2話
相川と他愛のない話をしながらだらだらと弁当を食べていると、昼休み終了の予冷が鳴る。急いで残りをかきこんで、二人で教室へと向かった。
久しぶりの授業を終えて、部活動も何もする気はない俺は、相川から誘われた部活動の見学も断り、真っ先に家に帰る。相川の付き人A、B、Cなどなどと、見学に回るのはごめんだった。
家に着き、撮りためたアニメを見ていると、普段多機能目覚まし時計として活躍している携帯が、珍しくアラーム以外の音を鳴らす。ベッドの上に投げられたそれを拾い上げて誰からの着信かを確認する。相川からの連絡は休み中ほとんどゲームのチャットやSkypeだったから相川でないことは確かなのだが……。
画面に映っていた着信名は非通知だった。わざわざ非通知で電話してくるような奴は知り合いにはいなかったので、着信拒否のボタンをタップし、携帯をベッドへ放る。しかし、一時停止を解除しようとした瞬間、再び鳴り出す携帯。その一連の行為を何度か繰り返し、諦めて着信に出る。
「もしもし?」
「ああ、やっとつながったか。小野寺 紅葉君だね?」
「はあ、まあ。そうですけど。あなた誰なんですか?」
「私は…………君たちの言うところの、神だ」
言い終わる前に電話を切った。きっとヤバめな宗教の勧誘か何かだろう。個人情報の漏洩には気をつけているつもりではいたが、まだまだ甘かったらしい。
再度着信が来る前に電源を落とし、ベッドに携帯を放り投げる。気分転換に水を飲もうと台所で水を汲んでいると、また電話がかかってくる。またか……いや、ちょっと待てよ。俺は確かに電源を落としたはずだ。ベッドに駆け寄って携帯をのぞき込むと、そこには先ほどと同じように非通知の着信名が描かれていた。次の瞬間、その着信名が「神」に書き換わった。度肝を抜かれ、携帯を落とす。拾い上げて何度確認してもその表示が元に戻ることは無い。恐る恐る着信に出る。
「あの、本当に神様なんですか?」
「だからそういってるだろう。何度も通話拒否されながら電話をかけるこっちの身にもなってくれよ?!」
すごい怒られた。まあ、十回以上通話拒否してたからな。当然と言えば当然だろうか。電話に出る前は、訳の分からないこの状況におびえていたが、神様の俗人のような態度にいつの間にか平静を取り戻していた。
「で、神様が一般人に何の用なんです? 俺忙しいんですけど」
「いや忙しくないよね君。アニメ見てたよね?」
お前と話したくないから早く電話を終わらせろ、という社交辞令も神の前では無意味らしい。わざとらしい咳ばらいをして神様は続ける。
「いきなりこんなことを頼むことを変に思うかもしれないが、娘を助けてほしい。とある事情で家に帰れなくなっていてね」
へえ、と他人事のように聞いていたが、一つ脳裏に引っかかった。それって昨日の――
「で、その少女をどうしろと?」
「君の所で預かってほしいんだ」
「え、嫌です」
「即答かよ! 君は人の心が無いのかい?!」
そうはいわれてもなあ。1Kの狭いこの部屋に二人で住むとか考えたくもないし。しかも女子が一緒の部屋にいるとか。無理、精神的に死ぬ。
「人の心というか、思春期の男子的な問題で無理ですよ。ていうか、娘を男に預けること自体が親として問題なのでは?」
「それなら大丈夫だ。娘は強いからね。逆に心配なのは君の方さ。私も何度か痛い目を見ている」
特に過度なスキンシップは危険だから気をつけたまえ、と警告をする神様。
「そんな危険物を押し付けようとするなよ!」
思わず神様にため口で突っ込んでしまった。
「大丈夫だって……多分」
「多分って、なにがあったんですか……。ま、まあ、それを置いておいたとしても、部屋がありませんし」
「ああ、それも問題はないよ。ちょっと目をつぶってもらえるかい?」
言われたとおりに目をつむる。何をしようというのか。
「もういいよ。君の左を見てくれ」
言われた通り左を見ると、何の変哲もない壁があったはずのところに扉ができていた。
「はあ?! ちょっ、あんた何してんだ! 隣住んでる人いるんだぞ?!」
「大丈夫大丈夫。開けてみてよ」
ゆっくりと扉を開ける。少しだけ開けた扉を、のぞき込むとそこには、今いる部屋よりも何畳か大きな部屋が広がっていた。
扉を閉めると、今あったことが嘘かのように扉が消える。目の前で起こり続けている超常現象にも、だんだんと驚きが薄くなってきている。物心つく頃から霊を見ることができた自分が言うのも今更ではあるのだが。
「でも金はどうするんですか? 実際、もう一人を養うほどの余裕は一ミリもありませんよ」
もうどうせどうにかできてしまうのだろう、と予想はついていたが、苦し紛れの反論をしてみる。どうなるのか見てみたいしな。
「うーんそうだね。じゃあそこの棚にしまってある通帳を見てごらん」
貴重品の場所まで割れているのか……。若干恐ろしさを感じながら通帳を取り出す。
「こ、これは」
明細のページに二十万円の入金が記載されていた。父からの入金はこの間あったばかりだ。この神の仕業に間違いはない。
「月二十万くらいでいいかい? 君の生活費もそれで出しておいて構わないから」
正直悪くない提案だ。霊から離れるために実家の神社を出たのはいいが、生活費がそこそこに厳しい。親からの仕送りはあるが、自由に使える金はほとんどないのが現状。アルバイトの代わりに場所を貸すだけで、二十万もの金が入るなら悪くはないか。
「もうわかりましたよ。その条件で受けます」
「本当かい! いや助かるよ本当」
「でもその前に一つだけ、質問いいですか? なんで俺にそんなこと頼むんです?」
「あんまり下界の人間に教えるのはよくないんだけど、まあいいか。天界では未来を予知する職業の人がいるんだけどね。その人たちがみんな揃って君を選んだんだよ。正直理由はわからないんだけどね」
迷惑な話だが、幸運でもあった。アルバイトの手間省けるし。
「で? その女の子はどこにいるんです?」
「それについては大丈夫。もう場所はわかってる。案内するからその通りに向かってほしい」
神様の言う通りに家を出て、指示通りに歩く。既視感のある道順に嫌な予感が高まっていく。向かっている目的地はすでに分かっていた。さらに言えば、もうその女の子の正体も何となく察しがついていた。もし、神なんていう超常現象が存在するのであれば、死神だとか天使とか言っていた彼女の話も現実の話なのかもしれない。何らかの理由で天界に戻れなくなっている、という話も神様の話と同じだし。
そうこうと考えているうちに目的地近くに到着する。やはり公園だったか。けもの道を抜けて、開けた場所に出る。予想通り、銀色の髪の少女がそこにいた。彼女は月を見上げながら静かに涙を流していた。
「おい、お前」
その少女はぎょっとしてこちらを向き、涙を急いで拭く。水滴は拭ききれたようだが、赤くなった瞼は隠しきれてはいなかった。
「あ、あなた昨日の死神じゃない。なんの用よ」
「あー神様? 事情説明してもらえます?」
わかった、と了承を得てスマートフォンを目の前の少女に渡してやる。携帯を渡して数分、彼女は携帯に向かっての口調がだんだんと荒くなっていった。人間? そんなわけないでしょ?! とかなんとか。
「もういいか? 早く帰りたいんだが」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。ねえ? あなた死神じゃないの?」
「死神とやらがどういうものかは知らないが、少なくとも俺は人間だ」
少女はオーバーに驚きの表情を見せる。鳩が豆鉄砲を食ったよう、とはこういうことを言うのだろう。
「ありえない、ありえないわ。だって私霊体化していたのよ。人間に姿を見られるはずがないの」
少女から携帯をひったくり、スピーカーの機能をオンにする。
「なあ、神様。霊体化って何なんだよ」
「ああ、霊体化っていうのはね。君たちの言う幽霊みたいな状態になるってこと。つまり、人間に見られないようになるってことだ。僕たちは下界の人に見られるといろいろと厄介なんでね」
それなら俺が、霊体化していたというこいつを見ることができたとしても不自然じゃない。
「なるほどな、合点がいったわ」
「一人で納得してんじゃないわよ。結局どういうことなのよ」
「いやだからさ、俺霊が見えるんだわ――」
「「はあ?!」」
流石親子だ、驚きの声も息ぴったり。
「紅葉君、それは本当なのかい?」
「今の流れで嘘をつく理由を教えてほしいぐらいなんだが」
大きくため息をつく。早く帰ってアニメの続きを見たい……。
「紅葉君、ちょっと試させてもらってもいいかい? アテナ、霊体化してくれ」
こいつ、アテナっていうのか。確かギリシャ神話の……知の女神、だったけ。
「はいはい」
彼女の周りに何か渦を巻き軽い発光をする。発光が収まるも、俺の視界から銀髪の少女が姿を消すことは無かった。携帯に一応確認をする。
「なあ、今ので霊体化ってのは終わったのか?」
「詠唱を聞く限りだと成功しているはずだけど。まだ君には見えているかい?」
何度瞬きをしてもこの目に映っている少女が消えることは無い。本当に何か起こったのだろうか。
「ばっちり見えてる。まあ、触ることはできないが」
軽い気持ちでアテナの肩に手を置いた。触れることはできないと思っていた手は、空を切ることは無かった。ほんの数十分前の神様の警告を、帰りたいという一心で忘れていた。スキンシップには気をつけろ――
「いやああああああ!」
鋭く踏み込まれた軸足と完ぺきなタイミングでひねられた腰が繰り出す、強烈な右が腹部をえぐり、数センチ地面から足が浮かぶ。言葉にならないうめき声を上げながらこの場にうずくまる。世界狙えるだろこれ……。
「ちょ、ちょっと大丈夫?」
これが大丈夫に見えるのならお前の目は既に腐り落ちている。と、指摘することもできない。しばらくしてやっと息ができるようになる。まだ不快感は残り続けてはいるのだが。
「お前……急になにすんだよ?! いきなり、腰を思いっきり入れたボディブローかますとか。頭おかしいんじゃないのか?!」
「あ、あんたが急に触るから悪いんでしょうが?!」
「たかが肩に触れられただけだろうが! ボディーブローと釣り合うわけがないだろうが!」
「うるさい、うるさい! もうわかったわよ。ちょっとじっとしてなさい!」
彼女は軽く息を吸い込んで集中する。
「――Call 彼の傷に癒しの祝福を(ブレッシング・オブ・パナケイア)」
彼女が短い言葉を発すると、あたたかい空気が俺を包み込む。
「おい! なんだこれ?!」
「大丈夫だからじっとしてなさいって」
その言葉に従っていると、先ほどから腹部に居座っている不快感が少しづつ薄くなっていく。やがて、不快感は気にならなくなった。
「お前、何したんだ?」
「何って、魔法よ魔法」
軽く言ってくれるが人間にとっては身近なものではない。驚くべきことなのだろうが、目の前で立て続けに起こる出来事に俺の感覚は麻痺しつつあった。
「もういいやめんどくさい。で、どうするんだ。うちに来るのか、来ないのか?」
「それは……」
うつむいたまま黙り込んでしまうアテナ。何を遠慮してるんだこいつ。
「なんだ、まだなんか問題があるのか?」
「もういいのよ。どうせ私は天界には帰れないのよ」
「はあ? そりゃまたどうして」
「天界と下界を自由に行き来できるのは、一定以上の成果を上げて特権を得たものにしかできない決まりなの」
「でもお前はなんか理由があってこっちに落ちてきたんだろ? 特例として天界に帰れないのか?」
「それはダメなんだ紅葉君」
神が話に割って入る。苦虫をかみつぶしたような声で続ける。
「これは古くから定められた天界の最高法規の中の一つなんだ。それを個人の事情で曲げることはできない」
「お前、娘が家に帰れなくなってんだぞ?! そんなこと言ってる場合じゃないだろ!」
部外者がこんなことを言うのはおこがましいのはわかっている。それでも言わずにはいれなかった。
「僕だって! ……僕だってできることならすぐに帰してあげたいんだ。でも僕は天界を統べる王だ。一個人の利益のために決まりを曲げるわけにはいかないんだよ……」
親としての立場と、統治者としての立場で板挟みになっている王の苦悩が痛いほど伝わってきた。これ以上攻め立てるのは酷か。
「じゃあ、さっさとその成果とやらを立てればいいんじゃないのか?」
二人は黙り込んでしまう。もしかしてこれもダメなのか……。
「この方法が無理であることは察したが、理由を聞いてもいいか」
「……」
黙り込むアテナ。それを察してか神様が説明を始める。
「まずは天使の仕事について軽く説明するよ。天使は下界を定期的に巡回して、おそらく君が今まで見てきた霊たちをこの世界から解放すること、これを仕事としている。もちろんこの仕事には、見習いの天使たちも実習として参加することもある。けれど、彼らには出発前に仮特権を与えるんだ。だから天界に帰ることができるわけだ。さて、天使は霊を魔法で解放するわけだけど、ここがネックでね。アテナは霊を見ることができない。魔法は対象を認識できないと正しく作用しないという法則がある。だから天使の仕事をすることはできないというわけだ」
今の説明を要約しておこう。アテナ、という神の娘は霊を見ることができない限り、どうあがこうと天界には帰れないということだ。だが、そうなると問題は霊を見れないということだけだ。それなら――
「なあ、一つ提案があるんだが。俺がこいつの代わりに魔法を使えないのか?」
「それは無理だ」
一蹴されてしまう。面倒ごとが増えるのは困るが、家に帰れないやつを放っておくのは後味が悪い。帰る手伝いができるのならしてやりたいとは思ったんだが。
「あ、ちょっと待ってくれ。もしかしたら方法があるかもしれない!」
ちょっと席を外すよ、と聞こえた後通話は終了した。初対面の女性と二人きり、しかも相手は人間じゃない。凍り付いた場の空気を壊すため、何とか話題を絞り出す。
「あー、自己紹介がまだだったな。俺は小野寺 紅葉だ。紅葉でいい」
「……私はアテナ。ゼウスの一人娘のアテナよ」
その後しばらく無言の空間が続くも、神から再び着信が来ることは無かった。四月とはいえ、夜はそれなりに冷え込む。そろそろ家に帰った方がいいな。 薄いドレスのような格好の彼女はさっきから腕をこすり、肌寒そうにしていた。
「なあ、いったん家に来ないか? 流石にその恰好じゃ冷えるだろ?」
「……わかったわ」
家に着くまでの間、アテナから話を振ることは無く、こちらとしても共通の話題は持ち合わせていなかった。お互いに無言のまま、家に着く。
「そこらへんに適当に座っててくれ。散らかってるけど勘弁してくれよ」
わかった、と小声でつぶやいてアテナは部屋の中に入っていった。異世界の住人ということで、靴のまま上がっていかないか心配していたが、玄関でふつうに靴を脱いで上がってくれた。いらぬ心配だったらしい。
キッチンで湯を沸かし、緑茶を準備し終わったころ、アテナではない話声が聞こえてくる。ちょっと待て、さっき一時停止したアニメじゃないか?
お茶を適当な茶飲みに淹れ、アテナのいる部屋へ向かう。そこには目を輝かせながらアニメに食い入っている天使様の姿があった。
「そんなに珍しいか?」
お茶をテーブルに置き、隣に腰掛ける。
「珍しいなんてもんじゃないわ! 動く絵画に物語を合わせるなんて……人間も侮れないわね」
ひどく感心している天使様を後目に、俺もアニメの世界に浸る。系統としては王道のハーレムラブコメディだ。個性もくそもないような主人公に、謎の力が働き、ヒロインたちが寄ってくる、ミステリーということもできるだろう。さすがに斜に見すぎか……。ヒロインのイラストに惹かれて撮りためておいたものの、いざ見始めてみるとそこまで心躍る物語とは言い難かった。
しばらく二人でテレビの前に座っていると、神様から連絡が来た。ずいぶんと待たせてくれたが何かわかったのだろうか。
「もしもし? 何かわかったんですか?」
「ああ、待たせてすまない。少し調べものをするのに手間取ってしまってね」
よいしょっ、という声と同時に、電話の向こうから同時にドサッという音が聞こえる。大量の資料のようなものを探していたのだろう。あれだけアニメに夢中になっていたアテナもこちらに姿勢を正している。
「さて、じゃあ今調べていたことを説明しよう。アテナはわかると思うんだけど、使い魔との契約魔法について調べていたんだ」
説明してくれるかい? と言われたアテナが簡単に説明を始める。
「契約魔法っていうのは、文字通り対象と契約を結ぶための魔法のこと。特に使い魔についてのそれは拘束力が強いの。原理は省くけど、主の魂の身体階層に、対象の魂を紐づける魔法よ。まあ、いろいろと効果はあるけど、今はいいでしょ」
正直、よくわからないところもあったがある程度は理解できた。要するにペットに首輪をするということだろう。
「ありがとう、アテナ。一つ思い当たる節があって、さっきまでその魔法についての論文を読み漁ってたんだ。論文名を覚えていなくて時間がかかってしまったけどね。『悪霊の兵器転用について』という論文なんだけど。一昔前に少しだけ話題になったんだが、アテナは知っているかい?」
「知ってるわ。悪霊を魔力の糧として取り込む魔法でしょ? 考えた奴は頭おかしいわね」
嘲笑するアテナ。俺にはおかしな点など微塵も理解できないのだが。神様は続けて話す。
「その通り。悪霊は人間の魂に恨みつらみが巣くったものだ。とても高いエネルギーを秘めている。だが、そのエネルギーは大変に危険だ。人間の負のエネルギーの塊だからね。当然その論文の魔法を使って悪霊を取り込みでもすれば、その天使の自我は崩壊してしまうだろう。だが僕はこの魔法を君たちに対して使えないかと考えた。天使は人間と違ってこの世に固定された体はない。基本的に人間の魂と同じ状態だと思っていい。つまりだね、紅葉君の中にアテナを憑依させようということだ」
「そんなことできるのか?」
「ふつうは無理だ。さっきの術式を使えばアテナは君の魂とくっついてしまう。それはとても危険だ。おそらく君の体を構成する情報が崩れ、君は死んでしまうだろう。だからこその契約魔法だ。この世界に、君とアテナの在り方を記録する。君たちが別々の存在であると定義しておくんだ。そうすればあいまいになることは無い、と思う」
最後の方は若干自信がなさそうではあったが、どうやら解決の糸口は見つかったようだ。この説明もある程度は理解できた。異世界転生もので得た知識が現実世界で役に立つとは思わなかったが。
「ねえ、お父さん。ところで、その契約術式の主は誰になるの? まさかこの人間じゃないでしょ?」
「そこにいる紅葉君だ」
「嫌よ?! 意味わかっていってるの?!」
「わかっている。だけど、今僕が考え付く方法はこれしかない。そしておそらくこの方法以外でアテナ、君が天界に帰ることはできない」
「っ……!」
唇を強く噛みながら、下を向くアテナ。話を聞いて少し疑問に思うところがあったので、神様に問う。
「二つ質問がある。その魔法を使って契約したとき双方に危険はないのか。その契約を破棄することは可能なのか。教えてくれ、神様」
「一つ目の質問に関してだが、危険は少ないとは言えない。なんと言っても前例もなく、実験することも不可能な魔法だ。だが、僕が携わる以上失敗はしない、命に代えて誓う。二つ目の質問に関しては不明だ。契約魔法の解除は、複雑な術式が必要なことに加えて、時間も多少かかるができないことは無い。だが、二つの魂を体に共存させる術式と組み合わせたとき、どんな結果を産むかはわからない。だから現時点においては不明だ」
「そうか……。なあ、お前はどうなんだよ。アテナ」
「どうって……まずはあなたが協力してくれるかどうかでしょ」
「なんか嫌そうな顔してただろ?」
唇をかみながら何かこらえているような顔をしながら、神様の話を聴いていたのだ。誰だって気が付くだろう。
「それは……嫌に決まっているでしょ! あなた想像できる?! 自分に首輪をつけられて飼われるようなものなのよ!?」
涙を溜め、顔を紅潮させながら大声で訴えるアテナ。俺にそんな趣味は無いのだが……。
「だけど……もし、それで帰れるんなら。我慢するわ」
神様の話を聞くに、アテナに協力することはすなわち自ら危険へと足を踏み入れることに等しい。だがもし、何を得るでもなく、何を失うわけでもなく、ただただと生きている人生に意味を持たせることができるなら。これは彼女のためだけではなく俺のためにもなるかもしれない。
「わかった。力を貸そう。神様、俺は何をすればいい」
「紅葉君。気持ちはありがたいが、もう一度深く考えてほしい。さっきも言ったように危険がないわけじゃない」
「わかったうえで言ってるんだ。意思が揺らぐ前に早く済ませろっての」
「そうか。感謝する、紅葉君。アテナもいいかい?」
「いいわ。……ありがとう、紅葉」
「別にいいさ。どうせやることもなかったからな。放っておいても後味悪いし」
神様の指示に従って、二人並んで立つ。
「それじゃあ、二人とも手を握ってくれるかい?」
「おい大丈夫か。俺また殴られるんじゃないのかそれ」
「殴らないわよ! さっきはその、急に触ってきたのが悪いんだからね?!」
そうはいっても横目で見えるアテナの手は小さく震えている。ここは気を利かせるべきかと思い、こちらから手を握ってやる。ビクッと小さく跳ねるアテナの体に、にじむ手汗。うすうす気が付いていたが、こいつ。
「お前男苦手なのか?」
「生まれたころから周りには女性ばかりだったのよ。だから、ちょっと苦手かもしれないわ……」
ちょっとというレベルではない気がするのだが。怖がるどころかオートカウンターのおまけつきじゃあないか。
「二人とも準備はいいかい。よし、じゃあ始めよう。二人はそのままの姿勢で僕の言うとおりに復唱してほしい。最初は契約魔法だ。基本的に二つとも紅葉君だけが唱えれば大丈夫だ。少し痛むかもしれないが直ぐに終わる。耐えてくれ」
少しってどれくらいなんだろうか。若干不安に駆られ握る手の力を強める。
「大丈夫よ。そこまで痛くないわ。私もやったことあるけど、ちょっとピリッとするくらいよ」
俺の不安を察してか励ますアテナ。本当に痛くないのだろうか。天使と人間で痛覚の違いとかはないのか。いろいろと不安が脳をよぎる。
「それじゃあいくよ。アテナ、紅葉君準備を」
大きく息を吸い込んで、不安を腹の中に押し込む。神様の言葉通りに言葉を復唱する。
言の葉を理として大地に刻む。
我ここに宣べる。
輪が魂に錨を下ろし
魔の鎖をもって
従者を繋縛せよ
唱え終わるとともに蒼色の炎が円形に広がり、陣を描く。その時だった。アテナの手を握っていた右の腕に焼けるような痛みを覚える。
「――っ!」
歯を食いしばりながらその痛みをこらえる。畜生、痛くないとか、嘘も甚だしいじゃないか。
「紅葉君、続けていくぞ!」
「もうどうとでもなりやがれ!」
汝の魂は我が内にあり
汝の命運は我とともにある。
――告げる。
汝、魂の輝き尽きるまで
我が志を満たすため
その身を燃やし
我が道を示せ
炎が二人を包む。不思議と熱くはなかった。握りこんでいた手の感覚が次第に薄くなっていく。先ほどまで痛んでいたことが嘘のように穏やかな気分になる。何か、失っていたものが満たされていくような感覚を覚える。
……いや、待って。ちょっと待って。まだ入ってくるのか? 途中までは心地よかった感覚も、何か無理やりに胃袋の中に食べ物を詰め込まれていくような感覚に変わっていく。その不快感が限界に達しそうになった瞬間、炎が消える。その場に膝をついて、不快感を押さえる。
先ほどまでとてつもない痛みを感じていた右腕には、綺麗な青の宝石が一つ埋め込まれた、他には目立った装飾の無い銀色のブレスレットが付いていた。
「紅葉君、体は大丈夫かい? もし何か変わったことがあるなら早めに――」
堤防が決壊した。唐突に訪れた限界になすすべもなく、胃袋の中にしまわれていたものは全て解放される。内臓ごと全て吐き出してしまったのではないかと錯覚するほどに、吐き続ける。吐しゃできるものがすべて流れ出るも吐き気は収まらなかった。
だるい体を動かし、吐しゃ物の処理を終え、再び神様と会話を始める。
「……大丈夫かい?」
これが大丈夫に見えるのだろうか。もし見えるのなら、親子ともども眼科に行くべきだ。吐き出すものがなくなっただけで、吐き気は依然として腹の中を渦巻いている。
「紅葉君、体調の悪いところ申し訳ないがもう少しだけ付き合ってくれ。何か装飾品のようなものが身についていないかい?」
まあ、おそらく右腕についているものだろう。
「銀のブレスレットなら右腕についているが」
「ああ、それだ。それはアテナを君に結び付けておくためのものだ。『アンカー』なんて呼ばれている。それができることについては後々教えていくよ。ああ、それとアテナが憑依している状態では君の姿は人の目には映らない。詳細は省くが、現象だけ覚えておいてくれればいい。質問があれば今のうちに聞いておくけど、何かあるかい?」
「俺はどうやって魔法を使えばいいんだ?」
「多分私が詠唱すれば大丈夫よ。勘だけど」
背中からアテナが這い出てきた。何かが抜け出るような感覚がこそばゆい。先ほどとは違って少し体が透けていた。
「ああ、アテナ。君も大丈夫だったかい?」
「大丈夫よ。なんか変な気分ではあるけど」
ふわふわと空中を飛び回るアテナ。だがあまり離れることはできないようで、すぐに俺の体に戻ってきた。現実とは思えない光景だ。
突然立ち眩みがして、体を支えるために足を踏み出す。しかし、踏み出した足は、予想以上の力でフローリングを蹴り飛ばし、想像もできないようなスピードでソファーに激突した。
「……痛っ! なんなんだコレ?!」
「あー、アテナが憑依してるから、その分の身体能力が加算されてるんだ。ごめん、言い忘れてたよ」
あはは、と苦笑する神様。何笑ってんだ、という言葉を心の中にしまう。
「遅いわ! ていうかそれ結構重要なことなんじゃ、うっ……」
ソファーに一回転しながら衝突したせいか、再び胃の中のものが上がってくる。いや、もう入っているものはないから液体だけなのだが。
上ってきた液体を気合で飲み込んで、食道の焼けるような感覚に耐える。口の奥に残った胃液の苦みに顔をしかめつつ、ソファーに体を預ける。確かに、言われてみればいつもよりも体が軽く感じる、気がする。馬鹿力が暴発しないように、衝撃で机から落下した携帯を拾い上げる。ソファーのひじ掛けに携帯を置いて話を続ける。
「それで、この憑依状態はどうやれば解けるんだ?」
「一度憑依してしまえばアテナの意思で出入りは自由にできるはずだよ。コツはいるだろうけど。アテナ、一度憑依を解除してもらえるかい?」
わかったわ、とアテナが言う。その瞬間、さっき背中で感じた悪寒のようなものが全身に走り、体すべての力が抜ける。そのまま膝をついて床に伏す。力を入れようと筋肉を動かそうとするも一ミリも動く気配はない。それどころかどんどん視界がまどろんでゆく。俺の名前を呼ぶ声が遠くなっていき、意識を失った。
自分の部屋とは違う、春風よりも温かく夏風よりも心地がいい風に目を覚ました。重い瞼を開けると、晴れ渡る青空。倦怠感に包まれる体を起こしてあたりを見回すと、一面に青々と茂る草原が広がっていた。ここは……。
立ち上がり、少し歩いてみる。踏みしめる芝の感覚と、吹き抜けてゆく風が心地いい。しばらく歩きづつけるも、延々と続く草原。再び腰を下ろし、芝の上に寝転がる。さっき寝転がった時には感じなかったチクチクとした刺激が、童心を思い出させる。目をつむり、太陽の温かさを感じていると、瞼の下から感じていた光が消える。不思議に思い、目を開けるとそこには誰かに似た顔の美しい女性がこちらをのぞき込んでいた。
その女性は不意に笑い、小さくこう言った。
「アテナをよろしくね」
この言葉の真意を確かめる前に、俺は再び深い眠りへと落ちていった。




