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Fallin!  作者: 逆井 傘
Fall in love
17/21

16話

 事前に予約してあったチケットをコンビニで発券して、いよいよ決戦の前日。チケットを渡したアテナはとても喜んでくれた。だが明日のことを考えると緊張で眠れやしない。何度も寝返りをうつもなかなか眠ることができないでいた。相川や部活の先輩方、ハデスにも大丈夫だ、と言われたが不安でいっぱいだ。実際、気持ちを伝えて、ごめんなさい、なんて言われたらこれからの生活はどうしていけばいいのか。心労で死ぬ。アテナはもう眠っただろうか。ふと横を見ると、アテナは目を見開いたまま天井を向いて微動だにしていなかった。

「怖っ! おい、どうしたんだよ。金縛りか」

「いや、楽しみで眠れなくて……」

 恥ずかしそうにほほをかくアテナ。その一言だけで緊張はどこかへ言ってしまった。心がゆるんだからか、自然と笑いがこみ上げてくる。アテナは起き上がってこちらをにらみつける。

「別に笑わなくたっていいじゃない!」

「……悪い悪い。なあ、アテナ。眠れるまでゲームでもしないか」

「いいわよ。絶対負けないから!」

 電気をつけて、その後深夜まで二人で遊び倒した。やっぱりこいつと過ごしているのは楽しい。些細な会話ですら愛おしく感じてしまう。永遠という言葉が夢物語であることはもう痛いほど知っている。なら、終わりが迎えに来る前にこの気持ち、結果がどうなろうと伝えてみせる。気がつけばアテナが横でよだれを垂らしながら寝ていた。その間抜けな顔を見て、こんなやつに俺は惚れたのか、と思い苦笑する。抱きかかえてベッドに戻して自分もソファーで横になった。

 差し込んでくる朝日が俺の目に刺さる。ゲームに夢中になって眠るのが深夜になってしまい、結局数時間しか眠れなかった。いつもとは違い、アテナより先にシャワーを浴びる。いつもより温度を高くしてまどろみから意識を引き戻す。洗面台にある鏡の前に立って、覚悟を決める。大丈夫、きっとやれる。髪を乾かして部屋へと戻ると、アテナはもうすでに食卓に着いていた。まだ目は開ききってはいなかったが。手早く簡単な朝食を作って二人で食べる。食べものを胃袋に入れたアテナはすぐに目を覚まし、色々と準備に奔走し始めた。開園1時間前に着くために急いで準備をしたのだが、アテナが来ない。

「おーい! アテナ、まだなのかー?」

 今行くから、とドタバタと音を立てながら玄関に走ってくる。足りない睡眠時間を補うために玄関先でうたた寝をしていると、どうやらアテナが来たらしい。目を開けると、彼女はいつものジャージ姿からは想像もできないような服装をしていた。以前俺が適当に通販で買った服が、恥ずかしくなるほどにかわいらしい服だった。うっすらとメイクもしてあるように見える。いつもところどころはねている髪の毛も、今日は丁寧にくしでとかされている。頭にぴょこんと生えたもの以外は。

「お前……その格好どうしたんだ?」

「昨日死神の人たちに買い物に連れて行ってもらって、そこで買ったんだけど、似合わない……かな?」

「いや……そうじゃなくて……よく似合ってるよ。多分」

 直視できない。いつもの彼女からは想像もつかないほど綺麗だ。しかもそれを今日俺と出かけるためだけに準備をしてくれたのだ。やばい、想像以上に嬉しい。感情のキャパシティを超えた嬉しさは顔の火照りとなって現れる。鏡を見なくても自分が今どんな顔をしているかがよく分かる。にやけた口元を押さえても赤くなった顔は隠せない。

「そ、そっか」

「ほら、もう行こう。開園1時間前には着きたいから」

「ちょ、ちょっとまってよ」

アテナを見ることから逃げるように目的地に向けて出発する。隣に追いついたアテナをまともに見れるようになったのは数時間後だった。



 現在開園1時間前。時間ぴったりだ。予想はしていたがこの時間でも人は多い。アテナも集まった人間の多さに驚いていた。チケットは事前に買っておいて正解だった。ネットでめちゃくちゃ調べたかいがあったというものだ。スマートフォンのウェブページの検索欄の予測変換が「遊園地 デート」「遊園地 デート 注意点」などなど、俺の緊張具合をよく表してくれている。

「アテナ、どれに乗りたい?」

 遊園地のホームページから地図を読み込んで、回る順番を決める。アテナはカバンから何やら雑誌を取り出した。そこには付箋が大量に張ってあった。アテナいわく学校の友人にもらったらしい。だが、俺が誘って数日でよくもまあここまでチェックしたものだ。ドヤァという効果音が聞こえてきそうなほどのドヤ顔をかましながら、アテナは雑誌を開く。

「大丈夫よ。私が全部調べてきたもの!」

「ならいいんだが……」

 アテナとルートを話し合っているうちに開園時間になった。キャストの人たちが開園を満面の笑みで告げる。その言葉とともに一斉に人々は動き出す。人の波に飲まれそうになるアテナの手を掴み、二人で待ち受けるアトラクションへ走り出した。

 先程決めた通りにアトラクションを回っていく。始めはジェットコースター。遊園地なんて子供の頃に何度か行ったきりだったので、思い切り叫んでしまった。予想に反してアテナはジェットコースターに耐性があるようで、結局何回も乗ることになった。次に乗ったのはコーヒーカップ。アテナが調子に乗ってハンドルを全力で回したせいで、周りのカップとは一線を画する程のスピードで回っていた。先程のジェットコースターとは真逆に、俺は比較的三半規管が強いのか気分は悪くならなかったのに対して、アテナは自分で回しておきながら、顔に薄く塗られたチークで隠せないくらいに顔が青くなっていた。しかし、日陰で数分休んだら即顔色が良くなるあたりは流石アテナである。更に、立体影像を見て楽しんだり、コンサートで盛り上がった。だが、メリーゴーランドで目を輝かせてこちらに手を振ってくるのは、周りの目が気になるのでやめていただきたい。

 その後何個かのアトラクションに乗って、レストランで昼休憩を取る。ビュッフェ形式のレストランでアテナも大いに満足できたようだ。キャストの皆さんは若干顔が青くなっていたような気がするが、まあ気にしないでおこう。昼休憩を終えて、回ろうと考えていたアトラクションの中でも一番アテナが楽しみにしていたものに入る。そのアトラクションでは、宇宙船に乗り光線銃をもした拳銃でロボットなどの敵を倒していく、というゲームだった。運よく俺たちは先頭に乗ることができた。

 キャストのお姉さんが、本日の最高得点を発表する。最高得点は20万点。最近はハデスに拳銃やアサルトライフル型の神器の扱いを教えてもらっている最中なのだ。やけに軽いその銃のグリップを握りしめて、トリガーの軽さを確認する。思ったよりも軽く、連射は簡単にできそうだ。レーザー方式なので反動もなく、再装填を行う必要もない。

「紅葉、狙う点数はわかってるわね?」

「ああ」

 隣に座ったアテナと俺でアイコンタクトをとる。カートもだんだんとスピードが出てきて、大きめの音楽が流れ始めてアトラクションの始まりを知らせる。ゲームを多少でも嗜むものなら答えは簡単だ。狙うのは記録更新? 違うな。

「「得点上限(カンスト)だ(よ)」」



 一度目で今日の最高得点を超え、二度目でその数倍の点を取り、三度目で表示上限へと至った。アテナも俺もとても楽しむ事ができた。結局は家でゲームしているのと変わらないのではないか、と少し思ってしまったが。日もくれ始めたので、お土産を探しに店に入った。色々なキャラクターの色々なグッズが売っている。正直あまり詳しくはないので、何がどのキャラクターだとかはわからなかったが、とりあえず役にたちそうなマグカップを買っておくことに。後は今回のお返しの件で色々と迷惑をかけたり、アドバイスをくれた人たちようのお菓子もかごに入れる。アテナも何かを買ったようで袋を小脇に抱えていた。

「何買ったんだ?」

「べ、別に何でもいいでしょ!」

 サッと袋を背中へ隠してしまう。別に詮索するつもりはなかったが、そこまで全力で拒否されると流石に心にくる物がある。話題を切り替えるために横を通った女子がしている耳の着いたカチューシャについて話題を振る。

「なあアテナ。ああいうカチューシャは買わなくていいのか」

「うーん、なんか馬鹿っぽくない?」

 本日3箱目のポップコーンを空にしながらアテナは言う。流石俺の惚れた女だぜ。

 お土産も無事買い終えて、まだ閉園には時間があったので園内を散策することに。昼間の園内とは全くと行っていいほどに雰囲気が違った。しばらく歩いていくと、一つのアトラクションに俺とアテナは足を止めた。暖色の光でライトアップされた、幻想的な雰囲気を醸し出す一隻の船のアトラクションだ。そこは先輩に教えてもらった告白のスポットだった。昼間にここの前を通ったはずなのだが、見たのは夜の画像だけだったので気づかなかった。アテナの方を見ると、彼女もその幻想的な光景に目を奪われていた。

「アテナ、最後に乗らないか?」

「……うん」

 船内に乗り込むと、俺たちに続くように結構な人数が乗り込んで来る。三階に乗り込めたのは幸いだった。程なくして船大きな音を立てて汽笛を鳴らして出港する。高いところから見下ろすと、昼間見た風景とはまるで別物に見えた。しばらくここからの景色を楽しんでいると、アテナに腕を引っ張られる。

「ねえあれ! あれ見て! すごい、すごい!」

 アテナの指差す方を見ると、キラキラとした光、そして音楽が園内に鳴り響き始める。色とりどりのLEDでライトアップされた楽器隊が俺たちの前を行進していく。それに続くように、誰もが一度は読んだことがあるであろう童話などを模した、これまた輝くセットが一列に並んでいる。船の中から歓声が上がる。あまり知識のない俺でもその美しさと、目の前に広がる非現実な光景に感動していた。アテナもその輝きにうっとりとしている様子だった。しかし、幻想的な光景も長くは続かず、気がつけばアトラクションは終点の停泊所へと着いていた。人の流れに逆らわずに船から降りる。

 未だにあの光景の余韻が抜けきらないアテナと俺は、川沿いのベンチに二人並んで座っていた。水面を見ると、それは鏡面のように船体を映し出し、現実感をより薄れさせる。ここしかない。船を眺めているアテナの名前を呼ぶ。

「アテナ」

「……えっ。な、なに?」

 突然名前を呼ばれたからか、困惑するアテナ。次の言葉を吐き出そうと、口は開くのだが言葉が出てこない。大きな深呼吸を繰り返す。それでも胸の鼓動は収まらない。やっぱりあのときは精神のタガが外れていたんだと実感する。頭の中でバラバラに離れていく言葉を必死に紡いでいく。

「お前が外界に来て、俺の家に住むようになってからいろんな事があったよな。いきなり魔法なんて使って変な契約をするはめになるし。霊を開放する仕事までやらされて。悪霊なんてよくわかんないやつに殺されそうになったり、ハデスの訓練を受けて死にかけたり、お前の親友に殺されかけたりもしたな」

「うん」

 今だからこそ笑えるが、当時の俺からすればたまったもんじゃないだろう。悪霊に精神を汚染されたときは本当に死ぬと思ったし、ハデスの訓練を初めて受けたときは正直死んだほうが楽とさえ思った。アラクネを撃退したときは実際に死んだからな。でも、それだけじゃない。

「だけど辛いことばっかりじゃなかった。お前が来てくれたおかげで楽しかったことも少なくはなかった。遊び相手が常にそばにいるっていうのは悪い気分じゃなかったし、俺の作る飯をいつも美味しそうに食べるお前を見るのは結構嬉しかったよ。それに、俺の誤解が解けたのはお前のおかげだ。料理部の先輩たちだって、お前がいなかったら関わることなんてなかった」

「……うん」

「まあ、なんていうかさ。何回も死にかけたけど、結構楽しいことばっかりだった気がするよ。俺、俺さ。昔母さんが死んでからずっと、失うことが怖かったんだ。だから…………」

 自分の視界がゆがんでいることに気がつく。自然と頬を伝う温かい涙。これはきっと悲しさから溢れてきたものじゃない。それだけは分かった。袖で止まらない涙を拭いて続ける。

「悪い。泣くつもりはなかったんだけどな。とにかくお前が来てからはそんな事は気にしなくなったよ。失うことの怖さより、得ることの嬉しさを知った。……おいおい、なんでお前が泣いてんだよ」

「……だってあなたが泣いてるから」

 ふと横を見れば俺以上に涙を流す彼女の姿があった。ハンカチでアテナの頬を拭いてやる。

「まあ要するに、だ。俺はお前といる時間が結構大切だ。お前の隣で話をする時間。お前の隣で笑っている時間。お前と居られる時間。全部大切で、これからもずっと…………他のやつに渡したくない。柄に合わないことはわかってる。けど、紛れもなく。この気持は本物だ」

 大きく息を吸う。酸素が上手く体に回ってくれない。心臓の鼓動が体中にこだましている。痛いくらいに鼓動を鳴らす心臓を気合で押さえつける。喉の渇きを生唾で潤して、言葉を絞り出す。

「だからさ、アテナ」

 アテナの正面を向く。その顔を見て改めて自分の気持ちを確かめる。張り裂けそうな心臓と過呼吸になりそうな息。いるんだろ、神様。今だけでいい。伝えたいことがあるんだ。俺にこの大きな一歩を踏み出す勇気を。飛び出しそうな心臓を飲み込んで、アテナの肩を掴む。

「俺は――お前が好きだ。俺と付き合ってほしい」

 アテナは苦しそうな表情で、俺の告白の答えを返す。

「……ごめんなさい」

その答えを聞いて心臓が止まったかと思った。それくらいに胸が痛い。アニメや漫画で出てくるような表現は過大なんかじゃなかったみたいだ。痛い。アテナの肩から手をどけて、自分の胸を抑える。針で突き刺されるような痛みをなんとかこらえながらアテナの話を聞く。

「それは……無理よ。あなたは強い。私は…………弱い。一人じゃなんにもできやしない! 一人ではいられない! …………きっと、あなたと一緒になれば今まで以上にあなたを傷つけ続ける。だから……だからあなたは私を選ぶべきじゃない! あなたなら、私の代わりはいくらだっているはずよ。だから――」

 何かが切れる音がした。自分の代わりはいくらでもいる、だと。先程まで感じていた悲しさは心の奥底から湧き上がってくる怒りに染め上げられた。人生の中で一二番を争う程に腹がたった。気がつけば体と口は勝手に動いていた。アテナの肩を強く、強く掴む。大きく息を吸い込んでアテナに大声で言う。

「ふざけるのも大概にしろ! いいか、耳の穴かっぽじってよく聞け。この世界の中でお前の代わりになるやつなんて、一人だっていやしない。お前と過ごす時間より楽しい時間を俺は知らない。それにな、お前が弱いのなんてわかってんだよ。でもな、俺だってお前が思っているほど強くない。お前の弱いところは俺が埋める。だから、俺の弱さはお前が埋めろ。わかったらつべこべ言わず…………俺の隣にずっと居ろ!」

 途中から自分でも何を言っているのかわからなかった。やっぱり俺は叫ばないと物事を伝えられない性なのかもしれない。アテナは余裕を失って真っ赤な顔で目を泳がせていた。それはすぐに落ち着いてうつむきながら小声で言う。

「……はい」

 二人で手を繋いで、しばらくそのままでいた。ただ、そうしているだけで心臓が張り裂けそうな程に幸せを感じた。ふと、ポケットに手を入れると、指輪を渡していないことに気がつく。ああ、そうだ。これが無駄にならなくてよかった。

「アテナ、右手をこっちに出してくれ」

「こう?」

 差し出された右手の薬指に、ブルーサファイアの埋め込まれた方のリングをゆっくりと通してやる。サイズが合うかどうか心配だったが杞憂だったな。左手の薬指にはまだはめなくていいだろう。

「こ、これは?」

「ホワイトデーのお返し。遊園地もそうだったんだが、本当のお返しはこっちなんだ」

「綺麗……」

 アテナはうっとりとその指輪を眺める。ルビーが埋め込まれた方を取り出して、アテナに渡す。

「アテナ、これ。俺にもはめてくれないか?」

「分かった」

 ぎこちない手付きで俺の右手に指輪をはめるアテナ。自分ではめるのと結果は変わらないのだが、案外嬉しいものだ。指輪をはめて、アテナの顔を見ていると、何かを期待するように目を細めて口を軽く開ける。そういうつもりではなかったんだが……。まあ、期待には答えておくとしよう。アテナの首筋に手を添える。指先が触れた部分からは人肌の暖かさが伝わってくる。俺の指の冷たさにアテナは吐息を漏らす。それは俺の気持ちをさらに昂らせる。添えた両の手を引きながら、唇と唇をゆっくりと合わせる。彼女の唇の暖かさと柔らかさを感じた瞬間、アテナは光とともに俺に憑依した。ただ、いつもとは大きく違う。何か満たされるような。

 そして、気がつけば俺は空中に浮いていた。

「おい! アテナ、これなんなんだよ?!」

「私だってわっかんないわよ?!」

 俺の意思に反して俺の体はどんどん天高く登っていく。快晴の夜空を駆け上がるように。さっきのライトアップされた蒸気船も綺麗だったが、そんなちっぽけなものじゃない。地球の天井にこれでもかというほどに散りばめられた満天の星空が広がっていた。

「これは……圧巻だな」

「ええ」

 次第に体の動かし方がわかってきて、自在に空を飛べるようになる。綺麗なのは空だけではなかった。見下ろした遊園地も星々に負けないくらいに輝いていた。人間も負けてはいないじゃないか。少しばかり肌ざむいがこれらの星たちの前では些細なことだ。二人で飽きるまで夜空を飛び回った。



 家に帰ることには、もうクタクタだった。アテナが憑依したまま鏡を見たら半透明の羽が生えていたことには度肝を抜かれた。風呂に入って、すぐに床についた。体は疲れで重くなっているのにもかかわらず、なかなか寝付けなかった。告白が成功した高揚感と、彼女の唇の柔らかさが俺の頭の中でぐるぐると渦巻いていた。そんな中で、アテナが俺を呼ぶ。

「ねえ、あなた」

「どうした?」

「……隣に、来て」

 言われるがままに俺はアテナの寝ている布団の中に入る。緊張でどうにかなりそうだ。シングルサイズのベッドに二人並んで横になるのは少し窮屈だった。だが、春の夜の冷えには好都合だった。恥ずかしさから背を向けていると、アテナは不機嫌そうに言う。

「こっち向いてよ」

「……分かった。わかったから背中をつまむんじゃない」

 仕方がなしに寝返りを打つ。すると、目の前に彼女の顔が。心臓が跳ねた。風呂上がりの妙につややかな顔が月光の中でもはっきりと見えた。

「……やっとこっち向いてくれた。えいっ」

 アテナは俺の胸に抱きついてくる。高鳴る心臓の音が更に速さを増してしまう。恥ずかしさと嬉しさがぐちゃぐちゃに混ざりあった感情が脳内を埋め尽くした。

「あ……。あなた、すごいドキドキしてる」

「……うるさい」

 胸に顔を埋めている彼女を思いっきり抱きしめる。ただ抱き合っているだけなのに、体が触れ合っているだけなのに、この胸の内を支配する暖かさはなんだろうか。大好きだった母さんが死んで、もう何も好きになんてなるものか、なんて考えていたことが馬鹿らしい。失うことは確かに怖い。でもそれ以上に誰かを好きになることで得られる物があるのだ。それを彼女は教えてくれた。

「恥ずかしがらなくてもいいのに。私だって……同じだもの」

 ギュッと抱きしめる力を強めるアテナ。お互いに足を絡め合う。人肌の暖かさを貪り合うように。

「そういえば、アテナ。お前お土産に何を買ったんだ? なんか隠してたろ」

「ええと、あなたがマグカップを選んでるのを見て、それとペアになるやつを買ったの」

「お前、そんなことしてたのに告白断ろうとしたのかよ」

「だ、だって。告白されるだなんて思わなかったわよ! 好きなのは私だけだと思ってたから……」

「鈍感なやつめ」

「あなたには言われたくないわよ」

 自分と対になるものを選ぼうとしてくれたことだけで嬉しい。やっぱり恋愛は自分の中の価値観をまるっきり変えてしまうんだなあ。ちょっと前の自分なら嘲笑していただろうに。そんなことを考えていると、アテナが突然俺の名前を呼ぶ。

「紅葉」

「なんだ?」

「えへへ。紅葉、紅葉」

 甘い声で俺の名前を呼び続けるアテナ。結構恥ずかしいなあ、これ。でも悪くはない。大好きな人がつけてくれた名前を、大好きな人が呼んでくれる。たかが名前だ、でもそれは俺を俺たらしめる唯一のものだ。そして、母さんが残した、永遠に消えない唯一のものだ。

 アテナの髪をゆっくりと撫でてやる。綺麗な髪だ。指を通せばするすると抜ける。引っかかりなんて少しもない。俺は、彼女を守りたい。それは自分のため。それは彼女と歩いていく未来をこの手から零れ落ちないようにするため。

 気がつけば彼女は安らかな眠りに着いていた。その寝顔は心から安心して、とても幸せそうだった。襲うのも馬鹿らしくなった俺は、軽くキスをして目をつむった。



「この役立たずが! 無様な醜態を晒しやがって。お前にどれだけの金がかかっていると思っているんだ!」

 繰り返し、繰り返し暴力を振られ続ける。ごめんなさい、ごめんなさいとひたすら繰り返そうと、その教育は終わらなかった。汚した床を拭くように布を投げつけられる。それにしたがって床を掃除していく。ワタシはもう私の中に封じ込めた。アテナは生きていた。それだけで心の中に強さが戻ってきた。それに、あの男の子に焼かれた目からも強さをもらえた。燃えるように熱く、けれど全てを包むような優しさを内包したあの炎に。償いがしたいのなら、父の考える計画を天界に伝えなくては。

そのためにはなんとかこの研究所を抜け出さなくてはならない。どこかに地上へとつながる転送装置があるはずだ……。自分の部屋を抜け出して、あてもないままに歩き回る。しかし、どれだけ歩こうと出口は見つからない。諦めては駄目だ。部屋を抜け出したことがバレれば父親に何をされるかわからない。しかし、突然後ろから羽交い締めにされる。

「離せ! 離せと言っているだろうが!」

 私を押さえつけていたのは目に光を失った天使だった。この間この研究所にやってきた、反政府勢力の一員だろう。二人がかりで体重をかけられ、身動きが取れない。そこに、聞き慣れた足音を立てながら黒幕は姿をあらわす。

「気がついていないとでも思っていたのか? お前の人格がもとに戻ったことなんてとっくに気がついているに決まっているだろう」

 はあ、とため息を漏らす父。気持ちの悪い笑みを浮かべながら組み伏せられた私の前に座り込む。その顔につばを吐いて私は言う。

「どうせ私達は全員殺されて終わりよ。諦めなさい!」

「諦める? 殺されて終わり? 上等じゃないか。私はね、あのへらへらとした顔で世界を牛耳っているあいつに人泡吹かせてやりたいだけなんだよ。その結果私が死のうが、何が壊れようが知ったことではない! ……そうだ。そんなに破滅がお望みなら叶えてやろう。一つとっておきを用意してある。並の天使では耐えられないだろうが、お前なら耐えられるかもしれんな。濃縮された人間の悪意と魂をお前にやろう。おい、お前たち、そいつを連れてこい」

 父は背を向けて歩き出す。私はやめろ、やめろ、と叫ぶことしかできなかった。その声は廊下に虚しく響くだけであった。



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