7.修道院の教え
次の転機は思っていたよりも早く訪れた。ロディが修道院を去るよりも早く、実家から迎えの馬車がやって来たのだ。
迎えに来た使用人は私と一緒にいるロディを見て驚いていたが、私がこう説明するとあっさりと納得していた。この言い訳も、修道院のみんなが一緒に考えてくれたものだった。
「彼は私のことを心配して、たまたま様子を見に来てくれていたの。修道院の客間に滞在してもらっていたのよ」
もちろん客間なんてものはここにはない。しかし堂々とした私の態度が功を奏したのか、迎えの者はこの言葉を全く疑いもしなかった。
そうして私はロディと共に、修道院を後にした。ここに滞在した期間はそう長いものではなかったが、まるで何年もここで暮らしていたかのように感じていた。
ミランダを始めとする修道女たちは、いつものように底抜けに明るい笑顔で見送ってくれた。思わず涙ぐむ私に、ミランダが声をかける。
「あなたはもうここに戻ってきては駄目よ。二人で幸せにね」
私は涙目のまま大きく笑い、力強くうなずいた。ロディはそんな私の傍らに立ち、礼儀正しく立っていた。私と彼との間の距離は、前よりもずっと近かった。
そうして久しぶりに両親の待つ屋敷に戻った私たちを出迎える人の中に、どういう訳かマーティンの姿があった。彼は私の姿を見るなり、ひれ伏さんばかりにして訴えた。まるで、私の許しを請うような仕草だった。
「ヘレナ、僕が間違っていた! 僕が愛しているのは君だけだ、どうかもう一度僕のもとに戻ってきてくれないか」
私はその言葉を聞いても全く動揺することはなかった。修道院のみんなが予想していた通りの言葉だったからだ。
同時に、彼の言葉が嘘であることもはっきりと分かってしまった。彼はミアに捨てられたものの、私のことはやはりみじんも愛していない。こんなことが分かるようになったのも、みんなに男心の読み方を教えてもらったおかげだ。
そんなことを考えていたら、自分でも驚くほど冷静にするすると言葉が口をついて出てきた。
「マーティン様、あなたはミアを本当に愛していらっしゃったのでしょう? 彼女はどうしたのですか」
「ミア! あんな女のことなど、思い出したくもない! あいつは僕の他にも男がいたんだ。僕がそれを問いただすと、あいつは笑って僕のもとを去っていったんだ」
この返答も予想通りだ。ミアはマーティンの家が傾く前に、とっとと逃げ出したのだろう。彼女は私からマーティンを奪った泥棒猫だが、彼女の行いを追求する気にはならなかった。
下手にミアを追い詰めて、あの修道院に彼女が送られるようなことになってしまったらきっと後悔する。あの素敵な場所を彼女に教えてやるほど、私は心が広くない。
私は笑いそうになるのをすんでのところで踏みとどまりながら、前もって用意していた答えをそのままマーティンに返した。
「いいえ、マーティン様。私はあなたのもとには戻りません」
この言葉に驚いたのは両親だ。二人とも信じられないことを聞いたといった顔で私を凝視している。
さっきからずっと、予想通りにことが進んでいる。まるで、この場の全員が台本通りに動いているのではないかという錯覚を覚えるほどだった。修道院のみんなの読みがことごとく当たっていたことに驚きながらも、私は意を決して言葉を続けた。
「私は、このロディを本当に愛してしまったのです。私は彼以外の男性と一緒になるつもりはありません」
「ヘレナ! お前は突然何を言い出すんだ!」
私の言葉に、マーティンよりも先に父が反応した。驚きと怒りに顔を赤くする父。私は静かに、流れるように説明を始めた。
「婚約を破棄され修道院に送られた私の身を案じてくれたのは、ロディ一人だけでした。私は彼のその思いに触れ、そして彼を愛するようになったのです」
「そんなことは許さん! ロディは、ただの執事だぞ!」
「許していただけないのであれば、私は彼と二人でこの家を出ます。貴族としての愛のない人生より、愛する人と共にある平民としての人生を選びます」
あくまでも冷静に、そしてきっぱりと告げる。父は私をにらんでいたし、マーティンや母はまだ驚愕に目を見開いたままだった。ロディは私の一歩後ろでただ静かに立っている。全員の目線を一身に受けながら、私は動じることなく凛と立ち続けた。
修道院のみんなに教えられた。ここぞという時は、泣き落としのような手を使うべきではない。取り乱さず、冷静に、そして静かに自分の意思を表明しなさいと、そうみんなが口々に言っていたのを今でもはっきりと思い出せる。
真っ白になりながら私の言葉をかみしめていた父が、やがて恐る恐る口を開いた。その目線は、私ではなくその後ろのロディに向けられている。
「ロディ……お前も、娘のことを……?」
「はい。俺はこの身の全てをかけて、ヘレナ様を幸せにすると誓いました。旦那様には不義理を働くことになってしまいますが、それでも俺の全てはヘレナ様と共にあります」
決意を込めて静かにそう言葉を紡ぐロディの声に頼もしさと愛おしさを覚えながら、私はじっと父の答えを待った。父は葛藤しているのだろう、しばらく低い唸り声を上げていた。そして父は頭を抱えてうつむき、そのまま絞り出すようにつぶやいた。
「……分かった。お前たちがそこまで覚悟を決めているのなら、わしはもう止めん。ただし、家を出ていくことは許さん。ヘレナ、お前が女伯爵としてわしの後を継げ。その上で、ロディを婿に迎えればいい」
その言葉に私とロディがほっとしている中、一人納得がいっていないのがマーティンだった。顔を醜く引きつらせ、私のすぐそばまでやってくる。
これから何を言われるかも予測がついていたが、私は逃げなかった。ここで、彼との縁をちゃんと切っておかなければならない。そしてそれは私が自分の手でなすべきことなのだ。
「ヘレナ、君がこんなどこの馬の骨ともわからない相手と結ばれるなんて、どう考えてもおかしい。君は由緒ある伯爵家の令嬢なのだから、君には僕のような貴族がふさわしいんだ。どうか、目を覚ましてくれ!」
マーティンはそう言うなり私の腕を強くつかんだ。彼の目には、今まで見たことのない怒りのようなものが浮かんでいる。どうやら、彼は力づくでも言うことを聞かせようとしているのだろう。ロディがとても心配そうに私の方をじっと見ている。今にも、こちらに割り込んできそうな様子だ。
こういう時に腕を振りほどくやり方も、ちゃんとミランダたちに習ってある。でも今取るべき方法は、そういったものではない。力に力で対抗するのは下策だ。ここは、彼自身が婚約を諦めざるを得ないように仕向けるべきだろう。その方法も、ちゃんと私の手の中にある。
私は腕をつかまれたままマーティンの耳元に口を寄せ、低い声で静かにささやいた。
「マーティン様、今のあなたは伴侶を探すよりも先に、なすべきことがありますわ」
ミランダのあの説得力にあふれた魅惑的な声を思い出し、それを真似ながら言葉を紡ぐ。マーティンは私の様子が変わったことで調子が狂ったのか、ぽかんとこちらを見ていた。
「私はあなたの家の秘密を知っています。一刻も早く解決しないと、あなたの家自体がなくなってしまうほどの重大な危機について」
そうして私は小声でささやき続けた。修道院のみんなが教えてくれた、マーティンの家にまつわるとびっきりのスキャンダルを。彼の父は王の目を盗んで領民に法外な重税を課し、そのせいで反乱が起きる寸前になっていたのだ。
マーティンに教えてやる義理もないのでこちらは内緒にしておくが、既に彼の父はその腹心からも見限られている。反乱は、きっと成功するだろう。
みんなが推測していた通りマーティンは何も知らなかったようで、話を聞きながら見る見るうちに青ざめていった。話を信じたくないという気持ちと、真実であったら大変なことになるという気持ちの間で揺れ動いているように見えた。
「さあ、マーティン様。早く家に戻られた方がいいのではありませんか? 今の話の真偽を一刻も早く確かめるべきでしょう」
とどめとばかりに優しくそう声をかけると、マーティンは今にも倒れそうな顔のまま部屋から飛び出していった。幾度となく足をもつれさせたその姿は、侯爵家の跡取りとはとても思えないほどこっけいで無様なものだった。
彼の姿が消えると、ロディがすぐに駆け寄ってくる。ロディは先ほどマーティンがつかんできた腕にそっと触れると、気遣うように声をかけてきた。
「ヘレナ様、大丈夫ですか?」
「ええ、もちろん大丈夫よ。……ねえロディ、修道院のみんなには感謝してもしきれないわね」
私がそう話しかけると、ロディは安心したような笑みを浮かべ、先をうながすように小さくうなずいた。私は修道院での楽しかった過去に思いをはせながら、ゆっくりと続きを口にする。
「みんなのおかげであなたの思いを知ることができた。そして今、みんなの教えのおかげでマーティンを無事に追い払えた」
「マーティン様が、またあなたに求婚してくるかもしれませんが……」
「無理でしょうね。彼が父親を止められなければ大規模な反乱が起こり、彼の家はなくなってしまうもの。そして彼には、父親を止めることも、反乱を止めることもできない。彼にはそれだけの気概も能力もないわ」
私がそう断言すると、ロディは感心したように私を見る。彼の肩越しに、展開についていけずに目を丸くしている両親の姿が見えた。
「ヘレナ様がそこまで考えていらっしゃったなんて……」
「これも、修道院での勉強のたまものよ。あの人たちは、本当にたくさんのものを私にくれた」
そう言いながらロディの手にそっと自分の手を重ねた。ロディがおずおずとその手を握り返してくれたことに喜びを感じながら、私はとびきりの笑顔を彼に向ける。
「ねえロディ、結婚式には修道院のみんなを呼びましょうね」
「はい。きっととびきりにぎやかで、とても楽しい式になるでしょうね」
あぜんとしながらこちらを見つめている両親にはお構いなしに、私たちは幸せいっぱいの笑顔を見合わせていた。
間違いなく、前代未聞に明るい結婚式になるだろう。その時が楽しみでたまらない。最高の仲間に囲まれて、誰よりも愛しい人と結ばれる。私が婚約破棄されて修道院に送られなければ、そんな素晴らしい未来は見えてこなかった。
そう、あの修道院は本当に、追放された女性たちの楽園だったのだ。
予告通りここで完結です。読んでくださって、ありがとうございました。
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続編投稿に合わせて番外編を追加しました。そちらもどうぞ。