがどこにいても、ずっと見ています。」

メッセージボトルには、そう書かれていたのだった。



終わり。


 もうすぐお盆なので、お盆らしい話を書こうと思いました。


チョウチンアンコウが突起を光らせる姿はひょうきんなのですが、

それが獲物をおびき寄せて狩るための行為だということを考えると、

ちょっと恐ろしいもののようにも思えます。

もしも、人間をおびき寄せて狩る動物がいたとしたら、

何を見せて人間をおびき寄せるだろう。

そう着想して、この話を書きました。


結局、男は恋人と無事に地上に戻ることは叶いませんでした。

それを不幸とみるか、

あるいは最後に出逢えたことを幸福とみるか、

受け取り方は多種多様だと思います。


また、別の受け取り方として、

最後に男が掴んでいたのがどちらの手なのか、

その手はどうなったのか、判然としません。

男が恋人の右手を掴んでいたのか、左手を掴んでいたのか。

それによって最後のメッセージボトルの意味も変わってきます。

もしも、掴んでいたのが左手だったのなら、

恋人の今際の際の言葉だったのかもしれませんし、

あるいは恋人は人ならざる体を手に入れて、自由も手に入れたのかもしれません。

もしも、掴んでいたのが右手だったのなら、

とんでもないものを野に放ってしまったのかもしれません。


お読み頂きありがとうございました。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ