4話
いつもより耳障りなアラームが頭の中でこだまする。携帯を拾い上げ、アラームを止める。電池が悲鳴を上げ、警告が画面に表示される。昨日は充電することすら億劫でそのまま寝てしまったからな……。
アテナは昨日泣いた跡がくっきり残り、下の瞼が赤くはれていた。一人この部屋に残しておくのはまずいと思い、彼女を起こす。
「おい、アテナ。起きろ」
「……あなた、お早う」
昨日とは違い、起き抜けに寝ぼけていることは無かった。
「昨日は……その……迷惑かけたわね。自分でも押さえられない時があって。本当にごめんなさい」
謝るアテナは、吹けば飛んでしまいそうなほどに脆く、弱弱しくこの目には映った。
「気にするな、とは言えない。そんな簡単な問題じゃないだろうしな。でも俺たちは同じ屋根の下に暮らしてる。まあ、言うなれば、家族みたいなもんだ。だから、謝んな。だけど、俺もお前に迷惑をかけることを謝らない。それでいいか?」
あっけにとられた顔を見せるアテナ。そして、泣き晴らした目で笑う。
「あなた、それ、相当恥ずかしいこと言ってるのわかってる?」
「ああ、わかってる。今まさに顔が燃えそうだ」
顔が赤くなっているのは、カーテンの隙間から差し込んだ朝焼けの光のせいだと思いたい。
「これからよろしくな。アテナ」
「ええ」
握りあった手のひらはもう、冷たくはなかった。
そのあと休日までの数日はアテナの容態は安定しており、特に目立ったことは起こらずに過ぎた。一つ変わったことと言えば、俺の寝る場所がベッドからソファーになったということぐらいか。……体痛い。
さて、そんな風にここ数日の出来事を振り返っていると、神様、もといゼウスからの連絡が入った。ご丁寧に着信名もゼウスに書き換えられている。
「さあ、仕事の時間だ。紅葉君、アテナ、君たちが出会った公園に向かってくれ。今日はそこの霊を解放しよう」
「「了解」」
通話を終了し、準備をする。アテナが憑依しているとき、俺は人の目に映らないらしい。公園のど真ん中で憑依させればいきなり俺の姿が消えることになる。それはまずい。俺はネットニュースに載りたくはない。なので家でアテナを憑依させていくしかない。体に負担はかかるだろうが、仕方ないだろう。
大きく深呼吸をして、不快感に耐える準備をする。
「……よし。いいぞ」
「行くわよっ」
すっとアテナの姿が薄くなり、俺の体の中に吸い込まれていく。満たされていく感じはこの間と同じだったが、不快感はそれほどでもなかった。軽くなった体を慎重に動かしながら、玄関を開け、公園へと向かう。
公園につくまでの間、何人か見知らぬ人とすれ違ったが、俺の姿は見えていないようだった。ついでに言えば、声すらも聞こえていなかった。不思議なものだ。
目的地に到着したころ、再び神様から連絡が入った。後は根気よく探してくれ、そのあとのことはアテナがわかっている、とのことだ。公園を歩きながら霊を探していると、アテナが聞いてくる。
「ねえ、あなた。お父さんと何かあったの? ずいぶん上機嫌だったじゃない。あんなお父さん久しぶりよ」
「あー、まあ色々あってな」
ふーん、とその言葉の先を期待していることを訴えるように、俺の周りを飛び回る。だが詳しく話そうとすれば昨日あったことを蒸し返すことになる。それはお互いに望んではいないだろう。
「……あっ」
アテナの追及をはぐらかしながら歩いていると、見覚えのある霊を見つけた。
「おお! あの時の少年。また会ったの」
人なつっこい笑顔で笑う爺さん。俺は今からこの爺さんを地球へと還さなきゃならない。つまり俺がこの爺さんに手を下すのと同じだ。
「……ああ。久しぶりだな」
「少年、なんか疲れてない? というか憑かれてない?」
多分後ろのアテナのことを言っているんだろう。彼女に確認を取る。
「アテナ、こいつが霊で合ってるのか?」
「これが霊なのね……普通の人間と変わらないじゃない」
「いや、俺が聞いてるんだが」
「仕方ないでしょ?! 初めて見るんだから!」
ふんっ、とそっぽを向くアテナを放っておいて、爺さんと話す。
「なあ、爺さん。あんた自分のことわかってるか?」
「まあ、何となくは、な。実感はわいてないがの。わし、もう死んだはずなんじゃが、こうしてまだこの世に縛られとる。おぬしらはやっぱり迎えかの?」
「そんなところだ」
やれやれ、と爺さんはつぶやいた。このままこの世から消し去ってしまうのは何か違う気がする。何か俺にできることは無いものか。
「なあ、爺さん――」
「さあ、あなた、さっさと終わらせましょ。――Call」
「ちょ、ちょっと待て!」
勢いでそのまま爺さんを消し去ろうとするアテナを制止する。魔法唱え始めてたぞ、あっぶねえ。
「何よ、邪魔しないで。集中力切れるでしょ」
「ちょっと待ってくれ。爺さん、あんたはもう時間切れだ。それはわかってるな?」
「ああ、わかっとる。記憶はほとんどないが死んだことぐらいは覚えとるよ」
「そこでだ、爺さん。冥途の土産だ。何か思い残したこととかないか? どんな些細なことでもいいからさ」
「思い残したこと、かの。そうじゃな。一つだけ、この老いぼれの願いを叶えてくれるというのなら――」
飼い犬に会いたい、爺さんの最後の願いは、とても些細なものだった。
公園を出て、爺さんの家を探す。爺さんには記憶がなく、その飼い犬がいるという家の場所すらわからない。
「ねえ、あなた。どういうつもり? こんなことしなくても霊の解放はできるのよ?」
「そうかもな。でもこれだけは譲れない」
今までも霊のお願い事には何度も付き合わされてきた。それにうんざりして実家から出てきたわけだが、いざ無視してもいいといわれると、それもまた違う気がする。ああそう、と若干呆れたように、俺の体の中へ戻っていくアテナ。
「なあ、爺さん。本当に何も覚えていないのか? 流石に白色の大型犬ってだけじゃ候補が多すぎる気がするんだが」
「うーん、そうはいってもな。覚えていないもんは覚えていないんじゃよ。この街のどこかに家があることは覚えているんじゃがな。」
「そうか……」
少ない手がかりを頼りに、足を使い町中を歩き回る。時刻は昼過ぎ。これだけ歩いても、町の半分しか散策できていない。公衆トイレで憑依を解き、コンビニで適当なものを買い、一度家に帰ってきた。
「アテナ、本当にこれだけでよかったのか? お前の分、おにぎり三つしか買ってないんだが……」
「し、失礼ね! 足りるわよ」
アテナが選んだのは、昆布のおにぎり二つに鮭一つ。チョイスが渋い。俺はカップ麺とおにぎりを二個買った。包装に苦戦するアテナを手伝ってやり、自分も食事の準備をする。しかし、本当にアテナはこれだけでもの足りるのだろうか。そこそこの大きさの茶碗の飯を平然と数杯食べる女だからなあ……。
「いや、お前さん。なかなかやるの。あの短い間で同棲まで持ち込むとは……」
すすっていた麺を吹き出した。いや、確かに形としてはそうなんだけども……。
「爺さん、色々あるんだ色々。だから手籠めにしたとかそういうことじゃないから」
ほう、とまるで信じてない様子の爺さん。久々に話し相手ができたからといっても、はしゃぎすぎだろう。子供っぽく笑う爺さんを後目にそう思った。
食休みを終えて再び街に繰り出す。アテナは乗り気ではなさそうだったが、なんだかんだ俺の意思には従ってくれるようだ。先ほどは町の中心部を回っていたので、比較的閑静な住宅街を散策することにした。昼間とはいえ出歩いている人は少なく、いても数人のご老人ぐらいだった。ここなら見つかるだろう、と高を括っていたが、そうもいかない。日が沈みかけてもなお、見つかることは無い。
「なあ、少年。わしはもう満足しとる。こんな老いぼれのために世話を焼いてくれたことだけでもう十分じゃ」
爺さんは少し瞼に涙を浮かべながら言った。
「馬鹿野郎。ここで終わりにしたら俺が満足できないだろうが。どうせ最後だ、わがまま言えっての」
だが、実際問題爺さんの家は見つからない。後数時間で日が沈むような時間だ。どうしたものか……。考えを巡らせるも具体的な策は何も思いつかない。それでもなお、何とかしようと知恵を絞りながら、歩いていた時だった。
「待って! 待ってよシロ!」
白い毛に包まれた、大きな犬がこちらに勢いよく駆けてきて、それを小さな女の子が追いかけてきた。その犬は爺さんの目の前で座り込み、名前を呼ぶように吠えた。
「爺さん! こいつか?!」
問いかけるも、どうやら耳に入っていないようだ。その犬は、俺たちのことが見えるようだ。爺さんが手を伸ばすと、頭を差し出し、撫でて、撫でてと催促しているようだった。
「ああ、シロ。シロ! 会いたかったぞ……」
撫でることも、抱きしめることもできやしない。それでもこの一人と一匹は涙を流し、再会を喜び合う。しかし彼らは涙を流しながらも、その表情からは笑みがこぼれていた。
女の子が追いつき、リードを引こうと、シロはその場を動こうとはしなかった。だが、爺さんは涙をぬぐい、シロに告げる。
「シロ。最後にお前に会えてよかった。だが、わしはもうお前とは一緒には居られん。」
シロは、はたから見てもわかるぐらい、悲しそうな表情をしながら爺さんを見つめた。その目は、一緒にいたいと必死に訴えていた。
「そんな顔をするな、シロ。わしは先に行って待っとる。お前ともまた会えるさ。新しいご主人様が待っとる。だから。だから、もうお行き」
拭っても拭ってもあふれる涙を抑えることすら忘れ、爺さんはシロと別れの挨拶をかわす。シロもすべてを察したようで、一つ、大きく吠えて爺さんに背を向け、女の子に引かれていった。
爺さんは、遠ざかっていくシロを見えなくなるまで見送った。その表情はどこか晴れやかで、別れを惜しんでも、悔やむ様子はなかった。爺さんは振り返り、俺に向き直る。
「少年、ありがとう。こんな言葉で表すなんて失礼なことはわかっとる。でも、これ以上の言葉がわしには浮かばん。本当に、本当にありがとう」
たった五文字の言葉に、いつも誰もが使う言葉に、ここまでの重さが宿るのか。爺さんとシロが過ごしてきた、その一生全部がこの一言に詰められていた。
「ああ、どういたしまして」
爺さんは俺の後ろで浮いていたアテナに視線を向ける。
「銀髪の姉ちゃん。なんだかんだ、わしのわがままに付き合ってくれてありがとう」
「べ、別にあなたのためじゃないから。紅葉がやるって言ったことに従っただけよ。だから、感謝なんていらないわ」
素直じゃないなあ、こいつは。アテナの頬はほんのりと赤く染まり、口角は少し上がっていた。大きく息を吸って、爺さんは俺に言う。
「さあ、二人とも。わしを天国にでも地獄にでも連れて行ってくれ。もう心残りはない! むしろもらいすぎてバチが当たりそうじゃの!」
大きく声を上げて笑う爺さん。その顔はすがすがしさであふれていた。アテナと目を合わせ、互いにうなずく。アテナは意識を集中し、魔法を唱える。
「――Call 迷える子羊に救いの終焉を(リベレーション・アニマ)」
爺さんが蒼色の光に包まれ、体が徐々に崩れていく。崩れゆくにつれ、その身からは美しい半透明の羽をもった光と同じ色の蝶が天高く飛び立っていく。
「こりゃ圧巻じゃ。最後になかなかいいもんが見れたの。」
「ああ…」
「そうね…」
飛び立つ蝶がキラキラと星のように瞬いて、まるで星空がこの手の届く場所にあるような錯覚を覚える。その命の輝きに俺とアテナは息を飲んだ。どうせ最後だ、出会ったときに気になったことを聞いておこう。
「なあ、爺さん。あんたの死因って、浮気がバレて奥さんに刺された、とかじゃないよな?」
「そんなわけないじゃろ?! まあ、でもお前さんも気をつけた方がいいぞ。女の嫉妬は海よりも深いからの……」
何があったんだろう。気になるが聞かない方がいいだろう。爺さんの体は時間とともにだんだんと崩れ、もうほとんど残ってはいなかった。
「さて、そろそろ時間らしい。……少年、お前さんの思いやりはきっとお前さんに返ってくる。絶対に無駄にはならんからな!」
「ああ、そうだな。期待せずに待ってるよ」
見返りなんて求めちゃいない。それでも、こんな風に言われるのは嬉しくないわけがない。爺さんはこの世界から解き放たれる寸前まで、笑顔を崩すことは無かった。
爺さんがこの地球へと帰った瞬間、一つの蝶がアテナに向かって飛んだ。その蝶はアテナのペンダントに吸い込まれていき、一つの淡い光の玉になった。さあ、もう月も登り始めた。そろそろ帰るとしよう。帰路につく俺たちを、羽ばたいていく蝶たちが見守っているようだった。
家に着いて、アテナの憑依を解く。脱力感はあるものの、この前ほどじゃあない。ふと、アテナはペンダントを持ってつぶやいた。
「……あったかい」
「普通とは違うのか?」
「うん。他の天使のも触らせてもらったことあるけど、あたたかさを感じたことは無かったわ。あと光が大きい気がする」
俺も触らせてもらうと、確かに人肌のような温かさを感じた。前に触ったときは無機質的な冷たさしか感じなかったのだが。
「ねえ、あなた。本当に今日みたいなやり方でこれからやるつもり?」
「ああ」
返答にどもることは無かった。俺に何かできることがあるのなら、可能な限りはしてやりたい。それはその誰かのためじゃなく、自分のためだ。放っておいたら後味悪いしな。
「……そう。わかったわ。まあ、私もあなたの度が過ぎたお人好しに救われたんだもの。これ以上文句は言わないわ。あと……私も悪い気はしなかったし」
「そりゃどうも」
お人好しというのは若干引っかかる、これはあくまで自分の為なんだから。でももう考えるのはよそう。今日は歩き回ったせいか疲れた。疲れからか、大きなあくびをしていると、それに負けないくらい大きな腹の虫の音が鳴った。もう振り向かなくても誰かはわかる。
「夕飯作るかあ」
「……美味しいの作んなさいよね!」
アテナは、恥ずかしさからか少しほほを染めてはいたものの、空腹であることをもはや隠そうとはしなかった。
「はいはい」
昼飯少なかったんだろう。アテナにもわがままを言ったからな、飯くらいは豪勢なのを食わせてやろう。そうして俺は、独り暮らし用の炊飯器がパンクしそうなほどの白米を炊くのだった。
その後も休日には神様の指示に従って、霊を解放して回った。俺のやり方は効率が良くないと思っていたが、そうでもなく、一回あたりに回収できる魂のかけらは普通に回収するよりも多いらしい。幸いそのおかげで、アテナのペンダントには着々と光がたまりつつあった。そんな非日常が日常へすり替わっていく中で、クラスメイト達の俺に対する評価も定着しつつあった。もちろん、悪い意味で。
アテナも下界の環境に慣れ始めていた。何となく察してはいたが、アテナは手先が不器用だ。家事全般にそれが顕著に表れていた。ただ、根気はあるらしく、繰り返し教えていった結果、洗濯と掃除くらいはこなせるようになっていった。料理はまだ俺の専門ではあったが、だんだんと二人で家事を分担できるようになってきた。
俺の料理もアテナが家に来てから変わっていった。大飯ぐらいなことに加えて、アテナはどんな料理を出しても目を輝かせて、おいしそうに食べるのだ。俺の方も作り甲斐というものが出てきてしまって、実家にいたころよりもクオリティーが自然と上がっていた。新しい炊飯器を買ったことでさらにアテナの食欲は加速していった。あの細い体のどこにあの量が収まるんだろうか……。
さらに、アテナは俺が学校に行っている間の暇つぶしに見ていたアニメやゲームにどっぷりと浸かっていった。神が用意した部屋にはほとんどおらず、俺の部屋に入り浸り、アニメやゲームを楽しんでいた。俺としても、趣味の合うやつが近くにいることは卑下することでもなかった。
そんな風に最近の出来事を、屋上の風に吹かれながら考えていると、相川が話しかけてくる。
「紅葉氏、もうあそこの出す新作ゲーは予約済み?」
大手ゲームメーカーが手掛ける恋愛趣味レーションゲームの話だろう。主人公がずいぶんと特徴的なゲームである。
「ああ。ほらよ」
俺は何も考えずに通販の注文履歴を表示して、相川に携帯を渡した。相川は画面を二度見したのち、俺に携帯を返し、これまでに見たこともないほど優しい笑顔でこう言った。
「俺はどんな紅葉でも、受け止める覚悟はできているからな!」
「はあ? 何を言って……」
画面に映っていたのは、ゲームの予約完了通知だけでなく、アテナのために買った下着の購入履歴が残っていた。
「ちょ、ちょっと待て! 違うからな?! 俺に男の娘属性なんてないからな?!」
必死の反論もむなしく、相川は親指を反り返るほどに立て、出入り口の扉を閉めたのだった。俺はがくりと膝をつき、空を見上げ、自らの軽率さを恨みながら、静かに一筋の涙をこぼすのだった。




