◆まよい少女
案内された青年の家はやや薄暗かった。
廊下を抜け、案内された居間には色々な玩具が置かれていた。やはり、学者らしくない妙な家だと少女は思った。
青年は持っていたバケツを獣人に突き出すと、ニヤリと笑った。
「ジェラルド、今日はお前が食事の支度してくれ。夕飯は僕が作る。交換だ。そうじゃないとお前とこの子二人で――」
「みなまで言わなくていい。わかった」
「この魚使うんだぜ?」
「わかってる」
鬣に覆われた顔は表情一つ変わらず、ジェラルドと呼ばれる獣人は青年が持っていたバケツを受け取り、台所へ歩いていった。少女はこっそり息を付き、肩の力を抜いた。獣人が近くにいることで、自然に全身に力が入っていたのだ。
「僕は食堂と茶の準備でもしてくるよ。ちょうど美味しい茶もあるんだ。君は席についていていい。一応客人だからね」
青年は居間の真ん中に置かれているテーブルの椅子を引いてやり、少女に座るよう促した。少女は促されるまま、そのまま席に着こうとした。
しかし、それはおっと! と言う青年の声を掛けられて止められた。
「一応、そのフードを外してくれるかな。マナー違反だぜ」
「えっ!」
少女は思わずフードをキュッと掴んで、更に深く被った。
(ど、どうしよう……)
少女は青年から顔を背け、後退した。
「い、いやよ。なんで――被っていたいのよ、顔汚い……から」
少女のその言葉に、青年の顔は厳しいものになり、穏やかと感じていた目が鋭く細められた。
「聞き分け悪いぜ」
始終おちゃらけた、何より優しげだと感じていた青年から、初めて発せられた鋭い声に、少女は驚いた。マナーうんぬん言う割に、少女をびしりと指を差して青年は言葉を続ける。
「マナー違反だって言っただろう? それに、君がシーリル種族なんてのは僕らはもうお見通しだよ。ジェラルドはどうやら初見でわかったようだ。当たり前だな。僕だってそれだけ盛大に彼にビビってる君を見たらわかるんだぜ? 獣人に対して無条件で恐怖を感じるシーリル種族だってね。この家の者に用があるんだったら、それなりに自分から正体明かすべきだぜ。いつまでも正体明かさないでジェラルドを恐れることは僕が許さない」
そういって、青年は少女のために引いてやった席から離れ、先ほど入ってきた扉をゆっくり開けた。
「君がフードを外さないなら、帰ってもらおう」
反論は許されない青年の顔つきに、少女は全身が心臓になったような感覚に陥った。
(な、なにこの人……さっきまでと雰囲気が違うじゃない)
思わず少女のフードを握り締める力が強くなった。
青年の言うとおり少女はシーリル人だった。
シーリル人は、この世界に住む種族の一種で、獣人とは全く正反対の種族だった。彼らの力は弱く、また寿命も短い。里から出れば大抵の者が体調を崩して寝込む。しかし、その代わりに知能やあらゆる霊的な物に対する感知能力に優れ、それを生かした技能は、大陸のどこでも重宝されていた。
そして何よりの特徴が、本能的に獣人を恐れる種族であることだった。大陸のどこにでもいる獣人に対して、無意識に恐怖を感じて動けなくなる。獣人がシーリル人を捕食するわけでもないのに、彼らの関係はヘビと蛙だった。これは全種族――人間、獣人、シーリル人、エンポスの中で唯一、獣人とシーリル人にのみに見られる奇異な関係だった。
(フードを外すのは、もうバレたから別にいいけど。でも、この人、まさか……外と中とで性格変わるとか?)
少しでも優しそうな人だなと思った迂闊な数分前の自分を、少女は恨んだ。初対面の人間をいきなり信用してしまったことを後悔し、再び強い緊張が少女の身体を支配した。
少女はちらりと青年を見た。青年は微動だせずに、少女を見ていた。怖くなり、少女は顔を背けた。
膠着していると、窓がこつこつと叩かれた。少女はハッとして窓を見た。少女と同じくらいの少年二人が家を覗いていた。片方は洟垂れで、片方はデブだった。
青年は、やれやれと呟くと、窓を開けてやった。洟垂れ小僧がぬっと窓から顔をつっこんできた。
「おい、キット。水鉄砲壊れたから直してくれよ」
「俺釣竿壊れたんだ」
鼻水をすすりながら少年は窓から木で出来た物――洟垂れ小僧が言っているのだから水鉄砲というものなのだろう――とデブ小僧の釣竿を青年に渡そうとした。
すると、青年はいーっと歯をむき出しにし、嫌そうに手を振った。
「おい、いつも言っているけどな。ここは玄関じゃなくて窓だぜ。躾のなってないクソガキめ」
「そういうなよキット。おれたちとキットの仲じゃねーか」
「表みたら店開いてないからここ来たんだぜ」
少年たちは得意げににひひと笑った。青年は顔を顰めた。
「呼び捨てするなアホタレ。開いてなくて当たり前だろ。今日は休日だぜ。いい加減、休みの日くらい覚えてくれ。いいからとっとと家に戻って昼食食って昼寝してろ。それと水鉄砲直すのはお前の風邪が治ってからだ」
青年はポケットからハンカチを出し、洟垂れ小僧の鼻を抓んだ。当然のように少年はそれでぶぶーっと鼻をかむ。青年はハンカチから手をパッと離した。それと同時に少年はハンカチを掴み、ぐりぐりと鼻に押し付けて鼻水をかみ続けた。
「……ったく。洗って返せよ」
『あーーい』
少年たちは持ってきたものを小脇に抱え、走っていった。青年は呆れたように窓枠に頬杖をつき、少年たちが家に帰っていくのを見届けていた。
(――なんだ……)
少女は、ほっと息を漏らした。気付けば、フードを掴む手の力は緩み、ふわりと外していた。
フードの中から出てきたのは、女の子にしては短い、そして何より鮮やかすぎる青い柔らかそうな髪と、同じような蒼く特殊な虹彩をもつネコのような瞳だった。どちらもキラキラと輝いているようで、人間には出しえない色であった。それらは大陸最南端にある集落に住んでいるシーリル人のみが持っている、特徴的な目と髪だった。
「――外したわ」
少女は、窓の外を見ている青年に声をかけた。
青年は露になった少女の髪と目を眺め、そして口端を不敵に上げた。
「隠しといたら損だぜ、そんだけ綺麗なのにな。髪ももう少し伸びたらきっともっと綺麗になる」
「でも人間の街では目立つの。悔しいけど、子ども一人の旅だもの。隠さないと妙なのに狙われる。髪は私にはお金がないから路銀のために売ったの。それと、さっきの獣人に怯えたのは私の意志じゃないんだから」
少女は悔しさをぶつけるように早口でそう言って青年を睨んだ。青年は苦笑を浮かべた。
「知っているって。さっきも言ったろ。君たち種族が獣人に無条件に恐怖感を抱いているってのは知っているんだ。別に君が臆病者だなんて一言も言ってないぜ。むしろ、子どもなのにいきなり獣人と対面してちゃんと言葉発せられたんだから大したやつだよ、君は」
さぁ、どうぞ座りたまえ――青年は窓から離れ、椅子を手で指し示した。
しかし、少女は動かない。毅然とした表情で青年を見て小さく口を開いた。
「まだよ。まだ席に着くわけにはいかないの」
幼い顔立ちに似合わぬ凛とした表情で、彼女はお辞儀をした。
「私の名前はレシィ。レシィ・レーン。見ての通りシーリル人。でも、純血じゃないわ。ハーフよ。ここに住むサイ先生に用があって来たわ」
先ほどまでの弱々しさは霧散し、少女レシィは端然と自己紹介をした。その様子に、青年は微笑んだ。旅疲れ、格好はみすぼらしいが、気高さ、知性、何よりも勇気ある者が持てる強さと美しさがそこにはあった。
「いい挨拶だ。気に入ったぜ、レシィ」
レシィと相対する青年も同じように佇まいを直し、優雅にお辞儀をした。先ほどまでの粗野な感じからは想像つかない、またその身にまとう格好とは相反したような上品な礼だった。
「僕の名前はキット。姓のない、ただそれだけの名前であることを許してくれ。ここの家主で、ジェラルドとサイと三人で暮らしている。見ての通り――」
そこで、キットは顔を上げた。じっとレシィを見つめ、口を開いた。
「ただの人間さ」