◆ 昔話と今話
八十年前。
エイダはトゥーンに住む商人の家の娘だった。一般的で平凡なごくごく普通の商家の、ちょうど真ん中の子。
ただ一般的でなかったのは、およそ二百年ほどの前世の記憶があること。人の思考が読めてしまうこと。
そして、前世で世話になった、この世で最も大切な『家族』を探していること。
そのためにエイダは幼い頃から必死だった。普通の家で普通の暮らしが出来ながらも、どこか切羽詰まったような少女だった。両親たちも、あまりにも不思議な自分の娘を持て余しながらも、彼女を大事に育てた。
独り立ちできるようになったら、旅に出て『家族』を探しに行く。世界中を回って、あてもない旅をする。エイダは生まれた瞬間からそう心に決めていたが、外界は別の流れで時を刻む。
彼女を見初めたという男が出てきたことで彼女の人生は一転する。
男の名前はヘルガ・グレンフェル。
宝石商として名を上げ始めた男だった。エイダよりも十も上の男だが、エイダを心底気に入ったらしい。彼女の知らぬところで、結婚させてはもらえないかとエイダの両親に掛け合っていた。エイダの年齢的に結婚しても良い娘であることや、相手の家柄もまた悪くないことから、良縁だと両親たちも乗り気になった。
エイダは置いてけぼりのまま、話は進み、エイダは断ることも出来ず、グレンフェルの家に嫁ぐことになってしまった。
そして、ヘルガとの結婚生活が始まった。
間抜けか、冷徹か。どちらかと言えば、後者だろう。エイダは薄笑いを浮かべそうになるのを堪えながら、使用人から告げられる彼の言伝を聞いた。
「そう。わかったわ。折角だから、この前買いつけておいた果実酒を用意しておいてね」
今日は珍しく屋敷に戻り、夕食を取るようだ。辛うじて、今年は結婚記念日と言うものを覚えていたようだ。忘れたままでもエイダとしては構わなかったが。
結婚して早三年目。昨年の結婚記念日はお互いトゥーンにすらいなかったか。
元々ヘルガは仕事――いやグレンフェル家か――一筋なところがあり、エイダを家業を発展させるための相棒として娶ったようだった。
夫婦の営みは勿論、夫とは仕事の場以外では殆ど顔を合わすことはない。いや、仕事ですら合わせなくなってきた。エイダへの感情も、彼女が捉えられる範囲では仕事の相棒としての感情のみだった。妙な男だ。何のために娶ったと、エイダも勘ぐった時もあったが、今となってはこの鋼鉄の男には感謝していた。
この家のおかげで、エイダは大陸を好きに動き回ることが出来た。当然、仕事はついて回るが、それでグレンフェルの財や力がつくならば、やがてそれは自分へと返ってくる。
すべては『家族』との約束のために。
仕事を名目に各地に赴き、二百年間培った知恵と狡猾さと読心を駆使し、傍から見れば夫の家の為に奮闘する良妻を演じきっているだろう。
(……今日は旦那様も帰宅なさるのね。珍しい)
(私には……奥様、嬉しそうには見えないわ。奥様からすれば旦那様は『おっさん』だもの)
(奥様の年齢は絶対詐称よ! あんなにひっつめにしちゃって!)
(旦那様も奥様も、なんか夫婦って感じしないのよねぇ)
(旦那様の愛人が社内にいるって噂、本当かしら。奥様、知っているのかしら)
(奥様が出張ばかりするのは各地に金で買った男がいるって聞いたけど、本当かしら)
(まだ若いのに凄いわねぇ。そりゃ十も年上の男に娶られちゃ、遊びたくもなるわよねぇ)
今日も噂好きの使用人たちが『声』高々に心を震わせる。給仕の仕事が終われば、エイダの見ていないところでその話に花を咲かせることだろう。今日は特に夫が帰ってくるのだから、話は尽きないに決まっている。彼女らの息抜きとして、何より声を出して笑いたくなるような話だからエイダも妖しく微笑んでみせた。
決して、良妻ではないかもしれない。
仕事以外はすれ違ってばかりの仮面夫婦。
夫はグレンフェルの発展を、妻は別の『家族』を見つめて奔走。
全く正反対の方向を向き、突っ立っているだけの夫婦だろう。たまたま立ち位置が近くなだけだ。
その証拠に――。
「ああ、それと明日の馬車のことだけれども――」
明日の昼から、エイダは旅に出る。旅と言っても大したことのない――学都までだ――旅行で、多少は仕事も兼ねていた。当然、真の目的は別だが。
告げれば、使用人たちの『声』は更に華やぐ。まったくもって可愛らしいことだ。肉体的な年齢も性別も同じだが、まるで違う生き物だ。今の彼女たちの頭の中は他人の恋や愛、不義不貞のことばかりで、それに僅かに自己投影して酔うのだろう。呆れや驚嘆の他にも、羨望の眼差しもある。中には良い歳こいて未だ少女めいたことを考えている者もいる。
いつか彼女たちの噂のように、夫が他の女に手を出し、上手いこと離婚へ繋がらないかとエイダは思った。残念なことに旦那にそんな分かりやすい下心はないし、それどころか女に興味あるのかと聞きたくなるほどだった。
折角だし、夕食時にでも聞いてみようかしら。エイダは笑みを浮かべながら廊下を歩いた。そんなことしたらきっと今日の給仕の使用人は目をひんむくだろう。
部屋に戻り、扉を閉める。静寂が訪れると、エイダは人知れず息をついた。化粧台の鏡で顔を見れば、まだ若いはずの顔には渋い苦笑が浮かんでいた。
面白がるのも、本音のところは皮肉だ。浮かべる笑みも掻き消して今すぐ飛び出したい。
うるさい使用人たちも、好奇の目を向けて彼女らと大差ないことを静かに考える部下たちも、仕事も、この家からも。自分を束縛するものはたったひとつであるべきだ。
すべて、ヘルガ・グレンフェルほど静かで放っておいてくれる存在なら、もっと楽だったのに。
そこまで考え、なんだかんだ情が移っている自分に、エイダは苦笑すらも消した。よくない。これはきっとよくない。
衣装箪笥を開ける。
仮にも結婚記念日だ。それらしい服でも着なくては。用意させている食事に合うドレスを。
妻としてこの家に来てから買い与えられたドレスの中からそれらしいものを選ぶ。姿見の前で服を身体に合わせて悩み――、
「ふん」
薄緑色のドレス――つい最近買い与えられたものだ。派手すぎず、割とエイダの好みだった――を選び、それと合う装飾品も選び、着ていく。悩むほどでもないだろう。物としても条件にしても可もなく不可もなくだ。使用人たちの意見を聞くのも面倒だ。
髪はどうするか。少しくらい飾り立てるか。
ひっつめにしている髪をふわりと下ろし、鏡の前で思案する。僅かに頭痛を感じるが解放感に肩の力が抜ける。金色に近い茶髪は気に入っていた。髪質も悪くない。じっと鏡を見ながらゆるやかに肩に垂らして指に絡ませ、――これまた阿呆らしくなり、エイダは鼻を鳴らした。
「ねぇ」
廊下に顔を出し、近くの使用人に声をかける。ちょうど年齢的にも同じくらいの女中がいた。女中は髪をだらりと垂らしているエイダを見て僅かに驚いたようだった。
――髪型くらいは、媚を売ったっていいかもしれない。どうせまた明日から顔を合わせないのだから。
(先月俺が買ったドレス。サイズも合っていたか。髪を珍しく垂らしている。いつもよりも若々しく見える、が。ふむ。ドレスと髪型がいまいち合っていないな。装飾品は悪くないというのに。髪型は使用人か何かの入れ知恵か? エイダの趣味ではなさそうだ)
それが結婚記念日に妻を見た瞬間の感想か。無理矢理に結婚をこじつけた割に淡白すぎるのではないか。半眼で睨みそうになるのを堪え、エイダは小さく肩をすくめた。
「髪型がどうやらお気に召さなかったようで」
「いや、気に入らないというよりも、そのドレスには合っていないだけだ。可愛いらしいという表現が似合うかもしれない」
エイダの言葉に僅かに驚きながらもヘルガはエイダの髪に触れる。緩やかに巻かれて下ろされた髪を手の中で弄んでいた。
むず痒い。夫の言葉に偽りはなかった。世辞でもなかった。
手が僅かに肩に触れると、エイダはハッと我に返り、半身を逸らして夫の手から逃れた。
ヘルガも何事もなかったかのようにそれを許した。触られるのを嫌がった妻に苛立ちも嘲りもせず、着席した。
いつだって無表情で淡々としていて、感情らしい感情を示さない。
(さて、食事はなにかな。屋敷の食事は久々だ)
他人に興味などないのではないかと思う。人間味の薄い表情のまま食卓で手を組み、給仕が来るのを待つヘルガ。自分がいてもいなくても、この男にとっては何一つ変わりはしないだろう。エイダは強く確信しながら夫の前の席に着席した。
ヘルガが小さく笑みを浮かべた。
(今日は結婚記念日だ)
言葉を出されなければ返す必要もないだろう。出されたとしても同意しか出来ない。
沈黙のまま食事を待ち、沈黙のまま食事は進む。ヘルガはそれを気にもしない。エイダも、ただ一人で取る食事となんら変わりない。使用人たちの『声』ばかりが響く。用意した果実酒もドレスも髪型も沈黙だ。
結婚の意味はあったのだろうか。無意味に束縛されるだけではないか。結婚をしなければ、今頃一人で大陸を渡り歩いていただろう。
エイダは極力晴れ晴れとした笑顔を浮かべた。食事は終わりだ。
「明日から暫くフィーヴに行くわ。いいかしら?」
するとナプキンで口を拭っていたヘルガの手が止まった。彼の目がエイダを見た。
(……笑っている。が、目が笑っていない。強すぎるな。俺と同じく。許可は不要)
「……また旅か。お前は旅が好きだな」
理解に苦しむ感想と共に聞こえてきた言葉にエイダは笑みを強める他なかった。ヘルガは無表情だ。食事をしようが、仕事をしてようが、妻が急に旅立つと言おうが、変化なく。
「帰ってくる度に絶望的は顔を見せるくせに」
「……別に旅が好きなわけではないの。危険が伴うし、一つの場所に落ち着いているのは楽だもの」
運ばれてくる香茶に鼻孔を擽られ、僅かに心が緩むのをエイダは感じた。この香りをどこかで嗅いだことある気がした。
「でも私にはやらねばならないことがある」
カップを運ぶ給仕の手を見ながら、エイダはぽつりと呟いた。
目の前にカップが置かれ、ゆっくりと高い位置から茶が注がれていく。対面のヘルガのカップも同じくだった。
ヘルガはずっとエイダを見ていた。
「まるで御伽噺の勇者のようだな」
「ええ。……勇ましくてかっこいいでしょう」
「ああ。まだうら若い女とは思えん」
強い視線を感じるが、エイダはヘルガの言葉も視線も無視した。
給仕が下がると、ヘルガが身を後ろに逸らすのをエイダは視界の端に捉えた。彼が前傾姿勢だったことに彼女は今更気付いた。
(良い機会かもしれない)
何が?
問う前にヘルガが小さな笑みを浮かべ、口を開いた。
「まぁいい。先日はお前もよくやってくれた。休暇と視察を兼ねていって来い」
「……そうするわ」
結局、仕事か。エイダは注がれた茶を口に運んだ。
その味を舌で堪能し、ふと何かひっかかるのを感じた。いつもの茶と違う。そして、やはりどこかで飲んだことある茶かもしれない。しかし、記憶に薄い。
「つくづくお前を娶ってよかったと思っている」
(お前と結婚できたこと。感謝せねばならぬ幸せ)
違和感が次々に襲ってくる。エイダはそう感じた。気付けば顔をしかめていた。
困惑を示すもヘルガは砂糖壺から砂糖を取りだしている最中でエイダを見ていなかった。また違和感をエイダは感じた。
「我々はちっとも夫婦らしくないかも知れないが、私はお前が妻でよかったと心の底から思っている」
「……好き勝手出来るからでしょう」
ヘルガは砂糖を壺から上手く取り出せず、テーブルの上に一粒の砂糖が転がった。
ヘルガは肩をすくめる。
「好き勝手。まぁ、そうだな。それもある。だが一番の理由ではない」
砂糖と取るのを諦めたのか、ヘルガはそのままカップを口に運んだ。
エイダは怪訝な顔で砂糖壺を見つめ、ようやく違和感の一つに気付いた。
この男は茶に砂糖は入れない。
「……嘘ではない。今の言葉は本心だ」
エイダの表情から何を勘違いしたか、ヘルガが強い言葉を重ねた。
「好き勝手?」
「違う。その前だ」
その前となれば、やはり急な告白だろう。エイダは更に怪訝な表情で、今度こそ夫を見た。
ヘルガは目を閉じ、カップを口につけたまま。
「今まであまり伝えられなかったからな。思いついたときに言っておこうと思う」
「………………」
いつまでカップに口をつけて固まっている気だろうか。
(緊張するな……)
まどろっこしさと困惑で皺が寄る眉間をエイダは軽く揉んだ。茶を口つける。どこで飲んだのだろうか、この香茶は。記憶を辿ろうにも集中できず、心中で嘆息した。ヘルガは未だカップに口をつけている。
食事の時と変わらぬ沈黙だと言うのに、雰囲気は異様だ。給仕の使用人たちの『声』も色めき立つ。
ようやくヘルガはカップを下ろした。かちんと食器と食器が合わさる音が響いた。
(進退つかない。まずは――)
何を言うかと思えば、使用人たちを下がらせるだけだった。
(邪魔者は排除だ)
興味津々な心を押し隠し、主人の命で使用人たちは静かに食堂から出て行った。
(先手は打ってあるが、更なる先制が大切だ。妻は明らかに困惑している。今が好機だろう。地の利はなく、不利とも言えるが、気後れは不要。初手は不意打ち。ジャブだ。まずは言葉を挟ませない。そして、隙は与えず、続けて畳み掛ける。互いの為にも)
いつもと正反対にうるさい夫の『声』にエイダは目を閉じた。組手の準備でもすればいいのか。それとも『耳』を伏せた方がいいのだろうか。目を閉じる前に見えたヘルガはまた前傾姿勢になっていた気がした。
「私はな……エイダ」
うるさかったはずの『声』が止み、静かで強い声がエイダの耳に入ってくる。エイダは目を開け、ようやく口を開いた夫を見つめた。
「書物に出てくるような恋愛というのがよくわからん」
反応に困る、見事な『不意打ち』とやらだろう。不意打ちが来るとわかっていてもエイダは眉を寄せ、目を瞬かせずにいられなかった。思わず手でもう一度言ってと制したくなるほどだ。
しかし、ヘルガはそれを許さなかった。先に待てと手で示した。
「人の言うような恋も理解出来なかった。――ただ、これでも情のある人だ」
エイダは弾かれたように反射的に鼻で笑った。呆れを示し、首を振る。
(不意打ちだ。しかし手はやめない)
「何故笑ったのかはわからないが――」
「わからないなら前言を――」
「一緒に人生を歩む相方が欲しかった――」
「撤回すべきでないかしら――」
「私の仕事を支えてくれる相方が」
溜息を吐いて黙り、譲ったのはエイダだった。ヘルガは一切言葉を止めずに続け、
「特に私の仕事は……多少の危険も払う」
エイダは共に暮らして初めて見るヘルガの奇妙な表情に口を閉ざした。真っ直ぐエイダを見ているというのに、いつものような覇気はない。いや、その目に映るのは躊躇いだ。そのせいで力なく見える。しかし、必死さだけは妙に伝わってくる。
ずっと変わらぬ淡白な表情だ。この表情の夫を示し、情のある男に見えますかと街角で十人に聞けば十人が首を横に振るだろう。
いや、もしかしたら一人くらいは、この目を見て困惑するかもしれない。
「お前は不思議だ。そこいらの女とは違う。不思議だ」
これは一体、何の話だ。エイダはヘルガから目を離さず、茶を口にし、また感じる記憶の欠片に苛立ちを感じた。
嫌いな味ではない。むしろ、好みだ。最初に香りを嗅いだ時にも落ちついた。ああ、飲みたいとも思った。
「べったり寄り添うでもない。私に従うわけでもない。ただ、己の目的のために私と共闘してくれている。背を合わせ、互いに立っている」
目は逸らせなかった。ヘルガの目に徐々に躊躇がなくなっていく。
「お前の孤独な目が気に入った。初めて見たときにそう強く感じた」
先ほどまでの奇妙な表情は霧散し、揺らぐことない強い無表情となった。決定打を放ったときの顔だ。
エイダに届くのは口から出る言葉だけでない。今や言葉で表現出来ぬ程の多くの『声』が『耳』に届く。多くの『声』がエイダに関することだった。
「今思えば、あれは何か使命感に燃えている目だったのかも知れない。私は、自分に似ていて、それでいて共にいたいと思う女を見つけた」
容姿、性格、立ち振る舞い、仕事の成果、今日の服や髪型のことも。すべてに対して好意を示していた。眩暈を感じる。聞いたこともない言葉が真っ直ぐに向かってくる。堅く、勢いがありながらも包み込むような柔らかさを持つ不思議な言葉だった。
「いい女だ、この世で一番」
(愛している)
見事な鮮やかな一撃だ。何一つ抵抗できず、全て受けてしまった。エイダは強い衝撃を受けて困惑に固まっていた眉間を緩め、肩の力を抜いた。自然と笑みがこぼれた。
かつて、多くの時を生き、これほどまでに真っ直ぐな愛の告白をしてきた男がいただろうか。
良く見れば、色の白いヘルガの顔がやや紅潮していた。
ヘルガという男は、本物に心が読めない男だった。時折、エイダの『耳』に入る『声』も、感情と言うよりは思考だ。感情よりも理性や冷静さが働く人間だったからだ。どんなときでも冷静さを失わない、氷のような、鋼のような男だった。
しかし、この瞬間、エイダは理解した。自分の夫が冷たさと情熱を兼ね揃えた魅力的な人であったと。いつだって不思議な暖かさで自分の横にいたことに気付いた。
そして夫の告白は、エイダの心の奥底、誰にも紐解けなかった凍りついた箱を開かせる鍵となった。錠前が外れるような音をエイダは聞いた。
ようやくエイダは思い出した。この香茶をどこで飲んだか。微笑みが小さく浮かぶ。
「…………最初、顔合わせたときもどんな間抜けかと思ったわ。見る目ない男。そのくせ、よくもまぁ無理矢理結婚なんてさせてくれたなって」
気付けばカップを持ったままだった。それを静かに置く。
「一緒にいて仕事馬鹿だと知った。そのために私を妻にしたと思っていたわ。ならば利用しあえばいいと」
「…………」
「こんなに好かれていたとは思いもしなかった。そんなそぶり微塵も見せなかった。鋼鉄の男ね」
「……ありがとう」
硬い声で告げられる感謝の言葉にエイダは苦笑を浮かべた。
「あなたには、謝るべきなのだと知ったわ」
「……」
「あなたの言う通り、私は使命に燃えている。今までも、今も、これからも、恐らく果たされるまで、ずっと。あなたよりきっと長い旅路になる。一人で渡り歩かなければならない道よ」
エイダがこんなことを話すのは、『家族』以来初めてだった。ヘルガが示した手札に比べたら対等ではないかもしれないが、
「仕事を支える相棒、あなたの人生で最も大切なものを支えるために共闘する相方にはなれる。グレンフェル家の為に力を貸すことはいくらでも出来るわ」
エイダは心に誓った。
今生において、この誠実な男に対しては、彼に見合うだけの行いをしなければならない。
そして、これがその第一手だった。
「でも、悪いけれども。あなたは、私の『人生』の相方にはなれない」
拒絶と言うよりは宣告。エイダは静かに言葉を選び、告げた。
ヘルガの目が泳ぎ、伏せられ――、
「……そうか」
笑みが浮かびあがる。
「まさか結婚後に袖にされるとは思いもしなかった」
目が細められるほどの笑顔だった。つられてエイダも笑った。
「変な人」
「何、かまわんさ。私が欲したのは、そういうお前だ」
背もたれに背を預け、ヘルガは腕を伸ばした。長い指がテーブルの上に落ちたままだった砂糖を摘み、乾いた音を立ててカップに入れられた。
「旅は好きに行けばいい。気をつけて」
「ええ、大丈夫。必要ないけれども、一応付き人に獣人を一人連れて行くつもりよ。そっちの方が心配ではないでしょう?」
「誰にしたか知らないが、女の獣人であることを願おう」
笑って吹き出しそうになるのを堪えながら、エイダも茶を飲み干し、
「そうするわ。ごちそうさま」
カップを振る。
「結婚の祝宴の時に出た香茶ね。あなたが出せって言った?」
「ああ。あの時――」
ヘルガは自身の眉間を指で揉みながら、笑みを深めた。
「この茶を飲んでいる時にお前の表情が和らいだから」
三年前の祝宴を思い出す。腹立たしさを押し隠していたせいで顔がこわばっていたのを自分でもわかっていた。しかし、この茶を飲んで肩の力を抜いていたなど、エイダ自身は覚えていなかった。顔が熱くなるのを隠すために、エイダはいそいそと席を立った。
(家族。これくらいは許されるだろう)
「帰ってきたら」
背中にかかる二つの声にエイダは振り向いた。
ヘルガは背もたれに寄りかかったくつろいだ姿勢のままエイダを見ていた。
「お前はまた寂しそうな顔をするのかな」
「…………さぁ、どうかな。それは、誰にもわからない」
――旅は絶望だ。広い大地からたった二粒の砂糖を拾いに行くのだから。
それでも、もう。
「でも……もう慣れっこよ。どうしようもないことには、慣れっこだから。そういう顔をするかも知れないけれども、慣れっこ」
慣れたものだ。それでも生きる意味になるのだから、十分なのかもしれない。
約束を取り付けたのも、誰も束縛しないその道を選んだのも、自分自身だ。エイダは笑んだ。
「そうか」
「ええ」
「では、お前が帰ってきたら、子どもでも作ろうか」
「…………」
旅行の提案をするかのように告げられる言葉にエイダは固まった。
鋼鉄の男は事もなげに、何の気負いもなくエイダを見つめていた。その視線の柔らかさに何を提案されたかもわからなくなるくらいだ。
ヘルガは肩を竦めてみせた。
「我々は、夫婦で、家族だろう?」
(寂しそうな顔をするな)
エイダの硬直はやがて弛緩し、鼻から息を噴出しながら、口を歪めて笑った。笑いすぎで、思わず椅子の背に手を掛けた。口元を手で隠し、夫を見つめる。夫もおかしそうだった。
「……そうね。それもいいかもしれない」
笑いすぎた。目に涙が浮かぶ。性差による涙腺の緩さは一体何なのだろうか。
情は移っていた。
「ありがとう、ヘルガ。私もあなたに娶ってもらってよかったわ」
そして、エイダが絶望の旅から帰還した後、彼らは子を成した。
それがアランだった。エイダとヘルガにとって、本当に、愛の結晶と呼べる存在だった。
家族三人の生活は幸せだった。ヘルガは家によく帰るようになった。エイダも生涯で初めて産んだ自分の子に愛しさを感じた。
エイダにとっては旅と家族と仕事とで三重の生活となったが、それでも苦ではなかった。それもこれも、ヘルガがいたからだった。『家族』を探す間は家族に対して不誠実と感じ、家族と過ごしているときは『家族』に対し不誠実と感じ、仕事に身を費やしているときは『家族』とアランに不誠実だと感じ、――。その矛盾すら、ヘルガは包み込み、愛した。エイダは幸せだった。
しかし、幸せな生活は僅か十年で幕を閉じることになる。
ヘルガは古代遺跡の調査中にその命を落とした。魔物にやられたでもない。ただ遺跡探索中にやや高めの位置にある足場から転落しただけだ。打ち所が悪かっただけの、屈強な鋼鉄の男の、あっけない最期だった。
エイダには夫の死を悲しむ暇もなかった。ヘルガがその生涯をかけて積み上げたものを守ることに必死になった。それはヘルガの妻としての最低限の責務。ヘルガの財に集ろうとする輩を蹴散らし、息子に継ぐまでグレンフェル家を守り抜くことに奮闘した。
アランも母のその背を見て、成熟していった。
時が経ち、アランも成長していった。家も落ち着き、安定してくると、エイダはまた旅に出るようになった。
――そして、彼女はとうとう『家族』を見つけることが出来た。
見つけた『家族』の現世の名前は、ホセ。
ホセは人に騙され、家族と財を全て奪われて路頭を迷っていた若者だった。絶望に打ちひしがれて自暴自棄になりかけていたところを、偶然にもエイダが発見したのだ。
エイダはすぐに彼を保護した。グレンフェルの豪邸に彼を招き、アランの反対を押し切り家に置くことにした。
当然、アランは母の強行に不信感を抱かざるを得なかった。得体の知れない、自分よりも数歳程度年上の青年だ。そんな若者に対して普通ではありえない情けをかける母親。再婚でもする気かと勘繰れば、再婚はありえないと言う。アランには理解できない行動だった。
ホセは不自然な情をかけるエイダに困惑しながらも、その後三十年間この屋敷に住むことになった。
かつての己の生活を断片的に話すと、一区切りをつけてキットはため息をついた。額を押さえる。注がれた果実酒はテーブルに置かれたまま手はつけられていなかった。
「……妙な気分になるな。一体自分は誰で何を話しているのだか」
ジェラルドもキットに合わせ酒は口をつけなかった。注いだ主には悪いと感じていたが、それよりもキットの方が気になった。
「そのホセが、俺なんだな?」
「……そうだ。アンタだ。アルの生まれ変わりで、ホセの生まれ変わりの……僕の人生の恩人だ」
「初めて名前を聞いたぞ」
からかうようにジェラルドが笑うと、キットは悪かったなと苦笑した。
「アルについては、またいつかな。もっともっと前の話なんだ」
「構わない。そのうちまた無理矢理聞き出す」
軽口を叩き合うとキットの硬かった表情も緩んできた。酒に口をつける気力も湧いたらしい。一口含み、長いため息を吐いた。
二人の様子をみてアランは困ったように笑った。
「母さん、ホセにまったく話してなかったんだね」
「……話したさ、前世で世話になったって」
「具体的な話は初めてだ」
「悪かったな……」
アランとジェラルド、両者から痛いところを突かれ、キットは煽るように酒を飲み干した。すぐさまアランにおかわりを要求する。ジェラルドからすればペースにやや不安があったが、アランは黙って酒を注いでやるようだった。
それをもう一度、一気に飲み干してキットはソファーに座りなおした。
仕切り直しの合図だった。ジェラルドも居住まいを正した。
「……アンタの話はここからだ。ここからが、本当に最低な話なんだ」
グラスを持つキットの手が震えた。それに気付き、キットは隠すようにグラスをテーブルに置き、手を組んだ。
「本当に、嫌われるかもしれない。気持ち悪がられるかもしれない。呆れるなんてレベルを通り越し、見捨てるかもしれない」
頭を傾け、目を閉じて呻くキットに、ジェラルドは鼻から息を吐き出した。目を閉じても、視界も思考もはくるくる回っているようだった。
「キット」
「母さん」
アランと、キットを呼ぶ声が重なる。
「わかった、わかってる。すまない」
キットは煩わしそうに手を振り、昔話を再開した。




