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3.楽園の裏側

 男心を学んだ方がいい、というのはどういうことだろうか。ミランダの言葉の意味が理解できずに私がぽかんとしていると、彼女は楽しそうな笑い声を上げた。


「だってねえ。あなた、マーティンがよその女に懸想してたのに、実際に婚約破棄されるまで全く気がつかなかったんでしょう? それって少し、鈍いと思うわよ」


「……鈍くても、特に困ることはないと思いますが……」


「いいえ、甘いわヘレナ。あなたが家に戻れば、きっとまた新しい婚約話が持ち上がるでしょう。けれどその時、また同じようなことが起こらないとも限らないわよね」


「それは、確かにそうですが」


「その時、男心や様々なことについて知っていれば、前のような辛い目に遭わなくて済むかもしれないのよ。そうは思わない?」


 確かに、彼女の言う通りだ。マーティンがミアに心奪われていたことに、もっと早く気づけていたら。そうすれば、もっと他にやりようもあったのではないか。彼を説得するなり、もっと円満な形で婚約を解消するなり。もしくは彼が思い詰めてあんな行動に出る前に、どうにかして止めることができたかもしれない。


 私がそんなことを考え始めたのを察したらしいミランダが、満足そうに笑ってぽんと手を打ち合わせた。


「ふふ、じゃあ決まりね。みんなにも話を通しておくから、色々と学ぶといいわ。まずは男心について。ああそれと、ここで得た情報の活かし方についても知っておいた方がいいわね。私たちか弱い女には、武器はいくらあっても困らないもの」


「はあ……」


 やけに楽しそうなミランダに、私はそんな気の抜けた返事をすることしかできなかった。






 それからの毎日はとても目まぐるしかった。いつもの他愛ないお喋りが、修道女たちによる講義の時間となってしまったのだ。


 彼女たちは私に、知っておくと役に立つかもしれない様々な情報をくれた。しかしその中には、本当に役に立つのか疑わしいものも多かった。私がいぶかしんでいると、彼女たちはそれは愉快そうに笑いながら「いいから、ちゃんと覚えておきなさいな」と弾んだ声で念を押してくるのだった。


 そうやって得られた情報は、現王の食事の好き嫌いや秘密の趣味といったこの上なくどうでもいいものから、今一番反乱を起こしかねない貴族の名といった重大極まりないものまで、驚くほど多岐に渡っていた。


 彼女たちは新入りから話を聞き出したり、外にいる知り合いと手紙でやり取りすることでこれらの情報をどん欲に集めているらしい。


 中には、定期的に修道院と実家とを行き来して直接情報を運んでいる剛の者も複数いるのだそうだ。無事に実家に帰れたのならここに戻ってくる必要もないように思えるのだが、どうやら彼女たちにとってここは実家よりも居心地がいいらしい。


 そしてミランダはちょくちょく私を部屋に招いては、二人きりで色々なことを教えてくれるようになった。


 男心の機微、それを踏まえた男性の操り方。人の心を操るというと聞こえが悪いが、要はいかにして男性の機嫌を損ねずにおねだりをするか、ということのようだった。「女性なら多かれ少なかれやっていることでしょう」とミランダは屈託なく笑ってそう言っていた。


 彼女の教えには思わず赤面してしまうような内容のものも多かったが、それでも彼女の言葉に嘘偽りはないように思えたし、何より自分が成長しているようで楽しかった。






「ミランダさんは、どうしてここに来ることになったんですか?」


 ある日彼女の話が一段落したところで、私はふと気になっていたことを尋ねてみた。彼女はわずかに肩をすくめると、ひょうひょうとした様子で答えを返してきた。


「私? 単純よ。夫に愛人ができて、私が邪魔になったみたいね。不義を働いたって濡れ衣を着せられて、ここに押し込まれたのよ」


 あくまでも軽いその口調と語られた内容との落差に、私は自分の耳が信じられず混乱するほかなかった。とても魅力的な女性であるミランダをそうまでして追い払いたかったとは、どれだけ見る目のない男なのだ、彼女の夫は。


 私がいきどおっていることに気づいたのか、ミランダは嬉しそうな笑みをこちらに向ける。


「あら、怒ってくれるの? 優しい子ね。でも仕方ないのよ、ここに来る前の私は本当に愚かで、魅力のかけらもない女だったから」


「ミランダさんはとても賢くて、魅力的です」


 私が力強く反論すると、彼女はふっと切なげな目になり、どこか自嘲的につぶやいた。


「それが、本当なのよ。夫の言うことに盲目的に従うしか能のない、愚かで人間味のかけらもない女、それが前の私だったから。……貴族の令嬢らしく生きようなんて考えたのが、そもそもの間違いだったのよね」


 貴族の令嬢らしく生きようとしたことが間違いだった。その言葉は、私の心に深く突き刺さった。この修道院に来る前の私は、まさに貴族の令嬢らしく生きようとしていたのだから。


「ねえ、ヘレナ。ここに来たばかりのあなたを見た時、すぐに分かったわ。あなたは昔の私にちょっとだけ似ているって。貞淑で無知で、そして馬鹿がつくほど素直。自分の身一つ守れない、とても清らかで弱い子だって」


 そう言われると反論できなかった。ミランダの指摘は、全て嫌というほど当たっていたのだから。


「だから、あなたには私のようになって欲しくないのよ。あなたはまだ若いし、これからいくらでもやり直せる。あなたがこれから私みたいな目に遭わないように、手を貸したいの」


 ミランダはそう言うと、私に向き直って微笑んだ。その姿はいつもの奔放であでやかなものではなく、まるでいつくしみ深い聖母のように私には思えた。






 そうして私がすっかり修道院になじみ自由気ままに過ごしていたある日、その転機は突然訪れた。


 その日は朝からずっと嵐で、激しい雨と風が一日中吹き荒れていた。けれどみんなはいつもと変わらずに、にぎやかで陽気に過ごしていた。


 夜になるとさらに風雨は勢いを増していた。宵っ張りのみんなですらそろそろ眠りにつこうとしていたその時、修道院の正面の扉が突然開き、横殴りの雨と共に一人の男性が駆け込んできたのだった。

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