はじまり
いつも通りの朝だった。
大好きなコーヒーの香りを楽しみながら朝食を済まし、スーツに着替えて支度を整える。その間、テレビのニュースでアナウンサーが読み上げる情報を聞き取り、最後に天気予報をチェックして電源を切る。
一気に静まった部屋に「行ってきます」と告げて、彼女は扉を閉じた。
最寄り駅に向かう途中、Y字路の右手に自転車に乗っては登れないほど急な坂が待ち構える。彼女はその坂の横にある階段を使っているが、朝から見上げなくては終わりが見えない階段を上るのは気分が下がる。もう何回上り下りしているかわからない階段へ、気合いを入れて進み出した時だった。
ドンッ
身体の左側に黒い何かがぶつかり、次に左半身が地面に打ち付けられる。
何が起こったか、わからなかった。
ぐらりと揺れた視界を、朦朧とした意識の中で情報を分析すると、黒い何かはバイクだったらしい。視線の先に大破したそれが、壁にぶつかって止まっていた。その隣にヘルメットを被った男性が倒れており、彼女は起き上がって駆けつけようとした。しかし、身体は全く動かない。
(あ、れ……)
救急車のサイレンが聴こえてくる頃には、すでに彼女の魂は身体から抜け出していた。
*
「……それで、私は死んでいると?」
「はい。残念ながら」
目の前には、ギリシャ神話に登場しそうな白い服を着た女性が微笑んでいる。いきなり真っ白な空間で目が覚めたと思えば、女神と呼んでも遜色ない美人が、日本語で自分が死んだと説明する。正直、頭がおかしくなったのだと、彼女は理解した。
(早いとこ、夢から覚めないと。警部に怒られる)
溜まっている仕事を思い出して、溜息がもれる。
「私、もう起きないといけないので。さようなら、女神様」
妙にリアルな夢に、どうやって目を覚ませばいいかわからないが、とりあえず目を瞑って瞑想してみた。
起きたら事故の報告など、面倒な手続きが待っていることだろう、スケジュールを頭の中で確認する。しばらくして、ゆっくり目を開いてみると、先程の美人が顔を覗き込んでおり、彼女は思わず声をあげた。
「うわ!」
「……あなたはもう、あの世界での人生を全うされました。これは夢などではありません、次の人生を決める『定めの間』です」
そういうと、女神は彼女の手を取る。
自分の手は幽霊のように透けていて、息を飲んだ。
(何これ……)
それを目にした瞬間、全身に鳥肌が立つ。
「死んだ、の?」
受け入れがたい事実に、女神は優しく微笑むだけ。
「次の命はどう使われますか?」
「どう使うって……」
口が乾き、ごくりと唾を飲み込む。一体これは何なんだと、思考が埋まっていく。
混乱しているのを見兼ねた女神は彼女が理解できるまで丁寧に何度も説明した。やっと自分が死んだのかもしれない、と思えた時には、身体の透明化がかなり進んでいた。なんでも全身が透明になる前に、次の人生について決めなくては、魂は消失するそうだ。
時間がない中、彼女は頭を悩ませていた。
次の人生と言われても、また苦労して、こんな終わりを迎えるならば、消失したほうが楽なのではないか、と。
彼女の人生は、険しい山と谷しか観ていないようなものだった。家庭の環境によって、将棋倒しのように崩れていく生活。その中でなんとか勉学をおさめ、職に就いた。その職場というのも、決して楽ではなく、自ら茨の道を進むようなものだとわかっていたが、最低限の正義というものを守る番人だと思えば、苦ではなかった。
「欲のない方なのですね。いえ、欲というものを抑えることができる、強い方です。そんなあなたに、わたしからの提案です」
女神は何もない空間から、一冊の本を取り出した。どうやらこの美人は本当に人ならざる者のようだ。
「それは……」
見覚えのある表紙に彼女は目を見開く。
『金の瞳に願う』
中学生の時に出会った、大好きな小説だった。高校の頃はよく読み返していたが、あれ以来どこにしまったのかも忘れて、触れていなかった。
「この話の世界で、生きてみませんか」
それは心を揺さぶる勧誘だった。
地球ではないどこかへ行けば、違う生き方ができるのではないか。それに、この話には “彼” が登場する。
できることなら、彼を一目でいいから、見たい。
彼女は心を決めた。