貧弱領主(候補)と賢者な婚約者~いきなり前世がとか言われましても理解不能です~
神聖帝国の名君を複数人上げよと言われれば必ず入る人物がいる。デリンガー辺境伯領領主・ディルク・ジギスムント選帝侯だ。
彼は妻である、ヨハン・ベルカ公の娘フィリーネを溺愛していた、という話はよく知られた話であり、当時の王侯貴族の間でもそのおしどり夫婦っぷりは話題であったことが史料からもうかがい知ることが出来る。
「フィリーネ、愛している!だから、お願いだから、俺を見捨てないでくれぇぇえっ!」
「見捨てたりなどしませんから、どうかお静かに願います。ディルク様」
これは、そんな名君とその愛妻が、まだ婚約者であった頃の話。
* *
良き領主が治めるところ、良き騎士がおり、良き騎士が守るところ、良き土地がある。良き土地が在るところ、良き領主がいる。
これは、私の生まれたベルカ公国で語り継がれてきた詩です。
良き政をするところには良き人が集まり、その土地は豊かでいられるという一節です。
正直、私は良き大地の他にその大地で働く人々――農民たちも入れるべきだと考えているのですが、韻の関係上、彼らの一節が無くなってしまったようです。土地を耕す大事な人々ですのに、全く残念でなりません。
自己紹介が遅れました。私、ヨハン・ベルカ公が第一子、フィリーネ・ベルカと申します。
「フィリーネ様、お支度をいたします故、腕を上げてくださいまし」
「ええ」
今日は大事な婚約者様と初めてお会いする日。小さいころから私に仕えてくれるカルラの気合の入れようはすさまじく、起床と共に湯浴みをさせる程です。
私が彼女の主人なのですけれど、こういうことに関しては身分よりも年の功。13の私は30になる彼女の言う通りにするべきと考えております。
カルラもそれを承知して、忌憚なき意見をどんどん言うので、正に良き侍女を持ったという感じです。
「フィリーネ様。相手は癇癪持ちの暗愚と専ら噂の方。せめて侮られぬ様、精一杯の準備はさせて頂きますね」
「ありがとう、カルラ」
先日、お父様よりお伺いした、私の婚約者・デリンガー辺境伯次期領主のディルク・ジギスムント・バルシュミーデ様。
かの名族バルシュミーデの宗家の生まれでいらっしゃる、御年14歳になられるお方です。お父上は賢君でいらっしゃいますが、調べたところその気質をディルク・ジギスムント様はご継承されていないご様子なのです。
「私は領主様を大変尊敬しております。しておりますが、ご自身の娘の婚姻相手を何もそんな噂のある方にしなくたっていいじゃないですか!」
「カルラ。貴族の結婚とはそのようなもの。知っているでしょう?」
「ですが、こんなに賢く、愛らしいフィリーネ様には勿体のうございます……!」
「そうしたら、私は貴女という素晴らしい侍女を得たことで、運を使い果たしてしまったのね」
カルラは本当に良い侍女なのです。あんまりに良い事を言ってくれるので、思わず笑ってしまったのですが、カルラはますます涙目になってしまいました。
それでも身支度の手を止めないのは、カルラの素晴らしい所ですね。
カルラと、彼女の選んだ侍女たちによって、頭の先からつま先まで完璧に整えられた私は、お父様に手を引かれながら馬車に乗り、ベルカの屋敷を後にしました。
そのころにはすっかり太陽は空にさんさんと輝いており、まるで私の初めての領地の外へのお出かけを祝福しているようでした。
「フィリーネ」
「はい、お父様」
「此度の婚姻は、先方きっての願いで実現した」
「まあ。では、デリンガー選帝侯の?」
「そうだ。あの方は子供たちに恵まれなかったからな」
お父様はそういうと、物憂げに馬車の窓から遠くを見ました。
デリンガー辺境伯は、神聖帝国王侯貴族のなかでも特権階級にあたる『選帝侯』を持っている貴族です。そのため、広大な領地を隣国や周辺の貴族に、継承権を親戚の方々に狙われる立場にある貴族なのです。
そのため、デリンガー辺境伯、ないしバルシュミーデ家は聡明な方を領主に置くことで、その領地と特権を守ってきました。
しかし、デリンガー選帝侯のお子様はディルク・ジギスムント様お1人の筈。それを、子供たち、とはどういう事なのでしょうか。
「――まさか、子供たち、とはご忠臣達のご子息たちですか」
「そうだ。どれもご嫡男にそっくりだそうだよ」
領地経営というのは、当然ながら一人で行うものではございません。逆を言えば、暗君であっても実務担当が優秀であれば領地は乱れないのです。実際そんな例は歴史でも数多ございました。
しかし、領主も暗君、臣下の子息も出来がよくないなど、初めて聞きます。
阿と言われたら吽と答えるにしても、それらが愚問愚答であれば全く意味がないどころか、むしろ害悪です。
「だから、自分が我儘を言える諸侯の中で一番頭の良い女であるお前が選ばれたのだ。 あの方ももう先がない――もう打つ手を出す時間もないのだろう」
「それは、なんとお労しい」
私は思わず手を口にやりました。状況は思ったよりも最悪です。
先ず一つに、対外状況があります。デリンガー辺境伯はその名の通り領地は国境にあります。地続きの隣国には東から馬を自由自在に乗りこなす民族――タンダル人が大挙で押し寄せている状況です。
そして内政状況――暗君と愚臣になりそうな方々しか今のデリンガー辺境伯にはいない。
最後に、私を婚約者にと推挙してくださった方は、余命いくばくもない状況。私はほぼ後ろ盾のない中、領主とその家臣の制止ないし忠告者になれと言われている状況です。
四方向を敵に囲まれているような、そんな事態です。
正直、私にそこまでの能力があるか、私自身は疑問に思っております。しかし、この状況で一番の被害は民、働く者たちです。彼らをないがしろにして良い領主、良い領地はありません。
私の些末な不安より、彼らの生活を守る義務感が、私の中で強くなりました。
「私としては名族・バルシュミーデとの接点は欲しいため、家としては互いに利があるのだ。家としてはな」
お父様はことさら家を強調するとと苦笑してこちらを見ました。つまり、私とディルク・ジギスムント様という個人間には利がない、ということでしょうか。これは先方の心情も容易に推し量れますね。
「こんな話はとても屋敷ではできなくてな――直前ですまないが、期待しているぞ」
「お任せくださいませ」
貴族の娘は血のつながった家臣です。父親が尊敬できる人であればあるほど、その子供は忠臣となります。
わたくしはベルカ公国一のお父様の忠臣。期待されてしまえば、応えるほかありません。
貴族の義務感と責務。この時まではその2つが私の心を突き動かしておりました。
そのお屋敷は、まさに質実剛健を建物で表現したような、そんな外観をしておりました。
ベルカ公国よりも随分と北にあるためでしょうか。空の色が淡く、それに合わせる様に町の色もどこか淡く、冷たい雰囲気があります。
馬車からみたデリンガー辺境伯領は、一言でいうなら、色彩のない領地でした。
「旦那様。ベルカ公と、そのご令嬢のフィリーネ様がいらっしゃいました」
「デリンガー選帝侯、お久しぶりでございます。これは、娘のフィリーネです」
「フィリーネと申します。ディリンガー選帝侯、これから、どうぞよろしくお願いいたします」
「――ああ、よく来てくれた」
賢君と名高いデリンガー選帝侯は思ったよりもずっと老いている方でした。それは彼の方を蝕む老いと病がそう見せていたのかもしれません。寝室とはいえ、椅子に腰かける姿はそれだけで辛そうで、すぐにでもベッドを薦めたくなるほどでした。
「すまない、フィリーネ嬢。私がこんな状態でなければ、貴女をこんな境遇にはしなかった」
「とんでもございません」
「せめて、私が存命の間に貴女を迎え入れる準備はつつがなく完了させることを約束しよう」
「……ありがたく存じます」
ぜいぜいと荒く息をする選帝侯を前に、私が言えることは感謝を述べる事のみでした。
「フィリーネ嬢、隣の応接室に我が息子ディルクを待たせている。申し訳ないが、会っていただけないだろうか」
「フィリーネ行ってきなさい。私はデリンガー選帝侯と話がある」
「かしこまりました。 ……デリンガー選帝侯。失礼いたします」
「ああ、どうか愚息をよろしく頼む」
私は従者の方に連れられて、隣の応接室に参りました。部屋には真っ白なテーブルクロスの引かれた机と、その一番手前にちょこんと座る方がいらっしゃいました。この方がディルク・ジギスムント様でしょう。
でもなぜ手前に座られているのかしら?
私は首をかしげながらも、その方の前で淑女の礼を取りました。
「お初にお目にかかります。ヨハン・ベルカが娘・フィリーネでございます」
「あっ、ああ。私はユストゥス・クラウス・バルシュミーデが第一子、ディルク・ジギスムントだ――私のことはどうかディルク、と」
「はい。ディルク様」
ディルク様はそう言うと、慌てて立ち上がり、さっと手を出してきました。北の方よろしく、選帝侯譲りの銀の髪に、赤茶の目、神聖帝国一の美女と歌われたドロテア様にそっくりのかんばせをしておりました。
とっても簡単に言うと、恐ろしいまでの美形です。ただ、ご年齢もあって顔は少し幼く、少し線は細いかしら。
私はその手を握りながら、頭の中は疑問符でいっぱいでした。
ご評判を聞く限り、もっと傲慢な方かと思っていたからです。しかし実際は、挨拶をするために自ら立ち上がり手を差し出されました。随分とご評判と真逆の対応です。
ディルク様は一つ笑うと、使用人に頼むでなく、自ら私のために椅子を引いてくださりました。やはり、噂とは大分違う方のような気がします。
彼の方は従者の方にお茶とお菓子をお願いして、私の真正面に座りました。
出てきた紅茶とお菓子は一級品でした。特にお菓子は希少な砂糖をまぶしてあるもので、それはそれは美味しかったです。
「さて、フィリーネ嬢」
「はい」
「貴女は、前世というものを信じますか?」
「――はい?」
ディルク様、曰く。
前世の記憶、というものを思い出したのは、14歳を迎えてしばらくしたある日の夜のこと、それは夢の中で起こったそうです。
「前世の私は体が小さく、偉丈夫の父に比べて、とても卑屈になっておりました。終始周りに侮られまいと傲慢に振る舞い、諫言を暴言と勘違いしました。故に周りにはおべっかを使う者しかいなくなりました」
そして、前世ではデリンガー選帝侯もご病気ではなく、それ故に親子対立は絶えなかったそうです。
体が小さいという、見た目にもわかる悪点。尊敬する父に認めてもらえない悔しさ。それらは癇癪という形でディルク様の表層に表れたのでした。
「そして私が14歳を迎え、婚約が成りました。相手の名前をフィリーネ・ベルカ――つまり貴女です。貴女は前世でも素晴らしく賢い令嬢ともっぱらの評判でした……そして同時に、それは矮小な私をさらに小さく、そして卑屈にさせました」
ディルク様はお母様に『女とは尊敬する者には黙るもの。だからこそ、妻を傅かせてこそ立派な男』という教育を受けていました。
だから、女だてらに男に口答えする私は、きっと自分を馬鹿にしていると思い込み、とても腹立たしいと思ったのだそうです。
「全くもって馬鹿らしい話です。貴女は私を思って忠言してくれたのに、私はそれをわからないどころか、敵だと思い込んでいた。だから偽の甘露に、真の敵に飛びつきました」
偽の甘露――名をリーゼ・リヒテンベルク様と仰るのだそうです。彼女はデリンガー辺境伯の隣の領地であるゲープハルト伯の臣下の娘でした。
リーゼ様はいつも太陽のような笑顔を絶やさず、毎日毎日、ディルク様を褒めてくれたそうです。二言目にはすごい、さすがと言い、笑いかけてくれる女性でディルク様は段々と彼女に惹かれていったそうです。
「前世の私はリーゼにとても惹かれていました。だから父に何度も婚約者の変更をしたいと伝えていましたが、当然受け入れてもらえません。それが余計、私の中でのリーゼへの愛を深めていきました」
膠着状態の中1年が過ぎ、ディルク様が16歳になった頃、転機が訪れました。
お父上のデリンガー選帝侯が馬車の落馬で急逝されたのです。
「私は人目もはばからずリーゼと会う様になりました。当然、その逢瀬をフィリーネ嬢に咎められました。腹立たしい私は余計リーゼと会い、また貴女に咎められる。負の連鎖になっていきました。そんな時です、リーゼが貴女に苛められていると言ってきたのは」
もとより私が気に食わずリーゼが好きなディルク様は、これを解決することで男としての甲斐性を見せつけ、ひいては好きな令嬢を手に入れられる、一石二鳥の出来事だと歓喜ました。
「そして、自分の臣下も巻き込んで、貴女を一方的に断罪、婚約破棄まで行いました――私が行った最初の悪政です。当時は、一番の功績だと思ってましたがね」
小賢しい私は婚約破棄の傷ありでベルカ公国に帰り、ディルク様は愛するリーゼ様と結婚してどこまでも幸せに暮らしました、となるはずでした。
しかし、そこらからがディルク様の転落人生の始まりとなりました。
「妻としたリーゼは悪妻でした。宝石やドレス、菓子といった贅沢品を所望しました。私は妻を満足させるのは夫の甲斐性と言われるがままにそれらを与え続けました」
贅沢品の浪費は辺境伯爵家の財政を逼迫させていきました。広い土地と比較的肥沃な土地である程度あった蓄えはあっという間になくなりました。
「当然、交通整備などの公共事業は遅々として進まず、騎士たちは悪くなる土地と待遇にさっさと見切りをつけて、別の主君に剣を捧げました」
悪い意味で広くなる一方の領地を適切に管理することは出来ず、逼迫する財政も相まって領地を切り売りする様になります。
「一時的に入ったお金は焼け石に水、根本的な解決になっておりません。しかし、根本的な解決が出来る人材が領内にはいませんでした。結局、土地を売った金でやり繰りをする日々が続き……選帝侯として不適格とされ、一般の貴族に格下げになりました。逆に、格上げになったのは隣のゲープハルト伯です」
そして、悪妻となったリーゼ様はお子が出来ないのを理由に、全ての宝飾品を持って生まれ故郷のゲープハルト伯爵領に帰ってしまいます。
ディルク様はこの時ようやく、彼女が辺境伯を陥れるための傾国の花だったことに気付きました。
「さらに追い打ちをかける出来事がありました。東のタンダル人たちです。私の領地の事情が、外つ国にも漏れ聞こえたのでしょう、彼らは契機と私の領地に侵攻してきました――その頃私の領地は売れ残ったやせた土地ばかりで、騎士もおらず、慢性的な財政難から傭兵も満足に雇えませんでした」
近隣の諸侯に助力を求めようにも、旨味のない土地、領主を助ける人はおりませんでした。
デリンガー辺境伯領は蛮族を前に、ただ無抵抗に蹂躙され、多くの大地と人が焼き払われました。
「あの光景は私の目に未だ焼き付いています。やせた土地で家々は燃やされ黒い煙を上げていました。道を歩けばろくでなし、と痩せた農夫に罵られました。息子を返せと血走った目をした農婦に叫ばれました……あれが地獄というのだと思います」
ディルク様は最終的に貴族位を剥奪され、放逐されました。しかし、彼が小作人として働くことなど当然できるわけもなく、最後は乞食にもなれずに衰弱して亡くなられたそうです。
享年38歳。領主としては余りに早く、最期は余りにも惨めです。
「選帝侯の地位をなくすばかりか、辺境伯である本来の役目も果たせず、あまつさえ異民族の帝国領地への侵入を許し乞食にもなれない。それが前世の私でした」
「……周りの皆様は、本当に誰も助けて下さらなかったのですか」
「ベルカ公だけ。しかし、私は負い目からその手を取ることが出来ませんでした」
とても後味の悪い物語を聞かされた私は、何とも言えない顔をディルク様へ向けました。当のディルク様は、とても憔悴しきっていました。まるで本当にあったことを話すような、告白室で懺悔しているような姿でした。
ですから、私はこの話をよくできたお話だとか、事実無根の妄言だとか、そんな事を言う事が出来ませんでした。
私が黙ったままでいると、ディルク様はさらに苦笑を深くして、実は、と再び口を開きました。
「これは、一番初めの物語です」
「と、いいますと……?」
「私は38で死ぬまでを、3回繰り返しました。その中には領主で一生を終えたものもありました。でも結局貴女との婚約破棄はことごとく成り、わたしは悪妻を迎え、それ故に農民たちは苦しみ領地は蹂躙されます」
私は思わず閉口しました。
こんな過酷な状況と、何十年もかかるものを3回も繰り返した。それはこんなに憔悴してしまうのも頷けます。
しかし、彼の話を真実として受け入れてしまう事は私にとって大変難しい事でした。趣味が戯曲や音楽を聞くことで、だからこそ精巧にできた虚構という方が、まだ信じられます。
「フィリーネ嬢、私は暗君だ。どんなに頑張っても全て空回りをして、何一つ良い決断が出来ず、領民たちを不幸に陥れ、領地を荒らしてしまうのです」
ディルク様はそう言うと拳を固く握りました。震えているのは恐怖からか、絶望からか私にはわかりませんでした。
しかし、私は一つ分かったことがあります。だからこそ、ディルク様の震える拳に私は両手を添えました。
「フィリーネ嬢……?」
「ディルク様。私は正直、貴方のお話が本当なのか疑っております。ですが、一つ信じられるものがございました」
「なんです」
「貴方の善良さです。貴方は終始農民について言及していらっしゃいます」
そう、この方のお話は最終的に、領民を守れなかった、領地を守れなかった、この2つに全て終着します。一番詳細に語られたのは無残な領地の姿で領民の嘆きでした。
仮に、万が一、本当に3回も人生を繰り返したとするのなら、ディルク様は1度目の農民の姿を未だに覚えているのです。
「良き領主が治めるところ、良き騎士がおり、良き騎士が守るところ、良き土地がある。良き土地が在るところ、良き領主がいる」
「それは……?」
「これは、私の生まれたベルカ公国で語り継がれてきた詩です。でも私、この詩に一つ不満がございますの」
「素晴らしい詩だと、思いますが」
「でも、農民がおりません。土地を耕す大事な人々ですのに、全く残念でなりません――その点、ディルク様は素晴らしいです。ちゃんと農民のことを考えておられる」
ディルク様は私の言葉に、顔をくしゃくしゃにしました。目には涙がうっすらと溜まり、正直、貴族らしいお顔ではありませんでした。
でも、人間らしいお顔をされていらっしゃいます。
私はそちらのお顔をされる方のほうがずっと好ましい。
「おれ、は……でも、俺は失敗しているんです……」
「何をです? この世では貴方はまだ14歳ですよ。貴方のお父様はご存命で、選帝侯です。リーゼ様ではなく私が婚約者です。領地は広大で肥沃、農民たちだって健在です」
私が指折りながら事実を並べていけばディルク様はハッとしたように顔をあげました。
貴族社会の一人前は、男性は15歳、女性は14歳ですから、お互いにまだ子供です。子供が何が出来るというのでしょう。優秀だという評判が私にはあるようですが、それだって机の上でのこと。実績など一つもない、ただの子供です。
「ディルク様。私は貴方のその善良さを、農民まで目を向ける視野の平等さを美点だと尊敬いたします。だからどうか、ご自分をそんなに卑下なさらないで」
「フィリーネ嬢……」
「貴方は素晴らしい領主になれます。暗君などには、私がさせません」
私は心の底からそう思いました。
だから、その気持ちが顔に出ていたのでしょう、私の顔を見たディルク様は、くしゃくしゃだったお顔にさらに皺を刻んで、赤銅色の目から涙が次から次へと流れました。
「うえっ、う、ひぐっ……フィりーネ、じょお、ヒッ、すきです、あなたが、好きです、ひぐっ」
「まあ。では私たち、相思相愛の結婚が出来ますね。」
「フィ、ふぃリーネ嬢、うっ、ひぐっ、すきです、好き、で、う、うううう」
「あらあら、まあまあ」
ディルク様も涙を止めたいと思っているのでしょう、時折歯を食いしばって何とかこみ上げるものを嚥下しようとしているようですが、それ以上に溢れてくるのか、結局肩を強張らせながら、テーブルクロスにたくさんの雫が落ちていきます。
私はハンカチを取り出して、せめてテーブルクロスの染みがこれ以上増えないように頬に伝う雫を拭いて差し上げました。
すると、さらにディルク様は歯を食いしばるものですから、私はついつい笑ってしまいました。
本では愛の言葉は雄大で華麗な言葉の数々で詩のように表現されていました。
しかし私が実際に受けた愛の言葉は、嗚咽にまみれた、私のお名前もちゃんと呼ばれない、お世辞にも華麗とは言えないものでした。
でもやっぱり、私はそちらの方がずっと好ましいと感じます。
だって、ちゃんと心をくれている気がしますもの。ずっとずっと、素晴らしいものです!
これから先の未来は、誰にもわかりません。私にもわかりません。
ディルク様が本当に暗君にならないかも、わかりません。
でも一つ、義務でも責務でもない感情が私の心を突き動かしていくのを私はこの時確信いたしました。
13歳にしてはあまりにも人が出来過ぎているので、ハイパーチートなのはループしたほうではなく、ループしてないほうです。