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Chapter 2:トキコと花火

「ねえ花火しようよ、花火」


 目を覚ました途端、おはようの代わりに彼女に言われた。

 僕はまだ寝ぼけていて、なんと言われたのかしばらく理解できなかった。


「はな、び……? え、花火? どうして」

 段々頭が冴えて来てようやく、彼女が何を言っているのか理解した――が、何故言っているのかはわからなかった。

 のそのそと冬眠明けのクマのように起き上がる僕を、彼女はにっこりしながら見つめていた。


 去年の残りの花火を持ち出して来たのは、昨日のことらしい。

 納戸の片付けをしていたら出て来たという。


 朝食の準備をしながら僕にそのいきさつを話し、朝食を食べながら「だから花火しようよ」とよくわからない主張をした。

 食器を洗っている間は鼻歌を歌っていたけど、それが終わったらリビングで寝転んでいる僕にのしかかって来て、彼女はまた「花火しようよ」言った。

 僕は彼女の頬の柔らかさにニヤケそうになり、慌てて言い返した。

「何言ってんの? まだ五月じゃん」



 僕としては「また花火か」という気持ちもなきにしもあらずだった。

 彼女は花火がとにかく好きで好きで、どのくらい好きかというと夏には何度も――というかほぼ毎週、花火イベントに出掛けるくらいだ。僕はそのたびに付き合わされていたのだ。

 付き合い始めてからずっと、毎年の話だ。


 打ち上げ花火も好きらしいが、なんと言っても手持ち花火が一番、らしい。

 そして彼女の手持ち花火のために、僕は小さな庭付きのテラスハウスへ引っ越すことになったのだ。

 何しろ僕が「付き合おう」と言うより前に、彼女に「花火を見に行きたい」と言われたくらいなのだから。

 僕が好きなのか花火が好きなのか、一度問い質す必要があるかも知れない。



 * * *



 ある程度自由に使える庭が付いている物件を、と言うと、少々太めの不動産屋は「バーベキューですか?」と愛想笑いで尋ねた。

 そこで彼女が「いえ、花火です!」と目を輝かせながら答えると、不動産屋は戸惑いながらまた愛想笑いを繰り返した。


 当然のことながら、都心の高層マンションを最初に勧められた。有名な花火大会が悠々と眺められるというのがウリの物件だ。

 そんな資金があるかどうか、僕らの服装を見ればわかるだろうに……嫌味でもなんでもなく、本気で勧められたのだから文句も言えない。

 改めて彼女が希望を細かく説明し、それでようやく、今度こそ心得たという表情で不動産屋がうなずいた。


 念願の庭付き物件に引っ越したのは去年の暮れ近くだった。

 気の早い彼女は、夏用に縁台と蚊取り線香を入れるブタの焼き物もすぐに購入していた。その時期にまだ売っていたのが驚きだ。



 ここに来てよかったと思うもののひとつは、年中何かしらの樹々や花々が見られることだ。

 この辺りでは今、生垣のツツジが花盛りだ。

 他にも春は桜やチューリップ。初夏の紫陽花やクチナシ。夏の花々はもちろんのこと、秋にも秋咲きの薔薇やクチナシ、立派な菊などを自慢気に手入れしている人の姿をよく見掛ける。

 そういえば上京したての数年前の秋に、初めて金木犀の香りを嗅いだ時は、その香りがどこから来るのか思わず探し回った。

 まさかあんな小さな花が、あんなに甘い香りを発するとは知らなかったのだ。


 そして透き通るような初冬の空には、銀杏の黄色が鮮やかに映えるのだ。

 雪のある地方で生まれ育った僕は、雪のない冬に違和感があった。だがその代わり、散歩の途中には花々に出逢う。

 大きな公園へ行けばふかふかに積もった落ち葉の絨毯がある。

 僕は写真を趣味としているので、年中被写体に事欠かないのは嬉しい。


 僕が知っている『季節感』は()()とは少し違うけど、ここにはここなりの季節が巡って来るのだ。



 そして今は五月半ばの週末。もう少ししたら梅雨の時期だ。

 やっぱり花火といったら、梅雨明けからが本番だろう。

 彼女には申し訳ないが、僕はそれほど花火好きじゃない。嫌いでもないけど、夏限定で楽しむものだという先入観もある。

 それに、花火よりも彼女とビールの方が断然好きだ。

 更には風鈴、スイカ、蚊取り線香、枝豆、ビール……一通り揃っていないとね。かき氷なんかもあると、もっと雰囲気出るかもね。


「何言ってんのよ。北海道行った時、真冬の花火も観たじゃない」

 彼女は僕にのしかかったまま言い返してぷうっと頬を膨らませる。

 そういえばそうだった――だがしかし、あれだって彼女の希望でわざわざ探したイベントだ。

 いくら雪の王国北海道だって、日常的に冬の花火大会が開催されているわけじゃあない。

「あーゆーのは観光地ならではだろ。手持ち花火は夏でなきゃ認めらんねえ」

 僕は持論を主張し寝返りを打つ。


 G.W.明けから約十日間。ちょっとした修羅場の後に、やっと確保できた連休だった。

「この週末は朝からビールを飲んで徹底的にゴロゴロするぞ」って、昨夜(ゆうべ)宣言したはずなんだけどなぁ。

「そんな待ってらんないよぉ。明日は天気が崩れるらしいしさ。今夜、しよ?」

 その声につい反応してしまう。

 ちらりと振り返ると、彼女は極上の笑顔でおねだりしている。

 そんなに可愛く誘われたらさ……


「今夜、何をするって?」

 僕はそのまま、彼女の腕を引き寄せた。



 * * *



「花火もさ、梅雨を越すとしけっちゃうらしいのよね。だからその前に。ね、いいでしょ?」

 伸ばし掛けの髪をくしゃくしゃにしたまま、彼女は上気した顔で僕を見つめる。

 眼鏡を外した僕の視界には、少しぼやけた彼女の笑顔。


「もぉ~わかったよ。そんなに花火したいなら」

 僕の負けだ。

「でも遅いと近所迷惑だろ。何時頃がいいのかなぁ。暗くなるのって何時?」

 ため息をつきながら、問い掛ける。

「お()さまが沈むの、今は七時くらいだったかなぁ?」

「じゃあ早くても七時半か」

「縁台、持ち出す?」

「お、いいねぇ。ついでに蚊取り線香も焚こうか」


 なんだ。やると決めたら、僕まで段々その気になって来た。

 彼女は起きあがり、背中を見せたまま髪を整える。緩やかな曲線は僕を魅了してやまない。

 僕が手を伸ばし掛けた時、彼女は振り返った肩越しに笑顔を向けた。

「じゃあ両方ガレージから出しておいてね、頼んだわよ、あ、な、た」


 語尾にハートマークがついている。きっと。

 うちの奥さんは新婚四ヶ月にして既に、()()の操縦が上手いらしい。



 * * *



 縁台とブタの蚊取り線香をベランダの外に設置した。埃を落とすためにシャワーを済ませたら、今日は少し早めの晩酌だ。

 ダイニングに入った瞬間、僕は思わず目を丸くした。

「うわすごい。夕飯まで夏仕様かぁ」


 テーブルの上には、さっぱりひんやりメニューが勢ぞろいだった。

 豚の冷しゃぶに山盛りの茹で野菜。タコときゅうりとわかめの酢の物。ピーマン、パプリカ、ズッキーニと茄子の煮浸し。

 僕が好きな、ミョウガをたっぷり乗せた冷や奴。

 あとは、丸いチーズとトマトのスライスを重ねてオリーブオイルを掛けた……これ、なんていうメニューだっけ。彼女の好きなやつだ。


 今日の日中は思いのほか気温が上がったから、夏メニューでも違和感はないな。

「枝豆がないのは残念だけど、これでスイカが出たら完璧夏だな」

 そう言いながらビールの缶を開ける。

 まだ調理中の彼女に向かって「はい、奥さんにも」と言いながらもう一本取り出したけど「あたしはいらないかな」と断られた。

 ちぇっ。


「ラーメンの麺、茹でるぅ?」

「あ、そうだね、いいね」

 ぐびり、と先にひと口飲みながら、僕はこたえる。

 冷しゃぶと冷たく(しめ)た麺で、冷やし中華モドキを作るのだ。

 彼女は野菜をたっぷり乗せるので、どちらかというとラーメンサラダだな。

 優しい旦那さんとしては、冷蔵庫からドレッシングやタレの瓶を出しておく程度の手伝いはしておこう。



「夕暮れを眺めながら晩酌ってのもいいなぁ。休みって感じがするよ」

 やっと席に着いた彼女に微笑みながら、しみじみとした気分に浸る。

「独身の頃は、朝から晩まで遊び倒してた感じがするけどねぇ」

 そう言いながら彼女が持ち上げたグラスには、氷と麦茶が入っていた。


「一足早い夏だなぁ」

「食べたら、花火、ね」


 僕が飲み過ぎないうちに、と思ったのだろう。さり気なく念を押された。



 * * *



 陽が沈んで三十分ほど過ぎ、西の空にうっすら茜色が残っている頃に花火を始めた。

 僕は引っ越しを機に買い替えた携帯で花火を撮ってみる。

「CMでは画質が上がったって言ってるけど、やっぱカメラにはかなわないなぁ」

 カメラでだって、花火の撮影は難しいのだ。こんな小さな携帯じゃハレーションを起こしたり、画面にノイズが走ってしまうのは当然なのかも知れない。


「やっぱりちょっと肌寒かったかしら」

 ピシパシとカラフルな火花を散らしながら彼女は苦笑する。念願の花火なのに、夜風が出て来た。

「上着持って来ようか?」

「あぁ、ありがと。カーディガンじゃなくて綿のパーカーの方、お願い」

 花火の(あか)りに照らされた、半分だけの笑顔。

 カーディガンは火花が飛んだら繊維が溶けちゃうもんな。そう思いながら玄関付近を捜すが、いつもの場所に見当たらない。


「普段なら鏡の近くに――あ、バッグの上に落ちてたのか」

 姿見の側には無造作にバッグが置かれていた。昨日はどこかへ出掛けていたらしい。


「パーカー、見つからない?」

 僕がモタモタしているのを感じ取ったのだろう。彼女までやって来た。

「いや、あったよ。バッグの上に――ん? これ、なんだろ?」

 パーカーを持ち上げた時に引っ掛けたらしい。小さなノートのようなものがバッグからこぼれ落ちた。

 拾って見ると表紙には可愛らしい絵がついている。

 でも彼女はキャラクター雑貨の趣味がないはずだけど。


()()、健、こ、ぅ……えぇ?」


 僕は彼女の方を振り返る。

 アルコールが突然効いて来たようだ。心臓がばくばくしている。


「だから、今のうちに花火をしたかったの。夏にはもう、無理っぽいでしょ?」


 彼女は照れたように微笑んだ。


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