5話
蝉が落ち、かすれたうめき声をあげだす夏の終わり。見覚えのある風景に、俺は立ち尽くしていた。きれいに整えられた石庭から、よく母と二人で過ごしていた縁側を見る。縁側に座り、そこからの風景に思いをはせていると、勢いよく咳を込む音が聞こえる。
その音の方へ向かうと、見覚えのある人達と、まだ幼かった俺が母を囲むように座っていた。母がまたも咳をこむ。医者が口元からこぼれた血をぬぐう。大丈夫だよ、と心配する医者と見舞いに来た人々に伝え、幼い俺にだけこの場に残るように言った。
「お母さん、ほんとに大丈夫なの? 苦しくないの?」
その少年の無垢な問いに、母さんは少年をやさしく抱きしめて言う。
「苦しいし、辛いよ。でもね、これは自分で選んだことだからね。後悔はしてない。むしろうれしい位だよ」
「お母さん、恥ずかしいよ……」
いいじゃないか、他の人もいないんだし、と言い、抱擁を続ける。数分間そうしていて、やっと母さんは腕をほどいた。そして、幼い俺に先ほどとは違う真剣な顔で言う。
「いい? 紅葉、――」
その言葉を聞き終える前に、意識は暗闇へ落ちていった。
「……母さん」
「ねえ、あなた大丈夫? なんかうなされてたみたいなんだけど?」
寝起きで開きかけの目をこすると、涙が流れていたことがわかる。
「大丈夫だ。気にしないでくれ」
「ならいいけど……」
柄にもなく心配そうなアテナを後目にいつものように、朝食の準備をする。同時に昼食用の弁当にもおかずを詰めていく。ずいぶんと手慣れたものだ。朝食をテーブルへ運ぶと、アテナが珍しくニュース番組を見ている。本日は木曜日、快晴とは言えずとも晴れ間のある空とは対象に雨が降るらしい。画面の上の方に少しだけ見えていた天気予報を見る。
「何でまたニュースなんて」
「なんか特番みたいなのよねー」
いつもの時間にみているものがないから仕方がなくなのか。少しは下界のことを知ろうとしているのかと思ったのだが。感心して損をした気分だ。飯を大口開けてかきこみながらテレビを見ているアテナを見てそう思った。
「ねえ、あなた。朝どんな夢見てたの?」
「あー。大した夢じゃない。昔のことを思い出していたらしい」
「ふーん。だから母さんとかつぶやいてたのね」
「まあ、そうだな」
「今も元気してるの? あなたのお母さんは?」
「水を差すようで悪いんだが、俺の母さんはもう他界しててな」
「……なんか悪かったわね」
柄にもなく気にしているらしい。俺はもう小さいころの話だし、整理はついているんだが。逆に気にされるとこちらも困る。
「気にしないでくれ。小さいころの話だし、俺はもう気にしてないから」
「そうなの?」
「ああ。そういえば、お前の母さんは? ゼウスはしょっちゅう電話で実際に話してるから、いやというほど元気なのはわかるけど」
「…………」
「いや、それ以上はいい。もうわかった」
「うん」
地雷を踏みぬいたようだ。自分から話し振ってきたのに。そのあとの食事はいつもとは違い、ずいぶんと静かなものだった。気まずい空気の漂う食卓を早々に抜け出して、学校へと向かう。
朝は雲の合間から日差しが覗いていたのだが、昼前には雨が降り始めていた。窓際の席に座り、絶え間なく降り注いでいく雨粒を目で追いかけていた。そんなことをしているうちに、昼休みの鐘が鳴る。
いつものように屋上で弁当を食べようか、いや昼休み中雨に打たれ続けるのはごめんだ。珍しく俺は教室の自分の席で弁当を広げ始めた。昼休みのはじめの方はクラスメイト達は俺が教室にいることに困惑していたのか、恐怖していたのか知らないが、妙な視線が俺に向けられていた。
「紅葉、お前が教室で食べるなんて珍しいな」
「お前は雨水で濡れた飯を食いたいか?」
「いや、ごめんだな」
「だろう?」
雨はやむ様子をみせず、その雨模様に心まで沈むようだった。今日は教室で食べていたので、相川とはアニメとかゲームの話をすることはできなかった。しかしまた、よく隠し続けているものだ。まあ、話ができないことに若干息苦しさを感じてはいたようだが。
午後も相変わらずの天候だ。授業一時間一時間がとても長く感じる。先生の話を右から左へと聞き流し、暗く沈むような曇天の空を見上げながら、今朝のことを思い出す。アテナの母親ってどんな人なんだろうか。アイツは案外父親に似ているから、アテナからは想像もつかないような人かもしれないな。そんなことを考えていたら、午後の授業もすでに終わっていた。
教科書類を適当に鞄に放り込んで、誰よりも早く教室から出る。相変わらず雨は降り続いていた。駐輪場につくと、これから帰り道で濡れることを考えて少し憂鬱になる。そんな憂鬱を吹き飛ばすかごとく、思い切りペダルを踏みこみ、雨を感じながら帰るのだった。
ブレザーからぽたぽたと水滴を垂らしながら、家までたどり着いた。ここまで濡れてしまうといっそ清々しい気分だ。張り付くシャツは不快だが。
玄関のカギを開けると、珍しくアテナが出迎えてくれた。
「あなた。やっぱりずぶ濡れじゃないの。ほら、タオル。あとお風呂やっといたわ」
「お前……」
「な、何よ」
「いや、風呂沸かせたっけと思って」
「し、失礼ね! 私だって成長するのよ?!」
以前、こいつに風呂を任せたら、お湯を止めることを忘れ、風呂をあふれさせ、危うくフローリングまで水浸しになりかけたことがあった。そんなことがあってか、しばらく風呂は任せていなかった。
「まあ、ともかく風呂もらうわ。ありがとう、アテナ」
「一言多いのよ、あなたは」
ふんっとそっぽを向くアテナ。一見怒っているように見えるが、口元は満足げに緩んでいるのだった。
水浸しの制服を脱ぎ、風呂場に向かう。早く湯船につかりたいがために、体をさっと洗って、勢いよく入水――
「熱っ?!」
芸人もびっくりの熱さだ。おそらく温度調節をせずに適当に湯を張ったのだろう。自分で水を加えて適温にする。ひと手間を強制された気分だが、俺のために何かしようと頑張ってくれたことを考えればおつりがくるほどだった。本人には言わないでおくか……。
ただ、やられっぱなしは性に合わないので、シャワーを冷水に設定しておく。風呂場を出ると、いつの間にか着替えと新しいタオルが用意されていた。たったそれだけのことだが、不思議と心が温かかった。風呂は熱すぎたのだが。
俺と入れ替わるように、アテナは風呂に入った。狙い通り、アテナは「ひゃああああ」と情けない声を出していた。
夕食を早々に終え、久々に早い時間に床についた。アテナも、普段なら寝る時間には早いのだが、俺に続くように布団に入った。まだ一人で寝るのは不安なのだろうか。雨に打たれたからか、ソファーに寝転がるとすぐに意識は薄れていく。
「もう寝た?」
「……寝た」
「起きてるじゃない!」
と、こんな感じで意識は薄れてもすぐに眠りにつくことはできなかった。そのやり取りを何度か繰り返すうち、アテナが眠りにつく。そのあと、俺は眠ることを許されるのだった。
「……きて、起きて、起きなさいってば!」
夢心地から一転、まだ日も登っていない、というより月が空高く浮かんでいるだろう時間に起こされる。
「……なんだ? 腹でも減ったのか?」
「ちっがうわよ! ほら、そこの携帯。お父さんから」
携帯を見ると、ロック画面には不在着信の通知が二桁もたまっていた。その着信履歴から、電話をかけようとすると、相手側からかかってきた。よっぽど緊急事態なんだろうか。
「ああ、やっとつながった。君たち、こんな夜分に申し訳ない。急ですまないが、今から言う場所で霊を解放してきてほしい」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。何があったんだ。事情が全くつかめないんだが」
「すまない、時間がなくてね。簡単に説明すると、悪霊が君の街に多数出現して、その被害を食い止めるために、霊を解放してほしいんだ」
どうやら本当緊急事態らしい。でも何かが引っかかる……。
「とりあえずわかった」
「ありがとう。まあ、霊の数は一体だけだ。悪霊がいないようなルートを案内するからついてきてくれ」
顔を洗い、ジャージを羽織って、ゼウスの言うとおりにする。町は静かで、戦いが起こっている様子はなかった。ゼウスの案内通りの道を走っていくと、数十分後には目的地に着いた。そこは廃工場で、ゼウスはそこにつくと、あとは頑張ってくれと電話を切った。
廃工場の中を探索する。この工場は町はずれにあって、去年かおととしあたりに閉鎖した、海沿いの大きなクレーンがあるところだ。そのクレーンはコンテナを吊り下げたまま、空中に静止していた。ところどころに海風の影響か錆が見える工場は、打ち付ける波の音と相まって、少し不気味だった。
工場の敷地の中を散策していると、少し開けたところに小さな女の子が立っている。これがゼウスの言っていた霊なのか、と思いその子に近づく。おーい、と呼び掛けてみるも、返答はない。それどころか背を向けたままだ。女の子の肩に手を置いて、話しかけようとしたその時。
「おい、返事くらい――」
「あなた! 離れて!」
その声と同時に俺は後ろへ反射的に飛んでいた。俺がさっきまで立っていた場所には、無数の黒い触手のような何かが、無数に突き刺さっていた。その触手をたどると、それは女の子の背中から生えている。そのおぞましさに度肝を抜かれたが、それを上回るものを女の子は隠していた。女の子はゆっくりと振り返る。彼女の顔はもはや人間のそれではなかった。瞳は闇に染まり、口は耳のそばまで裂け、静脈血のような赤黒い何かが目から流れ出ていた。その瞳を見た瞬間、俺の中へ何かが流れてくる。
ニクイ、ニクイ、ニクイ、ニクイ、ニクイ、ニクイ、ニクイ、ニクイ、ニクイ、ニクイ。オマエノシアワセガニクイ!
人間の持ち得る悪意、すべてを一つにして凝縮させたような何かが俺の精神を襲う。
「紅葉!? どうしたの?!」
アテナの必死の呼び声も空しく、猛烈な嫌悪感は体に震えとなって表れ、俺の意識はいともたやすく刈り取られた。
暗闇だ。光は遠く、遠くへ行ってしまった。その何もない空間の中で上下左右もわからず、ただただ存在している。ここは……。
確認をする間もなく背後から、冷たい腕が伸び、俺の体中にまとわりつき、俺の体を底へ底へと引き込もうとする。必死にあらがおうとするもその腕は離れてはくれない。
あらがって、あらがっても光は手の届かないところにある。次第にもういいか、なんて思ってしまう。その冷たさを受け入れると、存外その感覚も悪くはなかった。今まで頑張っていたことがあほらしくなるようだ。幾千もの手が俺の身を奥へ、奥へと引きずり込んでいった。
気が付けば一番底へ落ちていた。そこは温かくはないが冷たくはなく、何も、何もない場所だった。相変わらず、体は腕に絡まれ動くことはできない。何もすることがなくて、今朝見た夢を思い出していた。
あの時母さんは何を言ったのか。うろ覚えだが、確か――。
「紅葉、いい? 命はね、すり減らすものじゃないの。ここぞ、というときにつかうものよ。守りたいものがあるのなら、迷わずに使いなさい。案外、命を懸ければどうにかなるものよ」
小さいころはこの言葉の意味がよくわからなかった。守りたいものなんてなかった。どうせみんな自分の前から消えてしまうんだと思っていたから。母さんのように。
「お母さん。お母さんの守りたいものって何?」
にっこりと笑った母さんは俺をぎゅっと抱きしめていった。
「全く。鈍感は父親譲りか!」
苦しいよお母さん、とつぶやいた俺の顔はまんざらではなかった。その温かさを感じることで得られた安心感に浸っていたのだろう。そして、そのまま母さんは続ける。
「まあ、でももし、紅葉にとって大切な何かができたなら。絶対に放しちゃだめだよ。無駄かどうかなんて考える前に立つんだ。立ってその子を守るんだよ。結果がどうであれね」
「僕にできるのかな。そんな正義のヒーローみたいなこと」
「できるかじゃないよ。やるかやらないか。なるか、ならないかだ」
「うん……わかった」
「よし、いい子だ」
頭を乱暴に撫でまわされる。その不器用な手が妙な安心感を感じさせたのを覚えている。そんな昔の思い出から目覚め、また暗闇に戻る。
アテナは……大丈夫だろうか。……いや、ちょっと待て。あいつ、霊が見えないんじゃなかったか。ここで俺がのうのうとしている間にもアテナは悪霊と、見えない敵と戦っているんじゃ……。そうだ、ここだ。ここしかないだろう。立たなきゃいけない。成り行きでなったとは言え、俺とあいつは家族だ。だとしたら、こんなところで寝ている場合じゃない。
体中にまとわりつく腕を引きはがそうとあがく。とても人のものとは思えないような握力を、力技で引きはがす。一本、一本はがせばはがすほど、まとわりついてくる。暗闇の底へ引きずり込もうとしてくる。それでもなお、俺はあらがい続ける。自分の言ったことの責任を果たすために、光へと手を伸ばす。不格好に、身の丈に合わない願いに手を伸ばす。
「俺は、もう家族を失いたくはない!」




