Chapter 1:タウと自転車
「そうそう、次、右足蹴ってぇ」
トキコが息子のタウに声をかける。
小学校四年生のタウは、母親の声援にこたえるように、地面を蹴った。
タウはまだ自転車に乗れない。
生来の慎重さが、といえば聞こえはいいが、つまるところ非常にビビリな性格なのだ。小さい頃の僕もそうだった。
妻のトキコは正反対に、小さい頃から男勝りだのおてんばだの言われていたらしい。
彼は僕に似たのだろう。
「あ! あぶない!」
僕は咄嗟にタウの自転車を押さえる。
肩に力が入り過ぎていたため、ハンドルを上手く扱えずに倒れ掛けたのだ。
「えへへ。ありがとうパパ」
タウがニカっと笑顔で見上げる。
「もー、パパったら、そんな程度で手を貸すことないよぉ」
追い付いたトキコが、腰に手を当ててふくれる。
「危ないって時に、自分でどうにかしなきゃいけないんだから」
「でも、タウが転んだら……」
「転んだら転んだで、それにも慣れなきゃいけないでしょ?」
トキコは「それも練習のうちでしょ」と素っ気ない。
僕は彼女とタウの顔を見比べて困ってしまった。
「パパは過保護過ぎ。タウだってもう赤ちゃんじゃないんだから――」
僕自身にも、過保護だろうという自覚はあった。
* * *
タウは他の子よりもほんの少しだけ成長が遅い子だ。だから僕とトキコは懸命に彼をフォローして育てていた。
その甲斐があったのか、お世話になった方々のお陰か、徐々にタウは『変わってる子』から『ちょっとおっとりしてる子』程度にまで成長した。
だがやはり他の子と比べると、色んなことにおいて出だしが遅いように思う。
自転車もそのひとつだ。
「パパだって、自転車に乗れたのは四年生の時だったって言ってたじゃない」
ある時、タウがまだ自転車に乗れないことを危惧した僕に対して、トキコは呆れた顔を向けた。
「あたしは、幼稚園児の頃から補助輪なしで乗り回していたけど」と彼女は付け加える。
「僕の場合は……練習場所がなかったから」
男らしくないだろうが、僕はいつもの言い訳をした。
僕が子どもの頃に住んでいた所には、近くに自転車の練習ができるような公園がなかった。
両親は共働きで、「事故に遭ったら困るし、勝手にひとりで練習しないようにね」と常々言っていた。僕も言いつけを馬鹿正直に守っていたため、練習は両親の休日に限られていた。
両親が選んだ練習場所は近所のお寺の境内。だがそこはあまり練習に適した場所ではなかった。
田舎の寺なので参拝者もまばらでその点はよかったが、地面に敷いてあるのが玉砂利ではなくバラスだった。
鋭角な石が、ただでさえ危うい自転車のバランスを更に悪化させる。
転べば即流血沙汰。
そこへ来て、昔ながらの根性論とスパルタで練習させられる僕は、初日にして自転車へのトラウマを植えつけられることになったのだった。
……というのは多少大袈裟だが、練習が怖かったのは本当だ。
その代わり、乗れるようになった時には、例えママチャリでも悪路をスポーツサイクル並みのスピードで突っ走れるようになったのだが。
タウの練習時期が遅れたのは、主に彼の性格によるものだ。だから環境のせいではない。
だが「自転車に乗りたい」と意欲を見せたのも彼自身だった。
「サッカーの帰りにさ、トシローくんとハマちゃんが自転車だったんだよ」
ある木曜日の夕食時に、タウが切り出した。
学校のグラウンドで放課後に開催されている、無料サッカー教室の話だ。
「ほんとは自転車ダメなんだけど、乗って来てるのが多いんだ」
同じ方向に帰る友人の中の二人が、一度家に帰って、それぞれ自転車に乗って来たのだという。
子どもだから、徒歩のスピードに合わせるという気遣いもない。一緒に帰路についた徒歩組は、軽いジョギングを強いられたらしい。
その日は「ズルしちゃいけないんだ」という結論で終わった――のだが、次の週の木曜日には話が急展開する。
「オレ……自転車、乗りたい。練習する」
「お? 珍しいな、自分からやる気を見せるなんて。さすがは四年生だなぁ」
僕は少々大袈裟に褒めた。だがタウはいつもの得意気な表情ではなく、少し困惑していた。
「何かあったのか?」
僕は、味噌汁のお代わりを持って来てくれたトキコと目配せをする。
「困ったことがあるなら、教えて?」
両親が心配そうに見つめる中で、彼は言いにくそうに切り出した。
「今日のサッカー、トシローくんとハマちゃんだけじゃなくて……センタもマエバシも自転車で来てた」
今日は徒歩組が三人しかおらず、既に過半数が自転車だったことになる。
来週は当然、タウを除く残りの二人も自転車で来るだろう……と、彼は予想したのだ。
ルールを順守することも大事だが、友人との付き合いもある。
また、サッカー教室に自転車で来るのはルール違反になるのだが、どうやらその辺りは学校側も黙認しているらしい。
「すぐ乗れるようになる?」
両親を見つめるタウの眼は真剣だった。
そして、翌日から彼は自転車の練習を始めたのだ。
* * *
初日はとりあえず自転車にまたがり、両足で地面を蹴って進んでみた。
だがペダルで何度も脛を打ったため、トキコがペダルを外してしまった。
「ペダルないと、こげないよ?」と、タウは困惑する。
「まず蹴ってバランスを取れるようになってからね」
トキコは笑顔で息子を諭していた。
僕もたまたま代休を取っていたため彼らの練習に付き合った。だがやはり僕は『付き合い』でしかないと思わされる。
晩酌時、「自転車の練習は、トキちゃんに任せるよ」と、僕は気弱な台詞を吐いたのだが、彼女は譲らなかった。
「そうじゃないよガンちゃん。タウにしてみれば、パパもママも見守ってくれてる、っていう安心感が重要なんだよ。ガンちゃんもいなきゃ駄目」
眼の縁をうっすらと染めつつ、彼女は僕のことをあだ名で呼ぶ。
いつもは強気で頼もしい『ママ』だったが、タウが寝た後の僕たちは、付き合いの長い恋人同士に戻るのだ。
土曜日は午前と午後の二回、練習に出た。
一度の練習は一時間以内、というのが彼女のルールだ。
「それ以上続けてもタウの集中力が切れちゃうし、あんなにガチガチだったら身体も疲れちゃうのよ」と、息子の後ろ姿を眺めながら彼女はつぶやく。
彼女の言葉通り、昼食を食べ終わったタウは遊びの途中で寝てしまった。
僕は昼食をつまみに昼ビーをキメていたが、午後の練習にもつき合わされた。
といってもコーチはママで、パパは後から声援を送る係に徹していたのだけれど。
* * *
今日は日曜日。
トキコは、今日の午後には乗れるようになると宣言する。
土曜の練習で、ペダルなしで蹴って進む段階までできた。
今はペダルをつけて練習をしている。だが午前は、ペダルに片足を掛け、もう片方で地面をひたすら蹴って進むという練習だった。
ほとんど車通りのない近所の道路で、一ブロックごとに足を入れ替える。二周目はブロックの半分で足を入れ替える。
五周目は、ひと蹴りしてからペダルに体重を掛け、そのままどこまで自転車が進むかという『ゲーム』だ――と、トキコは口で説明しながら手本をみせた。
小さな自転車にまたがる彼女はおどけているように見えるが、その表情は優しいながらも真剣だった。
ブロックの四辺目に入ったところでタウは肩に力が入り過ぎ、バランスを崩したのだ。そろそろ体力も集中力も限界なのだろう。
「次は何をするの?」
ふらついてひやっとしただろうに、タウは眼をキラキラさせ、追い付いた母親を見上げる。
褒めちぎりながら、応援しながら練習したこの三日間で、彼の技術はもちろんだが自信もかなり得たようだ。
「そうねえ……午後は、ペダルを漕いでみましょうか」とトキコは言う。
途端にタウは不満を表した。
「オレ、まだできる!」
彼の肩も腕も、慣れない姿勢のために体幹もかなり疲労していると僕たちは考えていた。だが本人がやる気を見せたのだ。
眼でどうするか相談した。まぁ、相談するまでもなく意見は一致したのだが。
僕たち両親も、本人の気持ちを尊重したかったのだ。
「タウ、そう、蹴って蹴って蹴って!」
トキコが声をあげる。
僕らはあえて、彼のすぐ後ろにはつかなかった。
走れば追い付ける距離。
でも転んだ場合には、間に合わないかも知れない距離――僕は焦れたが、トキコに釘を刺された。
「パパも、練習よ」
普段から彼と身近で接している母親の言葉だ。やはり僕は過保護なのだろう。
タウは一所懸命、片足で地面を蹴る。
充分にスピードが出てから、その足をペダルに乗せる――まだペダルは漕がなくていいという母親の言葉に不満を抱きつつも、彼はそれを繰り返す。
右足で蹴って蹴って蹴って――
左足で蹴って蹴って蹴って――
ブロックを一周回り、更に二辺目に差し掛かる。
散り始めた八重桜が風に舞う。
――あぁ。
この瞬間はきっと『現在』しかないんだ。
僕は無意識にスマートフォンを取り出していた。
タウは間もなく、自転車に乗ることが当たり前になるのだろう。
桜は間もなく散ってしまうだろう。
すべて『過去』になるのだ。
淡い感傷を抱きながら、カメラレンズをタウに向ける。
八重桜の花びらが散る中、彼は懸命に蹴って進む。その、後ろ姿。
ざあっと、風が吹いた。
僕が四角く切り取った世界に、花吹雪。
――あぁ、綺麗だ。
その時、傍らでトキコが小さな歓声をあげた。
僕も思わず声をあげそうになる。
タウは地面を蹴った勢いのままペダルに足を掛け――ぐい、と力強く踏み込んだのだ。
彼女が声を抑えたのは、僕が彼を撮っていることに気づいたからだろう。
その勢いのままペダルを二回漕ぎ、ハンドルが揺れたことに驚いて足を着いてしまった。
だが振り向いた彼の顔は上気して、驚きと達成感に満ち溢れた笑顔だった。
「できた? オレ、できてた?」
彼は満面の笑みで、両親に確認する。
桜舞う四角い世界の中に、誰よりも一番タウを愛している母親が飛び込んでいった。