5.穏やかな日々
次の日、ロディは朝一番に修道院を立ち去ろうとした。私は彼を引き留めたかったのだが、さすがにそういう訳にもいかないだろうとすぐに思いとどまる。
「それでは、俺は戻ります。どうかお元気で」
「来てくれて嬉しかったわ。あなたも道中気をつけて」
あくまでも主従として、礼儀正しく別れの言葉を交わす私たち。ミランダはそんな私と彼とを交互に見て、少し残念そうな顔になった。そのまま周囲の修道女たちに目配せをすると、みなが一斉に集まってきて私たちを取り囲む。
「せっかく来たのに、もう帰ってしまうの?」
「あなたのお嬢様を近くで守ってあげればいいじゃない」
「そうよ。あなたは侍女だってことにすればいいんだから」
「一人くらい住人が増えたって、誰にもばれやしないわよ」
彼女たちは口々にそんなことを言いながら、どんどん私たちに迫ってくる。戸惑う私の肩に手をかけて、ミランダが耳元でささやいてきた。ロディは修道女たちにもみくちゃにされていて、ミランダの動きに気づいていない。
「あなたたち、昨夜は何事もなかったの?」
彼女が何を言いたいのかすぐに察してしまった私は、少し頬が熱くなるのを感じながら無言でうなずいた。彼女は呆れたように目をくるりと回してみせた後、ため息のようにつぶやいた。
「このまま彼を帰してしまったら、面白くないのよね。あなたにも幸せになって欲しいし。彼、悪くないと思うわよ」
ミランダの歯に衣着せぬ物言いに私が動揺していると、どうにか修道女たちを振り切ってきたらしいロディが、息を弾ませながら私の前に転がり出てきた。ミランダは私の肩を抱いたまま、にっこりと笑いながら彼に話しかける。
「ねえ、坊や。ヘレナは本当はあなたに帰って欲しくないそうよ」
彼女が勝手なことを話しているのは分かっていたが、私はその言葉を否定できないままでいた。昨夜のロディの真剣な顔がありありと思い出される。
彼があの時何を言おうとしていたのか、彼の口からちゃんと聞きたい。けれど今彼を帰してしまっては、その機会は永久に失われてしまうだろう。そんな気がした。
「お嬢様、そうなのですか?」
どこかすがるような目をしてこちらを見るロディ。そんな彼と目を合わせることができないまま、私はまた黙ってうなずいた。彼をすぐに帰すべきだという思いはあったものの、彼の思いを知りたいという思いに負けてしまったのだ。
「……俺がいただいた休みはまだ残っていますので、ひと月程度ならこちらに残れますが……よろしいのでしょうか」
そう答える彼の目には、申し訳なさと期待とがはっきりと浮かんでいた。そして私が口を開くより先に、ミランダが楽しそうに話し始める。
「じゃあ、これで決まりね。坊や、男性がここで暮らす時の注意点を教えてあげるわ。ヘレナ、ちょっと彼を借りるわよ」
これで良かったのだろうかと今さらながらに悩んでいる私をよそに、ミランダたちは大いにはしゃぎながらロディを取り囲んでいた。
こうして私とロディとの奇妙な共同生活が始まった。彼は大きめの修道服を借り、それをまとうことになった。予想通り、やや線が細めの彼には修道服はよく似合っていた。かといってまるきり女性のように見えるという訳でもなく、彼は女性と男性の狭間のような、そんな不思議な魅力をかもしだしてしまっていた。
そして彼は一日のほとんどを奥の部屋で過ごしていた。先日修道女たちに囲まれたのがよほど恐ろしかったのか、彼は意識的に彼女たちを避けているように見えた。そんな彼を一人きりにするのが忍びなかった私は、気づけば彼の傍にいることが多くなっていた。
最初のうちは私が部屋に入るたびに背筋を伸ばして部屋の隅に逃げ込んでいたロディも、すぐに慣れたのか落ち着いた様子で出迎えてくれるようになっていた。いつの間にか、私がやってくるのを心待ちにしているようなそぶりすら見せ始めている。
「ロディ、食事を持ってきたわ」
部屋から出たがらない彼を食堂まで連れていくのもどうかと思われたので、最近では私が二人分の食事を運び、彼の部屋で一緒に食べるようになっていた。私が食堂まで食事を取りにいくたび、みんなが冷やかしてくるのはロディには内緒だ。
「ありがとうございます、お嬢様。お手をわずらわせて済みません」
「いいのよ。あなたにここに残って欲しいって頼んだのは私の方なんだし。それに、あなたと一緒に食事をするのもとても楽しいから」
私が笑ってそう答えると、ロディがいぶかしげに尋ねてきた。
「楽しい……ですか?」
「ええ。ここに来て初めて知ったのだけど、気の合った人とゆっくりと過ごすというのは、それだけでとても楽しいことなのね。だから、あなたと過ごすのは楽しいの」
「そう言っていただけるのは光栄ですが、少しくすぐったいような気もします」
わずかに頬を赤らめて目をそらすロディに、私はさらに畳みかけた。
「あら、照れなくてもいいのに。そう言えば今日は私も食事当番だったから、一応これは私の手作りなのよ」
それを聞いたロディは目を丸くして、次の瞬間切なげに微笑みながら深々と頭を下げてくる。気のせいか、少しばかり涙ぐんでいるようにも見えた。
「お嬢様の手作り……そんなものを口にできるとは、ありがたき幸せ」
「もう、ロディったら大げさよ」
「少々大げさなのは大目に見ていただけませんか。俺は今、嬉しくてたまらないんです」
こちらに微笑みかける彼は、その言葉の通りとても嬉しそうだった。その笑顔に、私の胸も温かくなる。
「あなたがそんなに喜んでくれるのなら、もう少し食事当番を増やしてもらおうかしら」
気づけば、そんなことを口走っていた。自分でもおかしなことを言ったとは思うが、ロディに喜んで欲しいというこの気持ちに偽りはなかった。
どうして私がそんなことを考えてしまうのか、その理由にうっすら感づいてはいた。けれど今はまだ、気づかないでいることにした。気づいてしまえば今のこの穏やかな時が壊れてしまうかもしれない。それが怖かったのだ。
そうして二人きりの楽しい食事が終わり食器を台所に戻している途中、数人の修道女たちとすれ違った。彼女たちは私が食事を終えたばかりなのを見て取ると、楽しそうに笑いながら声をかけてきた。
「あら、また二人きりで食事? 仲がいいのねえ」
「ねえヘレナ、ロディのことはどう思っているの? 良ければまた後で聞かせてちょうだい」
「あなたたち、見るからにお似合いよね。うらやましいわ」
「身分の違いが気になっているの? そんなもの、どうとでもなるわ。親は反対するでしょうけど、私たちが教えてあげた手練手管で言いくるめちゃえばいいのよ」
彼女たちの遠慮のない言葉に私は赤面していたが、しかしそれを不快だとはこれっぽっちも思わなかった。むしろ、彼女たちの目に私たちがそう映っていることに、嬉しささえ感じていた。