1.そして修道院へ
それはある舞踏会でのことだった。伯爵家の一人娘である私は、婚約者であるマーティンと向かい合ったまま、礼儀正しく語り合っていた。当たり障りのない話が、ゆったりと静かに続いている。
彼は侯爵家の跡取り息子で、私と婚礼を挙げた後すぐに家を継ぐことになっている。これは親の決めた婚約だったが、特に不満はなかった。
それなりの家の令嬢であれば、結婚相手は自分では選ぶものではない。家同士の、親たちの思惑により決められる。そういうものなのだと、それが普通なのだと理解していたからだ。愛した人と結ばれる、そんな贅沢は許されないのだということくらい分かっていた。
その時、大広間に流れていた音楽が変わった。人々は互いに手を取り合いながら進み出ていく。ダンスの時間が始まったのだ。
私もマーティンと踊ろうと、彼の方に目を向けた。しかし彼は私に手を差し出そうとはせず、困ったような顔で立ちすくんでいた。やがて彼は意を決したように口を開き、こう言った。
「済まない、ヘレナ。僕は君と結婚できない。僕は本当に愛する人を見つけてしまったから」
いつの間にか彼のすぐ後ろには、一人の女性が寄り添うようにして立っていた。とびきり晴れやかな笑顔を浮かべたその女性にマーティンは手を差し伸べ、愛おしそうに抱き寄せた。
「待たせたね、ミア。さあ、行こうか」
「はい、マーティン様。これからは、ずっと一緒にいられるんですね」
「もちろんだ。僕が愛しているのは君だけだよ」
そうしてうっとりと見つめ合いながら去っていく二人の背中を、私はただ呆然としながら見送ることしかできなかった。
彼女には見覚えがある。あのミアとかいう女は、確か前にマーティンが友人だと言って私に紹介してきた男爵家の令嬢だ。どうやら、私の知らないところで二人は愛を深めてしまっていたらしい。
私は誰かを愛することを諦めたというのに、マーティンときたらちゃっかり愛する人を見つけ、私を捨ててその女を選ぶことにしたらしい。
けれど私の心の中には捨てられた悲しさはなく、代わりにちりちりと胸を焼くような嫉妬の思いが満ちていた。マーティンの愛を得たミアに対してではなく、本当の愛を見つけてしまったマーティンに対しての。
その舞踏会が終わってすぐ、彼の家から正式に婚約を破棄する旨の書状が届いた。それは一方的な通知だったが、マーティンの家より格下である私たちには、それに異を唱える術はなかったのだ。
そして私は、婚約者に捨てられた令嬢という不名誉な烙印を押されることになった。社交の場ではあの舞踏会でのことが面白おかしく語られ、私の噂はあっという間に広がっていった。マーティンに捨てられたこと自体は辛くはなかったが、家の名に傷をつけてしまったことは悲しかった。
他人と会うことが怖くなってしまった私は、じょじょに自室にこもるようになっていた。そんな私を持て余した両親は、とうとう私を修道院に送ることに決めてしまった。ほとぼりが冷めて噂話が消えるまで、そこで清らかな生活を送り、自分を見つめなおしてくるといい。両親はそう言っていた。
修道院、それは女性たちが神に祈りを捧げながら共に生活する場所だ。年頃の乙女には窮屈な所なのだろうが、今の私には似つかわしいように思えた。
私もマーティンのように、愛し愛される大切な人を見つけたい、そう思う心をどうにも止められなかったのだ。いずれ私はまたどこか他の家に嫁ぐことになるのだろうが、こんな思いを抱えたままではそれも難しくなるだろう。
そう思ったから、私は修道院送りを素直に受け入れることにした。きっとそこでなら、私はまた昔の自分に戻れる。貴族の令嬢として正しい姿に。
心を決めた私はたった一人馬車に乗り、何日も旅をして辺境の修道院の扉を叩いた。
「あら、あなたが新入りね? これはまた、可愛らしい子が来たものねえ」
そんな私の悲壮なまでの決意は、扉の向こうから現れた妙に化粧の濃い修道女の一言で粉々に砕け散った。その化粧は華やかなドレスにはよく合うだろうが、質素な修道服にはまるで釣り合っていない。
「あらほんと。こんなに若い子が来るなんてね。と言うことは、あなたは婚約破棄されたのかしら?」
さらに別の修道女が顔を出す。こちらも一応修道女のなりをしているが、あちこちにたっぷりと装飾品を着けていた。どれもこれも大きな宝石がふんだんに使われた、とても高級なものだ。
「さあさあ、こんなところまで来て疲れたでしょ。こっちに来て座りなさいな。みんなあなたのことを待っていたのよ」
呆然とする私の肩をしっかりと捕まえて、二人の修道女は奥の部屋へと私を引きずっていく。
二人の立ち居振る舞いは貴族のそれを思わせるものだったが、それにしては二人はひどく明るく、無邪気にすら見えた。貴婦人や令嬢がかならず持っている慎みのようなものが、二人にはかけらほども見られなかったのだ。
二人に連れられて私が奥の部屋に足を踏み入れると、そこは大机と椅子がたくさん並んだ食堂のような部屋だった。数十名の修道女が好き勝手に腰を下ろしていて、とても活気にあふれている。
そしてその場の全員が、興味を隠そうともせずに遠慮のない目でこちらを見ていた。悪意や敵意は感じないが、どうにも落ち着かない。
「最近新入りが来なかったから、ちょっと退屈してたのよね」
「さあ、さっそく話を聞かせてちょうだい」
「待ちなさいよ、まずはこの子にここの説明をするのが先よ」
私が勧められた椅子に腰を下ろした途端、修道女たちはいっせいに話し始めた。私が話についていけずに目を白黒させていると、中の一人が全員を制して立ち上がった。どうやら、その女性がここのまとめ役らしい。
質素な修道服ごしにも分かるほど豊満な肢体を誇るその女性はミランダと名乗り、なまめかしいその唇をにんまりと笑いの形につりあげた。
「ようこそ、修道院へ。ここは追放された女たちの楽園よ」