◆禁忌の異世界
巨大邪悪鬼は斬りつけられた片目を押さえると、先ほどまでの猛々しい様相からは打って変わって、脱兎のごとく逃げ出した。痛みに叫び、おいおい泣き声を上げて走り去る姿は、恐ろしい様相の魔物にしては情けなさすぎる姿だった。
大将の敗走と形勢の悪さに、生き残った僅かな子分たちもついて逃げていった。誰も逃げる魔物を追おうとは思わなかった。喧騒が遠ざかり、辺りは静かになった。
レシィもジェラルドは無事だった。サイのメイスを投げつけられて倒れ伏していた邪悪鬼は未だ起きあがらない。錐のような武器も床に転がっていた。
代わりにサイは僅かに怪我をした。武器を投げつけた後に、その腕を他の魔物に腕を切りつけられたのだった。その魔物も大将や他の魔物と同じく逃げている。
傷は大したことはなさそうだった。彼女の癒術を用いればすぐに癒える程度の傷だった。ひとまず落ち着いたことでサイは自身の傷に手を当てた。
傷を癒しながら、患部を確認するサイの元にキットが寄った。俯き加減の表情は暗かった。
「………………すまない……」
「なに謝っているのよ。平気よ」
サイの笑みを見ても、キットの表情は晴れなかった。それ以上、二人とも何も言わずに、サイは癒術に集中し、キットはただ黙ってサイの怪我が治る様を見ていた。
尻餅をついていたレシィも立ち上がり、サイとキットの元へ行こうとした。
――不意に、その横に斧が振り下ろされた。
びくりとレシィの動きが止まった。再び尻餅をつき、横を見る。先ほど自分を襲っていた魔物の背に斧が突き刺さっていた。
ジェラルドだった。彼がレシィの横で昏倒していた邪悪鬼を最期の一撃を与えたのだった。よく見れば、魔物の手がいつの間にか不自然に錐へと伸ばされていた。
「気をつけろ」
ジェラルドはそれだけ言うと、斧を引き抜いてレシィから背を向けた。レシィは黙って頷くしか出来なかった。ぞわりと恐怖を感じたことは言うまでもない。
「レシィ?」
呆然としていると、キットから声がかかった。今のでこちらに気付いたという風だった。
(キット……)
レシィはほっとしてキットに向いた。――その顔を見て思わず目を瞬かせる。
キットがいつの間にか優しげで穏やかな表情を浮かべている。レシィは当惑した。
「勝手に動くなと言っただろう」
諭すように注意をし、キットはゆっくりとサイの元から離れて無意味に動くリュープを抱きかかえた。サイの傷はもう塞がっていた。レシィは不思議と、肩すかしをくらった気分になった。
呆然としてキットを見ていると、サイの手が伸ばされた。レシィは差し伸ばされた手を掴み、立ち上がった。サイは心配そうにレシィを上から下まで見回した。
「大丈夫?」
「う、うん。いや、私より……ごめんなさい、サイ先生」
「え? ああ、大した怪我じゃないわよ。気にしないで。慣れっこよ」
おかしそうに笑うサイ。どうやら本当に大丈夫そうだった。言葉通り、慣れっこなのだろう。こんな遺跡に常に入っているのだから。何にせよ、何事もなくてよかった。
感心と安堵を同時に感じながら、服に付いた汚れを払っていると、キットからリュープが渡された。レシィは黙ってそれを受け取った。
「奥へ行こう」
リュープを渡せば、早くもキットは魔物が敗走した部屋の奥へと足を向けていた。先ほどの魔物を追うわけではないだろう。他に道がないから行くだけのようだ。サイもそれに続く。
何事もなかったかのように、静かだった。
だから、レシィはそれに続けなかった。
「キットおかしいよ」
レシィが我慢出来ずにぽつりと呟いた一言に、キットの足が止まった。サイの足も。じっと立ち止まっていたジェラルドがレシィを一瞥した。キットが僅かに首を傾げる。背を向けたままだった。
「何が?」
「おかしいよ」
もう一度。レシィが同じ言葉を背中に投げかければ、キットはようやく彼女に向き直った。サイもジェラルドも黙ってそれを見ていた。
レシィは上目遣いでキットを睨んだ。
「いつもなら、怒るはずだわ」
「何だ? 怒られたいのか?」
「違うわよ! そうじゃないわよ! ……そうじゃない。そうじゃないけど……」
きょとんとした表情で首を傾げるキットにレシィはやきもきした。彼の表情は真に不可思議そうだった。それ故に、レシィは違和感を感じていた。
「おかしいよ……なんかちがう。らしくない……らしくないよ、キット」
無垢とも言える表情でじっと見つめられ、レシィは悔しさを覚えた。
(なんでわからないの? 絶対おかしいよ)
違和感の原因をレシィは上手く言葉に表すことが出来なかった。その代わり、おかしいということを何度も告げた。しかし、キットは変わらぬ無垢な表情で首を傾げるだけだった。
「お前が何を言っているかわからないな」
「それもおかしいよ!」
レシィはたまらず声を荒げた。キットは黙った。
「だって、私が何を言いたいか、わかるでしょ!」
(そうよ。私が何を言いたいか、わからないわけない)
強い訴えにも、キットは困惑したように目線を動かすばかりだった。
「いや、何がおかしいのかわから――」
「嘘よ! 絶対嘘! だって、おかしいもん!」
レシィはキットに詰め寄った。
何か、誤魔化されている。わからないふりをされている。キットは何かを押し隠している。ここまできて、レシィはそう確信した。そして、その確信が間違いなく当たっているとわかった。そうでなければ、自分が原因でサイが怪我したのに、何も注意なしなんておかしいことだった。
「怒ればいいじゃない! 私勝手な行動したよ! 言う事聞いて大人しくしていろっていう約束破ったよね! それでサイ先生怪我させちゃったよね! そういう時、キットは絶対怒る。絶対、小言言う! なのに何も言わない、怒らない。なんで怒らないのかわからない! 私が言いたいこともわからない! いつものキットじゃない!」
無言で背中を向けられ、無言で責められているような気がした。本気で呆れられ、嫌われたような気がした。壁を作られた気がした。そんなことはないと思いつつも、黙って言ってしまう彼を見ると、不安になった。怒られたいわけではないが、いつものように、怒って欲しかった。サイを怪我させてしまったことを。言う事を聞かなかったことを。
「いや、そんなこと言われたって……」
迫るレシィにキットは困惑したままだった。本当に腹立たしいと感じる表情だった。
「そうやって似合わない下ッ手くそな誤魔化し方しないでよ! 言いたいことあるなら言ってよ! わかるように、言えばいいじゃない!」
溜まらずレシィは足で強く床を踏みならした。
「あ! ちょっ――」
サイから慌てた声が掛かった。
――それと同時に、彼らの足場が丸くぽっかりなくなった。
◆◇◆◇◆◇◆
気付けば私は宝石商の女主人になっていた。何故こんなことになってしまったのか。一人で生きていくはずが、婚姻を結び、子まで成してしまった。余計な物を抱えてしまったような気がする。しかし、手放すことも出来ない。とうの昔に愛着は湧いている。大切なものには変わりなかった。
相変わらず、目的は果たされない。穏やかな生活に身を委ねながら、焦燥の感に駆られ、いつだって精神は荒らされていた。やはり、私にはもう二度と救いはないのかもしれない。そんなことも考えるようになった。
ところが、そんな絶望の最中、私の目的はとうとう果たされたのだった。私の努力が報われたのだった。
彼がそこにいる。
彼の悲惨な姿に手を差し伸べながら、私は涙を流した。そして、僅かに愉悦を覚えたのだった。
◆◇◆◇◆◇◆




