4.忠義の人
嵐の中を徒歩でやってきたらしいその男性は全身ずぶ濡れで、濡れた黒髪が束になって顔に張りついていた。その隙間から見えている琥珀色の瞳が、ろうそくの明かりを受けてきらきらと輝いていた。
「ヘレナお嬢様、ああ、ご無事でしたか!」
その声を聞いたとき、私は思わず立ち上がっていた。彼は私の知っている人物だ。私の家に仕えている一番若い執事のロディ。しかし彼は一体なぜ、こんなところに一人で来たのだろう。しかも徒歩で。
「ロディ、あなたなの!? どうして、こんなところに」
周囲の修道女はみな黙って、事の成り行きを興味深そうに見守っている。ロディは濡れた前髪を払うと、私を見て安心したように微笑んだ。甘く柔らかな顔立ちがあらわになり、周囲からうっとりとしたため息が湧き起こる。
「お嬢様はきっと、こんな辺境の地で苦労しているだろうと思ったんです。ですから、お迎えに上がりました」
「お迎えに……って、お父様は何ておっしゃってるの?」
私がそう尋ねると、ロディは顔を曇らせた。一転して切なげになったその表情に、今度はどよめきの声が周囲から聞こえてきた。
「旦那様は何もおっしゃっていません。これは、俺の独断です。……出過ぎた真似だとは分かっていたのですが、どうしてもお嬢様を放っておけなかったんです。ですから休みをいただいて、勝手にここまで来てしまいました。俺がここに来ていることは、誰も知りません」
彼がそう言いながら目を伏せると、周囲の修道女たちから小さな歓声が上がった。彼女たちは間違いなく、この事態を面白がっている。
「旦那様もお嬢様のことを気にかけておられるようだと、他の執事が申しておりました。奥様もずっとお嬢様のことを心配しておられると、侍女たちからはそう聞いています。お嬢様がしっかりと説得されれば、きっと家に戻るお許しが得られるでしょう」
ロディは必死に食い下がってくる。彼がわざわざ迎えに来てくれたことはとても嬉しかったが、私はまだ家に戻りたくはなかった。私はもう、すっかりこの修道院に染まってしまっていたのだ。それに、ミランダたちから教わりたいこともまだまだあるのだ。
私が返事に窮していると、小さくあくびをしながらミランダが口を挟んだ。眠気をこらえられなくなっているのか、さっさと話を終わらせようとしているらしい。
「ロディとかいったかしら、坊や? ヘレナを一人で迎えにきたその根性は評価するけれど、今日はもう遅いわ。明日改めて、ゆっくり話し合ったらどう?」
「明日って……でも、外は嵐です、ミランダさん」
ここは男子禁制だから、ロディは野宿するほかない。けれど外はとても野宿できるような天気ではない。私がそう主張したところ、ミランダはひらひらと手を振って笑った。
「ヘレナの隣の部屋が空いてるじゃない。そこに泊めてあげればいいわ」
私が使っている部屋は元々二人部屋だったので、二つの部屋がつながった構造をしている。私は手前の部屋を使っていて、奥の部屋は寝台と机が置かれただけの空き部屋だ。
「え、でも男子禁制で」
「ああそれ、建前よ」
耳を疑いたくなるような言葉を聞いた気がする。口を開けたまま固まる私の前で、ミランダは心底愉快そうに笑った。
「ここは男子禁制ってことになっているけど、みんなちょくちょく男を連れ込んでいるのよ。よっぽどごつい男でなければ、修道服を着せておけばぱっと見は分からないし」
そう言いながらミランダはロディをじっくりと検分している。彼は男性にしては骨格も細目だし、修道服を着せても違和感はないだろう。いや、むしろ似合ってしまうかもしれない。
「ヘレナの続き部屋が嫌だっていうなら別の空き部屋を貸してあげてもいいけれど、坊やの身の安全は保障できないわよ」
気がつくと、周囲の修道女たちが獲物を狙うような目でロディを見ている。彼女たちが何を狙っているのか、今の私には嫌というほどよく分かった。確かに、彼を一人にしてしまっては危険だろう。命の危険はないが、それ以外が。
「分かりました、彼は私の隣の部屋に泊まってもらいます」
状況を察した私が有無を言わさずそう断言すると、ロディは戸惑い顔でこちらを見、修道女たちは残念そうな顔をした。
「ロディ、あとの話は部屋でしましょう。それではみなさま、おやすみなさい」
私が固まったままのロディの手を強引に引きながらその場を立ち去ろうとすると、周囲の修道女たちが一斉に冷やかすような声を上げて私たちを見送った。
「はい、これで体を拭いて。寝台はそちらのものを使えばいいから」
自室に戻った私は、奥の部屋の支度を整え、そこにロディを押し込んだ。体を拭く布を渡し、取りあえずの着替えを渡す。彼はまだあっけにとられていたが、素直にされるがままになっていた。
「お嬢様、少し見ない間にずいぶんとしっかりされたような……」
「ここでは自分たちのことは自分たちでするしかないから、嫌でもしっかりするのよ」
家にいた頃の私はまともに家事一つできなかった。その頃の私しか知らないロディには、こうやって手際よく動き回っている私の姿など想像もできなかったのだろう。
着替え終わったロディはまだ考え込んでいるようだったが、やがて恐る恐る口を開いた。
「もしかして、俺がしたことはただのお節介だったのでしょうか」
「どうしたの、急に」
「俺は、お嬢様がここで苦しんでいらっしゃると思っていたんです。だから、どうにかしてお救いしたかった。けれど今のお嬢様はとてもお元気で、楽しそうで……屋敷におられた時より、ずっと幸せそうにすら見えるのです」
「そうね、それは正しいわ。私はここでたくさんの友人を得たし、様々なことを学べたの。毎日がとても楽しいし、充実しているわ」
そう言いながら、私は思わず苦笑していた。私はここに来ることで以前の自分、愛することを諦めた貞淑な令嬢に戻ろうとしていた。それなのに、いつの間にかさらに違う自分になってしまっていたのだ。久しぶりに私に会ったロディが戸惑いを隠せないほどに。
「さあ、もう遅いしそろそろ休みましょう。おやすみなさい、ロディ」
彼を奥の部屋に残して手前の部屋に戻ろうとした時、突然腕をつかまれる感触があった。とっさに振り返ると、真剣な顔をしたロディが私の腕をつかみ、何かを言おうとしているのか唇を震わせていた。
私は内心では動揺していたが、ただ黙って彼の目を見つめ、彼が口を開くのをじっと待っていた。
私の家に仕える執事たちの中でも気弱な方である彼の目には、いつになく強い光が宿っていた。彼の顔にもう戸惑いはなく、真っすぐにこちらを見つめている。
以前の私なら、彼が何をしようとしているのかまるで見当がつかなかっただろう。しかしミランダたちにさんざん色々なことを教わってしまった今の私には、もしかして、という淡い予感があった。
期待を込めて見つめ返していると、彼はやがて肩の力を抜き、小さくため息をついた。私の腕をつかんでいた手がそっと離される。
「……いえ、失礼いたしました。おやすみなさいませ、お嬢様」
私はほんの少しだけ肩透かしをくらったような気になりながらも、静かに自分の部屋に戻っていった。