19話
「…………何だここは」
目を開ければ、見慣れない空間が広がっていた。石畳の講堂のような場所に気がつけば立っていた。状況がいまいちつかめないままで、周りについていく。
「何って、天界よ。天界」
「え、俺死んだの?」
「死んでないわよ。さっきお母さんにつれてきてもらったでしょうが」
先刻、戦いを終えた後、メーティスにそそのかされ、天界の自宅へと招待されたのである。メーティスは天界の壁を超える方法を見つけたらしい。まあ、見つけていなかったら俺がここにいるのはおかしいわけだが。また、アラクネは一時的に天界の牢に収容されたらしい。
講堂を出ると、まるで中世のヨーロッパのような光景が広がっていた。地面には石が引かれ、道行く人の格好は現代とは程遠い。夜の市場は人で賑わっていた。しばらく歩くと、何やら大きな建物の前につく。門番に話を通し、メーティスを先頭にその建物の中に入っていく。どうやら死神たちは入れないらしい。ハデス以外は。
しばらく中を進むと、ひときわ大きな扉が見えた。ハデスがその扉を叩くと、聞き慣れた声で、入ってくれ、と聞こえる。言われるがままに中に入るとそこには、王座にマントを携えて座る男性が一人。
「……本当に、生きていたのか。メーティス」
「これが死んでいるように見えるのか?」
「いいや、見えない」
そう言うと二人は静かに抱き合った。俺はその二人の前にゆっくりと歩みを進める。
「お前が…………ゼウス、なのか」
「そうだ、私がゼウスだ。今回は本当に申し訳なかった。結界の件は君に話してしまえば不可能な計画だったんだ。どう罵ってくれようが構わない。本当に申し訳なかった」
「メーティスさん離れてくれるか?」
「……程々に」
俺の気を察したようで、メーティスはそっとゼウスの抱擁から離れる。俺は拳を握りしめて、半身の姿勢になる。ハデスに教えてもらった通りの構えだ。今まで生きてきた中で最高の一撃を今ここに。地面をえぐるように踏み込まれた足の力を腰、背中、肩の順番に回して行く。引き絞られた弦が離すように、体重の乗った腕をゼウスの顔面へ放つ。
「え、ちょ、まっ――」
「猛省しろバカ野郎が!」
放たれた拳はゼウスの顔面をえぐり、衝撃は拳へと返ってくる。その反動に負けじと更に腕を前に突き出す。ゼウスは後方の王座ごと数メートル吹き飛んだ。後ろを振り返ると、満面の笑みを浮かべたハデスが拳を突き出していた。拳と拳を合わせてお互いに笑いあった。
「やったな紅葉! 最高だったぜ今の一撃」
「俺もそう思う。人生で最高の右ストレートだった」
王座から立ち上がろうとするゼウスの顔は、もうすでに腫れ上がり始めていた。俺は彼に近づいて手を差し出す。
「これで仲直りだ」
「ああ、こんなもので済むなら安いものだ」
「もう一発いくか?」
「やめてくれ、次は意識を飛ばされそうだ」
握った手は、国を収めるだけの大きさを感じさせるものだった。手を引いて立ち上がらせると、ゼウスは手を叩いて使用人を呼んだ。どこにいたのかは知らないが、いつの間にかゼウスの隣に立っていた。ゼウスの耳打ちを聞くとすぐに姿を消してしまった。
「さあ、みんな。ともかく食事にでもしよう。色々積もる話もあるだろうから」
ゼウスに釣れられて、食堂へと向かう。目的地につくとすでに美味しそうな匂いが漂い始めていた。ドアを開ければ、王座のあった部屋からここまでの間の短い間に準備された料理がすでに並べられていた。
使用人は手早く料理をテーブルへと並べていく。テーブルに並べられた料理はとても豪勢で、家の食事とは比べ物にならなかった。少し悔しいが、人の力と言うやつだろう。ゼウスの掛け声で、飲み物の入ったカップを持つ。サイズの割にとても重い。これ本物の銀だ。
「この度の勝利を祝って、そして、紅葉くんの将来に、乾杯!」
乾杯、と皆でグラスを交わし合う。ハデスは掛け声と同時にグラスを空け、新しく注ぎ直していた。これ、酒じゃないんだよな? ぐっと勢いよく飲み干すと、かすかに飲み慣れない匂いは感じたが、おそらく気のせいだ。
「おお! お前やっぱり飲めるじゃねえか! ほら、もう一杯もう一杯!」
「ハデス、お前は飲みすぎだ。ちょっ、無理にボトルを押し付けるな!」
そうして和気あいあいとした食事が続いた。しかし、そんな賑やかな時間は簡単に氷点下まで冷え込むのだった。広間へとつながるドアが唐突に開かれる。現れたのは、一人の女性だった。
「あらゼウス。今日の食事はずいぶん早いのね? 私も呼んでくれればよかったのに。そこの人たちは友人かしら?」
「やあ、はじめまして。ゼウスの妻のメーティスだ。以後よろしく」
メーティスが差し出した手を握る事はなく、代わりに強烈な眼光を目に当てる。
「あなたなかなか面白いことを言うわね。妻は私、このヘラに決まっているじゃないの」
ゼウスは下を向いて、ダラダラと冷や汗を流している。え、これって。隣に座っていたハデスにそっと耳打ちをする。
「……おい、ハデス。これまずくないか。前菜の後に前妻のバトルなんて見たくないぞ」
「……ああ、紅葉。旨いこと言ってる場合じゃないだろ。これは……あいつ殺されるんじゃないのか」
ゼウスがこちらにアイコンタクトを送ってくる。これは俺に口出しできない。そんな目でこっちを見るんじゃない。ハデスと二人、目をそらす。アテナがこちらに小さい声で話しかけてくる。
「ねえ、紅葉。これどういう状況なの?」
「そうだな、簡潔に言えば生き別れたと思っていた妻が実は死んでいなくて、再婚してできた妻が今生き別れた妻と出会ってしまった。ってとこだな」
「でも、私が天界にいた頃はお父さん再婚なんてしていなかったわ」
「まあ、おそらく関係はあったんだろう。妻が亡くなったショックを紛らわせてくれたのがあの女性だった、みたいな感じなんじゃないか」
「……なんとも言えないわね」
「……ああ、誰が悪いかわからないからこそ逆に質が悪い。あれは収拾つくのか」
そう言えば、アテナの食事が家にいるときに比べて進んでいないような気がする。一皿、二皿を食べたあたりで手が止まっていた。
「お前、そんなんで足りるのか? もしかして体調悪いのか?」
「いえ、別にそんな事は無いけど。天界の食事はもう食べ飽きちゃって」
なんとも贅沢な悩みである。確かに味付けは単調かもしれないが、こんなに美味いのに……。まあ、俺の料理のほうが美味い、と言われているようで嬉しいのは嬉しいんだが。しかし、あの状況はいつ収まるのだろうか。そろそろ殺し合いが起きそうだ。あ、メーティスとヘラがドアの外へ。やっと静寂が部屋の中に戻ってくる。ゼウスは下を向いたまま冷や汗を垂れ流している。
「なあ、ゼウス。この状況どうするんだ? 今出ていった人たち決闘でもするんじゃないのか?」
「僕が知りたいよ……というか、僕とヘラは結婚なんてしていないからね?! 確かに色々としてはもらったけど……」
「「勘違いさせるような事はしたんだな」」
「息ぴったりだなあ?! …………しかし、本当にどうすればいいんだ。やはり僕が死ぬしか無いのか……」
「普通に考えて、どっちかを選ぶしか無いだろ。まあ、今回の件は正直同情するが、勘違いをさせるようなことをしたお前が悪い。オレがお前でも同じふうな状況になってるだろう。まあ、覚悟を決めてこい」
「分かったよ……。骨は拾ってくれよ?」
「任せておけ」
ゼウスはハデスに激励されて、食堂から外へと向かっていった。数分もした後だろうか。外からここまで響くほどの爆音が轟く。
「…………ゼウス」
「諦めろ紅葉。もう遅い。旧友を失うのは辛いが、運命とは時として残酷なものだ。受け入れるしか無いだろう」
「え、ちょっとまってお父さん大丈夫なの?!」
多分殺されてはいないだろうが……。ひどい有様にはなっていそうだ。しばらくすると、少し服を焦がしたメーティスがドアを蹴り開けて入ってくる。そのまま音を立てて椅子に座った。使用人から酒を受け取って思いっきり飲み干す。
「メーティスさん、あの聞きにくいんですが、ゼウスは……」
「ああ? ああ、彼は生きてるよ。殺してはいない」
殺してはいないって……少なくともあなたが手を下したことが決定したんですが。
「メーティス、結局どうなったんだ? ゼウスと寄りを戻すのか?」
「ははは! 聞いてくれよ。ヘラをボコボコにしていたらゼウスが来たんだが、彼私達に何て言ったと思う? 二人共僕にとっては大切なんだ、だから三人で一緒にならないか、だってさ! これで吹っ切れた。ヘラはこんな言葉にも目を輝かせていたが私は違う。ヘラとか言う女は気に食わないが、まあヤツにはちょうどいいだろうから、押し付けてくれてやったよ。指輪をゼウスの前で粉々にしてからね!」
再び酒を煽るメーティス。その数は一本にとどまるはずはなく、二本、三本と増えていった。流石に危ないだろうと彼女を止めに入る。
「メーティスさん、流石にそれくらいにしておきましょうよ。それ以上は体に障りますから」
酒に手を伸ばしそうになっていた彼女の手を止める。すると、こらえていたものがあふれるように彼女は泣き始めてしまった。
「三人でってなんなんだよ?! 訳わかんないよ! いっそ振ってくれたほうがマシだったよ!」
「そうですね。確かにゼウスはひどいと思います」
泣きついてきた彼女はやっぱりアテナに少し似ていて、親子なんだなあと思った。頭を撫でながらなだめると、しばらくして彼女は泣き止んだ。
「…………ありがとう。しかし、どうしたものかなあ。私はもう住める家がない。あんな次元の隙間でさまようのはもう嫌だしなあ。かといってこんなところでゼウスと一緒に住むなんてごめんだしなあ。どこか泊めてくれる家は無いかなあ」
泣き止んだ彼女は椅子に膝を抱えながら座り、チラチラとこちらを覗いてくる。
「ああ、それならオレの女房に聞いて――」
その眼光に突き刺されてかハデスは何事もなかったかのように席についた。もう少し頑張ってくれよ。ハデスはどこかを向いたままこちらを向こうとはしなかった。ため息をついてアテナに聞く。
「アテナ、いいか?」
「あなたがいいなら、もちろんいいわ! お母さんと暮らせるなんて夢にも思わなかったもの」
「だ、そうですよ。どうしますか、家に来ますか?」
「…………行く。さて、そうと決まればさっさと準備しなくちゃな。こんな家とはおさらばだ。早速部屋の整理をしてくるよ!」
メーティスは、さっきまで泣いていたとは思えないような満面の笑顔で、食堂を駆けて行った。つくづく女性というのは恐ろしいものだ。全人類の女性がアテナくらい単純だったらいいのに。
「さて、紅葉。今日はもう外界に帰れ。色々あって疲れただろ? それにもう時間も遅いしな。メーティスには明日の朝にでもお前の家に行くように言っておくから」
「そうか、じゃあそろそろ帰るよ。……ちなみにどうすれば帰れるんだ?」
「隣には空から落ちてきた天使がいるじゃないか。先人の知恵を使うといいさ」
「それ全然おもしろくないわよ!」
ハデスは大声で笑った。アテナに連れられて食堂の外に出る。玄関に出ると改めて建物の大きさを感じた。こんなところから俺の家に来て、メーティスは小ささに驚くんじゃないだろうか。まあ、それでゼウスと寄りを戻せればそれが一番ではあるのだろうが。流石に無理かあ。玄関から外に出ると、地上から見る星とはまた違った星空が広がっていた。アテナに案内されるまま歩いていくと、天界の端へと到着する。切り立った崖の手前からは、壮大な光景が広がっていた。どこまでも続いてく雲の上に広がっていく星空。その光はいつも見えるものよりずっと近く、手を伸ばせば触れてしまいそうなほどだった。
アテナと俺はその崖の端に立つ。予想より怖いなこれ。
「アテナ。本当に大丈夫なんだろうな? 俺だけ外界に付く前に燃え尽きるとか無いよな?」
「大丈夫よ。……………………多分」
「何だその間は。……よし」
息を吸い込んで心を落ち着ける。どうせ死ぬときは死ぬのだ。覚悟を決めろ。わが家がこの下で待ってる。
「帰ろう。アテナ」
「ええ。あなた」
横にいるアテナの顔を見ると、少しだけ気持ちは落ち着いた。二人で崖から飛び降り、そのまま吸い込まれるように、空の中へ消えていった。




