◆ 旅立ち
◆◇◆◇◆◇◆
親愛なる――。
書き出し、手が震える。緊張と不安が襲う。耐水、耐火の高価な紙を使っているのだ。出来れば失敗したくない。何より、一回で書ききらなければ捨ててしまいそうだ。だから下書きもない。
悩み、心に問いかけ、それを紙に乗せ。
昼間から書き出したというのに、気付けば部屋の中は暗くなり、灯りを灯さねばならなくなった。
一度だけ、読み返す。書き損じ、足らない言葉はないか。
――ない。
全てを綴った。
そして、これから全てを語る。
上品質なその紙を丁寧に畳み、蝋で封をする。まるで儀式のようだった。
ぴしりと閉じられた封の中に多くの思いが詰まっている。
封印の儀は終わった。
出来上がったそれを額に宛て、僅かな祈りを乗せる。女神への祈りではない。ただの――縋るような――祈りだ。
上着の内ポケットにそれを忍ばし、目を閉じる。
旅立ちだ。
◆◇◆◇◆◇◆
頂上に太陽の門を持ち、オーネ地方とトゥーン地方を隔てるように出来たハーレフ山脈は通称、双子山脈と呼ばれている。リーン大陸の東端にあるオーネ地方を他の地方から分断しているかのように走っている山脈だ。その通称の由来は、今はハーレフ門がある辺り――山脈の真ん中あたり――がかなり低い峠になっており、一見すると二つの山脈から出来ているように見えるからだった。
この峠のおかげでオーネ地方は隣のトゥーン地方、そしてその中心部である商業都市トゥーンとも気楽に行き来が出来る。オーネ村にとっても、またオーネ南のリーンの泉に巡礼に来る人たちにもありがたい峠だった。
その峠が舗装され、ハーレフ門が出来てから更に利便性が上がった。
今からここ、オーネを旅立ち、ハーレフ門を越え、商業都市トゥーンへ行こうとしている者たちがいた。
リーンの泉。旅人や巡礼者たちがその旅の無事を祈りに捧げに来る、オーネ地方で最も人が訪れる祈り場であった。そこに厚手の上着を着た、白髪のような銀髪の青年はいた。
泉のほとりで荷を下ろして膝を付き、彼は泉の中央に佇む女神リーンの像に祈りを捧げていた。
彼の名前はキット。その見た目に反することなく、大陸に多く広がる人間種族の普通の男で、泉から北へ少しばかり歩いた場所にあるオーネ村に住んでいた。
背丈は大きくも小さくもなく、体格も一般的な人間男性ほどだが、どことなく線が細い男だ。色素の薄い髪や肌のせいもあいまって、ひどくほっそりとして見える。
実際、農業や畜産が主な仕事のオーネ村で、肉体労働を殆どせずにおもちゃ屋などという道楽のような商売をやって、子どもたちと遊んでいるようなやつだった。
これから人里に暮らすよりも遥かに危険が伴い、時には魔物とも戦わねばならない旅人には到底見えない。
どこか遠くを見ているような優しげな碧眼も、特に派手さはないがそこそこ整った顔も、屈強さからは懸け離れていた。しかし、唯一彼の皮肉げな口元は、どことなく好戦的な印象を与えていた。
長い祈りが終わった。顔を上げ、女神像を見上げる。女神像をこうやって見たのは、とても久しい。そういえば、これほど近くにあった祈り場に今まで一度も祈りに来たことがなかった。そんなことを思い返しながら、キットはハーレフ山脈を見上げた。
山脈の尾根には薄く雲が被り、キットたちのいるリーンの泉から見るとハーレフ山脈はとても高いものに思えた。
一週間前に家を出て行ってしまったあの子――レシィはあの峠をもうとっくに越えただろう。
急いで追いかけたい気持ちがキットにはあったが、彼女は自分の意思で何も言わずに旅に出た。それをすぐに追いかけるのは気が引ける。彼はぐっと堪えた。
また会えれば良い。そう思っている。
何もレシィを追いかける為だけの旅ではない。この旅の一番の目的は、彼自身の自己満足である。
そんな旅に、同居人たちはついてきてくれる。彼らの寛容さにキットは感謝をした。それと同時に苦笑も漏れる。それは何も今に始まったことではなかった。
「キット」
凛とした声がかかり、キットは振り向く。雄ライオンの獣人と人間の女が彼を待っていた。
ジェラルドとサイだ。
波打つ美しく金色の立派な鬣を持つライオンの獣人、ジェラルド。百獣の王の顔を持ち、一般的な人間男性よりも二・三回りくらいは大きい彼は、見た目通りの獣人種族の屈強な戦士だ。大きい鎧と背負った大きな戦斧はより一層彼の力強さを引き立てていた。
美しく艶のある黒髪を頭の天辺で結わいて垂らしている人間の女、サイ。サイは、有名な古代遺跡学者であり、優秀な癒術使いであった。穏やかで柔和な目つきと落ち着きを醸し出している容姿をしているが、身にまとった軽鎧や背に担いだ鈍器が彼女も、ジェラルドと同じく戦士であることを示していた。
「……もしかして、結構待ったかい?」
「そうね。予想していたより長い祈りだったかしら。でも大したことないわ」
申し訳なさそうに頭を掻くキットを安心させるようにサイは微笑んだ。
「女神に祈るなんてはじめて見た」
「僕も、久しぶりの気がするよ。それでも旅に出るんだ。気休めでも女神の加護が欲しいだろ?」
キットは冗談めかして笑う。一般的な信者が聞いていたら憤慨しそうな発言だろうが、サイも、二人の後ろで見守っているジェラルドも何も言わなかった。
「さぁ、そろそろ行こう。あまり遅くなると峠の宿に着く前に夜になってしまう。まずはトゥーンに向かうぞ。この前の遺跡のことをグレンフェルに報告しに行く」
キットは地面に置いていた荷物を担ぎ直し、サイとジェラルドに声をかけた。彼らは一つこくりと頷き、リーンの泉を後にした。
誰もいなくなった泉に風が吹き、小さく波紋が広がった。
ちょうど十年前に脱稿した作品です。第一話の『袖振り合うも他生の縁』よりも先に書いたものです。特に加筆修正していません。
旅が始まります。




